前髪のある女神

山田恭

トラックに轢かれた

「おめでとうございます、あなたはチート転生対象に選ばれました。今回の転生時は全パラメータはカンスト、眉目秀麗頭脳明晰の銀髪ハーフ貴族の息子として生を受け、あらゆるスキルと魔法を使いこなします。巨乳美魔女から巨乳エルフ、清楚な巨乳村娘に至るまで、すべての巨乳女性があなたに好意を抱き、あなたを助けたいと願うでしょう。風は恥じらい水は流れを止め、身振りひとつで次元の扉をこじ開け、一欠片のパンで民草の腹を満たし、海は割れ、空は戦慄き、鷺は亀を落とし、触れたものに奇跡を与えることができます。どんなことでもできます」

 女が言った。意識がはっきりしないままでも、美人だな、と感じる女だった。


 いや、美人、などと軽く言ってしまえるような容姿ではない。白い肌に整った顔立ち。柔らかそうなプラチナブロンドの髪を後ろでシニヨンに纏めている。ワンショルダーでイブニングドレスのように胸元がぱっかり開いた衣装を身にまとってはいるものの、肌の色が透けるほどの薄布ではその肢体を隠しきれていない。胸にふたつ実った膨らみは蠱惑的で、視線を向けただけで賽銭箱に手を突っ込んでいるような背徳感に襲われた。

「ちーとてんせい………」

 男は呟きながら、ぐるりと周囲を見回した。どこだ。ここは。病院ではないな。真っ暗で、しかし間接照明で気取ったお洒落バーのように足元だけ輝いている。

 ふと、スーツの右肩が汚れていることに気づいた。ああ、そうだ、横断歩道を渡っている最中、右側からトラックが突っ込んできたせいだ。血がついている。しかし痛みや違和感は感じない。


「そうです。わたしは転生を司る女神です。おめでとうございます。はぁあ……よいよい」

 と自称女神はどこから取り出したのか、掛け声とともにタンバリンを叩いた。

「てんせい……転生? つまり、生まれ変わる、と?」

「そうです。ただの転生ではなく、チート転生です。チート。意味がわかりますか? 言い方がナウすぎますか? なんなら図解で説明してみましょうか?」

 女神が井上陽水のようなテンポで問いかけながら手を振ると、まるでSF映画のように空中に映像が出てきた。パワーポイントで作られたようなスライドで、男の顔の横にいくつもの文字や9がたくさん並んでいる数値が表示されていた。アニメーションを多用しすぎだし、フォントが見辛いうえに専門用語が多く、パッと見での視認性が悪い。あまり良いスライドではない。

「このように、あなたは全てにおいて優れた人間として、異世界で転生します」

「いや、いいです。じゃあ」

 と言って踵を返す。背後ももちろん漆黒の空間だった。ここを歩いていけば、元に戻れるのだろうか。


「ちょ、ちょっと待ってください」慌てて自称女神が追ってきた。「どこへ行くんですか?」

「いや、帰ろうかと………」

「帰るって、どこに?」

「家ですけど……もうすぐ終電だし、早く乗らないと」

「駄目ですよ、あなたはこれから転生するんです」

「しなくていいです。えっと、妻が待っているので、本当に、お願いします」

「待っていませんよ」と静かな声で女神が告げた。「あなたもわかっているでしょう? 彼女は待っていません。もう寝ています。夕食の用意もしていません。昼は1500円のランチにデザートを付けて食べています」

「それは……」

 そうかもしれない、と男は思う。最近帰りが遅く、妻とはあまりコミュニケーションが取れていない。

「仕事がうまくいかないでしょう。今日もサービス残業でしょう。無能な上司に腹が立つでしょう」それも、と女神は微笑んだ。「今日で不幸な人生も、終わりです。あなたは生まれ変わるのです。良かったですね」

「良かないです」

「良いことでしょう。何が不満ですか? 何か未練が?」

 女神が一歩、近寄ってきた。気圧されるように、一歩下がる。

「おれは………」

「もう決まったことです」

 女神はもう一歩歩み寄り、両腕を伸ばして男の頭を掴んだ。

「帰してください」

「無理です。あなたは轢かれたのです。忘れましたか?」

「轢かれていてもいい。戻してくれ」

「あなたはもう死んでいます」

「生きている。こうして会話している」

「わかりませんか? あなたは既に転生しつつあるのです」

 男は女神の言葉を考えるために、己の顎に手を当てた——当てて、何か違和感を覚えた。顎。口。鼻。それらは間違いなく存在しているが、なんだか微妙に形や位置が違うような気がする。

「あなたの死した身体はいま、まったく別の存在になりつつあります。一度、転生後のあなたの年齢になった身体に変化したのち、胎児の姿まで若返り、それから新たな母の胎内に宿るのです。あなたはいま、その過程にいます」


 呼吸が荒いのを自覚する。


 転生しつつある? たしかに、なんだか、身体が違う。身長が少し高い。身体が軽い気がする。埋没したシャーペンの芯が指先から消えている。

(生まれ変わる?)

「そのとおりです。生まれ変わるのです。おめでとうございます」

 女神がゆっくりと額を寄せてきたが、男は彼女の手を振りほどいて背後へ飛び退く。右尻のポケットからスマートフォンを取り出し、妻の写真を女神に見せつける。

「いいか、おれは生まれ変わらない。死んでもいない。おれの妻はこれだ。待っていなくても、これがおれの妻だ。二歳年上で、気分屋で、すぐに機嫌を損ねて、料理が下手で——」

 くそ、褒め言葉が思いつかない。

「あなたは轢かれるというのがどういうことかわかっていません。身体はバラバラで、即死でした」

「おれは——」

 生きている。そう言いかけて、違和感に気付いた。


 スマートフォンが動いている。

 いや、さすがに電波は入ってきていないようだが、いや、いや、それは、いい。疑問なのは、なぜこのスマートフォンは使えるのか、ということだった。なぜ電源が入るのか。動かせるのか。表面に貼ったガラスフィルムに傷のひとつも入っていないのか。女神が言うことが真実なら、人間がバラバラになるほどの衝撃を受けたはずではないか。


 理由として考えられるのはふたつ。

 ひとつは、いま見ているものは単なる死に際の幻影、走馬灯だから理由など考えるだけ無駄という可能性。

 もうひとつは——。


「あなたは死んだのです」

 と女神は言った。

「生まれ変わりつつあります」

 と女神は言った。

「触れたあらゆるものに奇跡を与えます」

 と女神は言った。


 もう、そうなのか。もう、違う人間になってしまったのか。

 だから、スマートフォンに触れただけで奇跡が起こり、直せたのか。


「どんなことでもできます」

と女神は言った。

 ならば。

 男は右手を振りかぶり、女神に向かって振り抜いた。

 距離は飛び退ったぶんだけ開いている。だから握り拳が女神に当たることはなかった。だが距離が開いていなくても、拳が当たることはなかっただろう。男の右腕、肘から先は、まるで硝子窓を突き破ったかのように新たな空間の先に飛び込んでいた。


「やめなさい」女神は顔色を変えた。「あなたの身体は——」

「うるせぇ、黙れ」男は吐き捨て、割れた空間の裂け目をさらに抉じ開けようとする。足を突っ込む。「巨乳だからって調子に乗るな。おれは帰る」

「誰もが羨む転生です。歓迎するべきものなのですよ」

「黙れ、おれは帰る」

「ここにいれば、わたしの胸も自由にできますよ」

「おれは帰って妻のおっぱい揉む」

「揉むほど、ないでしょう」

「多少はある」

 そうだ、多少はあったんだ。死んで、生まれ変わって、良かったねと、おめでとうなどと手を叩かれるほど、不幸な人生ではなかった。幸せなことも、あったんだ。死んだことを祝われるような人生では、なかったんだ。だから、戻るんだ。戻ってやるんだ。


 *


(こんなに泣くんだなぁ………)

 瞼を開いて視線だけで病室の中を見回したあと、最初に抱いたのは感想は妻に対するものだった。

 目覚めた直後は頭がぼうっとしていて、うまく考えられなかった。だから、ただ妻が泣いていることだけを理解して眠った。


 起きたのは翌日だ。そのときはいくらか意識が覚醒していて、ようやく置かれている状況を理解できた。三日前の夜の事故ののち、通行人が救急車を呼んでくれて、近くの医療センターの救命救急科に運ばれ、緊急手術となった。怪我は、脾臓破裂、小腸損傷で一部切除、大腸・肝臓の損傷、各所大小さまざまな骨折。

「骨折は右腕と肋と右膝と……」

 と妻が説明してくれた。彼女曰く、昨日までは「意識が戻るかどうか怪しい状況」だと言われていたらしい。ひとり部屋なので気軽に会話ができる、と思ったが、ここはICU集中治療室で、とりあえず危機は脱したので、午後には救命救急科の入院病棟に移されるらしい。

「あ、肋と膝は軽いみたいだけど、右手はけっこうぱっくりいってたみたい。レントゲンの写真が——」

「いや、いい、いい。見たくないです。怖いから」

「すごいよ、うわぁ、折れてるぅ、ってかんじ……痛くない?」

「感覚がないです」

 固定具と包帯でぐるぐる巻きの包帯を持ち上げてみせようとしたが、動かなかった。

「そか。うん、でも、大丈夫。神経は繋がっているらしいから……リハビリは必要だけど」

 妻は男の右腕に、包帯の上から触れた。

「あ、そうだ、えっと、なんか交通事故のときってそのときは大丈夫でも、首動かしたときに脊髄とか痛めやすいんだって。でね、事故のとき、現場にいた人が、こう、頭を掴んでね」と妻はひとりで首相撲のような姿勢を取った。「固定しててくれたんだって」

「そうなんだ」

「誰だか知らないけど、金髪巨乳美女だったって。救急車来たら立ち去っちゃったらしいけど」

「お礼、言いたいですね」

「金髪美女だから?」

「いや、そういうわけでは」

「巨乳だし」

「いや……ま、いろいろと」

 肩を竦める。

 言葉にすべきは礼よりも、謝罪かもしれない。あちらには、あちらの考えがあったのだろう。だがおれは、おれは——おれは、これでいい。祝うことなんて、何もないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

前髪のある女神 山田恭 @burikino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ