「小学校の帰り道に、よく友達と笹の船を作りました。」

 まず、著者が執筆爾時に高校生だったことは論点としない。
 それくらい、普遍性のある、作者の年齢に関係のない秀作だからだ。
 冒頭、「小学校の帰り道に、よく友達と笹の船を作りました。」とある。無論、象徴主義的によくできた出だしだ。「私」の人生を笹の船に象徴させてえがこうというのだろう。『雪国』のトンネルが主人公の人生を象徴しているのとおなじ構造の名文だ。でも、ちがうのだ。本作の主人公は人間の「私」ではなく笹の船そのものである。比喩ではない。笹の船が川をわたってゆくさまそのものが物語になっているわけだ。
 嘗て、丸山健二の巨篇『千日の瑠璃』が大論争をまきおこしたことがあった。捨てられたタイヤや役所の地図などが一日一体、千日千体の「語部」となって、知的障碍ゆゑにものを書けない主人公のかわりに、かれの人生を物語ってゆく。評論家から批判された『千日の瑠璃』をあえて絶賛した筒井康隆は、論争をふまえてか、「コーヒーカップを主人公に小説を書けるか」という論点の随筆を執筆したとおぼえている。結論は「書ける」だった。
 畢竟、本作は「コーヒーカップ」のかわりに「笹の船」にたましいをあたえて描破された、実験小説の成功例である。笹の船の羈旅そのものが、「私」の人生の隠喩になっており、「私」の人生を直截ではなく、間接的にえがく構造になっている。我々は、笹の船の旅路から、「私」の人生を想像する。デリダ的にいえば、人生と笹の船の関係が脱構築されているのだ。
 すこし、マニアックなはなしになりましたが、もっと熱弁したいくらいにおきにいりです。