りんりときんき
遊月奈喩多
きっと、答えなんてない。
「……ん、」
無遠慮に差し込んできた光に眠りを邪魔されて、仕方なく古いベッドの上で身体を起こす。隣にあったはずの温もりはとっくに冷めて、触ってみると最初から誰もいなかったみたいに平らになってしまっている。
――そんなに時間が経ったのかな?
そう思って携帯を覗いてみると、時刻は午後をちょっと回ったくらい。
うーん、半日くらい寝ちゃってたのかぁ……。
起こさずに出て行ってくれたのはきっと優しさなんだと思いながら、まだ覚醒しきらない頭をどうにか起こす。
ちゃんと閉まっていないカーテンの隙間から差し込む日光が、愛の名前を借りた欲望の名残に満ちた部屋をやはり不躾に照らしつけてくる。……まったく、人の秘密を盗み見ちゃいけないっていう法律ってちゃんと仕事してるのかな?
そんなことをぼやきながら、わたしは今日も、部屋の中空を舞う埃を見つめる。
お昼時の陽光を受けてキラキラと光る姿が綺麗に見えないでもないけど、そんな幻想的な光景よりも視界の頼りなさをとってしまうところに、実利優先してしまう人間の
だって、現に、昨夜の余韻に浸ろうなんていう気持ちは微塵も湧かないし、なんなら、汗まみれになっている自分の身体を気持ち悪く思うあまり、いそいそとシャワーを浴びた後に着る服の準備を始めてしまっている。
シャワーを浴びると、どれだけわたしの身体にわたし以外の存在が焼き付いているのかがよくわかる。汗の名残だったり、他のものがこびりついていた跡だったり、時間が経っても取れていなかったらしい
けど、やっぱりそういう気分じゃない。
夜のことを思い出して気持ちが
そう思いながら、シャワーの雫を拭き取ったわたしは、夜までの時間の潰し方を考える。
この部屋からは出てはいけない。
それが、わたしと同居人の間にある暗黙のルールだった。
暗黙――別に、出ないでと言われたわけではない。ただ、なんとなく出ない方がいいんじゃないかな、って空気を読んだ結果としてわたしは同居人の部屋に日がな一日閉じこもっていることになってしまった。
しまった――というとなんだか不便を感じてしまっているように思われるかもしれないけど、別にそういうわけでもない。同居人はわたしが困らないだけのものを持って帰って来てくれるし、夜だって極端に遅いわけではない。それに、わたしにだって暇を潰す手段がないわけでもない。
同居人が『使ってていいからね』とにこやかに微笑みながら置いていくノートパソコンを開けば、その中では外を出歩くよりもたくさんの繋がりと出会うことができる。人との繋がりを求めているわけではないけれど、なんとなくずっと部屋に籠っていると、たまには誰かと会話じみたことをしたくなる。外に出ないで誰かと繋がっている感触を味わうには、SNSはすごく便利なツールだった。
『おはよ、いまおきた』
そう投稿すると、暇なのかよくわからないけど、すぐにいくつかの返信が届く。
『おはおはー!』
『おはよう!』
『今日遅め?』
『学校行かないの?』
『今日会える?』
「……きも」
確かに繋がりがほしくて投稿はしているけど、立て続けに返信されたって、すぐには答えられないし。それに、早く答えたもの勝ちみたく競い合うようなリプライ速度がなんともいえず怖さを感じる。あとこういうところで説教じみたことを言う人ってあれかな、風俗店に行って相手してもらえた後に説教じみたことを言う迷惑なお客さんみたいな人なのかな? ずっと前に誰かがそんなことを言っていたからその受け売りなんだけど、本当にそういう人なのかもな、と思うようになってきた。
ちょっとうんざりして、ブラウザを閉じようとしていたときだった。
『りんりちゃん、こんにちは!』
他のフォロワーでは見られないメッセージ欄に、一件のメッセージが届いた。
普段だったらそんなメッセージなんて歯牙にもかけずにそのまま閉じてしまうんだけど、それはできなかった。
だって、届いたメッセージに書いてあった『りんり』という名前は、SNS上で使っている名前とは違う、わたしの本名だったから。
『こんにちは!』
そう返すと、ややあってから『私ね、きんきっていうんだ。なんか似た名前で親近感湧くね』と返って来た。
『ほんとだ、よろしくね!』
「……どこがだし」
指先を感情から切り離して打ててなかったら、たぶん『きんき』という人を否定してしまっていたに違いない。
だって、りんりときんきだよ? 「倫理」と「禁忌」なんて、相容れない字面にもほどがある。もしかしたら、『きんき』は「欣喜」とかなのかも知れないし、どこかの地方なのかも知れないけど、それでも、りんりという名前を敢えて呼んで『なんか似た名前』と言ってくるのは、なんとなくだけど、自分の名前を「禁忌」として解釈していそうな気がして、ちょっとだけ引いた。
『りんりちゃんって、ずっと同じ時間にアクセスしてきてるけど、何かルールで決まってるの?』
『え、別にそういうわけじゃないけど、それがどうしたの?』
思わず強い口調になってしまう。
けど、それも仕方ないよね、だって、なんでこんなことを訊かれなきゃいけないの? 相手は初対面だよ? いや、わたしの本名を知ってるかもしれないけど、ここでは初対面の相手なんだからさぁ……。
『ん、だって、なんだかりんりちゃんの投稿ってちょっと窮屈そうなんだもん。
何かを言い返すのも疎ましくなって、ブラウザを閉じた。
意味がわからない。なんでちょっと絡んだだけの相手にそんなことを言われなくちゃいけないの? 意味がわからない。
なんでそれを言う人がきんきしかいないの?
そんなこと、きっときんきじゃなくたって、わかったはずなのに。
怖い、怖い。
SNSで盛んに絡んで、お兄さんのような立ち位置にいてくれる人もいる。お父さんみたいに話を聞いてくれる人もいる。お母さんみたいに慰めてくれる人も、お姉さんみたいに刺激的な話をしてくれる人もいる。
それもひとつの役割はひとりじゃない、何人もの《《お兄さん』》がいるし、何人もの《《お父さん』》がいるし、何人もの《《お母さん』》がいるし、何人もの《《お姉さん』》がいる。
言ってしまえば、同居人だって元々は、特に仲良くなってオフで会うことにした家族のひとりだった。
なのに、誰もそんなこと言わなかった。
わたしが窮屈そうなんて、言われなかった。だから、息苦しいのも当たり前で、たぶんわたしは、陸を知ってしまった魚のようなものなのだと思った。
世界の息苦しさを知ってしまって、もう知る前の自由な空気の下には戻れないのは仕方ない――そう思い込むやり過ごそうとしていた。
いや、たぶんやり過ごせていた。
それなのに、どうして今更……!?
こんなに苦しいなら、気付いてしまいたくなんかなかった。たぶん、『禁忌』という名前にはまったく負けることのない人なのだろう、『きんき』は。
心を蝕んで、侵して、何をしたいんだろう、『きんき』は。それでも、たぶん、また知ってしまったから。
知ってしまった禁忌の味は、忘れられない。
「ただいま」
気が付けば、同居人の温もりを背中に、指に、唇に、身体中あますところなく感じても、『きんき』のことが頭から離れなかった。
揺さぶられる視界も、そのあとに感じる同居人の温もりも、もう全てが虚ろに感じてしまった。だから、それを忘れたくて、また溺れたくなってしまうけれど。
もう、知ってしまった。
曖昧な世界に慣れてしまった倫理では、現実を突きつけてくる禁忌に容易く侵されてしまう。
変わらなかった日々が少しだけ、けれど決定的に、変わってしまった日の話。
「あのさ、」
「ん?」
「明日、出掛けてきたいんだけど、だめ?」
変わるまえには、きっともう戻れない。
りんりときんき 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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