寝坊したって言ったでござる!の巻

「今日から二学期の始まりでござる」


 楓の朝はいつも早い。4時になるとパチリと目を覚まし、布団を押入れにしまい夏用の忍び装束に着替える。昨夜砥いだばかりのクナイと手裏剣の状態を確かめつつホットパンツに忍ばせる。次いで本棚を反転させて刀掛台を出し、風魔家代々から受け継がれし伝説の忍者刀を手に取って九字を切り、背中に担ぐ。


「行ってくるでござる」


 二階の窓を開け、まだ朝焼けには遠い闇の中へ身を投げる。幼い頃から雨の日でも欠かした事のない朝修行の始まりだ。


 住宅街の屋根を跳び継ぎ、水蜘蛛みずぐもを使って小川を上り、田んぼの畦道を渡って山に入る。木から木へと飛び移り、岩壁は手甲鉤てっこうかぎを使って登りきり、やがて頂上へと辿りつく。眼下に広がる街並みにぽつりぽつりと明かりが灯りはじめている。


 忍者刀を抜き、まずはキレの良い技と型を披露する。深紫こきむらさきの空が徐々に明るみを帯びはじめる。素振りに切り替え、ちょうど百を数えたところで、東に見える稜線のてっぺんに旭日の赤が顔を出した。神々しき光が、楓を朱鷺とき色に染め上げる。


 忍者刀を鞘に収めて正対し、三礼三拍手をして目を閉じる。ガラス玉のような汗が全身からこぼれ落ち、忍び装束を湿らせる。緑の匂いを思いっきり吸い込み、神聖な空気を体中に巡らせる。心地よく吹きつける秋風が火照った体を冷ましてくれた。目蓋を開いて一礼する。


「今日もきっと良い日でござる」


 太陽に別れを告げ、獣道を通って下山を開始する。トンビが楓の隣にやってきて並走し、猿の子が木の上で飛び跳ね、鹿の親子が岩の上でその姿を見届ける。楓はそれらに手を振り応え、足早に山を下りていく。麓辺りの開けた場所に辿くと、草陰から何者かの気配を感じ取り、素早く間合いを取って刀の柄に手を掛ける。


 ――曲者!?


 その気配の主は、やがて全容を明らかにし、楓を見て立ち上がる。体長2メートルはあろうと思われる、巨大なツキノワグマだ。


 熊は再び前足を地につけ、低い唸り声を上げながら楓の周りをぐるぐると廻りはじめる。そして、いきなり隙アリと言わんばかりの咆哮をあげ楓に襲いかかる! 楓は草むらに押し倒され、鋭い爪で全身を引き裂かれ、内臓をえぐり出さ……れたかのように見えたのだが、どうやら違っていた。


「こ、こら、くすぐったいでござるよ熊吉殿」


 楓の口からそのような言葉が漏れる。実際のところ熊吉と称された熊は、楓の頬を舐めて喜びを表しているだけであった。どうやら楓の友達のようである。

 その熊と暫しの時を戯れたあと、楓は立ち上がり、熊吉の頭を撫でながらこう語りかける。


「森のみんなと仲良くしているでござるか? 其方は体が大きいゆえ、みんなを守ってあげるのでござるよ。あと、山を下りてきちゃダメでござるからね。人間を見たらすぐに逃げるのでござるよ」


 返事をするように喉を鳴らす熊吉。


「では達者でござる熊吉殿、また来るでござる!」


 楓は、熊吉の別れを惜しむような遠吠えを背に、再び下山を開始する。元きた道を辿り、小川を下って住宅街に差し掛かる。ここまで来れば自宅まで後少しだ。コンクリートの川壁をひと跳びで登り、一息つける。


「ふぅ、今日は思いのほか時を要したでござ……」


 ――人の気配。


 瞬時にそう判断して姿をくらまそうとするが、その人物を目にした途端、全身が瞬間冷凍されたかのように凍りつく。


 不覚だった。


 その人物は、楓と同じく目を丸くして硬直しており、飼い犬の朝の散歩中らしく、特に今は絶対に会ってはならない人物である。


 楓は思わず、


「たっ、……たか……」


 と危うく声に出しかけて、すんでのところで口を押さえる。


 楓の恋人、孝之である。


 ――なぜこんな所にいるのでござるか!


 楓は混乱した頭の中でそう叫ぶが、よくよく考えてみると、孝之がいつもこの時間帯に犬の散歩に出ていることに思い至る。

 無情にもその犬が楓に気づき、尻尾を振って遊んでと吠えはじめる。遊んであげたいのは山々だが、いまピクリとも動けば確実に正体がバレる。それだけはなんとしても避けなければならない。


 孝之がとうとう痺れを切らしたのか、口火をきり、


「ひょっとして……かえ、」


 楓はすぐさま懐から例の玉を取り出し、


「ひ、人違いでござる!」


 と地面に投げつけ、煙を発生させると共に姿を消した。孝之は家の屋根を跳び越えて帰路につく楓を見守りながらこう呟く。


「頭巾で顔隠してたけど、やっぱりあれって楓だよな……」


 しかし孝之は、思い直すかのように「いや、そうだけど、違うんだ」と自分に言い聞かせて帰路につく。


 ――――


 7時半。夏休みが明け、約一ヶ月ぶりとなる二学期初めの登校日。孝之たちは、いつもの時間にいつもの場所で待ち合わせをしていた。


 楓はいつも通り先に着いて待っていた。孝之が到着後、互いに今朝の動揺を引きずったまま、まるで初顔合わせのようなぎこちない挨拶を交わした。


「えーと……ひょっとして、だいぶ待たせたかな?」


 その一言で楓が心電計の針のように反応する。それを見た孝之は、今朝の事をまだ気にしているのだろうと思い、別の話題を振ろうとするが、


「きょ、今日は寝坊したでござるゆえ、今きたばかりなのでござる……」


 楓がギュッと目をつぶり、真っ赤になってそう答える。孝之は思いついた話題を忘れてしまい、適当にこう答える。


「そ、そっか……じゃ、いこっか」


「ね、寝坊したのでござるっ」


 楓は必死だった。どうしても今朝の一件をなかった事にしたいらしく、孝之に自分が納得できる言葉を求めている。しかし孝之にはその言葉がどうしても思いつかない。なので彼はまた適当に「……うん」とだけ答える。


 ところが楓はその一言が気に食わなかったらしく、涙目になって地団駄を踏み、


「寝坊したって言ったでござる!」


「えっ、だからさっきウンて言ったじゃ――、」


「その目は信じてない目でござる! 夜更かしが祟って寝坊して、たった今ギリギリに着いたって言ったでござる! この孝之氏の分からず屋!」


 孝之に我慢の限界が訪れる。


「そんなこと一言もいってないだろ! 分からず屋はそっちだ!」


「さすればあの微妙な間とどうとでも取れる返事は一体なんなのでござるか!」


 この口喧嘩は校舎の昇降口で別れるまで延々と続いた。孝之はその後、絶交される。

 二日に一度、いや、三日に一度の割合で起こる、他人からすれば、いつもの微笑ましい登校時の光景である。

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俺の彼女は絶対忍者であることを認めない ユメしばい @73689367

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