線の見えない子ども

koumoto

線の見えない子ども

 夕暮れの帰り道を、母親と息子はふたりで歩いていた。パレードのような息子の足取り。葬列のような母親の足取り。

「母さん、ぼくは幽霊を見たんだ。ぼくと同じくらいの子どもで、ぼくと同じくらい虫が好きな幽霊。友達になったんだ。あの世は楽しいのってきいたら、楽しいけど虫がいない、だって。じゃあぼくは死にたくないな、って言ったら、でもきみも死ぬよ、だって。笑っちゃうよね。なんて賢い子だろう。そうなんだ、ぼくも死ぬんだ。父さんと同じようにぼくも死ぬんだ。ねえ、母さん、ぼくはいつ死ぬんだろう?」

「さあ。わたしにはわからないわ」

 息子は、母親の返事を聞いていなかった。歩道と車道の境界をなすブロックの上に、蝶の死骸が落ちていた。息子は小さな死に魅せられてうずくまった。

「おまえは死ぬときになんだってぼくを呼んでくれなかったんだい? 意地悪なやつだな。ねえ、母さん、きっとぼくの死体には、たくさんの蝶がとまってくれるはずだよ。ぼくの閉じたまぶた鱗粉りんぷんをかけて、盛大に祝ってくれるんだ。そしたらぼくは花に生まれ変わって、お礼にいっぱい蜜をあげるんだ」

「わたしは、とおるに死んでほしくないな」

 息子はそれも聞いていなかった。立ち上がると、ふらふらと境界を越えて車道に入ろうとする。

「危ないよ」

 母親は、息子の手をとり、歩道へと引っ張った。自動車が音をたてて通りすぎる。母親が手をとらなければ息子を殺していたかもしれないいかめしい機械が、車道という定められたルートを走り去っていく。

 母親と息子は、ふたたび歩き始める。

「透、いつも言っているじゃない。車が通る道に出たらダメ。歩く人はこっちの道を歩き、車はあっちの道を走るの。そのあいだの線を、越えてはダメなのよ。それがルールなのよ」

 ようやく息子は母親の言葉を耳に入れた。

「よくわかんないや。線なんて、どこにもないのに」

「道路の白い線が見えないの」

「白い線は見えるよ、もちろん。あたりまえじゃないか。そうだ、母さん、ぼく、視力検査で満点とったよ。全部すっかり見えたんだ。それでね、視力検査のときに使う黒いスプーンみたいなやつが、とてもすべすべしていたから、虫のお墓に使おうと思って、ポケットに入れたんだ。そしたら、返しなさいって大人が言うから、返してほしかったらここまでおいでって、ぼくが鬼ごっこを始めると、何人も集まって、遊んでくれたんだよ」

「知ってるわ。そのことで母さんは、怒られたんだから」

 息子はまたも聞いていなかった。空を流れる雲があまりに綺麗だったのだ。雲は黄昏の色彩に染められて、息子の眼には、血しぶきをあげながら墜ちていく龍の群れのように見えた。

「母さん、空が泣いてるよ。とっても赤い涙だね。なんだかぼくも泣きたくなってくる」

「透、こっちを見なさい」

 息子はうながされるまま、素直に母親の方へ顔を向けた。

「この世にあるもののほとんどは、あなたのものではないのよ。人のものを取ってはダメだし、他の人と一緒に使うものを、自分だけで独り占めにしてはダメ。あなただって、自分のものを勝手に取られたら嫌でしょう?」

「ぼくのものを取りたいなら、好きにすればいいさ。それでその子が楽しいなら別にいいし、それでぼくが困るなら、取り返すだけだよ。それに、そんなに欲しいなら、一緒に使って遊べばいいじゃないか。みんなはなんであんなにおとなしくしていられるんだろう」

「遊んでいい時間と、遊んではいけない時間があるの。遊んではいけない時間は、おとなしくしているものなのよ」

「母さんって不思議なことを言うね。遊んじゃいけない時間なんて、あるわけないじゃないか」

「あるのよ」

 夕暮れの帰り道を歩く母親と息子のふたりは、横断歩道の前で足をとめた。いや、息子はそのまま進もうとしたのだが、母親が手を引っ張り、制止したのだ。

「透、信号が見えないの。いまは赤。止まらなければならないの」

「そうか、だから、夕方の空は止まっているんだね。太陽が向こうから赤く叫んでいるから。でも、じゃあ、なんで夜はいつのまにか来てしまうんだろう」

「わたしが話しているのは信号機のことよ。太陽も空も関係ないわ」

 息子はそれも聞かずに、横断歩道を見つめていた。歩くもののために用意された懸け橋。白い線が、進むべき道を規定している。

「母さん、なんでここを渡らなくちゃならないの?」

「そういうルールだからよ」

 その言葉は、意識の焦点が定まらないような、気が散ってばかりの息子にも、なんとか届いたようだった。しばし黙って、そのことについて考えている。

「やっぱり、よくわかんないや。線なんて、どこにもないのに」

 息子の呟きを耳にしながら、母親は眼を閉じる。自分だけの暗闇の中で、息子に見えるもの、息子に見えないものについて思う。

 息子はルールを上手く飲み込めない。ものを見るための視力に不足はないのに、社会のいたるところに引かれた、普通の人間なら、普通の子どもなら、当然のように理解できる秩序を保つための線を、見ることができない。

 息子はどこにいてもずれていた。息子はだれといても食い違った。息子は境界をことごとく侵犯した。息子は線をことごとく無視した。


 ――残念ながら、ここではお子さんを受け入れることはできません。


 何度も告げられたその言葉を、母親はいまもまた思い出す。まぶたの裏の闇が、いちだんと深くなったように感じた。

「透」

 母親は眼を閉じたまま、闇に閉ざされたまま、静かにその名を呼ぶ。

「なに、母さん」

 息子の声の夢見るような響き。つないだままの手の温もり。世界に裏切られることなど想像もしていないような、無防備な魂。

「幸せになりなさいよ」

 そう言って、母親は眼を開いた。

 信号はもう青だった。進め、とルールが母子を急き立てていた。

 夕暮れの帰り道を、母親と息子はふたりで歩いていた。ピクニックのような息子の華やぎ。巡礼のような母親の祈り。

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