紙とペンと黄色いビートル

増黒 豊

紙とペンと黄色いビートル

 エンジンはいつも途中で止まるし、窓の開け閉めだってハンドルをくるくる回さないといけない。座席も硬くて座り心地は最悪。スピードも出ないし、タンクに穴が空いてるんじゃないかってくらい燃費も悪い。


 それでも、どうしてか、手放すことができなかった。愛着なのか、もっと別の何かがあったのか。そんな哲学的なことを考えるふりをしながら、ただ、なんとなく流れてゆく日常の中にあのレモンみたいなビートルはあった。もちろん、新型の格好いいものに乗り換えてもよかったんだけれど、なんとなく、ほんとうになんとなく、その頼りないエンジンの震えを伝えるハンドルや、拭いても拭いても曇りの取れないフロントガラスから見える街を眺め続けていた。


 君も、それがいいって言った。どこがどういいのか分からないけれど、いいって言った。いつも、ヘッドレストもないような助手席に座るのを喜んだ。機嫌のいいラジオから君の好きな曲が流れて、それをカラカラしたエンジンの音が邪魔するって笑ったし、なんだか油臭いって言って、降りる度に服をはたいて笑った。


 高速のパーキングエリアで休憩しよう、って君が言うから一番近いそこに停めて、サイドブレーキを引く手が、気を抜きっぱなしの君の手に触れてしまって、それですごく気まずくなって、だから、キスをした。そうしたら、君は笑ってた。

 そのあと君は助手席からぱっと降りて、フロントガラスの向こうから、こっちに向かって何か言った。閉め切っていたから、よく聞こえなかった。だけど、嬉しかった。


 どこに行くにも、いつも、一緒だった。だから、楽しかった。


 そうか、と、今更ながら思う。

 君に、似ていたんだ。ポンコツで融通が利かなくて、手がかかって丸くて黄色くて可愛い。だけど、君は、あなたにそっくりな車ね、と言った。どっちでもいいし、どっちも本当なんだろうと思う。


 今でも、たまに、街で見かける。通り過ぎる様を横から見たら、なんだか自転車みたいな車だなと思う。

 あそこに、いたんだ。

 君は、あそこに、いたんだ。

 どれだけ今から望んでも、君がまたあの狭い天井に頭をぶつけて笑うことはない。

 街であの黄色いビートルとすれ違うたび、君が笑っているような気がして、辛くて、嬉しい。

 それでも、もう二度とあの細いハンドルを握ろうとは思わない。


 使いかけのノートを千切った紙切れに、百均で買ったペンで書いたこの手紙を、いつか、どこかで、君に見せることが出来たら。

 そうしたら、君はまた笑うかな。

 分からない。

 会いたいよ。

 会いたい。

 どうして、なんて言うと、君が悲しい顔をするような気がして、だから、おかえり、って言うつもりだ。

 二人であのポンコツに乗って君の行ってしまったところに行けばよかった、なんて言うと、君が悲しい顔をするような気がして、だから、おかえり、って言うつもりだ。


 会いたいよ。

 心から、そう思う。


 ふと窓の外を見た。

 あのフロントガラスみたいに、曇っている。

 その向こうにある景色は、やっぱり、変わり映えのないものだった。

 そこを、また黄色いビートルが通り過ぎた。

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