第五章

第五章

「竹田友紀君だったよね。」

自宅へ帰る岳南電車の中で、浩二は友紀君に話しかけた。多分きっと、僕のことを信じてくれるかどうかはわからないけれど、なにか話してみたい気がした。

「君も音楽学校を目指したの?」

友紀君は、静かに頷いた。

「そうだったのね。行きたいところとか、有った?」

「武蔵野。」

友紀君は静かに答えた。

「ああ、あそこかあ。あそこは、実は僕も行こうと思っていたが、学校見学して、古臭すぎる感じがしてやめたんだ。ちなみに僕は、武蔵野じゃなくて、国立音大なんだけど、ここも古い大学ではあるけど、新しいことをどんどん取り入れてくれて、校舎もきれいだし、入りやすい大学だよ。」

浩二がそういうと、友紀君はがっかりした顔をする。

「そりゃね、一昔前だったら、武蔵野が一番だったかもしれないけどね、あそこは、もうほかの大学にバトンタッチしたと言えばいいと思う。校舎も古いし、教育体制も古い。其れより、新しい音楽をどんどん取り入れて、そっちができるほうへ行った方が、たぶんよかったんじゃないのかな。たしかに、音楽の先生はみんな武蔵野という定義はあったね。だけど、武蔵野へ行った同級生に聞いたところ、あそこは音楽の先生にしかなれないのではないかといううわさが通ってしまってね、生徒が大幅に減ってしまったそうなんだ。そうじゃなくて、本当に演奏技術が欲しいんなら、ほかの大学に行った方がいいという事になって、すっかり不人気な大学になってしまったそうだよ。」

「でも、武蔵野は武蔵野ですから。」

友紀君はきっぱりと、でも、小さな声で言った。

「武蔵野の地を踏むことだけでも、してみたいという人だっているんじゃありませんか?」

「それは、昔の話。そんな時代は終わったよ。其れよりも、今は、音楽学校で何をしたいかを考えることだよ。何を勉強したいかを考えなくちゃ。現に、武蔵野は、演奏に特化した学校で、本当に演奏家になるための教育をするところだから、人気がないんだろうね。取得できる資格だって、学校の先生程度だし。そうじゃなくて、音楽を使って、福祉関係の仕事ができるとか、そういうところをもっと教えたらいいのにと思うんだが、あそこは頑固だからそうはいかないんだよね。そういうところが学べたらいいと思って、僕は、国立音楽大学に行ったんだけどね。一体なぜ、今時武蔵野なんて、そんな古臭い大学を志望したの?」

浩二がそう聞くと、友紀君は次のように答えた。

「僕にピアノを教えてくれた中学校の先生がいたんですが、その先生がものすごいピアノがうまかったので、その先生の演奏技術が欲しいと思ったからです。」

純真な少年だなあと浩二は思う。でも、それはある意味、武蔵野に騙されているとも言える。演奏技術に関しては、在りとあらゆることを教えてくれるくせに、就職とか、資格取得に関しては全く無頓着な大学であるために、自動的に演奏技術のある音楽の先生を作ってしまう。それにあこがれてまた誰かが武蔵野へ入り、また上手い先生を作ってしまうのだ。本来学校の先生であれば、演奏技術なんてさほど必要ない。それよりも生徒を引っ張っていく能力のほうが大事なのである。そういう矛盾した現実が、音楽学校というものにはある。

「でも、その先生に君は、武蔵野へ行きたいと言って相談したことはあるの?」

「はい。あります。すごく喜んでくれて、にこやかに応援してくれました。でも、なんだか悲しそうにしていました。」

そこが、やっぱりその先生からの最終警告だったかもしれない。

「それで、音楽学校に行くのなら、どこかの付属高校に行った方がいいとか、そういうことは言われなかったの?」

これも、音楽学校に進むための、重大な逃げ道である。普通高校に行くと、大変なことがある、可能性がある。ちなみに浩二は、ある有名な音楽高校に進学した。早くから、音楽に触れることができて、そこはよかったと思うのだが、高校時代の思い出というものはあまりないという事も確かである。

「言われませんでした。富士には、音楽高校がなくてどうしても静岡まで通わなければならないので、

その通学が大変なのと、どうしても偏差値が足りなかったので、、、。」

偏差値が足りなければ、私立単願という事にしてしまえばいいのではないか。別に音楽高校において、公立私立で差別されることはあまりない。

其れよりも、大学があるのなら、高校で、余分な勉強をしなくてもいいところにしておいた方がいい。どっちにしろ、ピアノや声楽の練習で、部活などに時間を取られることはできないから、そこに偏見を持たれないようにすることも大切だ。

「偏差値がどうのなんて、音楽大学では、ぜんぜん関係ないよ。中には、40くらいしか偏差値がないのに、ものすごい大曲を弾いて、それで入学できたという生徒さんも少なくないじゃない。だから、勉強なんて、そこそこにして、実技にとにかく集中してやればいいじゃない。そういうことを知らなかったの?」

「はい、知りませんでした。みんなすごい人ばっかりなんだろうなと思っていました。」

それは思い過ごしだと浩二は訂正しようとしたが、友紀君はそういうものだと信じ切っていたような顔をしていた。

「そんなことない。それより、何を勉強したいかが一番大事だよ。もう音楽学校の入試なんて、そんなに窮屈なものではないんだから。ちなみに僕は、演奏学科だったんだけど、社会に出る前に、自分のすきだったピアノを徹底的に勉強してみたかったので、教育学科よりそっちのほうがいいと思ったんだ。まあ、学校の先生の資格とかそういうものは取れなかったから、いまはただの会社員しかなれないけど、高校大学で思いっきり勉強できて、うれしいなとは思ったよ。そこは後悔していない。決して、学校の土を踏むために、大学に行こうとなんて、一度も考えたことはないよ。」

なんだか、野球で甲子園に行くのであれば、友紀君の理屈も理解できる。甲子園とかオリンピックのようなものであれば、そこの土を踏んだだけでも素晴らしいものになるのだが、大学の場合はそうではないと、浩二は思っていた。

「それでも、僕はやっぱり武蔵野がよかったんです。そこに行って、そこの生徒になりたかったんです。」

「む、昔の書生さんだったら、そういうことは言えるかもしれないけどさ。今は、そうじゃなくて、大学も高校も自分で選ぶ時代でしょ。もちろん行きたい大学の方が先にあって、そこへ向けて高校を決めるという人も確かにいるけど、それなら、中学校の先生に相談したりしてさ、少しでも大学に近いところを選ぶべきじゃないのかな?」

友紀君がまたそういうと、浩二はそう反論した。

「そうですけど、僕は、音楽高校に行きたかったんですけど、偏差値がたりなくて、定期試験で体調を崩してしまい、音楽高校を受験させてもらえなかったんです。それで、音楽の先生が、今の高校を進めてくれたんですよ。なんとも娘さんもそこに行って音大に行ったって。確かに近いところにありましたから、すぐに行けたんですけれども、娘さんのときは近隣にすごい私立学校ができていなかったから、さほど焦っていなかったんでしょうね。僕のときはいつもそこに追いつけ追い越せで、常に、国立大学に何人とかそういう事ばっかり話していました。そして、そこに行かない生徒には、やくざの親分みたいに怒鳴って、死んでしまえ死んでしまえと罵っていました。」

なるほど。つまり時代が変化したのを、友紀君は知らされていなかったのだ。昔はよい高校だったとしても、今は荒れ放題に荒れている高校に行ってしまったのだろう。

「其れだったら、私立学校に行けばよかったのに。そんな変なことばっかり言われて、生きた心地がしなかったでしょう?私立学校のほうが、けんかする相手もいないから、結構面倒を見てくれるよ。」

今の時代、誰でも選ぶ権利があるじゃないか、と思いながら、浩二は言った。別に公立学校に行って偉いねなんていわれても、何の意味もない。其れだって、当の昔の事ではないだろうか?今は、ほかの県では、私立のほうがよほど偉いねと言われる時代である。

「だけど、僕のうちは当時お金がなかったんです。ピアノのレッスン料を払うお金もなくて。学校の先生は、そこを強調していました。お金がないのに、そんなところへ行って、お前は、親殺しで犯罪者だと何回も言っていました。そして、仕事に就かない奴が一番悪い奴だと言ったんです。それでも僕は、音楽学校に行くと言ったら、学校の偏差値を下げているのはこいつなので、いじめるようにと同級生に言いふらしたりして、、、。その通りになって、僕は友達が一人もいませんでした。それでも、勉強もピアノも続けましたが、入試の直前に体調が崩れてしまって、もうできなくなっちゃって。

だから、受験できなかったんです。音大の先生も体調を崩したら、態度を変えて、二度と現れるなとか言って。すごい高慢な先生でした。だからもう、無理なものは無理だと思うんですが、同時に、生きている気力もなくしてしまいました、、、。」

そう泣きながら言う友紀君に、浩二は今あるチャンスを逃してはいけないのではないかなと思った。

「それでは、広上先生たちにしたがったほうがいい。ここに居たって、君は変わることもできないもの。別に正科生にならなくても、科目履修生として、レッスンだけ受けさせてもらうという大学もあるよ。それでもいいじゃない。何か勉強すれば。そのほうが、君は世の中に対する考えも変わると思うよ。だって、どんな人だって、世の中を敵に回したら、其れこそ、おしまいだからね。そうじゃないと、はっきり示してくれる人がいるんだったら、その人に従いなよ。今度こそ、本当にやりたかったことをやってごらんよ。」

「そうですね、、、。」

丁度そこへ、

「まもなく、岳南江尾駅に到着いたします。お降りのお客さまは、ご準備をお願いいたします。」

と車内アナウンスが流れたので、浩二も、友紀君も、電車を降りるために、入り口のほうへ向かった。


一方そのころ。

製鉄所を追い出されて、このままでは、ペットのペーター君にも笑われてしまうような気がして、家に帰る気にはならない広上さんは、とりあえず、道端にあった屋台のおでん屋に入って、

「おやじ、がんも!」

とでかい声で言った。

「はいよ。ちょっと待ってな。」

「なるべく早くしてくれ。」

広上さんは、そういって、出された水をガブッと飲み干した。すると、誰か別のお客さんが来たらしい。ハイ、いらっしゃいませ、と店主が言っている声がする。隣の席に誰かが一人座った。

「あ、あれ、確か、指揮者の広上鱗太郎先生でしたよね?」

そこにやってきたのは蘭だった。

「へい、蘭ちゃんいらっしゃい。ご注文はなんですかね?」

おでん屋のおやじさんが、蘭にそう尋ねた。

「あ、とりあえず、卵一個。」

「わかったよ。」

と、おやじさんは、蘭に箸を渡して、

「蘭ちゃん、前は杉ちゃんと一緒によく来てたのに、今は喧嘩でもしたのかい?」

と聞いてきた。

「あ、ああすみません。一寸訳がありまして、杉ちゃんなら製鉄所に泊まり込みしています。」

と、蘭が答えると、

「そうなんだねえ。あの水穂ちゃんという、外国の俳優さんみたいにきれいな奴がいたけど、そいつはどうしてるの?」

と、さらに聞いてくる、おやじさん。

「はい。水穂なら、ちょっと特殊な病気にかかってしまいまして、製鉄所でずっと寝てます。それで、杉ちゃんが、付き添っているというわけで。」

「そうか。蘭ちゃん、また仲間外れか。」

「はい。僕も、いろんなことを試しましたが、結局だめでした。水穂にはどうしても届いてくれない。」

「まあ、気長に待つんだな。蘭ちゃんが必要になるときも、きっと来るよ。」

これを聞いて、広上さんは、蘭に聞いて見ようと、あることを思いついた。

「おい、たしか、伊能蘭さんだったよな。」

と、蘭に話しかける広上さん。

「ええ、そうですが。」

蘭は、いきなり身分の高い人に声をかけられて、びっくりしてしまったようであったが、広上さんはかまわずに話をつづけた。

「俺は、水穂にとは音楽学校の同級生だったんだ、音楽学校でのあいつは、ものすごく天才で、多くの聴衆を虜にした。それくらいピアノが天才的に上手かった。あいつが、今、病気で伏せているのは俺も知ってる。そして俺も、水穂には生きていてほしいと思っている。」

「そうなんです、僕も、そう思っているのですが、彼には僕の思いは全く通じません。本当は、彼に拷問された時のトラウマも取ってもらって、現実と戦うようにしてほしいんですが。僕は、ただのうるさい男としか、彼は見てくれないんです。」

「そうだよな。」

蘭の話に広上さんはそう同意した。

「その前に、やつはなぜ、戦っていこうとしないのか、君は知っているかな?人の話によると、ジプシーと同じように、民族が違うからという事らしいのだが、、、。」

「ええ、それは本人もそういっています。でも、彼に外国人の血が混じっているという事はありません。日本人離れした顔ですが、そこはまずないんです。ただ、彼の出身地は、富士市内でも、よく知られているスラム街であって、そこは長年立ち入り禁止の区域だったことは間違いありません。そういうところを、法律では同和地区というそうですが。」

「つまり、ポーランドでユダヤ人を閉じ込めていた、ワルシャワゲットーに近いものだろうか?そんなものが日本にもあったという事だね。しかしだよ。なんでまたゲットーに住んでないといけなかったんだろう?」

蘭もそれはよくわからないという顔をしたが、とりあえず、小久保先生に習ったことを言ってみた。

「ええ、僕も理由はよく分からないのですが、どうも仏教では屠殺を嫌い、そういう仕事をしている人たちを差別的に扱うという傾向があったらしいのです。それだけじゃなくて、牛や豚の革を使って、鞄などを作っている人を、けがれた人として差別していたみたいで。その習慣から、だんだんそういう仕事の人を特定の地域に住まわせて、ほかの人を立ち入り禁止にしたみたいで。」

「なるほど、結局は、宗教のせいになっちゃうのか。」

広上さんは大きなため息をついた。

「ユダヤ人だって、やっぱり宗教的な理由で差別されたんだしなあ。」

「そうですね。確かに、同和地区の出身者であった事で、戦前くらいまでは、会社にはいれないとか、結婚できないなどの人種差別があったようですが、今は、そういう部落民として差別されるというのは、口にすることのない限り、ほとんどないそうです。だから今では、隠し通せるんですよ。其れさえ意識しなければ。」

「そうだよな!肉体的な違いはないんだからな!あいつが抑えてほしいところはそこだよ!今であれば、隠し通すこともできるというところ!」

広上さんは、出されたがんもどきをガブッと口にした。

蘭も急いで、卵を口にして、それを飲み込む。

「で、蘭ちゃんだっけ。ちょっと教えてもらいたいんだが、レオポルト・ゴドフスキーを聞いたことがあるかな?」

広上さんは次の質問をした。

「あ、ゴドフスキーですが。確か、えーと、近隣の文化会館で、外国のピアニストがやっていたのを聞いたことがありました。」

蘭が正直に答えると、

「その名を覚えているか?」

と、広上さんは聞いた。

「ええ、確かフランチェスコ・リベッタとか言ったような。」

と、蘭がそう答えると、

「そうなんだ。ゴドフスキーの曲を、リサイタルで演奏したピアニストというのはな、そのフランチェスコ・リベッタと、カルロ・グランテの二人しかいないんだ!それくらい険しい難易度を誇っている!だから、世界一難しい曲と言えるんだが。それを、奴は音大時代、軽々と弾いていたのを俺は覚えているよ。そういう訳で、ゴドフスキーを弾きこなすとなれば、本当に天才という事になるんだ!」

と、広上さんは言った。

「じゃあ、じゃあ、それをもし、水穂が公の場で弾きこなすことになったら?」

「そうなんだよ!つまり奴がそうすれば、三人目だ。それをすれば、三人目は日本人ということになって、ものすごい偉業を成し遂げたことになるんだよ!わかるだろ、だから俺は何とか、水穂にそれを成し遂げてもらいたいわけ!それだけ演奏技術があるんだから、きっとなんだって弾けちゃうと思うんだ!」

そうなると、水穂のしたことは、本当にものすごいことという事になるのだとわかって、蘭は涙が止まらなかった。そういう偉業を成し遂げる可能性がある人物が、もう間もなく終わろうとしている。

「でも、僕がしたことは、すべて、ダメになってしまいました。僕は役に立ちません。」

「いや、今回は俺もいる。あいつに何とかして、立ち直ってもらい、ゴドフスキーをもう一回やってもらおう!俺も作戦を考えるよ。今度は二人でやらせてもらえないか。俺も、そんなに金があるわけではないけど、協力はするから!」

蘭はやっとこれで強い味方ができたと思って、本当にうれしくなった。

「よかった。僕もやっと何とかしてほしいという気持ちをわかってもらう人ができました。」

「そうだろう。俺もそうなんだよ。本当によかったとおもってる。それを受け取ってくれてありがとうな。」

二人は、互いの背中をたたき合い、にこやかに笑った。

「あの、すみません。次の注文は何なんですかね。」

おでん屋のおやじさんは、ボケっとした声で、そう蘭たちに聞くが、蘭たちは、それどころではなくなっているようで、一生懸命水穂のことを話していた。

「こうなると、新コンビ誕生なのかなあ?」

おやじさんは、二人を見つめて呟いた。それでは、声をかけずに暫く見ていたほうがいいなと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る