第九章

第九章

今日は雨が降っていた。

皆、傘をさして、歩いていた。雨の日はどんよりした気分にさせるが、傘のカラフルな色合いで、みんな、かわいらしく、見えるかもしれない。そんな日だった。

製鉄所では、水穂がいつも通りに眠っていた。隣で、浩二が座っている。

「先生、僕の事、覚えていてくれませんか。もう忘れてしまいましたでしょうか。」

そう声をかけても、水穂は目を覚まさなかった。

「我慢してくれ。結構強力な睡眠剤飲んでやっと眠ったところだからよ。」

杉三がお茶をもってやってきて、ほらのみな、と促した。浩二はお茶を杉三から受け取って、するっとお茶をすすった。お茶は、結構濃くて、本当に苦かった。

「僕が代わりに話を聞くわ。水穂さんもかなりつらかったようだから。今楽になって眠ってくれてさ、起こしちゃうのはちょっとかわいそうだし。勘弁してやってくれ。」

杉三がそういうと

「すみません。申し訳ないです。」

と、浩二は答えた。

「ごめんなあ、お前さんほど音楽の知識なくて。」

「いや、いいんです。僕、また贅沢を言い出したのかなと思って。」

「贅沢?」

「ええ。実は先日広上先生から、ある若い方の伴奏を頼まれましてね。その子と一緒に、今一度やっているのですが。」

と、浩二は言い始めた。

「はあ、それがなんで贅沢というんだよ。」

「いや、なんだかその子の話を聞くと、ずいぶんつらい思いをしてきたんだなという事例がたくさん出てきましてね。多分きっと僕よりずっと、辛い思いをしてきて、それでも音楽をやっている。平凡すぎる人生を送ってきた僕が、なんだか申し訳ない気がしてしまって、、、。」

「まあな。お前さんは、あれだけのラフマニノフの曲を弾いたけど、一皮むけば会社員で、中途半端にしか関われないから、そう申し訳なく見えちゃうんだろう。それがコンプレックスになるのもわかるよ。それで、その子には、そういう思いをさせたくないと思ってるんだろ?」

「図星ですよ。よくわかってしまいますね。杉ちゃんは何でもわかってしまう。」

浩二は、半ば苦笑いをして、杉三に言った。

「それで、僕は今後、どうやって生きて行けばいいのだろうと思いましてね。それを先生に聞いてもらおうかとおもって、、、。」

「結論から言うと、お前さんは音楽と会社とどっちが好きだ?」

杉三は、浩二に聞いた。

「そうですね。できれば一生やっていきたいですけど、それでは無理だという事はわかってますし。それに、外できちんと働かないと、世間体が合わないので。そうではなくて、ちゃんと仕事をして、しっかり働いて生活しないと。」

「お前さんは、世間の評価のために生きているんかいな。それはだめだな。」

と、あきれた顔して言う杉ちゃん。

「そんな生き方していたらよ。そのお弟子さんだって、がっかりするんじゃないのか?それに、金を何とかするんだったら、会社で働くだけじゃないぜ。現に、伴奏者を求めている演奏家はたくさんいるんじゃいのか?ピアノはそこが便利だよな。もちろん、管弦だっていいんだけどさ。ピアノを求めている人のほうが、多いんじゃないのかよ。それに、ここは田舎だしね、高名な音楽家は住みにくいと言って逃げちゃうからな。それで、取り残されたやつらはどうするんだ?誰に伴奏してもらうんだ?ほら、金を作る道はいっぱいあるぞ。それに、お前さんは、独り者なんだから、一匹が食べられる量だけ稼げば、それでいいのさ。」

「そうですが、、、。」

杉ちゃんにそういわれて、浩二は答えに詰まってしまった。

「でもやっぱり、若い人は世間様が用意してくれた、レールに乗って生きていかないと。そうしなければ、結局僕のほうが損害を受けることになるし。自分らしくなんて、年寄りのセリフですよ。」

「何を言ってら。そういうことができるようになるには、大抵墓場の中だぜ。もうさ、世間のどうのこうのなんて言ってないでさ、自分らしく生きてみたらどうだ?そんな正しい生き方が表記されているわけではないんだからよ。それはない方がいいよ。」

「でもね杉ちゃん。」

浩二は、友紀君が学校で言われたというセリフを口にする。

「僕、その彼が言われたというセリフが、頭から離れないんですよ。学校の先生が、彼にこう言ったそうなんです。人生は正しい生き方と、間違った生き方がある。正しい生き方は、自分の食うかては自分で稼ぎ、親御さんにお礼としてお金を渡すことである。間違った生き方は、いつまでも親のそばにいて、親に食べさせてもらうのを幸せだと思い込んでいること。そして、正しい生き方に近づくためには、医療、介護、福祉の仕事が、自身の向上になり、世間の評価も高く、確実に金も稼げるから、迷ったらその仕事に就くこと。逆に間違った生き方は音楽であり、訳の分からない音楽を研究しても、何の金にもならないから、親の脛をかじって生き続けることになる。それが一番いけない生き方だと。そして、一番犯罪に走るのは無職であり、働けないことを苦にして発狂し、いずれは犯罪を犯し、音楽を求めていきつく道は、刑務所か精神病院しかないって。それが嫌なら、今すぐここから飛び降りて死ねと。そして彼は、クラスメイトの前で、自殺の練習までさせられたそうなんですよ。」

「はああ、、、なるほど。じゃあ、こういってやれ。僕は、医療とか介護する人は大嫌いだ。なぜかというと、金儲けのために仕方なくやっているという魂胆が見え見えで、何の介護にもなっておらん。医療者だっておんなじこった。皆、金儲けのための道具としか患者を診てない。特に大学病院なんか最悪だよ。だから僕としては、こいつを病院に入れたくないのよ。病院は、それが見え見えだからね。」

そういって、杉三はカラカラと笑った。

「そうか、杉ちゃんの言う通りかもしれませんね。」

「だから、誰でも彼でもできる仕事なんてないんだよ。大事なことはね、その仕事に心を込めてやれるか。それができるのとできないのとでは、大きな違いだ。誰かに介護してもらったって、金儲けのために仕方なくやっているのが見え見えのやつにしてもらっても、何にもうれしくないからな。もし、

適さない職業を押し付けられたらな、そのされる側の気持ちになってやれ。いくらこっちは金儲けできるとしても、相手のほうが不満だったら誰だっていやだろう?そういい返してやればいい。きっと、それを言った教師は、そういうことは知らないのさ。学校の先生ほど馬鹿な奴はないからな!」

「そうですか、、、。友紀君も、杉ちゃんに会えたらよかったのに。」

浩二は、思わずそんな感想を言ってしまう。

そんな風に解釈してくれる人とは初めて会った。誰もが、福祉関係とか、医療関係となると、「偉いね」と口にするのが当たり前なのに。

「単に金を稼ぐのがすべてじゃないよ。なにか与えて、何かもらえるかが人生だ。そう考えて生きてみな。そうすると、ピアノと会社のどっちが大事なのか、気が付くよ。結局な、人ってのは、誰かの役に立つこと、抜苦与楽ができることで生きがいを持つもんだと思うんだよね。もし、何の意味もないと考えている人に、車いすなんて押してもらってもさ、不格好で不愛想で、何もうれしくはならん。それよりも、それを生きがいとしている奴にやってもらったほうが、こっちもよほど心地いいってもんさね。それは、誰でもそうだ。ただ金を稼ぐために自分を殺して、どうのこうのってのは、やられている側から言わせてもらえば、いい迷惑だぜ。」

そうだよね、杉ちゃんのいう通りだよなあ。と、浩二は思った。

「だからよ。多分きっとそいつは、そのバカ教師のいう事に傷ついて、にっちもさっちもいかないんだろうけどよ。そういうときは、誰かを手本にして生きるもんなのよ。それは、家族では絶対になれないし、なれるとしたら、身近にいる誰かか、歴史上の人物とか、そういう人しかないよね。だったら、お前さんが手本になるしかないだろうが。そんなときに、お前さんが中途半端な生ぬるい生き方をしているようでは、そいつは絶望するよ。」

そうかあ、、、。

「大丈夫だよ。金の面では何とかなるくらいにしておけ。その代わり、お前さんは、パガニーニの主題による狂詩曲が弾けるということをアピールするのが大切だ。」

「杉ちゃん、すごいですね。何処からそんなこと覚えたんですか?」

浩二がそう聞くと、杉三は首をひねった。

「うーんわからない。ただバカの一つ覚え。それでいいにしておいてくれ。僕は伝聞でそれを知ったくらいの知識しかないよ。」

本当にすごいなあ杉ちゃんは。そういう事をぽんぽんぽんぽん、、、。

丁度そのとき水穂が、ん、んと言って、ゆっくり目を開けた。

「あ、目が覚めてしまったか。もっと寝ていてもよかったんだが?」

「いや、そうじゃなくて何となく寒いなあと思っただけで。」

杉三がそういうと、水穂は静かに答えた。

「先生、もしかしたら、微熱があるのではありませんかね。ほら、熱が出ると、寒いと訴えることもよくあるでしょう。」

浩二は、思わず心配してしまって、そう聞いた。杉三がすぐに彼の額に手を当てて、自分の額と比べてみて、

「うーん、熱はなさそうだ。」

と、言った。

「単に寒がりじゃないの?」

「じゃあ、暖かい布団でもかけますか。」

浩二は、フランネルのかけ布団を押し入れから出して、すぐに水穂の体にかけてやった。

「この時期はどうしても、寒暖差で、いろんな種類の布団が必要になりますね。先生、僕、音楽関係に勤めることにしました。なんだか世間体を気にしすぎて、無理やり会社員をしていても、意味がないと思ったからです。其れよりも、これからは一応伴奏者として、音楽を志す人のお手伝いをするわけですから、そういう時にはちゃんと音楽に徹するようにします。」

「そ、そうですか。おうえ、、、。」

と水穂は言いかけたが、最後の一文まで言うことができずに、咳き込んでしまった。

「バカ。こんな時にせき込まないでよ。ちゃんと浩二君の話聞いてやれよ。」

杉三が、すぐに背中をたたいたりしてやるが、浩二は、そのあとの一文は何なのか、予測することはできたので、特に追求しなかった。


さて。市民会館では。

「えー、まず、メサイアには、ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バス、合計四人のソリストが必要だ。そのためには、まずソリストになりたいもの、遠慮なく立候補してくれ。」

練習室に到着したメンバーさんたちに対し、広上さんは、でかい声でそう言った。

「えっ?ソリストは、どこかから偉い先生を呼んでくるんじゃないんですか?」

メンバーさんの一人が、そういったが、

「いや、今回はそれはしないことにする。其れではなく、素人であっても、よい声を持っている奴がいると証明してやろう。それでは、誰かなりたいものは手を挙げて!」

と、広上さんは言ったが、さすがにそれは、無理らしい。そこでちょっと、ハードルを下げようとお思い、

「じゃあ推薦で言ってみよう!だれか周りの人で、ソリストとしてなってもらいたいものを、遠慮なく推薦してみてくれ!」

と、もう一回言った。すると、

「それでは是非、テノールは一番若い友紀くん!」

と、すぐに声が上がった。

「バスは、ぜひ最年長の鳥居さんに!」

こちらもすぐに決定した。どうやら男性陣の中で歌が上手いのは、この二人とすでに決まっているようなのだ。

「それでは、ソプラノか、メゾソプラノは、どなたか、お願いできるかな?」

と、広上さんが聞くと、

「メゾソプラノくらいだったら、よっちゃんがうまいけど、あんまり高い音を要求されるようでは、どうなんでしょう?」

と、一人の女性のメンバーが言った。

たしかに、ソプラノは、中年女性には難しいと思われる個所がある。せめて30歳くらいの人であれば、のどを鍛えれば何とか出せる人はいるが、それでも苦労する音域がソプラノである。

ちなみにそのよっちゃんこと石川芳子さんは、かなりの高音を出せる存在だが、高音になってしまうと音量が弱くなってしまう弱点があった。

広上さんも、最初のソプラノソロを歌ってもらって、この弱点を認めた。そうじゃなくて、ソプラノというものは、もっとパワフルに歌う歌唱力が必要である。ただ声質は美しい声をもっているようだ。なので石川さんにはメゾソプラノを担当してもらうことにした。そうなると、ソプラノの担当者は誰に?

「ソプラノとはわからないけど、絢子さんは?年も若いし、できるのではないかしら?」

不意に、ある女性メンバーが言った。確かに、絢子さんの声はキーも少し高かった。それでは、と広上さんが、このソプラノアリアを歌ってみてくれ、と、ソプラノソロ「羊飼いたちが夜野宿しながら」を指さす。絢子は、何とかして楽譜を持ったまま、歌い始めた。意外に彼女の声もいい声だ。ッそれでは、絢子さんにソプラノソロをやってもらうことになった。ただ、楽譜を持っているのがたいへんなので、一人のスタッフを用意させて彼に持っていてもらうことになった。

「それでは、一番始まりから、歌ってみることにする。先ず、ソプラノから!」

と、広上さんは、指揮棒を振り上げた。

たちまち、美しい歌がはじまった。広上さんは、皆の歌を聴きながら、ほう、なかなかやるじゃないか、この合唱団!と、思った。

「さあ、本番に向けて頑るぞ!じゃあ、次のアリアを歌ってみてくれ!」

どんどん練習は続けられた。オーケストラの人たちも、張り切って楽器を弾いている。

「じゃあ行こう!」

比較的難しいと言われるワトキンスショウ版だったが、合唱団の人たちは、かなり上手に歌いこなしている。もともと向上心の強いグループだったんだろう。

広上さんは、すっかり感心してしまって、次々に練習を続けていく。


そのころ。

「お願いできませんでしょうか。」

と、浩二は、水穂に言った。

「えー、ちょっと待ってよ。ピアノのレッスン何てそんなことやらせられるかよ。そんなこと無理だ。」

杉三は、嫌そうな顔をして断ったが、

「いや、お願いしたいんです。もう一回だけでいいですから、先生に演奏見ていただきたいんです。

演奏家になるために、次のステップを踏んだ僕の演奏を。」

と、浩二は懇願した。

「もしかしたら、だけど、会社、」

「ええ、やめました。どうせお前がいてもいなくても、うちにの会社はもうかっているから大丈夫って、はっきり言われました。」

杉三の問いかけに、浩二はにこやかに笑った。

「幸い、インターネットで調べたところ、ホテルにあったカルチャースクールで、ピアノを教える講師を募集しているところが近くにあったので、そこで教えることになって、生活はそれで成り立ちそうです。」

「そうそう、そのほうがいいよ。余分なところで変なエネルギー使うよりも、ずっといいよ。そういうな、心を込めてやれる仕事が一番いい。その代わり、一生懸命やれよ。手を抜くなよ。」

杉三にそういわれて、やっと安心したが、すかさずチャンスを逃すまいと、

「だからこそ、僕の演奏を聴いてほしいんです。もう会社員ではなくなったんですから、それを、聴いてほしいんですよ。ダメですか。」

と詰め寄った。

「うーん気持ちはわからないわけでもないよ。だけどねえ、もうレッスンするほどの体力は残ってないよ。あの人は。」

杉三も杉三で閉口してしまっているようだった。

「杉ちゃん。」

水穂は静かだけどきっぱりと言った。

「一度や二度は聞いてあげよう。」

「起きちゃいかんよ。また体がだめになるぜ、安静にしてないと。」

と、杉三は起きようとしている水穂を急いで制したが、水穂には通じなかった模様であった。何とかしてでも、やつれたからだを抱え起こして、何とかして布団のうえに座った。杉三が急いでその肩に布団をかけ、倒れないように支えてやっている。

「それでは、お願いします。もう一回でいいですから、友紀君の伴奏として、シューベルトの野ばらを聞いてさい。」

とても、パガニーニの主題による狂詩曲のような、大曲を聞くほどの体力も、残っていないと思われていたので、浩二は小品である、シューベルトの野ばらを弾いた。小さな歌曲だが、美しくひきこなすには結構難しいものがある。

かわいらしいけど、結構難解な歌詞でもあるのだ。

「ど、どうでしょうか。」

浩二は弾き終わると、小さくなって、水穂を見つめた。

「ええ、以前よりも。」

水穂も静かに答える。

「邪魔をしていた重しが取れたのではないですか?」

「よかった。」

浩二は、涙を見せて、にこりと笑った。

「もう一回聞かせて。」

「はい。」

水穂にそういわれて、浩二は、にこやかに笑って、ピアノを弾き始める。

「Sah ein Knab’ein Roslein Stehn,

Roslein auf der Haiden,

War so jung und morgenschon,

Lief er schnell es nah zu shen,

Sah’s mit vielen Freuden.

Roslein,Roslein,Roslein rot,

Roslein auf der Haiden.」

杉三までもが、独特の美声で歌い始めた。杉ちゃん、相変わらず歌うまいねとつぶやいた水穂も、体が動けば、体を動かして拍子をとりたかったに違いない。でも、もはや腕を持ち上げる体力すらないため、其れすらできなかった。水穂の目にポロンと涙がこぼれるが、杉三が、それを手拭いでそっと拭いてくれた。

弾き終わると、水穂はどたっと、布団のうえに倒れ込んだ。もう疲れ切ってしまったようで、肩で大きな息をしている。

「なんだ、レッスンはもう終いか。」

杉三が、困ったなという顔をして、水穂を見た。

でも、浩二はとてもうれしそうだった。それは、きっと確かだった。

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