終章

終章

そしてついに、本番の日がやってきた。

市民会館の入り口には、大きなポスターが貼られ、これでもか!とばかりに「メサイア」の四文字が描かれている。

今回メサイアの出席者は、皆バロックマニアの人たちばかりで客足はさほど集まらなかった。まあ、基本的にレベルの高い音楽だし、非常に長い作品なので、皆飽きてしまうことも多く、集まる確率は低かった。

そんなことを期待しないで、広上さんたちは、開演の合図とともに舞台に上がった。演奏する曲は、メサイア一曲のみ。それ以外は何もない。

広上さんが指揮棒を振り上げると、短い序奏のあとに、歌が開始された。

このメサイアは、一部、二部、三部に分かれる。それぞれ語られる内容が異なっており、オラトリオのもつ物語的な演劇というよりも、預言書を読み聞かせているようなそんな内容である。

先ず第一部は、メサイア、つまり救世主がやってくるぞ!喜べ!というような内容であり、クリスチャンでないと、ちょっと理解しがたい内容かもしれない。それぞれが、ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バスの独唱、あと、補足するような形で、合唱がこれからイエスキリストがやってくるという事を知らせる。

次に第二部は、イエスキリストが受けてきた様々な苦労を歌う。先ず、十字架を背負ってゴルゴダの丘に登る場面から始まり、次に究極の抜苦与楽というべきなのかもしれない、自ら犠牲になって、民衆の悲しみを救ったり、心を癒したりする様子が歌われる。そして、その次、イエスが民衆にバカにされて笑われる様子。そしてついにイエスが十字架にかけられて、死亡すると直接的に歌われるわけではないのだが、曲調とその歌詞から、歌われるのである。ところが福音や伝道によりイエスの尊さが見直され、平和の祈りとなる。地上の王たちはこれを阻止しようと戦争を起こすけれどもかなわず、

神々によって、払拭され、最後の有名なハレルヤコーラス、「世界はキリストの王国になった。王の中の王、神の中の神、ばんざーい!」と歌って終わるのである。

そして第三部。ここはたぶんどこの宗教でも似たような内容が書いてあると思う。変なカルトとかそういう者でない限り。つまりこういう事である。死はおしまいではなく、新しい知恵を得て、新しい生き方が始まる。いわば命についての評論のような内容だ。

そして、世界への平和を願って、この長大な曲はおしまいになる。

もう最後のアーメンを歌い始めるころは、見ている客も、出演者も疲れ切っていて、祈るというより、怒鳴るというほうがいいかもしれない。でも、それでよいのではないか。たぶんその崇高すぎる歌詞を、涙なしで歌うのは難しすぎるからだ。もし、本当に命の尊さをわかっている人であったら、たぶん、この歌詞は、泣かずにはいられない。

広上さんは、この第三部の指揮を振りながら、水穂はこういう風に、死を受け入れてもらうことはできるんだろうか、と考えた。そういう風にはたぶんならないだろう。というか、最近は、この歌詞のように、死について考える人はもしかしたらほとんどいないのではないだろうか。それほど死は重要なものではなくなっている。もしこの歌詞のように、死を重く考えることができたなら、殺し合いの格闘とか、児童虐待のような、そういう事件も少し減ってくれるのではないかなと、広上さんは思いながら、タクトを振った。

最後のアーメンを長々と歌って、メサイアは終了した。

振り終わって、客席のほうを見ると、客は感動の涙を流している者もおり、渾身の力を込めて、拍手をしてくれている。

四人のソリストたちにもあいさつをさせ、オーケストラも、合唱団方舟のメンバーたちも立ち上がらせ、一同全員礼をさせた。それでも拍手はいつまでもなりやなかった。

広上さんは再び指揮棒を振り上げる。オーケストラの人たちが、ハレルヤコーラスを奏で始めると、合唱団だけではなく、お客さんたちまでハレルヤ、ハレルヤと歌いだした。出演者と客席が一体化した、不思議な時間だった。

歌い終わって、緞帳が閉まると、出演者たちはみな泣いていた。友紀君と、鳥居爺さんは互いに抱き合って泣いていたし、合唱団のメンバーも、皆「泣いて」いた。まるで、甲子園で勝利した高校生みたいに泣いていた。

「よし。また一緒にやりましょう!」

広上さんがそういうと、

「はい!」

誰も文句をいう者はなく、すぐ同意してしまった。これからも、この合唱団とオーケストラは、ずっと継続して、一緒にやっていくだろう。

音楽って不思議である。そういう組織と組織を結合して、一つのことをやるんだから。そしてやった後の心地よさは、本当に格別だ。

今日は、皆さん、それを味わって、それにしっかり漬かりながら、ゆっくり休んでくださいと、広上さんが宣言して、演奏会は、お開きになった。今日はきっと多くの人たちにとって、記念碑的な日になるに違いない。そしてそれをいつまでも忘れないでほしかった。

数日後、音楽スタジオを借りて、今日も、友紀君は高瀬さんのレッスンを受けていた、その伴奏役として、ピアノを弾いている浩二は、なんだか本当に行きたいところへ、やっとたどり着けたような気がして、なんだかのびのびして生活ができるようになった。

と、本人はそう感じていた。

「ほら、友紀君。もっとのびのびと歌ってごらん。とりあえず、良い声を出そうとか、そういうことは思わなくていい。それは後から自然に身についてくるから。其れよりも、もっとこの主人公の気持ちになりきって。じゃあ、もう一度。浩二君、イントロからやってみてくれないかな?」

「はい。」

浩二は、にこやかに笑って、イントロからピアノを弾き始めた。

伴奏は、とにかく歌う人に、やる気を出させなければならない。なので、オーバーアクションというか、多少大げさにやってみないと、相手はやる気がでない。

浩二はブラームスの歌曲を弾いた。でも、主役は、友紀君だから、オーバーアクションはしなければならないけれど、一人で弾く時よりは一寸抑えて。ああ、何て楽しいんだろう。大学で学んだことが、こうしてすぐに、実行できる学問は、やっぱり音楽ならではだった。

こういうところを、友紀君がつかんでくれれば、彼の心の傷も少し癒されてくれるんだろうなと思われた。

「うん、いいよ。じゃあ、次は、もうちょっと曲想をつけて歌ってくれるかな?ただ、一人の人間の話をしているという曲ではないからね。この曲は愛する女性に向けて書いたもの。あ、失礼、君はまだ、経験はないかな?」

「はい、有りません。」

正直に答えると友紀君。

「そうか、ないか。浩二君、君もないかい?」

浩二も、ありませんねと苦笑いした。

「そうか。でも、愛する人が居るという幸せは、素晴らしいものだよ。それは忘れないで頂戴ね。愛されると、自分も好きになれるんだよ。」

高瀬さんは照れ笑いする。

「あれ、先生、奥さんにこないだは、勝手にどこかに行かれて、困っていると散々言って起きながら、それが愛する人がいると自分も好きになれる、ですか?」

浩二がそういって高瀬さんをからかうと、

「そうだよ。それが一番の幸せなんだからね。」

と、にこやかに笑う高瀬さん。

「すまん、脱線してしまって。よし、それでは、レッスンを再開しような。」

「はい。」

にこやかに笑いながら、浩二たちはレッスンを再開した。ああ、レッスンってこんなに楽しいものだったんだ。あの時、高校で言われたときと違って、音楽を勉強するというのはこんなに楽しい。友紀君は、少しづつ肩の力もほどけてきて、伸びやかな声で歌うようになれてきた。

「よし、上達が早いねえ。それでは、次は別の曲をやろう。何をやるかちょっと考えてくるから、今までの曲の復習をしておいてね。ただ、まじめすぎて、勉強にがんじがらめはだめだよ。音楽は、時分を拘束するようなものではないんだからね。」

高瀬さんは、そういって、ドイツ歌曲全集をパラパラと開いた。

「今日はここまでにしよう。」

「じゃあ、僕、レッスン室のカギを返して来ます。」

浩二と、友紀君は、レッスン室の軽い掃除をした。学校を掃除するときよりも、よほど楽しい掃除だった。

「えーと、こう書いてある。拝啓、少しづつ暖かくなってきましたが、お代わりありませんか?僕は、友紀君と一緒に週に一回、友紀君と一緒にレッスンに通っています。友紀君はとても上達が早くて、やっぱり、広上さんが大物になるという予言したのはあたっているようです。初めのうちはまだ、学校にいたときのトラウマが取れなかったようで。」

「水穂さん、トラウマってなんだ?」

水穂が、浩二からの手紙を読み上げると、杉三が質問した。

「ああ、動けなくなってしまうほど、深い心の傷のことだよ。其れのせいで、特定ものができなかったたりする。」

「そうか、わかった。次を読め。」

「分かったよ。えーと、どこまで読んだっけ。あ、ここか。学校の先生が言ったこととか、盛んに口にしていましたが、最近はあまり言わなくなりました。多分きっと、高瀬先生の考慮もあると思うんですが、それだけではなく、彼が一生懸命やって、成果が認められるという事に気が付いてくれたからでしょう。僕はまあ、そんな彼の手伝いができて今すごく幸せです。そして、毎日カルチャーセンターで教えていますが、教わりに来る生徒さんたちは、みんなお年を召した人ばかりです。みんな、長年ピアノを弾いてみたかったけど、やっと弾くことができたと言って、みんな喜んでいます。僕は、彼らのお手伝いをすることができて、すごくうれしいです。杉ちゃんも水穂さんも、これから季節が変わり目ですから、気を付けてくださいませ。本当に体には気を付け、」

と、最後の一文を言い終わらないうちに、水穂は激しくせき込んでしまったのであった。

「こら、何をやってるんだ。早く最後まで読んでよ。」

「ごめ、」

と言いかけても、咳き込んでしまい、終いには口に当てた手指から、ぼたぼたと赤いものが落っこちてくるものだがら、

「バカ!手紙を汚すな!読めなくなっちゃうじゃないか!」

杉三が、無理やり手紙をひったくったため、手紙はびりびりという音を立てて、破れてしまった。


ちょうどその時。

「おーい、水穂いるかあ?メサイアの演奏終わったからさあ。ちっと息抜きに来させてもらったんだけど?」

「あ、広上さんだ。ちょっと追い出してくるわ。お前さんは早く薬のんで寝ろ。」

と、玄関先から声が聞こえてきた。杉三は、破れた手紙をごみ箱に放り投げて、急いで、玄関先に向かう。水穂は、もう座っていられなくて、布団のうえに倒れ込み、レジャーシートの敷かれた敷布団のうえでせき込むしかできなかった。

「なんだよ、広上さん。もう容易く来ないでくれないかな。」

杉三がちょっと強い口調で言うと、

「何だ、せめて五分くらいでもいいからさあ、あわせてもらえないかなあ?水穂にメサイアがうまくいった事、それと、浩二君と友紀君はよい相棒になったという事を報告したいんだが。この三つだけならいいだろう?」

「だから、水穂さん今大変だからよ。来ないでもらえないかなあ!」

「大変だからと言って、全く話せないわけじゃないだろう?なんで俺は罪人みたいに、こうして追い出されなければならないんだろう?」

広上さんは、首を傾げた。

「じゃあ、見せてやるよ。これを見れば、二度と来ないでと言った意味が分かるんじゃないか?」

杉三は、でかい声でそういい、

「入れ!」

と、指示を出した。広上さんは、お邪魔しまあすといって、靴を脱ぎ、改めて中に入っていったのである。

暫く、鴬張りの廊下を歩くと、四畳半からせき込んでいる音がした。広上さんは、何の迷いもく四畳半のふすまを開けてしまった。

「おい、水穂、いるか?」

返答はなかった。

その代わりにせき込んでいる音しか返ってこなかった。顔の周りのレジャーシートは、咳き込んだ時に一緒に出てくる内容物のせいで真っ赤に汚れていた。それは、本当に真っ赤というのがふさわしい表現で、白いレジャーシートに対し、なんだか日の丸の国旗みたいに見えた。

「やれれ。また派手にやったな。こらあ、春になってもレジャーシートは取れないだろな。ちょっと硬いけれど、我慢してくれって行ったけど、これでは、取れないなあ。」

杉三が、そんなことを言いながら、吐瀉物を雑巾で拭く作業に取り掛かる。

「おい。お前さんも手伝ってよ。歩ける奴にやってもらいたいのよ。」

「は、はい。」

広上さんは仕方なく、杉三から雑巾を受け取って、吐瀉物を雑巾でふき取った。吐瀉物は、生臭くて、なんだかこの部屋は、魚屋にいるようだった。

「水穂、大丈夫か?どこか痛いところでもあるのか?」

「疲れているんだから、もう声掛けはしないでやってくれ。もう腕すら上げる体力もないんだよ。」

広上さんは声をかけるが、杉三にそう阻止されてしまった。

「なるほど、其れもできないのか。それじゃあ、大天才もここで終わりかなあ、、、。」

「だから、天才はいないのさ。でも、天才は忘れたころにやってくる。それを忘れないで、早くそっちに目を。」

「なんだよ杉ちゃん。その天才と天災では意味が違うよ。」

「いや、僕は少なくとも同じ意味で言ったが?」

杉三は、なぞかけでもするように言った。

「そうか。わかったよ。」

広上さんも少し考えて、何のことを言っているのか理解してくれたようだ。それでは、そうしようとすぐに頭を切り替えられないのが、悲しい話だが、、、。

「あと、もう一個お願い。蘭には知らせないでくれるかな?」

「そうだな。杉ちゃんの言う通りだ。蘭にこの有様を見せたら、絶対驚いて、すごいことをしようとするから。」

広上さんは、せっかくの新コンビも解消かなと思い、またがっかりするしかないと思った。

「頼むよ。杉ちゃん。俺、何もできないけどさ、できるだけ長く、長く、長ーく、こっちにいてくれように、杉ちゃん、しっかり看病してやってくれよ。」

「おう。僕は、馬鹿なので何もできないけどな。」

広上さんは、とりあえず顔の周りに付いた吐瀉物をすべてふき取り、水穂の体に布団をかけてやった。

水穂が少し体を震わせたため、

「もう一枚かけるかよ。」

広上さんは、フランネルのかけ布団もかけてやる。

「最近寒さに弱くなってこまるだよ。熱はないんだけどね。なんだか寒いと訴えて目を覚ますんだよね。なんだろう。もうすぐ春なのにな。」

「まあ、こんなに瘦せぎすになってしまったから、骨と皮だけで、寒いんだろ。」

と、杉三の発言に、広上さんは付け加えた。

「じゃあ俺、楽譜屋に寄るから、ひとまず帰るけどさ。できるだけ水穂には、こっちに居させてもらうように杉ちゃんも工夫をしてやってくれよ。」

杉ちゃん、頼むよ。よろしくなと思いながら、広上さんは、とぼとぼと鴬張りの廊下を歩いて行った。鴬張りの廊下は、彼が歩く度、きゅきゅ、と悲しい音を立てた。


その次の日、広上さんは、合唱団方舟と、オーケストラの反省会そして練習にいった。皆こないだのメサイアが、大成功したことを心から喜んでいた。

「こないだのメサイアは、すごくよくできていたって、うちの家族も喜んでいたわ。なんだか、うるさい家族からちょっと、自立ができたような気がする。」

「うちも、なんだか聖歌隊になったみたいだったよ。そんな体験出来たなんて、私、びっくりだわ。」

と、メンバーさんたちはそんなことを言っている。

広上さんが現れると、メンバーさんたちは、口々に、メサイアを歌わせてくれてありがとうございましたと、にこやかに言った。それだけ、メサイアの歌唱は、素晴らしい体験だったようだ。

「それで先生。其では、次は何をやるんです?こないだ、また一緒にやっていくっておっしゃいまししたよね?またオラトリオというものをやるんですか?」

すっかり穏やかになった松岡さんは、次のように言った。なんだかメサイアの歌詞を読んでいると、今まで主張してきたことにとらわれてはいけないことと、説教されていたようで、歌っているうちに、細かいことは気にしなくなったという松岡さん。音楽には精神安定剤のような効果もあるようだ。

「で、次は何をやるんですか?できる限り内容は交渉なものにしてもらいたいわ。」

「そうそう。そのほうが、現実離れして、偉い人の世界が体験出来て助かるわ。」

女性メンバーたちは、次のように言った。

「今度はどんなやつでもありません。」

広上さんは、きっぱりという。

「今度は、ハレルヤコーラスを暫く練習します!」

一寸、一瞬固まってしまうメンバーさんたち。

「僕が、どうしても聞かせてやりたい人物がいるんです。もちろん、実際に聞かせるのは、無理になってしまうかもしれないが、できる限り、美しい演奏になるように、心がけろ。」

広上さんがそう説明すると、

「その人物って、どんな人ですか?」

「ああ、とても素晴らしいピアニストだけど、有る事情により、自分の存在を否定しなければ生きていけなかった。そして間もなく、地上から離れて、天人になってしまう可能性が高い。いや、そうならなければ、彼に幸福というものはつかめないのだ。だから皆でこの世はそうではないと伝えてやるために、また、彼が長年人種差別に苦しんで来た苦労をねぎらって、ハレルヤを歌ってやりたい。」

皆、なるほどという顔をした。

「きっと、その人は相当貧しくて、大変だった人なのよ!」

「俺たちよりもっとバカにされて生きてきた人がほかにもいたのかあ。」

松岡さんたちは、そう話し合って、

「わかりました。やりましょう。」

と結論付けた。

「じゃあ、とりあえず、ハレルヤコーラスを歌ってみてください!」

広上さんは指揮棒を振り上げた。

全員、ワトキンスショウ版の本を広げて、ハレルヤを歌い始めた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

本篇21、思いのたけ 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る