第八章

第八章

今日も、合唱団方舟の練習のため、皆、原田公民館に集まった。でも、みんな嫌そうな顔をした人ばかりだ。みんな、高瀬さんに対する不信感がそれだけ強いのだろう。

「えーと、今日も皆さんと、一緒に、練習していきたいと思います。まずは発声の基礎をやりましょう、、、。」

そう細々と呟く高瀬さんだが、それでは、と言って動き出す人も少なくなった。みんな高瀬さんの事を信用しないという気持ちが見えている。

それでは、練習にならないというか、まず第一に、お話にならない。それではまるで、いう事を聞かない高校生のよう。

中には、携帯電話で、電話をしている参加者もいた。

ああ、どうしようと、高瀬さんは思う。これでは、何も練習にならない。

それではいけないと思っても、高瀬さんは、困ってしまう。

だって、こういうようになった集団を動かすことは、何も経験したことがなかったのである。人間、経験しないと技術は身につかない。

まるで松岡さんたちは、どうだ、俺たちを動かしてみろ、こんな人間を動かすことはできるか?とでも言いたげな顔をしている。もしかしたら、幼児がわざと反抗するが、それは大人の反応を見るという、理由がしっかりついているという。其れと同じかもしれない。

もう僕はダメかなあ、、、。と思いながら、高瀬さんは、汚い声で歌っている人たちをじっと見た。

もう、彼らが自分に従ってくれるときは二度とないだろうか?

と、その時だった。

ガラッと、音楽室のドアが開く。

高瀬さんが後ろを振り向くと、そこには、一人の男性と、車いすの女性がいた。

「友紀君!」

一人のメンバーさんが、その少年が誰なのか、すぐにわかったらしい。まさしく友紀君その人だった。

「友紀君!やっとこっちに戻ってきたんだね!もう悪い人たちに付きまとわれることはないように、ずっと一緒にやっていこうね!」

中年のおばさんたちは、おばさんたちらしく、友紀君を受け止めた。友紀君は、首周りに包帯を巻いている。

「一緒にいるのは、佐藤財閥の、お嬢さん?」

松岡さんが、あれれ?という顔をして、そういった。

「一体どういうことだ。佐藤財閥の、とんでもないお嬢様として知られていた、佐藤絢子さんが、なんで俺たちのところに来るんだよ!」

「まさか、あたしたちの事を乗っ取りに来たんじゃないでしょうね!」

先ほどのおばさんが、でかい声でそういうと、

「おう、乗っ取りに来たのさ!それではいけないだろうか!」

そう言いながら、音楽室に入ってきたのは、広上さんであった。

「高瀬さんから、皆さんのお話は聞きました。もし、可能であれば、というか、半分強制的ですが、これからはうちのオーケストラと一緒に、練習していただきます。曲はヘンデルのメサイアです!楽譜は、ワトキンスショウ版。ビリオン楽器ではなく、モダン楽器での演奏になってしまうのが誠に残念ですが、それでもキーを下げてビリオン楽器に近い状態の音を出させますので、それで我慢してください。それでは、皆さんにはただいまから富士市民会館に移っていただきまして、練習を開始しましょう!」

広上さんがそういうと、音楽室はざわついた。

「よかったわ。これで本格的な歌が歌えるじゃない。」

「一度やってみたかったのよ。ワトキンスショウ版なんて、確か、一番権威がある楽譜よね。それを使わせてもらうなんて、ありがたいわ!」

音楽にある程度詳しいメンバーさんたちは、そんなことを言うが、

「何だい。そんな道徳的な歌なんか歌って。そんな歌なんか歌って、何になるんだ。それでは、俺たちを、オーケストラに売り渡したようなもんだろう。俺たちは、まるで商品みたいになっている!」

「俺たちは、やっぱり偉い人にとっては、自分のやりたいことを完遂するための、道具に過ぎないんだ!」

男性のメンバーさんたちは、そういうことを言っていた。やっぱり男性は、地に足をつけて働いているという自負心があるためか、どうしても頑固なところがあるようであった。

「それにワトキンスショウ版なんて難しい楽譜を与えやがって。それほど俺たちをバカにして、何になるんだ!」

やっぱり日本人であれば、変な横文字を与えられると、カッコいいと思う人もいるが、この松岡さんのように、抵抗感のある人もいるようである。

「まあ確かに、ワトキンスショウ版は一番難しいですよ。俺、別の合唱団がメサイアやっていた時、聞かせてもらったことあったけど、本当に難しいですもの。初心者用と言われているべーレンライター版よりも、音が多くて、すごく難しいって、その団員さんは言ってましたよ。」

一寸音楽に詳しいメンバーさんが、そういった。

「たしかにそうかもしれませんが、ワトキンスショウ版は、一番やりがいのある楽譜であるのも確かです。」

と、高瀬さんは、そう付け加える。

「しかし、その決め手は誰が決めたんですか!高瀬さんと、アンタ、いつの間に俺たちを売り渡すって考えていたんだよ!なんでそうなっていたって、俺たちに伝えてくれなかったんだ!」

松岡さんの怒りは頂点に達したらしい。松岡さんは、それが一番の怒りであったようだ。自分たちを、広上さんに売り渡したという事が、何だか大きな裏切りと言うか、偉い人は勝手すぎるというか、もうどうしようもないというか、ある意味では悲しいことでもあった。

「皆さん、もう、いがみ合うのはやめにしませんか?もう、誰のせいだとか、そういうことはなしにして、受け入れてくれませんか?」

みんなが怒りでぐちぐちと何か言っているさなか、一人の女性の声がした。

全員、声を抑えて黙り込む。

「佐藤さんのお嬢様、、、。」

あの松岡さんでさえも、黙ってしまった。たしかに顔を見ると佐藤絢子さんなのだが、もう、昔の彼女とは、偉い違いである。

「もう、指導者と、皆さんで喧嘩をするのはやめにしましょう。それよりも、こんな素敵な曲、やらせてもらえるんですから、しかも、今までの中で最高峰の版で。それを喜ぶべきではありませんか?」

静かな、でも、きっぱりした声で、絢子は言った。

「喜ぶって、俺たちは、売られたんだぞ!」

松岡さんが吐き捨てると、

「でも、それは、売られたのではありません。ただ、一緒にやろうと提案してくれているだけです。それに、オーケストラの人たちも、喜んでいます。やっと合唱付きの曲をやることができたって。その喜びは、皆さんが提供したことになるんですよ。それでいいじゃありませんか。皆さんも、もっと喜ばなければ、、、。」

絢子は、静かに説明した。

「でも、俺たちは、指導者にも二度裏切られて、やっと新しい高瀬さんという指導者に会えたと思ったら、今度は正反対とも言える発声方法を強いられる!どういうことだ!と思っていたのに、、、。」

「裏切られたんじゃないわ。音楽はずっと、味方になってくれます。現に、ある方に聞きました。あなたたち、指導者だった、稲葉という方と軋轢が出たんですってね。それではいけないというので、小屋敷という、ベルカントの奏者を、こちらに指導者として呼んだ。」

「そうだよ!」

松岡さんは、彼女の話に、そうでかい声で返した。

「そうだけど、あいつは、一度ある福祉施設で慰問演奏をさせて、そこで大好評を得たのを皮切りに、平気で訳の分からない難しい曲をやらせるようになって、、、。」

松岡さんの話は悔しそうだ。

「俺たちは、一生懸命あいつについていこうと思ったさ。俺たちは、もともと、楽しんでやればいいと思っていたが、あいつにあおられて、本格的な合唱曲という物をやらせてもらった。心の四季とか、私の願いとか、酷いときには、ひたすらな道みたいなそういうやつもやったよ。もちろんベルカントの発声というのは、それはそれは難しくて、ついていけないこともあった。中には、なんでそんな汚い声をと言われた奴もいる。俺たちだって注意した。でも、あいつは、それをやめなかった。俺たちは、だんだんあいつが見栄を張るための道具になっていると思うようになったんだ。それは、こないだの合唱コンクールでひたすらな道を歌ったときに頂点に達した。あの時の小屋敷は、それはそれは幸せそうで、終始にんまりとした表情だった。この時、小屋敷が優秀指導者賞という物をもらってね、それで俺たちは確信したよ。あいつは、本当に、俺たちに歌を教えようとしているわけじゃない。俺たちは、あいつが、人前でかっこつけるための道具だって!そして、その数日後、小屋敷がイタリアに留学すると言い出した。その時は、もう俺たちの事なんてどうでもいいっていう感じの口ぶりだった。ああ、もうあいつは帰ってくることは二度とないだろうなと思ったよ!」

「松岡さん、それは若いから仕方ないんだよ。」

方舟の中で、最年長と呼ばれている鳥居文也爺さんが、静かに言った。

「若い奴というものは、どうしても感情が顔に出てしまうものさ。優秀指導者賞をもらった時も、うれしいのが顔に出てしまうのは、仕方ないことだろう。それに彼は、イタリアに行く前、必ず帰ってきますといって、その代理人として、高瀬さんを送ってよこした。そうやって彼なりに対策をしっかり施してくれたんだから、それでよしにしようじゃないか。」

「しかしそのせいで、今までの発声は全部没になって、すべてやり直すことを強いられたんだぞ!俺たちは、買われた身と同じようなものだ!」

「いや、松岡さん、若い奴は、多かれ少なかれ間違いはするさ。それはしかたないと思って、受け入れるべきだよ。それに松岡さん、アンタは、そんなに発声法が変わったことを、恨むのかね。その裏には、もしかしたら、自分がトラックの運転手であることに、劣等感を持っているんじゃないのかい。それを、公に持ち出すのは、いけないことだよ。松岡さん。」

鳥居爺さんに言われてしまって、松岡さんは悔しそうな顔をして黙った。でも、その顔は本当ににくたらしくて、たまらないといった表情である。

「そうだが、、、。」

「松岡さん。人間誰でも劣等感を持って生きているさ。それを音楽することによって、解消したいという気持ちはわからないわけでもないよ。だけど、それは公の事と混同してはいけない。それは、いいないことだから、、、。」

なぜいけないんだろう、と思う。こういう劣等感とか、そういう事を、胸を割って話せることができたら、もうちょっと、体も心も楽になるという事もできるはずなのに。でも、人間誰に対しても自分が大切すぎて、こういう弱いところは、見せないというか、見せてはいけないことになっている。それが、もし、なんでも口に出して言える社会であったら、変な轍を残してどうのこうのという事もないだろう。

其れなのに、むりなものは、無理なのである。

そうして、公の場にこうして言動に表す。

それが人間である。

「松岡さんとおっしゃいましたよね。」

不意に、絢子さんが発言した。

「松岡さん、あなたはトラックの運転手をしているんですってね。それは確かに偏見の多い仕事であることはたしかですよね。だからそれを歌を歌って解消したい。それを全面的に押し出してここで一生懸命やって来たんでしょうけれど、あなたには別の理由があったのではないですか。それがあったから、高田三郎の歌だって歌えたんじゃないですか。それは、歌を歌うのが楽しいという理由だったからですよ。いいじゃありませんか、それが、高田三郎あっても、ヘンデルであっても、同じことではないかしら?」

「そんな気持ち、とっくに忘れたよ。」

松岡さんはぼそっと言った。

「みんな、誰でも劣等感というのは持っていると思います。これさえあれば、なんでもできるのにと、思ってしまう劣等感。だけど、それを取り去ることはどうしてもできないですからね。だから、歌を歌って、声を出している時だけは別のじぶんになりたいって気持ちはだれでもありますよ。それがあるからこそ、歌を歌うのは楽しいんです。広上さんたちも、それはよく知っています。だから、皆さんにその場を提供して、やってみないかと言っているんです。決して強制とか、裏切りとかそんなことはしないと思います。そりゃ、人生長いですから、一度や二度は、失敗することもありますよ。でも、三度目の正直で、やっとこうやって本気で歌える場所を作ってあげたいという人が、現れてくれたと思ってください。皆さんにできることは、その提供してくれた場所で思いっきり歌うこと。それじゃありませんか?」

「絢子さん、、、。」

一人の女性メンバーがそんなことを言った。

多分、みんなの気持ちの中に、このセリフが入っていったのは、絢子さんが歩けなくなっていたからかもしれない。なぜか、絢子さんの言っているセリフの通りにしようと誰でも思ってしまったようだ。だれも、松岡さんでさえも、反論はしなかった。

「絢子さん、変わってしまわれましたね。前の佐藤財閥の娘ではなくて、もうなんだか、すごい人になっちゃったみたい。」

ある中年おばさんが、そんなことを言った。

「いいえ、私がダメな人間だっただけです。こうして歩けない体になって、やっとこういうことがわかりました。そう考えると、人生、なにが失敗で、何が成功なのか、はっきりわかりはしませんよ。」

これからの絢子さんは、ますます必要な人になっていくんだろうなと、皆思った。

「よし、やろう!どうですか。皆さん、一緒に来てくれませんか!」

絢子さんの発言に、広上さんが便乗していった。なるほど、と、みんな出かける支度を始めた。高瀬さんはやっと救いの神様が来たと涙を流して泣いた。

「その前に、メサイアの楽譜を配りますので、皆持って行ってください!」

一人一人の手に、メサイア、ワトキンスショウ版の楽譜が渡される。皆、にこやかな顔をして、それを受け取っていった。

そして、みんなそれぞれの車に乗って、富士市民会館まで異動していくのだった。

友紀君は、広上さんと一緒に、福祉タクシーに乗せてもらった。


「お前さ、音楽学校行こう!」

広上さんが、市民会館に向かうタクシーの中で、再度そんなことを言ってきた。

「もう、いいじゃないか。過去にどんなにひどいことを言われたとしても、さっき佐藤絢子さんが、そういっていただろう。今が良ければ、今与えられたものを精一杯やればいいって。それでいいじゃないか。」

「そうですが、、、。」

まだ、躊躇している友紀君。

「高瀬さんだって、音楽学校受験に向けて、一生懸命レッスンをしたいと言っている。それに、あの浩二っていう男も、喜んで伴奏役をしたいそうだ。こうして、音楽学校に行けるための道具は全部そろった。お金の心配があるのなら、高瀬さんは、格安でレッスンしてやるって、しっかり言っていたぞ。」

「でもやっぱり、音楽のせいで、家が崩壊した時もあったことは事実ですし、、、。」

友紀君はそこを、一番気にしているようだった。

「あの時、家を崩壊まで導いてしまったのは僕で、それはやっぱり、僕が音楽をやりたいと言ってしまったのが原因なんですから、それはもう繰り返したくないと、、、。」

「そう、あなたは、学校で酷いことを言われて、傷ついているのね。」

不意に、車いすのままタクシーに乗り込んでいた絢子さんが、にこやかに優しく言った。

「でも、そう思うのなら、今のことを考えてみて。今はもう、学校も終わっているんでしょう?そういった人はどこにもいないわよ。そうして代わりに、あなたのことをたくさん応援してあげようという人たちが、こうして、あなたに声をかけてくれている。まわりは確実に変わっている。人間、其れさえなければという過去というものは持っているけど、今はそれとははっきり違うじゃない。過去には戻れないとよく言われるけれど、逆を言えば、戻る必要は無いってことよ。それは周りを見ればわかると思うわ。」

絢子さんの解説に、おう、俺もいるぞ!と広上さんは得意げに自分を指さした。

「そうですね、、、。」

「ご家族に、反対する人がいるとか?」

「いえ、それはいませんでした。僕が広上先生から推薦をもらったと言ったところ、父も母も、喜んでくれました。やっぱり僕が音楽を勉強してほしいんだなと、すごくわかりました。」

友紀君はそこははっきりと答えた。

それは、割とわかりやすかった。父も母も、自分が音楽学校を受験できなかったことに、責任というか、罪悪感をもって生きていたようなのだ。それは友紀君にとって、ちょっと驚いた出来事であったが、親であれば、誰でもそう思うものである。特に、今の親なら一層の事である。

「なあ、みんなそういってくれているんだから、音楽学校、行こうよ。俺は、なんだかそんないい声をしていると、もったいなくてしょうがないよ。」

もう一回いう広上さんに、

「でも、音楽学校は就職先が、、、。」

友紀君は、高校でさんざん言われてきた言葉を言った。

「まあ、それはたしかにそうだが、、、。」

「いいえ、生きようという意思さえあれば、どんな仕事でも徹すれば必ず生きられる。あたしは、まず体を壊した時に、それだけを続けようと試みた。だから、正直に言えば生きているのなんて嫌だとおもったこともあったけど、そうじゃなくて、生きようと思った。それで今の私があるの。もし、就職がどうのとか、そういう心配があるんだったら、まず生きようと思ってよ。それを感じることが一番大事なのよ。人間って、強そうに見えるけど、実はほんとに弱い動物でね、体のどこか一部でも欠落すれば、すぐに一大事になるのよ。それは、本当のことだから、そこを忘れないでいてくれれば、

きっと生きていかれるわ。」

広上さんの言葉をさえぎって、絢子さんが言った。

その言葉のほうが、広上さんの言葉よりも、もっと暖かみがあり、そして、厳しかった。

隣の広上さんでさえも、こんな発言は自分にはできないだろう、もし俺が軽々しくこれを口にしたら、ペーターくんにわはははは、わはははと笑われそうだと思ったほど厳しかった。

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