第七章
第七章
一方、原田公民館では、今日も合唱団方舟の練習が行われている。というより、方舟のメンバーさんの信頼を取り戻すため、高瀬さんは苦戦していた。皆、発声の違いから、高瀬さんのほうを振り向いてはくれないのだ。
「えーと、近日、春の合唱祭というものが富士市で行われます。それに参加したいのですが、皆さんどうでしょう?」
高瀬さんは、そういってみんなに目くばせをしたが、皆黙りこくってしまって、何も言わなかった。
「どうでしょうか。なにか意見のある方はいらっしゃいませんか?」
それでも黙ったままである。
「例えば、やってみたい曲や、どんなステージにしたいとか、何でも結構です。何か意見を出してください。」
「意見なんてあるもんか。あんたらは俺たちのことを、どうせ自分の向上心のための道具としか見ていないんだろ?」
三度、高瀬さんが意見を求めると、松岡さんがみんなを代表してそう述べた。そこが子供の合唱団とは違うところと言える。子供は階級も何も関係なく、先生が言っているところであれば、何も文句を言わずにしたがってくれるが、大人はもうこの人がどんな人物かとわかると、従いたくないという感情が現れてしまう。それは、成長していくにつれて、人間は階級があると知ってしまうこと、そして、
人間が生きていくためには、なにが必要なのかをはっきり知ってしまうからだった。
「そんなことありません。皆さんのことを道具だとは、これっぽっちもありませんから、どうでしょうか、意見を出してください。」
「思えば、あたしたちは、昔は、稲葉さんの道具だったわよね。」
一人の女性メンバーがそう高らかに声を上げた。
「それが、今度は小屋敷とかいう、あの若造の道具。あの人は発声ばっかりうるさくて、あたしたちのことを考えてはくれなかったわ。そして、あの人はあたしたちを置き去りにして、イタリアに留学し、今度は、あなたの道具になるの?そんなこと、まっぴらごめんよ。」
別の女性がそういうと、
「そうだよ、こないだまでさんざんやらされていた発声と正反対のものをやらされるなんて、俺たちは、いったい、何のために音楽をやってきたんだ。偉い人ってのは、自分の技術を人に押し付ければいいと思い込んでいるらしいが、俺たちだって、その以前にいろんな経歴があるのを忘れないでくれ。」
と、ある男性メンバーが言った。
「それともあれか?俺たちの経歴は、軽すぎてお話になりませんってか?」
みんなの話をまとめるように、松岡さんが言うと、
「まあまあ、わしらはもともと喧嘩を売りにするのではなく、音楽を楽しむために集まったんだから、そんな硬い話はやめましょう。」
鳥居さんが、みんなをなだめるように言った。
「いいや、この際だから徹底的にやろうぜ。俺たちは、すでに二回も見捨てられているんだ。この怒りをどこに向けたらいいのか。俺たちは、もちろん偉くないが、音楽をしたいという気持ちは十分にあるはずなんだ。それを偉い奴は、こうしてバカにしているんだぜ。」
松岡さんは、まだ、宣戦布告を続けたいようである。
「そうよ、それに、あたしたちにとって、大事な友紀君まで取り上げて、大物歌手にしようなんて、ひどいものだわ!」
先ほど、まっぴらごめんと言った、例の女性が、そう発言すると、数人の女性メンバーが拍手をした。
それくらい、方舟のメンバーたちの、偉い人への不信感は、非常に強いようなのだ。どうしてここまでこじれてしまうんだろう。
「ねえ、高瀬さん。友紀君が高校時代にされたようなひどいこと、されたことないでしょう?どのくらいひどいことされたのか知っている?あの子、学校の先生にね、音楽学校目指すなら、今すぐここから飛び降りて死ねって、自殺のまねごとをさせられたのよ。その時どんなにつらかったと思う?酷いでしょう?ただ、同情するだけじゃ、解決することはできないくらいの大きな傷を残したのよ。友紀君!」
母性本能の強い女性のメンバーが、そう発言した。
「そんな子を、わざわざ音楽学校に入れてさ、また同じつらい思いをさせるなんて、どう見てもかわいそうすぎると思わない?それとも偉い人は、そんなこともお金で解決できちゃうから、わからないかしらねえ!」
隣の女性メンバーが、彼女に続いて話す。
「今日も友紀君、来ないわね。」
「きっと来れば、自分のせいで、もめ事が起きちゃうってわかってるから来ないのよ。かわいそうね。このままだと、彼の居場所は永久になくなっちゃうわ。そうしたらどうなると思う?今の若い子は、どんどん死んでくわ。昔のように、一生懸命生きれば、何かご褒美が出るっていう時代じゃないのよ、今は。あたしたちは、ただの下層市民だから、制度を作ってどうのこうのはできないけど、幸いそれに対して文句が言える立場でよかったわね。ただ、偉い人は何時まで経っても気が付かないようだけど。」
「とにかくな、友紀君も、かわいそうだし、このままでは俺たちも、アンタには従いたくはない。少なくとも、アンタたちが、俺たちを、虫けらではなく、アンタたちと同じくらい価値がある人間として見てくれるまでは!」
女性メンバーが友紀君のことをそう話すと、松岡さんは、リーダーらしくそういって話をまとめた。
どうして、伝わっていかないんだろう。高瀬さんは、松岡さんたちを虫けらだと思ったことは一度もない。ただ、自分の持っている発声法を説明しただけの話だ。其れなのに、説明すればするほど、松岡さんたちとの溝は、深まっていくような気がするのだ。
結局、そのガチンコバトルで、話し合いは終わってしまった。もう、ありがとうございましたと言って、帰っていくメンバーさんを見て、高瀬さんは泣きたくなってしまったほどである。
結論から言ってしまえば、メンバーさんたちは、音楽をしたいという気持ちは人一倍ある。だけど、それをくみ取ってもらえず、いろんなやり方を押し付けられるから嫌なのだ。でも、高瀬さんはベルカントという歌い方はまるで知らない。そうなると、若い人がもうちょっと、自分の持ち場にやりがいをもってくれればいいのだが、どうしても若い人は、自分が自分がと考えてしまうのである。
言ってみればそれが若さという事なんだけれど。
なんだか音楽って、全部学ぼうとして、その成果を発揮し、人に教えるのは年寄りになってから、と法律で義務付けたほうが、こういうトラブルも、起こらないだろうなと思った。
あーあ。と思って、高瀬さんはまた肩を落とした。
これではいつまでたっても、メサイアを課題曲として出せない。いくらドイツリートのすごさをみんなに伝えようしたって、こういうガチンコバトルに至ってしまい、そこまでたどり着かない!
「僕は無理なんかなあ、、、。」
ほかの人だったら強引に持って行ってしまう人もいる。そのほうが権力者らしくてかっこいい!と称賛する人もいるだろう。でも、高瀬さんは、そんなことはできなかった。というより、力で抑え込んでしまうのは、嫌いだった。
其れよりも、相手の発言に大して、自分が考え込んでしまうタイプだったから、どうやったらメンバーさんたちがこっちを向いてくれるかを考えてしまう。でも確かに、松岡さんたちの怒りも一理あることにはあった。ただ音楽が好きでやりたいと思って集まってくれた人たちに、いきなり発声を変えろなんて言ったら、そりゃ、怒るのはわかる。それをどうやって信頼を取り戻したらいいのか。その一つとして、友紀君を、何とかしてみようと思ったことは確かだが、これでは無理かと思った。
悪いことはつながっていき、良いことは途切れてしまうものである。人生とはそういう物だ。高瀬さんが道路をぼんやり歩いていると、彼のスマートフォンが鳴った。
「はい、高瀬ですが?」
ぼんやりとした声で高瀬さんは応答するが、相手の声を聞いて、ひっくり返りそうな衝撃を受けた。
「あの、竹田友紀の母親です。今日友紀が自殺しようとしました。」
な、なんだ!高瀬さんは、声を上げて叫びたくなったが、ぐっとこらえる。
「で、友紀君は、今どこに?」
「ええ、とりあえず精神科に連れて行きましたが、意識もあり、特に命に別状はありませんので、それで返されました。でも、私が見たときは懺場でした。浴室にはいって首を切ったらしいので、、、。」
首!それでは声帯に影響は及ばなかったのだろうか?でも、首を切ったという事は、相当死にたい思いがあるに違いない。
「それでは、声に関しましては大丈夫なのでしょうか?」
高瀬さんは思わずそんなことを言ってしまった。その発言の直後になんてことを言ったんだろうと思った。もし、本気で友紀君のことを思っていたら、そんなことを言わずに、友紀君の命について話すはずだった。母親が、命に別状はないと言ったことで、調子に乗りすぎてしまっただろうか?そうなるとやっぱり自分は友紀君のことを本気で思って、音楽学校に行けと言ったのではなかったのだ。きっと、松岡さんの言う通り、「向上するための道具」としか見ていなかったのだろう。
「友紀は、命については大丈夫です。先生が、せっかく音楽学校へ行ってみないかとお誘いくださいましたのに、それを裏切るような真似をして、本当に申し訳ないことをしました。」
と、母親は言っている。どうしてそんなことを言うのだろう。友紀君からしてみれば、其れしか意思を伝える手段がなかったのだろうし、それをしただけのことだ。そして、僕は、彼の意思を読み取ってやれなかったのだ。
「いいえ、謝らなきゃいけないのは僕の方です。」
高瀬さんは、正直に答えた。
「先生が謝る必要はありませんよ。私が、不行き届きで友紀がバカな真似をしたのですから。」
「いいえ、お母さんのせいではありません。お母さんが、友紀君を動かすわけではないのですから。それに、友紀君のしでかしたことをバカな真似とは言わないでやってください。あれは、彼の出した結論なんですよ。結論として、彼はこの世と、さようならすべきだと思っているのです。」
母親は暫く黙ってしまった。
「悪いのは、僕たちだとこの際ですからはっきりと認めてやりましょう。それで、もう一回友紀君とやり直してみませんか?」
こういうところを、高瀬さんは、しっかりとしなければだめだと思った。
「きっと彼は彼なりに一生懸命やったんだと思います。でも、彼には時間も経験もないので、間違った方向に進むこともあるでしょう。それだけのことにしてやりましょう。助かっただけよかったじゃないですか。今は、彼のことを責めることもなく、謝罪をすることもなく、ただ、抱きしめてやってください。」
とりあえず、指導者らしく、そういうセリフを言ったのだが、高瀬さんだって心の内ではないてしまいたいくらいだった。そして、なぜか高瀬さんはそれを隠す能力は持っていない。最後のただ抱きしめてという文書を発言した時には、もう涙が止まらなくて、たまらなかったのだ。
「先生が、そんな風にうちの子のことを思ってくださってうれしいです。もっと、もっと、本当にもっと早く先生に出会っていれば、こうはならなかったかもしれない。」
母親はそんなことを言っている。それが、正直な感想なのだろう。それが示すように、友紀君は、学校でさんざんひどいことを言われてきたに違いない。
「出会うに早いも遅いもあるものですか。今出会えたのだがら、それでよかったことにしましょうよ。今、こうして出会えたのですから、そこからやり直していくことにしましょう。僕は一生懸命彼の指導をしますから、お母さんも、もう過去のことはどうのこうのいうのはやめにしませんか。そうして、大人というものはこんなに素敵なんだってことを知らせてやりましょうよ。僕も、今すぐ、そっちへ行きましょうか?」
高瀬さんは、まるで自分に言い聞かせるように、そんなせりふを言った。最後の言葉だけ、お母さんに知らせたような気持である。
「はい。今はちょっと落ち着かないところもありますので、また落ち着いてきたら、いらしてください。」
「わかりました。必ず行きます。」
二人の大人は、こうして互いを慰めあった。大人は上の人から慰めてもらうことのできない代わりに、こうして、互いに話をしあって、慰めあうのだろう。
「了解です。それでは、その時によろしくお願いします。」
高瀬さんはやっとそれを言って、電話を切ることができた。
その数日後のことである。
首に包帯を巻いた友紀君が、今日医者の診察を受けて、診察から出てきたところ、一人の男性が、病院内の自動販売機でジュースを買おうと試みていた。しかし、どうしてもほしいジュースに手が届かない。終いには持っていた100円玉を落としてしまうが、体が曲がらず、其れも取れない。なぜかな?と思ったが答えはその近くにある診療科にあった。そこは膠原病科だったのである。
「どれが欲しいんですか?」
と、友紀君は彼に聞いた。
「はい、水、水を一杯。」
と、彼は答えた。友紀君は急いで彼の言う通り、水のペットボトルを買ってあげた。
「はい。」
それを渡すと、
「ありがとうございます。」
と、彼は答えた。何とかしてペットボトルの蓋を開けようとするが、力が入らないらしい。
「ちょっと貸してください。」
友紀君は、それをもう一度拝借して、蓋を開けて改めて彼に渡した。
「ありがとうございます。」
改めて丁重に礼をして、彼はその水をぐびぐびとおいしそうに飲んだ。水というより、命の水を飲み干しているみたいだ。
「本当にどうもありがとう。おかげさまで大事な薬を飲むことができました。」
にこやかに笑って、彼は右足に片手を添えつつ、ヨイショ、と歩き始めた。
何処へ行くのか心配になって、友紀君はこっそり彼の後を追いかける。なんだか歩きかたが危なっかしい。
彼は、病院のエントラスホールに出た。友紀君も、そのあとに付いた。どこかにご家族の人でもいないか、友紀君は後を見渡す。
不意に一人の中年おばさんに車いすを押してもらいながら、ある女性がやってきた。
「あ、こんにちは。佐藤さんのお嬢様。」
と、にこやかに彼が言った。
「お嬢様じゃありませんよ。榊原さん、あたしはもう普通の人ですよ。」
「いいえ、僕たちにとっては、佐藤さんは何時までもお嬢様です。いくら普通の人であっても、佐藤さんは、佐藤さんのお嬢様ですよ。」
榊原さんと言われたその男性は、にこやかに彼女にそう返した。
「そういってほしくないわ。」
と、彼女は言った。でも、榊原さんにとって、彼女はあこがれの女性であるようだ。それはしっかり顔に出ている。
「じゃあ、また会いましょう。」
と言って、中年女性と一緒に病院を出ていく絢子。彼もにこやかにそれを見送った。
「結構、人気があるんですね。」
友紀君が榊原さんに言うと、
「ええ、僕が、生かしてもらったのも、彼女のおかげなんです。」
と、いう榊原さん。
「彼女のおかげ?」
「ええ、おかげです。本当に彼女のおかげです。僕は、彼女に会わせてもらうがために、生かしてもらっているようなものです。」
にこやかに榊原さんは言った。
「どういう事ですか?」
「いや、本当に彼女のおかげなんです。だって僕、病院では、こうして面倒を見てもらえますが、それ以外のところでは、ただのゴミです。本当ですよ。一銭の富も生み出せない、ひまさえあれば、人に手立てを出してもらって、それでやっと生きているんですよ。薬を飲んで体調を維持していくだけで精いっぱいですし。ほら、自動販売機でお水を買うにも、其れすら自力でできなかったでしょう?それでは、僕、何もないじゃないですか。本当に何のためにいるんでしょうね。僕たちは。そんなことで本当にしょっちゅう悩みましたよ。其れなのに、あの佐藤のお嬢様が、僕たちを集めて、会合を開こうなんて言い出して。僕もやっと居場所ができたんです。まあ、病院の中なので、家族にとっては病院に通うのと変わらないんですけど。」
と、彼はにこやかに言った。
「そうですか。僕も、そういうところが欲しいなあ。」
友紀君は、そういう榊原さんが羨ましくなった。
「どこか通えるというか、そういうところがあるといいですね。人間どこかに所属しているというか居場所があると、また違いますからね。」
すぐに、榊原さんが即答してくれて、もう少し彼の話を聞きたかったが、すぐに友紀君のスマートフォンが鳴った。着信ではなくメールで、いつまでたっても返ってこないから、なにをしているの?という内容である。
「親御さんからですか?」
急に榊原さんが、そう聞いてきた。
「はい。」
と、友紀君は、そう答える。
「本当は、メールするのではなくて、電話をくれればいいと思いませんか。そのほうが、より家族という気がするんですけどね。僕はね、パソコンのキーを押すことができなくなってから、毎日電話でやり取りするようになって、なんだか、そのほうがより誰かの近くにいれるような気がするんですよ。もし、あなたも何か心細いなと思ったら、メールするのをやめてみるだけでも違うのではないですか?」
榊原さんにそういわれて友紀君は、そうだろうなと思った。
「もしかしたら、やり直すとはそういう事だと思うんですよ。便利すぎた何かを捨てること、其れじゃないかな。」
「そうですね、、、。」
なんだか、難しい話だが、友紀君は、少しづつそれを実行していけたらよいなと思った。
いつも、だめと言われていた自分に、榊原さんたちは、ちょっと刺激を与えてくれたような気がした。
それはきっと、また何かよいことが起きるのではないかという、暗示なのかと思った。友紀君は、そのようなスピリチュアル的なことはあまり好きではなかったが、もしかしたら、神様の教えなのかもしれないと思った。
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