第六章

第六章

広上さんたちは、何とかして水穂に生きていてもらうよう、できることはないか、情報を集め始めた。蘭も、こればかりは本気で何とかしなければならないと思うのだが、水穂に届くという方法は思いつかなかった。はやく何とかしなければと、焦りに焦ったが、何しろ水穂と似たような境遇の人物何てどこにも居なかった。よい病院も口コミサイトで探してみたけど、どこにもない。よい薬についての情報も何もなかった。

時折、二人は顔を合わせて、それぞれの調査の結果報告をした。と言っても、毎回毎回何かあったかと互いに聞きあい、結果何もなかったと報告しあう、まるで儀式みたいな行為を繰り返すだけであったが、それでも続いたのは、それだけ、水穂への思いというものがあったからかもしれない。

「今日は、なにか見つけてきたか?」

まずは、広上さんから話を聞き出した。

「何も在りませんよ。やっぱり、病気についての説明はたくさんあるんですが、それ以外のことは何もありません。この病気にかかった人のブログなんかも探してみましたけど。本当に何もないんです。例えば、SLEなんかのブログは本当によくありましたが、膠原病を調べると、SLEが圧倒的に多く、ほかの三つについては、全く掲載されていないことが多くて、僕も実はよくわかりません。」

蘭は、がっくりとため息をついた。

「そうか、俺もそれに関しては同じなんだ。一体どうしてなんだろう?罹患者がそれだけ少ないという事だろうとは思うんだが。でも、今日は、これはもしかしたらすごい進歩なのではないかと思われる情報を持ってきた。これ何かどうかなあ。」

そういって、広上さんは、ある人物の書いた本を取り出した。

「へえ、佐藤絢子?なんだか聞いたことのある名前ですね。あ、あれ、小久保?もしかしたら、小久保先生の?」

蘭は思わずびっくりしてしまう。この本の著者は佐藤絢子となっており、補作したのは、まさしく小久保哲也先生だった。

「一体なんで、小久保先生が、こんなものを出したんですかね?」

「いや、息子は、勘当したらしい。しかし、その婚約者だった佐藤絢子さんに関しては、小久保さんは非常にかわいそうだとおもったらしいんだ。だから、絢子さんに、自身の半生をしっかり本として残しておくべきだと進言したそうだよ。まあ、小久保さんも絢子さんも、言ってみれば、小久保の息子に騙されそうになった被害者なんだから。いや、正確に言えば、小久保の元妻に騙されそうになったというべきかもしれないが、、、。」

そういえばそうだった。とんでもないお嬢様の佐藤絢子が、いわば身売りされるような形で、何の変哲もない小久保哲也の息子と婚約し、世間を騒がせたのは、記憶に新しい。センセーショナルに報じられて、絢子っは一躍時の人となった。でも、その彼女は、報道被害を避けて、どこかへ引っ越してしまったと聞いている。

「その彼女が本を出したんだ。タイトルを読んでみてくれ。これなら水穂だって、生きようと思ってくれるのではないだろうか?」

「あ、はい。やっと普通の人になれました。ですか?」

蘭は、そうタイトルを読んだが、内容が違うのではないかと思った。

「これは内容が違いますよ。広上さん。これは上流階級の女性が、一般市民に降格出来て、うれしいなという本ですよね?」

「そうじゃなくて、内容をちゃんと見ろ。」

蘭はそういったが、広上さんはすぐに否定した。とりあえず、本を取って、中身を読んでみる。

「その本にも書いてある通り、佐藤絢子は、あの破談のあとリウマチにかかり、現在は車いすで生活しているらしい。リウマチも同じ自己免疫性疾患なんだから、その絢子に頼めば何とかしてくれるのではないかと思うわけ。どうだ、蘭、これで解決策が一つできたのでは?」

そうだけど、あんな身分の高い女が、そんなことをするだろうか?とんでもないお嬢様育ちをしてきた階級の女性が、他人を助けてやろうとすることはあるだろうか?広上さんらしく、彼女の階級など、まったく関係なくしゃべっているが、彼女の家、つまり佐藤家は、蘭たちにとっては雲の上の人としか言いようのない階級である。

「しかし広上さん。どうやって佐藤絢子と接触したらいいんですかね?彼女はこの区域では、ナンバーワンと言われる大金持ちの女ですよ。そんなわけですから、厳重にボディガードがつけられているはずです。それに、一度結婚に失敗しているわけですから、悪い虫が付かないように、ひらたくいえば変な男が寄ってこないようにですか、そういう風に、厳重に保護されているんじゃありませんかね?」

蘭は思っている、現状を言ってみたが、

「バカ、この本のタイトルをしっかりと読んでみろ。やっと普通の人になれました、それをよく読めよな。普通の人が、ボディガードなんてつけられると思う?本文にも書いてあるが、束縛されなくなってうれしいとたくさん書いてあるじゃないか。」

そうか、そういう事か。蘭は、やっと納得がいった。

「でもどうやって、彼女に接触したらいいでしょう?」

「だからあ、ファンレターでも出したいとか言ってさ、出版社に問い合わせれば、いいんだよ。そういう事なら、出版社の奴だって、嫌とは言わないと思うよ。」

そうか、広上さんもさすがだ。やっぱり指揮者という職業だけあって、芸能関係の人に、接触する方法はちゃんと知っている。

「わかったか?蘭。とりあえず、それで行こう。佐藤絢子に、水穂の事、そして俺たちの思いをちゃんと話してさ、それで説得してもらうんだ。すぐに実行してみようぜ。」

「ありがとうございます。」

二人はにこやかにわらった。それを、広上さんのペットのペーター君が、バカにするようにわははは、と笑った。


富士市の有数の山間部に、安住アパートという小さなアパートがあった。丁度、富士インターチェンジから少し車で走ったところにあって、御殿場とか裾野からは通いやすい立地条件になっていた。

そのアパートの一階に、佐藤と表札が書かれている部屋があった。

今日も、一人の力のありそうな中年女性が、その佐藤と書かれている部屋に、がちゃんとドアを開けて入っていく。周りの人たちも、この部屋の主が持っている事情を知っているから、誰も彼女を不法侵入とは言わなかった。

「おはようございます。絢子お嬢さま。今日ものんびりしたいい天気ですよ。暫く雨が降る心配はないそうなので、良かったですねえ。」

部屋の中に入ると、布団で寝ている絢子が真正面に来た。

「嫌ねえ、智子おばちゃんは。まだ私のことをお嬢様なんて。私、もう、お嬢様ではなくなったのよ。そういう言い方はしないでよ。」

口調はいたって明るいが、何か寂しそうだった。

「ああ、すみません。何しろお宅に、20年以上奉公してきましたから、悪い癖がついてしまったようです。」

「ここではいいけど、外へ出たときは絶対にやめてね。という私も、完全には自立できないで、常にだれかの助けを必要とする体になっちゃったけど。」

多分、寂しいのはそのせいだろう。

「まあ、それはそうですけど、お嬢様の書いた本で、勇気づけられた人は一杯いるんじゃないですか?それで、良かったと思ってくださいよ。」

智子さんは、それでいいじゃないかという顔で、にこやかにそういったが、絢子はまだ寂しげに、

「そうね。」

としか、言えなかったのであった。

「さてと、お嬢様、今日の朝ご飯は何にしますかね。」

智子さんは話を切り替える。

「いくら嫌でも、お食事だけはしないといけないでしょうからね。それはしっかりしてくださいませよ。」

「ああ、いつものでいいわ。」

「全く、お嬢様も昔と変わりませんね。私が何か言うとすぐにいつものって言うんですね。」

と、言いながらも、智子おばさんは、すぐに朝ご飯を作ってくれた。単に、ご飯とみそ汁と、焼き魚のみの簡素なものであったが、いまであれば、これが一番のごちそうになっている。

「はいドウゾ。じゃあ、起きてお座りしましょうか。」

おばさんに支えてもらって、絢子は何とか立ち上がり、車いすに座った。そのまま車いすを押してもらって、食卓に着いた。

「いただきます。」

そういって、不自由な手で箸を持ち、焼き魚を食べ始めた。時々、食べていると箸を落とすこともある。それは必ず智子さんが拾った。もう、絢子は一人で食事をすることはできなかった。

「えーと、今日のスケジュールですが、午前中に出版社の方が、打ち合わせに来るんでしたよね。あの本の続編の内容ですか。」

「そうね。」

と、絢子は一つため息をついた。

「あら、どうしたんですか?具合でも悪いのですか?」

「いいえ、そういう事じゃないんだけど。」

絢子は、寂しそうに笑う。

「出版社の人たちは、あたしのことばかり聞きたがるけど、そうじゃなくて、あたしは、参加している会合の人たちのことを書きたいのよ。」

「はあ、そうですか。でも、お嬢様だって、沢山つらい思いをしてきたんですから、それを世の中に知らせてあげたいと、出版社の社長さんは言っていましたよ。まず初めは、社長さんの思いに答えてやることのほうが先ではありませんか?社長さんだって、こんな本を出したいなという思いはあるはずですしね。会合の人たちのことを書くのは、そのあとでもいいのではないでしょうか?」

智子さんは、一生懸命絢子を励ましたが、絢子は、まだ、自分の中で納得がいかないのだろう。このように話をつづけた。

「そうなんだけど、あの会合に出ている人たちには、部屋から一歩も出られない人だってたくさんいるのよ。中には、大掛かりな車に乗って、やってくる人たってたくさんいるわ。其れを使うのに、何十万もかかるそうだけど、会合があるから生きていようと思うんですって。私は、おばちゃんの助けがあれば生きられるけど、その人は、何十人もの助けが必要なのよ。それでも生きたいって言っている気持ちをあたしは、本にしてみたいわ。それはいけないことなのかしら。もちろん、誰かに代筆してもらわないとかけないことくらい、私は知っているけど。」

智子さんは、お嬢様も他人のことで悩むようになってくれて、ずいぶん成長したなと思いながら、鼻をかんだ。

「それからね、あたし自身も、会合ばかりではなくて、どっかで習い事やりたいのよね。本の印税でかなりお金もたまったし。できれば好きだった音楽関係を習ってみたいわ。やっとだれにも邪魔されないで、すきなことがやれるようになったんだから。でも、もう手も指三本しか動かないし、足もだめだし、もう何も習えないかしら。」

たしかに、病院で患者が閉じこもりにならないようにするための、会合というものが行われているが、

絢子はこれに必ずと言っていいほど出席していた。でも、衣食住はすべて智子さんに頼りっぱなしだし、極端に言えば、病院と部屋の往復しか彼女は外出していなかった。大体が閉じこもりになってしまう、患者さんに対して、何かを習ってみたいという事は非常な進歩なのだが、たしかに彼女のいう通り、手の指三本しか自由がない状態では、どこにも行けないという事もまた、確かだった。この世界、そういう人が社会参加できる場所は、本当に限られてしまうのである。

「そうですね、お嬢様は、もともと勉強熱心で、一生懸命やってましたからね。その精神だけは、忘れないのですか。」

と、智子さんは感慨深く言った。

「でも、この生活では、お嬢様のその精神でさえも、捨てなければいけなくなるかもしれませんね。」

智子さんが隣を見てみると、絢子は、右手の使える指三本を頑張って動かして箸を持ち、何とかして、焼き魚を食べようと努力しているのだ。

「そういう努力家なところは、やっぱりお嬢様ならではですね。」

智子さんは、かわいそうだと思いながら、ほっと溜息をついた。

何とか、心だけは今までと変わらない向上心を持ち続けてもらいたかった。


「おはようございます!」

部屋のインターフォンが鳴って、いつも通り、出版社のおじさんがやってきた。丁度二人はテレビを見ているところだった。こういう重度の障害を持っていると、テレビは非常に貴重な娯楽道具なのだ。

しかし、いつもは一人で来るはずなのに、今日は、なぜか、

「佐藤絢子さんのお宅でいらっしゃいますでしょうか。わたくし、指揮者の広上鱗太郎と申しますが。」

「ぼ、僕は、伊能蘭と申します。」

と、二人の人物がやってきたのである。

「いやですね、先生。今日はどうしてもこのお二方が、先生に会いたいと言っているものですから。それではと思いまして、こちらに来てもらいました。」

と、編集者が紹介すると、蘭は縮こまって礼をした。

「あら、いいじゃないですか。お嬢様、じゃなくて絢子さん。ファンの人が二人も見えてくれたんですから。」

中年のおばさんらしく、智子さんはそんな発言をした。

「はい、もちろんです。佐藤さんの本、たまたま駅前の本屋で買って読ませてもらいましたが、非常に感動してしまって、それでお礼をしにまいりました。」

「あら、そうかしら。」

絢子は、広上さんの発言に、ちょっと疑いを持つように言った。

「なんでですか?」

広上さんもちょっとムッとする。

「そうじゃなくて、広上さんは、もともと有名な指揮者でしょ。そういう人が、私の書いた本で勘当なんかしないと思うけど?広上さんのような人は、もともと贅沢をきわめているような人ばかり相手にしているでしょ?そういう人が、私の書いた本に、興味を持つはずがないと思うのだけど?」

ああそうか。指揮者という職業はそうなってしまうらしい。たしかに大物政治家が、演奏会の差し入れをするようなことはいっぱいあって、広上さんは、それをありがたく受け取っていた。たしかに政治家という人たちは、普通の生活というものは、まずしない。

「いやいや、肩書ではそうなってますが、それは一種の飾り物です。普段は、たった一人、がらんどうみたいなアパートに、笑い翡翠のペーター君と暮らしております。彼女もいないし、つまらない生活ですよ。」

「そう。それじゃあ、わかるわけないわね。あたしたちは、日常生活をやっていくだけで精いっぱいなのよ。ご飯を食べるのにも、どこかへ行くのにも、非常に苦労する生活なのよ。それが、何も感動しないでできてしまう人に、あの本の内容がわかるはずはないわ!」

広上さんが言うと、絢子はそう言い放った。なるほど、本来の気性の激しさは、まだ健在なようだと、

蘭は思った。

「そうじゃないんです。佐藤先生。」

蘭は、恐る恐る発言する。広上さんでは、とても本題までたどり着けないだろう。其れなら、僕がいうしかないじゃないか!

絢子は、蘭のほうを見て、

「そうじゃないって何よ!」

と言った。

「すみません。怒らないで聞いてください。僕も広上さんも、どうしても、何とかしてほしい人がいて、そのお願いに来たんです!」

蘭は、できれば座礼をするようなつもりで、一生懸命頭を下げる。

「どうしてもって?」

「だ、だからあ、その、僕たちの大事な人物が、絢子さんと同じような状態なので、なんとかして、いきようという意思をもってもらうように言ってくれませんか!それさえあれば、あいつはまだ助かるんじゃないかという気がするんですよ!」

蘭は何回も頭を下げながら、そう要求の文面を話した。

「その人って、どういう人ですの?」

「だから、ものすごいピアノがうまかったんです。僕は詳しくありませんが、何とかスキーという人の曲を平気で弾いてしまうほどの大天才だったですよ!だから、ここで持っていかれるのは、本当に困るんです、僕たちは!」

「俺からもお願いします!その大天才なわけですから、それをなくすと、音楽業界も大打撃になってしまうわけで。ほら、多分ご存知だと思いますけど、あの世界一難しいピアノ曲を書いたと言われるレオポルト・ゴドフスキーですよ。まだ、全曲演奏したのは、二人しかいないという!いいですか、彼にゴドフスキーを演奏させれば、三人目は日本人という事になって、、、。」

蘭の隣で、広上さんも、頭を床に付けて訴えた。

「私にもっと力があれば。」

と、絢子は静かに言った。其れさえあれば、もうちょっと、社会に訴えることもできるのだが、、、。

「そうすれば、もっとその人を何とかできるかもしれませんが、今は、私自身も、自身を何とかするだけで精いっぱいなんです。それでは、他人の役に立とうなんて、そんなことはできません。」

絢子は、とりあえずの答えを言った。

「それに、私が誰かに役に立つのは、まだ早すぎる気がします。そんな誰かに影響を与えるほど、私は、成熟してはおりませんし。」

「いや、いいんじゃないですか?お嬢様の本によって、二人の人が心を動かされて、来てくれたんですから。」

となりで話を聞いていた智子さんは、そうにこやかに語りかけた。

「それでいいと思います。あたしは、少なくとも、お嬢様が病気で苦しんできたことも見ましたし、それを本にしたいと決断された現場も見ました。きっとお嬢様がやってきたことが、役に立つときが来たのではないでしょうか?つまり、お嬢様も一人前の著述家として、認めてくださったんですよ。神様が。」

「そうね。」

絢子は、静かに頷いた。

「あたしが、役に立つようでしたら、何とかお手伝いしますよ。本当にあたしは何もできないですけれども。」

広上さんと蘭はやった!と頷きあった。

「ただ、ひとつだけお願いしたいです。あたしが家政婦としてお嬢様のもとに仕えて来て、ずっとかねてからの願いだったんですが、お嬢様の居場所を作ってやってくれないでしょうか。これまでは、病院と家の往復しかしてなくて、最近になってやっと、外に出るようになってはくれましたけど、どうしても、居場所がないことに、お嬢様は劣等感を持ってらっしゃるようですし、それでは、私も、かわいそうだと思うので、、、。。」

「智子さん、何て無茶なお願いするのよ。」

絢子は、そんなお願いをする智子さんを、急いで止めたが、智子さんの表情は変わらなかった。きっと、それを言いたくてたまらなかったのである。

「わかりました。何とか、考えて見ます。」

蘭も、無理なお願いだと言おうとしたのだが、広上さんが隣でそういってしまったため、反論はできなかった。

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