第三章

第三章

その日は、雪が止んで、ゆったりとした晴れた日だった。こういう日こそ、どこかへ出かけてしまおうと、皆、都会のほうをめがけて、車を走らせてしまい、この道路を走っている車は、ひとつもなかった。

その道路を、一台の車が、走り去っていった。乗っていたのは、高瀬さんが運転して、助手席に広上さんが乗っている。

「ほんとに田舎だなあ。のんびりしてて。俺、こういう風景みたの、久しぶりだよ。何だろう。何十年ぶりだなあ。なんか、久しぶりに田舎にかえって来たような気がするぜ。なんて、こんなセリフいうなんて、俺も年だなあ。」

と、広上さんが言うと、

「まあ、どこの地域にも、有りますよねえ。こういう田舎って。そのうち、日本ではこういう場所が、どんどんなくなっていくような気がするなあ。そうなったら、僕たちの癒しの場所がなくなりますねえ。」

高瀬さんは、運転しながらそう答えた。

「本当だな。俺も、そんな気がした。」

「さて、つきましたよ。ここの公民館だそうです。」

高瀬さんは、公民館の前で車を止めた。

「ほんとなら自宅でこういうことすればいいのによ。」

「そうですけど、自宅ではご近所に迷惑がかかるから、よそで歌うようにしているんだそうです。」

広上さんが言うと、高瀬さんは、訂正した。やっぱり日本では音楽家は肩身が狭いなあと思いながら、広上さんは、車を降りる。

「で、そいつはどこにいるんだ?」

「えーと、音楽室にいます。」

受付に音楽室の場所を聞いて、広上さんたちは、廊下を歩いた。

「なんだか臭いなあ。田舎の公民館は、こんなむさくるしいところなのか。」

「文句言わないでください。ここで皆さん一生懸命歌っているんですよ。」

「そうじゃなくて、もっといいホールで歌わせてやれないのかよ。ちょっと、臭すぎてかわいそうだぜ。」

何を言っても文句たらたらな広上さんを、高瀬さんはそう言いながら、案内をつづけた。

「はい、ここですよ。」

「この部屋かよ。学校の音楽室よりひどいところじゃないか。全くここで歌なんか歌うなんて、可哀そうとしか言いようがない。」

高瀬さんは、それを無視して、部屋の中に入った。広上さんも頭をフリフリしながら、中に入る。

部屋に入ると、一人の若い男性がいた。あと、80歳を当に越した爺さんが、彼の付添人として、一緒にいた。多分、若い方が、竹田友紀君で、もう一人が鳥居さんと言う、おじいさんだろう。

「こんにちは。今日は、僕の友達を連れてきました。広上鱗太郎さんです。まあ、僕が大学のときの、同級生です。」

その名を聞いて、二人は、あまりにも驚いたようで、急いで手をついて座礼したほどであった。それを見て、すぐに広上さんは嫌な顔をする。

「いや、この人はね、すぐに顔に出てしまうタイプですが、決して嫌だと思ってしまうことはありませんので。」

高瀬さんがにこやかに笑って、訂正する。それでも、二人は怖気づいて、そのままでいた。それくらい、田舎では、高名な人というのは、お奉行様みたいになってしまうらしい。

「ああ、もう、土下座なんてするな!こんな臭いところで申し訳ないが、歌って見てくれ。」

「は、はい。でも、歌える曲がない、、、。」

どぎまぎしている友紀君。

「曲なんてなんでもいいじゃないか。とにかく歌ってみろ!」

と広上さん。鳥居さんが、友紀君にやってみなさいと促した。友紀君は静かに立ち上がり、

「し、白いブランコでかまいませんか?」

と、言う。

「ああ、何でもいい。歌ってみろ!」

「ああ、わかりました。よろしくお願いします!」

友紀君は直立不動で立ち上がり、歌を歌いだした。

「君は覚えているかしら、あの、白いブランコ。

風に吹かれて二人で揺れた、あの、白いブランコ。

日暮れはいつも寂しいと、小さな肩を震わせた、

君に口づけした時に、優しく揺れた、白い白いブランコ。」

なるほど、伴奏も何もないアカペラ歌唱だが、音も外れることもなく、三連府のリズムもしっかり刻めている。

「君は覚えているかしら、あの、白いブランコ。

寒い夜に寄り添って揺れた、あの、白いブランコ。

誰でも皆独りぼっち、誰かを愛していたいのと、

冷たいほほを寄せたときに、静かに揺れた、白い白いブランコ。」

広上さんにも、どこか心に感じるものがある歌い方だった。

「僕の心に今も揺れる、あの、白いブランコ。

幼い恋を見つめてくれた、あの、白いブランコ。

まだ壊れずにあるのなら、君の面影抱きしめて、

一人で揺れてみようかしら、遠いあの日の、白い白い白いブランコ。」

多分飾り気のない、まっすぐな歌い方だから、こういう切ない歌詞がじかに響くのだろう。これを伝えることができるのは、間違いなくうたの才能があると言える。

「うん、うまい!ブラボー!」

友紀君が歌い終わると、広上さんはにこやかに笑って拍手した。

「これは間違いなく、よい歌唱力を持っていると思う。素晴らしい!ぜひ、良いところに行って、才能を磨きなさい。そうすれば、きっと良い歌手になれる!」

「ありがとうございます。」

静かに礼をする友紀君。

「よかったね。友紀君。これでわしも少し安心したよ。」

後にいたおじいさんが、にこやかに笑って言った。

「本当だったら、こんな臭い部屋ではなくて、もっとちゃんとした音響設備のある部屋で歌ってもらいたかった。こんな臭い部屋はもったいない。そうではなく、もっと広くて、大勢の観客がいる部屋で歌うんだ。そうなったら、いずれは合唱団をバックに、ソリストとしても歌えるよ。さっきの白いブランコで、そのための素質が十分にあることが分かった。いつかオーケストラと一緒に協演できるのを楽しみにしているよ!」

「でも僕、高校生の時に、見てもらった音楽の先生には、まったく素質がないと言われました。」

と、友紀君は言った。

「それはね、おそらくその先生はイタリアオペラの先生だったからではないのかな。歌と言っても、いろんな種類の歌があってね、イタリアオペラだけではなく、ドイツリートという種類の歌もあるんだよ。イタリアオペラではだめだけど、ドイツリートではすばらしいという歌手はたくさんいるんだ。

だから、そっちの方で、技術を磨いていけばいいじゃないか。」

高瀬さんが声楽家らしくそう説明した。

「しかし、今の大学はどうなっているんですかな?昔ほど、声楽科も細かくジャンル分けはしていないでしょう?」

鳥居さんはそう心配そうに言った。

「大丈夫です。一つだけ、今でもドイツリート専攻を設けている音楽学校はあります。たしか、ドイツリート協会という組織もありますから、そこに問い合わせれば、ドイツリートの専門の先生に師事することは可能です。今の大学は大体イタリア歌曲なんかに傾いていてドイツリートは下火になっていますが、それを否定してドイツリートの美しさを研究している人も大勢いるんですよ。ぜひ、彼には、ドイツリートを学んで、素晴らしい歌手になってもらいたいです!」

と、興奮してしゃべり続ける広上さんだった。

「そうなんでしょうか。」

まだ自信がなさそうな友紀君。

「でも、なんだか怖いです。やってはいけないことをしているような気がしてしまう。」

「やってはいけない!そんなこと誰が言ったんだよ!」

侮辱された様で、広上さんは、でかい声で言った。

「が、学校の先生が!」

「へえ。ずいぶん心の狭い先生がいるもんだなあ。そんな馬鹿な先生、どこにいたんだよ。そんな先生のことはどうでもいいか、早く、音楽学校に行って、見返してやりなさい。まず、必要なものを準備しよう!まず、声楽という事は、どうしてもピアノ伴奏が要る。誰か、相方になってくれそうな人物はいないのか、、、。」

広上さんは大きなため息をついた。本当は、もう音楽に触れることはしたくなかった友紀君であったが、広上さんのような権力のある人に、音楽学校に行けと言われてしまうと、田舎者らしく、いかなければならないような気がした。

「よし。誰か探してくるから、待っていなさい!」

「はい。」

思わずそう返事をしてしまう友紀君。爺さんが、それをにこやかに見守っていた。爺さんは、それを聞くと、もう世の中に思い残すことはないように、天井を見つめた。それを見て、友紀君は、もう嫌だという事は出来なかった。


そのころ、同じ富士市に住んでいる、桂浩二は、今日も仕事からかえってきたところであった。今日も仕事は疲れたなあ、と思いながら、浩二が部屋に入ると、

「浩二、あんたに手紙が来ているわよ。」

と、母親が一枚の手紙をもってやってきた。

「ありがとう。」

浩二は手紙を受け取って、差出人を確認してみると、広上鱗太郎とへたくそな字で書いてあった。偉い人というのは、なぜか字が下手になるらしい。音楽学校の先生にもらった年賀状も、へたくそなアルファベットで書いてあった記憶がある。

「なんでまた広上先生から?」

思わず口に出していってしまった。確かに、音楽祭りで、パガニーニの主題による狂詩曲を弾かせてもらったのだが、それ以降、音楽とはかかわりたくないと、広上先生には、言っておいたはずである。本当に広上先生は、何を言っても人のいう事は聞かないんだなと思いながら、浩二は封を切った。

「浩二君へ。」

浩二は手紙の文面を声に出して読んだ。へたくそな字なので、声に出さないと、わからなかった。

「元気でやっているだろうか。実は、どうしても、音楽学校に行きたいという若者がいるので、伴奏者として一緒にやってもらいたい。専攻はドイツリートなので、どうしてもピアノ伴奏が欲しい。もしやってくれるなら、今度の日曜に、原田公民館に来てもらいたい。」

全く、何をするにも広上先生は、強引だ。一体どういう訳で、この若者という人と知り合ったのだろうか。

「君も、仕事があるのは十分承知だ。仕事には重ならないように工夫をするから、できれば、彼の入試の時には、伴奏者として、彼の志望している大学へ行ってもらいたい。それに、音楽学校の卒業生として、音楽学校の生活なんかも、いろいろ話してやってほしいな。これで君もやっと、音楽学校に行った経験を役に立てることができて、うれしいのではないだろうか?それでは、来てくれるのを楽しみに待っている。」

手紙にはそう書かれていたが、どうしても、従う気にはなれなかった。まあ確かに仕事は土日休みで、ほかに用事も全くないので、行けないという事もない。それに恋人も友人もない浩二に、家族はどこかで外に出るきっかけを作ってもらいたい様だった。それを満たすという事も可能になる。だけど、それが音楽イベントとなると、また話は別だ。

ただ、音楽学校にいった経験が役に立つというのは、まんざら嘘でもなかった。これまでに職場で散々いじめられていて、音楽学校は役立たず、と、女性課長からさんざんばかにされていた浩二にとっては、結構な収穫だった。それに、これで広上さんから報酬でも出れば、子どものころからの夢であった、音楽を通して他人の役に立つという夢が実現するかもしれない。

「とりあえず行ってみるか。」

と、浩二はそうつぶやいた。

ただ、浩二はこれまでの経験上、音楽は生半可な気持ちではできないし、音楽を役立てられる例は、本当に少ししかいないから、本当に才能がある人でなければ、相手にはしないことにしようと決めた。

そういう、ちゃらちゃらした生き方をしている人とは関わりたくなかった。女性に多いのだが、幼いことからピアノがうまいせいで、ちやほやされ続けており、私が一番!と思い込んでいる女性ともかかわりたくなかった。

少なくとも、自分には選ぶ権利だけは保証されている。それは行使したいと思っていたのである。


そして日曜日、浩二は東海道線と岳南電車を乗り継ぎ、原田公民館にむかった。

公民館に到着すると、広上さんがすでに待ち構えていて、おう、浩二、待っていたぞ、少し薄毛になったなあ、なんて言いながら、彼を音楽室に連れていった。

音楽室に入ると、今回は爺さんはおらず、友紀君だけが、そこにいた。

「よう、今日から君の伴奏者としてやってくれる、桂浩二君だ。まあ、仲良くしてやってくれよ。」

広上さんは、浩二を、友紀君に紹介した。

「竹田、、、竹田友紀です。よろしくお願いします。」

そういって静かに礼をする友紀君は、なんだか大丈夫だろうか?というくらい自信がなさそうな少年だった。音楽を志すなら、もうちょっと堂々としていないとだめなのではないだろうか?と思われるほど、やたらおどおどしていて、小さくなっている少年だった。

「この竹田友紀君が、ドイツリート専攻を志しているそうだから、浩二、お前も、伴奏者として、手伝ってやってくれよ。」

広上さんにそういわれても、浩二は音楽学校という世界には、大丈夫だろうかと心配になった。

「君は本当に音楽学校へ行って、何を学びたいの?」

一寸、きつい口調で、浩二はそんなことを言った。

「あ、はい。歌の才能があると言われたので、もっと歌を学んでみたいです。」

「悪いけど、それでは、音楽学校という環境に負けてしまうのではないかな?」

浩二は、友紀君の答えに、反対した。

「単に歌が好きというだけではなくて、人生を賭けるというか、命懸けでやってみるくらいの気持ちがないと。生徒だけではなくて、先生だって、君のことを本気で見てくれるというひとはないよ。そうではなく、みんな出世の道具としか君を見ないから。本気で、君に対してピアノや声楽を教えようとする先生はまずいない。それに、友達だって、ほとんどできやしないよ。たとえて言えば、鼻の穴に西瓜を入れるような感じだと思って。鼻の穴ほど小さくて狭い道に、大勢の生徒たちが、そこを狙って、おしくらまんじゅうをしているのが音楽学校というものだ。それは、本当に孤独な戦いだよ。それをするくらいの覚悟が必要だし、家族も友達も恋人も、すべて捨てて、音楽に走ってしまう人も少なくない。そうなったら、今の時代、評価はどうなるかくらいわかるだろ?昔は、自分のしたい勉強をしている人は、すごく尊敬されていたけど、今は、学校の勉強って本当に役に立たなくなっているから、それをあえてやろうなんて虫が良すぎると思っている人が、本当にいるからね。」

「そうですよね。ありがとうございます。僕は生きている価値すらないので、、、。」

と、友紀君は、少し涙を見せて言った。

「それじゃだめだ。孤独な闘いをしいられる環境で、一番頼りになるには自分しかないんだから。それに、社会に出ると音楽学校を出たって、虫けらと同じ扱いしか受けられなくなるんだよ。その冷たい偏見に耐えていけるほどの覚悟がないと!」

自分も、それに耐えて生きていくことを強いられているんだという事を協調したかったが、そこへ広上さんが、

「まあまあ、けんかはするな。こいつがどれだけ歌がうまいか、とりあえずこの曲を弾いてやってくれないか。それをしてから、音楽学校の偏見を聞かせればいい。」

と一枚の楽譜を渡したので、浩二はとりあえずそれを受け取る。

「とりあえず高瀬さんとのレッスンは、いきなりドイツ歌曲ではなくて、日本語の歌曲から始めようという事だったよな。」

「はい。カラタチの花を歌うことになっています。」

たしかに、楽譜は「カラタチの花」と書いてあった。山田耕作の有名な歌だ。

「よし、じゃあ浩二、カラタチの花をちょっと弾いてやってくれ。そして、友紀君は歌ってみてくれ。」

「わかりました。」

広上さんの指示で、浩二は近くにあったグランドピアノの蓋を開け、譜面台に楽譜を置いた。

「初見なので間違えるかもしれないですけどすみません。」

一応、友紀君にそういっておく。

「いいからいいから、とにかくやってみろ。」

広上さんに言われて、浩二はピアノの椅子に座り、ピアノを弾き始めた。

「カラタチの花が咲いたよ。

白い白い花が咲いたよ。」

友紀君は、歌い始めた。なるほど、いわゆる甘い感じの声をしていると思う。

「カラタチのとげは痛いよ。

青い青い針のとげだよ。

カラタチは畑の垣根よ。

いつもいつも通る道だよ。

カラタチも秋は実るよ。

まろいまろい、金の球だよ。」

そして、この次の歌詞が腕の見せ所。中には、ここで大げさにうたう人も多い。

「カラタチのそばで泣いたよ。

みんなみんな優しかったよ。」

この次の歌詞の切り替えが大変である。また何気ない日常生活に戻るのだから。

「カラタチの花が咲いたよ。

白い白い花が咲いたよ。」

ここで浩二の伴奏は終了した。

友紀君の歌も終了したが、

「友紀くん、先ほどの発言は、申し訳なかったけれど、忘れてください!」

と、浩二がいうほどの歌の上手さだった。

「だろ?頼むから、こいつの伴奏してやってくれ。これだけ歌唱力があれば、絶対こいつは大物になる。なんだか高校時代ひどいことを言われてしまって、引きこもりになってしまっていたようだが、そこを治してもっと自分に自信がつけば、本人も楽になってくれると思うんだ。だから、お前も手伝ってやってくれよ!」

広上さんに懇願され、浩二はもう断るわけにはいかないなと思った。

「わかりました。じゃあ、僕も手伝うから一緒に頑張ろうね!」

なぜかこの少年をバカにしたりねたんだりするような気持ちは起こらなかった。それくらいこの少年は歌の才能があると浩二も思った。其れよりも、守ってやりたいというか、応援したくなってしまう

気持ちがわいた。

こうして、浩二と友紀君の新コンビが誕生したと、広上さんも、音楽室で大喜びしていると、ちょいうどその時、音楽室へ一人の男性が向かってくる音がする。

ばあんと音を立てて、その扉が開いた。

「すみません!これ以上うちの合唱団をめちゃくちゃにしないでもらえませんか!」

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