第四章

第四章

その人は、音楽室のドアを開けると、そうさけんで怒り一杯の顔で広上さんたちを見つめた。

「俺たちの事はなんでごみみたいに捨てていくんだ!俺たちは、指導してくれる先生の言う通りにしたがってきて、それこそよくなると信じて歌ってきたのに、うまいやつだけ引っこ抜いて、自分はカッコつけてイタリア旅行か!」

「松岡さんごめんなさい。」

と、友紀君がいった。

「僕がこの先生方にしたがってしまったのが一番悪いのです!皆さんのことを置き去りにして。」

友紀くんは、涙を見せて泣き始めてしまう。

「泣くな!お前は絶対に大物になれる!そのくらい歌える能力はもっている。こんなに被害者意識を持ったやつのことは気にしないで、さっさと音楽学校へ行けばよい!それだけのことだ!」

広上先生、そんな励ましはかえって有害になりますよ、なんて、浩二は思いながらそれを聞いていた。

「結局、俺たちは音楽に触れられる機会と言うものはないのか。そうだよな、広上さん。俺なんて、只のトラック野郎にしか見えないんだろうからな。俺は若い頃に、音楽好きだったけど、家が貧しくて習えなくて、トラック野郎として、二十年やって、それでやっと人並みの幸せが得られたから、よし今から音楽しようといきり立っていた頃なのに、こうして指導者には見捨てられ、有能な若者はすぐ持っていかれてしまう。俺たちは、やっぱり音楽をしてはいけないのか!そうだろう!」

松岡さんの話はよく理解できる。そう考えると自分は何て贅沢な生き方をしてきたんだろうなと思う浩二だった。とりあえずピアノが好きだったから、音楽学校へいかせてもらうことはできたし、入賞は逃したけれどコンクールには出させてもらったし、アマチュアだけどオーケストラと共演もさせてもらったし。十分幸せすぎるじゃないか。この松岡さんという、おじさんと比べたら。

「広上さん、どうなんですかね?俺たちにとって、友紀くんは大事な歌い手なんですよ。俺、高瀬さんにもいいましたけどね、俺たちは偉くなんかならなくていいから、合唱団方舟として、やっていきたいという気持ちがあるんです。それを偉い人って言うのは、才能があるからといって引っこ抜き、俺たちの手の届かない世界につれていってしまうんだ。いわば、拉致するのと、同じようなものじゃないですか!俺たちはそんなことはしてほしくないんですよ!事実、友紀君を失った後の俺たちは、大事な歌い手を失った、空っぽの方舟になってしまう!」

松岡さんは、めを真っ赤にして、でかい声で叫び続けた。

「ごめんなさい松岡さん、僕はやっぱり、方舟にもどります。僕もその方が安全だと思いますし。」

友紀君がそういうと、

「安全などない!経歴や肩書きに関係なく、ただ、歌がうまいのと、大物になれるという声をもっている。それだけのことだ!それに、アマチュアグループなんて、ちょっとしたことでつぶれてしまう可能性のほうが、遥かに多いんだぞ!つぶれないためには、大物が必要だ!その大物をこれから作ろうとしているんじゃないか!」

広上さんも、負けなかった。

「そうなんですけど、俺たちは、今のことを言っているんです。事実、大事な歌い手を失ったらどうなるか、広上さんだってわかるのではありませんか?友紀君を音楽学校へ引き抜いてしまったら、俺たちは、どうなるか。俺たちだって音楽したいと思っています。その気持ちはどこへ行くんです?偉い先生というのは、若い子の教育ばかりに熱心で、俺たちのことはどうでもいいんですかね?」

「それだってちゃんと対策を考えておく。だけど、友紀君だって、ちゃんとした音楽教育をさせてやりたいと思う。友紀君が、大物になれることは、歌を聞けば一目瞭然なんだから!」

広上さんと、松岡さんのガチンコバトルは続いた。どちらの味方にもなれない浩二は、これを聞いて非常に切なくなった。その証拠に、友紀君が、自分のせいです、ごめんなさいと言って、声を上げて泣き出した。

「やっぱり。幸せになれないんですね。音楽ってちゃんと知り尽くしている家庭に生まれないと。そうしなければ、音楽で成功することはできないんだ。やっぱりそういうことをちゃんと考えてから、進路を決めるべきだった。」

浩二は、泣いている友紀君と、みんなの話をきいてそう呟いた。そして、友紀君に、そっとハンカチを差し出してやった。友紀君は黙って受け取ってくれた。それだけでも、浩二はよいことをしたとほっとした。

広上さんのほうは、松岡さんとガチンコバトルを続けている。

「いや、大丈夫だ!やりたいと言う気持ちがあれば、絶対に成功することはできる!それに、音楽は人間を楽しませるものであって、苦しませるものではないから!それが原因でおかしくなることは絶対にないよ!」

「いえ、それはありません。絶対にありません。音楽のせいで、なんにんもの人が、自ら命を絶ちました。」

広上さんがそういうと、友紀君が小さい声でいった。

「事実、僕の家は、家庭崩壊となる寸前にまでいったんです。だから、また同じようなことをしたくは、ありません。僕のせいで、家の中が全部めちゃくちゃになりました。それだけは二度と繰り返してはならないと思っていますから!」

「そうだろう!広上さん。この子は、音楽学校を目指したけれど、高校の先生から大いに傷つけられ、そして、音楽学校の先生にまで見捨てられて、精神までおかしくなったんだ。精神科に入院させてもらえなければ、文字通り、家庭崩壊となったと思うぞ。何十人の人の手を借りて、やっと立ち直れたんだ。俺たちは、そんな彼を守ってやろうと決意したのに、なんでまたひどい所に戻そうとするんだよ!俺は、そんなかわいそうな思い、この子にさせたくないんだ。理由は、ただ一つさ。この子は歌が物凄くうまいから!それを偉い人は才能があると言って、勝手に、音楽学校というとろに送って、虫けらみたいに殺すだけだ!」

松岡さん、なかなか雄弁だ。こういうことを平気で言えるとなると、友紀君は相当ひどい目にあったことが見てとれる。浩二も、高校時代、音楽学校を進学先にして、何を考えているんだとあきれられたことはあったが、それ以上にひどいことを言われているのだろう。時代がそれだけ変わっているということだろうか。

「いや、音楽には罪はない。それは、音楽を扱っていた人間が悪いんだ。俺たちは、その悪い人間からこいつを逃がしてやって、ちゃんとした音楽教育を受けさせてやるようにしてやりたいんじゃないか!もう、二度とそんなひどい奴らに会わせないよう、俺たちで工夫しておくよ。それでいいだろう!」

「いや、無理だ。」

広上さんの話に、松岡さんは小さい声だが、重たい口調でいった。

「あんたたちは、大事なこと忘れてる。人生は一度きりさ。もう一度、教育を受けられるなんて、人間は二度とないんだよ。その理由として、人間は年をとっていくんだからな。そのためには、何が必要なのか、考えなければな。俺たちは、そのときを暮らしていくのに精一杯で、もうやり直しができないと言うことを、忘れないでください。」

その通りだった。人生は長すぎるとは思われるのだが、教育を受けられる年齢は意外に短いことを忘れてはいけない。そして、再度受けることはできない事も。

「そうだけど。」

広上さんは、小さい声で答えた。

「俺は、楽しむと言うことは、いつでもしてよいと思っている。それは、何歳でもできるのではないかと思っている。今の時代、老齢になってから音楽をもう一回学びたいというやつも珍しくはない。だから、昔と違って今は、何回もやり直せるよ。本人にやる気さえあれば!」

「まともなことを言えんなあ。やっぱり偉いやつは。」

松岡さんは、バカにするようにいった。

「偉いやつは、そういう理想やきれいごとに凝り固まっているがいいさ。とにかくな、こいつを引き抜きたいのであれば、引き抜いて、俺たちに利益がない限り、俺たちは友紀君を渡さないよ。」

また松岡さんは保護者的な態度で、そういった。きっと、それを言えるくらい友紀君はひどかったのだ。

「おう、わかった!必ずなにかよいものをみつけてくるから、覚えてろよ!」

なんだか、時代劇の悪役みたいな台詞だけど、広上さんは、そんな台詞を言ってしまった。


そのまま、練習はお開きになり、広上さんはむきになって公民館を出ていった。友紀君は、浩二と一緒に自宅へ帰ることになった。松岡さんは、一人ぷりぷり怒って帰っていった。もう誰の助けもいらないと言って、大型トラックを運転して帰っていったのである。

広上さんは道路を歩いて、先ほど言われたことを何回も考えていた。

「俺は、そんなに世間知らずだったかなあ。そんなに、馬鹿だっただろうか?」

すぐに自宅に帰る気になれず、広上さんは、その足で製鉄所に向かった。ふいに、ある人物が頭に浮かんだのだ。あいつなら、今日のことをどう解釈するかな。もしかしたら、意外な答えを出してくるかもしれない。それを聞きたかった。

広上さんは、製鉄所に到着した。正門から入って、入り口の戸を叩いたときは、夕焼けがお空を包んでいた。もうそんな時間かあ、と思いながら、広上さんは応答が来るのを待った。応答まで、少し時間がかかった。あれれ、今日はどうしたんだんろう、なんて考えていると、がらり、と音がして姿を現したのは、杉三であった。

「おう、杉ちゃん、こんにちは。悪いんだけどさ、一寸聞きたいことがあるので、水穂にあわせてもらえないかなあ?」

しかし杉三は申し訳なさそうな顔をする。

「なんだ、またなにかあったのか?」

「残念だが、今日は、帰ってもらえないだろうか。」

いつもの決まり文句かあと広上さんは思う。

「お昼過ぎに咳き込み始めて、大変だっただよ。いまやっと眠ってくれてさ。それを起こすのも、かわいそうだから。もう一回言うが、失礼だけど、今日はかえってもらえないかな?」

なんだか侮辱されているような気がしてしまう、広上さん。水穂も、俺がこれだけ期待しているのに、なんでこんなに、悪くなる一方何だろう。

「杉ちゃん、水穂にも何とかよくなるように努力してもらうように、いってくれないか?あいつだって、全く必要ない人間じゃないんだぜ。あいつは、100年に一度いるかいないかの、大天才だと俺は思っている。俺は、まだまだ協演してほしいと思っている。だけど、いまのあいつは、それを全部無駄にして、あの世へいくのを楽しみにしているように見える。そうじゃなくてさ、俺たちはあいつにまだ演奏してほしいと言うことをわかってほしいな。杉ちゃんからそういってもらえないか?俺は、これだけお願いしているとな。」

「いや、無理だ。」

広上さんは、そう言うが、杉三はすぐ否定した。

「なんで?」

「天才じゃなくて、天才にさせられたんだ。えたの出身であったからな。そのためには、なん十倍も努力して、体をぶっ壊しても足りないほど努力した。お前さんにはわかるまい。」

「でも、出身階級はそうだったかもしれないが、結果としては、天才と言われるまでの演奏技術を獲得して、世界一難しいと言われる曲まで弾きこなすまでなったじゃないか。だから、これからは、それを駆使して生きていけばいいよ。それに、今はそういう事は、なんにも卑下する時代じゃないじゃないか。日本だけではなく、海外でも活躍の場はあるんだぞ。それを考えたら、勿体なさすぎるじゃないか?」

「いや、もう音楽家としてやらせたらかわいそうすぎる。僕たちは、そういうことはさせたくない。それに、触れるようなこともさせたくない。帰ってくれ。」

「杉ちゃん、どうしてだよ。」

広上さんは、理由がわからなくて、ちょっと涙ながらにきいてみた。

「だからあ、音楽家として生活していくための体力と経済力がないからだよ。お前さんたちが普通にやっていくことを、水穂さんは、なん十倍のコンサートするなりして、お金を稼がなきゃいけなかったんだ。それを積み重ねて、人が普通にすることをやっていたんだよ。そのために何十倍の体力を消費して、誰にもわかってもらえなくて、誰かに相談することもできなくて、一人で全部背負うしかなかった。そうしたら、知らないうちに体力もなくなっていく。なくなれば、自動的に病気が悪化していく。水穂さんに音楽させたら、この悪循環なんだ、こんなこと、させたくないんだよ僕たちは。そういうことなんだ。さ、わかったんなら、さっさと帰れ!そのほうが、お前さんのためだよ。」

「俺だけじゃないよ。」

広上さんはまた、悔しそうにいった。

「あいつの演奏を楽しみにしているひとは、きっと他に一杯いるんじゃないのかな。あいつの、ゴドフスキーで勇気付けられたやつだっているんじゃないのかな。そういう事だってできるんだぞ、音楽は。俺は、あいつがもう少しよくなってくれたら、事情があるやつが暮らしている施設とかで演奏してもらおうかと考えている。きっと社会から外されて、隔絶されている奴だって、あいつのピアノを聞けば、勇気づけられると思う。だから、頼むよ。よくなってもらうように言ってくれよ!」

「バーカ。そんな余計なおせっかいされて喜ぶと思う?ただ、そいつは運が良すぎるって、嫉妬するだけに決まってらあ。そんな、おせっかいみたいな慰問演奏、されたって喜ぶ奴はどこにもいないよ。いいか、そういう隔絶された奴らはな、もともと社会で失敗した自分自身と、その自分を施設に追いやった家族への不信感から、同じ障害を持っておきながら、成功した奴のことはとことん恨むに決まってら。もともと、人間なんか信じちゃいないさ。そんなやつらの前で演奏なんて、まっぴらごめんだよ。水穂さんみたいな、きれいすぎるやつに、できるわけないよ。」

「しかしだよ。奴は少なくとも、ゴドフスキーを数々の演奏現場で弾いて、大絶賛を浴びたことは事実だぞ。そこだけ取れば、音楽家として、成功できたんじゃないのか?」

「類いまれなる失敗作だ。あんな世界一難しいピアノ曲なんて、本来やらなくてよいものをしなければならなかった事情を考えろ。たとえて言えば、ゴドフスキーを弾く人なんて、皆ジャイアント馬場みたいな体格してるだろ?そういう訳だから、失敗作なの。頼むよ、今日は、帰ってくれ。せっかく眠ってくれたのにさ、また起こすのはあまりにも可哀そうだから。もしどうしても聞いてほしい用があるなら、また日を改めてきてくれよ。」

しまいにはそう言われてしまって、広上さんはしかたないなと思い、今日は帰ることにした。

「じゃあ、水穂に早くよくなるように言ってくれな。頼むよ。俺はまだ、水穂のことが必要だから。リストのピアノ協奏曲だって、やってもらいたいし、あいつに弾いてもらいたい曲は、まだまだたくさんあるからな。」

「もう、そうじゃなくて、そっとしておいてやってよ。あんな大曲、水穂さんには危険すぎるよ。聞いている人には天才的なのかもしれないけどさ、水穂さんにとっては、辛くてどうしようもない作業だったことに、気が付いてやってくれ。」

「そうかあ。俺がもう少し、こっちに来るのが早かったらなあ。あいつも、もう少し元気だっただろうな。でも、俺、音楽していて、体中気持ちよくてさあ。辛くてどうしようもないなんて、一度も思ったことないよ。ほかの奴だってみんなそうだったんだから、そうなのかあなと思ってた。」

「それは、地盤と看板と鞄のある人の話。それもない人はいつも崖っぷちの毎日さ。わかったか。」

「そうなんだねえ。すまん、また来るよ。」

軽く会釈して、広上さんは、外へ出て行った。何だか初めて、世間の人の事情を知った気がした。

がっくりと落ち込んで、広上さんは道路を歩いていく。もう、外は真っ黒な闇になっていた。これから、俺もそういう事情がある人もいると、頭に叩き込んでやらなければだめだと思った。


同じ頃、四畳半では、再度咳き込み始めた水穂の背を、由紀子が叩いたりさすったりしてやっていた。結局これか、とか、またおんなじことして、なんていうような文句は、由紀子には言えなかった。そういう意味ではなくまた別の意味で水穂さんに思いを伝えたい気持ちはあった。

「あ、ごめんごめん。やっと、追い出してきた。本当にうるさくて、たまんなかったわ。」

急いで杉三が戻ってくる。

「なんだ、また咳き込み始めたのね。」

杉三はまたため息をつく。

「ええ、どうしちゃったのかしら?薬飲んで小一時間ほど眠ってくれたけど、またこんな風にせき込むようになって。」

由紀子は、とりあえずそういうが、何か不安でしょうがなかった。以前であれば、数時間は眠ってくれたはずだった。

「つまり悪くなったな。薬が効いていないんだな。」

杉三は、またため息がでる。

広上さんに、こんな姿を見せたら、また絶望的な顔して、水穂を見るだろう。それは誰だって絶望したくなるのはわかるが、自身のせいで相手が絶望したら、やっぱりよくないと思う。

「よかった。追い出して。こんな姿見せたらかわいそうだよ。広上さんも、本人も。互いのために、見せないほうがいい。」

「そうね。」

由紀子は、でもまだ水穂さんには、演奏してほしいと言う気持ちが、ないわけではなかった。それは広上さんのように、まだ音楽家として活動してほしいという商業的な気持ちではなくて、もっと別のもの、損も得も何もなくただ水穂さんにここにいてほしいという気持ちだった。こういうのを漢字で表すとなんていうんだろう?

その間にも、水穂はまだせき込んでいる。由紀子は、彼の口元をタオルで拭いたりしてやりながら、この人を失ってしまう日もそう遠くはないなと思うのだった。そうなると、非常に不安でもあった。

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