第二章

第二章

それからすぐ翌日。何かあったのだろうか、高瀬さんがしょんぼりとした顔をして、製鉄所にやってきた。

「こんにちは、右城君はいますか?」

応答したのは杉三で、杉三は高瀬さんの全身をまじまじと見つめて、

「誰だい、アンタは。」

と、だけ言った。なんだかひどく警戒されているような気がして、高瀬さんは、悲しかった。

「あの、右城君はいませんかね。それとも、病院でも行っているのですか?」

「いるよ。」

杉三はぶっきらぼうに答える。

「ちょっと会わせてもらうわけにはいかないでしょうかね?」

「いや、お断りだ。」

と、杉三は言った。

「あんた、どう見てもお偉いさんだろ?お偉いさんは、水穂さんの病状によくないから、来ないでもらいたいの。」

そう言われて、高瀬さんは、どうも変だなあと思う。あそこまで進行したとしても、今の医学であれば、十分に治療は可能であるはずなのだが?

「さ、早く出て行ってくれ。出ないと、水穂さんも、気を使いすぎて、負担になっちゃうからよ。負担をかけて、悪化させるのが一番よくないんだ。」

なんだか、先ほど言われたことと、同じことを言われてしまったような気がして、高瀬さんは、少し面食らってしまった。実は、先ほどまで指導をしてきた合唱団の団員さんたちに同じセリフを言われてしまったばかりだ。自分は、音楽のすばらしさを教えてやりたいだけなのに、なぜか、負担をかけるなと怒鳴られてしまったのである。

「わかったなら早く出てってよ。高名な人は、名前を使えば通れると思っているらしいけど、それは僕たち下層市民には、大変な負担であり、気遣いであるということをわかってくれ。本当に偉い人なら、そういうことが必要なんだってわかってくれるはずだからな。其れなのに、名前を使って、強引に要求を押し通そうとするやつは、かえってバカだ。」

高瀬さんは、がっかりと肩を落としたが、それでも、謝りたいという気持ちは消えなかった。

「たぶん僕も、バカだったんだと思います。実は、どうしても聞いてもらいたいことがあってこっちへ来させてもらいましたが、僕の聞いてもらいたいことは、もしかしたら、あなたのいう通りなのかもしれないと、確信しました。きっと僕は、そこを知らなかったんだと思います。」

それでは、と、高瀬さんは回れ右をして帰ろうと思ったが、

「杉ちゃん、水穂さんが高瀬さんを通してやってくれと言ってるよ。」

と、奥の方から、利用者の声が聞こえてきて、今度は杉三のほうが驚いてしまった。

「いいのかい?」

「ちょっとだけなら、何とか大丈夫だって。寝たままでもいいかどうか、高瀬さんに聞いて。」

「はい。お願いします。もしお辛いならそれで結構ですから!」

思わず利用者の声にそう答えてしまう高瀬さん。という事は、よほど聞いてもらいたいことがあるんだなと杉三も思った。一つため息をついて、

「入れ。」

とだけ言った。

やっと「検問」を突破して、高瀬さんは製鉄所の建物に入った。鴬張りの廊下がきゅきゅきゅ、となって、誰かが来たことを知らせる。これは古き良き日本の侵入者通達システム何だろうが、ちょっとけたたましいなと高瀬さんは思ってしまった。

「ほらよ。」

杉三は、そういって、四畳半のふすまを開けた。

「ちっと前にせき込んだ後だけど、負担をかけずに考慮してやってね。」

ああそうか。それが理由だったわけね。高瀬さんはやっと立ち入り禁止と言われた理由を教えてもらって、ほっとした。確かに、布団の周りに敷かれたレジャーシートには、ぬれ雑巾で拭いた後が見られた。

「ど、どうもこんにちは。」

挨拶するのも口ごもってしまう高瀬さん。

水穂は天井ばかり見つめっていたが、そのあいさつでやっと高瀬さんのほうに目を向けた。

「どうしたんです?」

なんだか、もうげっそりとやせてしまうと、目ばっかり大きく見えてしまうのはなぜなんだろうか。そして、その目にしっかりとにらみつけられてしまっているような気がする。

「いや、昨日の今日で申し訳ない。実は、今日合唱の指導に行ってきたんだけど、この有様ではこんな話をしては、ならないような気がしてしまった。こちらの方に、来るなと言われた理由がわかったよ。ごめんね。」

「いえ、かまいません。悪いのはこちらですからね。」

と細い声で、水穂は答えた。

「それに、僕のことは、こちらの方なんて立派な敬称はつけないでくれ。杉ちゃんでいいんだ、杉ちゃんで。」

と、杉三に言われて、高瀬さんは、ちょっとびっくりしてしまった。

「水穂さんとは、長年の親友だ。いま、時折こっちに来て看病してるんだ。僕の名前は影山杉三。あだ名を杉ちゃんという。」

「そ、そうなんですか。わかりました。高瀬昭雄と言います。よろしくどうぞ。」

初めのころは、すごい警戒心を示していたが、杉ちゃんと名乗った人物は、握手をお願いしてきた。高瀬さんが、それに応じると、杉三は、しっかり握りしめて、にこやかに笑った。たぶん、悩んでいることを読み取ってくれたんだろう。少しほっとして、高瀬さんは本題を言ってもいいと思った。

「で、今日はどうしたんだよ?」

「はい、実はですね。日頃から奢ってはいけないと思っていたのに、今日、合唱の練習に行って、メンバーさんたちから、偉い人は気まぐれだと、怒られてしまったんです。」

高瀬さんは、涙ながらに言った。

「はあ、、、。そんなことでなくなんて、意外に繊細なところもあるようだな。」

たしかに、普通の人ならこういう事で涙を見せることはないはずだ。高瀬さんは、そういう壊れやすい一面を持っている人だった。水穂も大学時代からそれは知っている。高瀬さんは、大学でも有名な泣き虫男として知られていた。

「変わってないんですね。」

一言、それだけ言った。

「そうなんですよ。いつも泣かないと自分に言い聞かせても、結局どこかで泣いてしまう。本当に、音楽家は気まぐれだ!いつも自分の都合でどこかに行ってしまって、結局俺たちは、道具に過ぎない!いい加減に俺たちのことを考えてくれないか!と言われて、もうその場で号泣してしまいました。」

「一体誰にそんなこと言われたんだよ。」

高瀬さんの話に、杉三がそういうと、

「合唱団のリーダーと言われる松岡さんです。トラックの運転手をされていますが、歌が大好きで、いつも熱心に練習されています。」

と、答えが返ってきた。

「へえ。そもそも、なんで松岡さんは、そんなこと言ったんだ?そもそも合唱団で何があった?」

「わかりません。僕は、いつも通り発声をおしえただけです。そうしたら、前の指導者はそんなやり方をしなかったぞと言って怒りだしたのです。そんなこと、全く聞いていなかったので、、、。僕はいつもやっている、声帯を閉じて歌う、と指示を出したら、声帯を開くとか、頭を開くとか、そういうことではないのかと、、、。」

あ、なるほど、と水穂も杉三も思った。

「つまり高瀬さんは、ドイツリート専攻でしょ。ドイツリートとか、バロックであればそれでいいんですよ。そうじゃなくて、その人たちはイタリアオペラの発声法を強制的にされていたから、怒ったんですよ。」

「そうか、まるっきり正反対だったんだな。そりゃあ、確かに怒るわ。イタリアの発声法って、難しいんでしょ、日本人には。」

水穂と杉三が相次いでそう発言すると、高瀬さんはやっと謎が解けた!という顔をした。

「でもおかしいですね。前任の指導者は、なぜ、オペラ歌手ではなく、高瀬さんだったんでしょう?」

「いやあ、答えは簡単さ。住んでいる、富士市があまりに過疎地域で、音楽家を呼ぶには金がかかりすぎるからだよ!だから、一番近くに住んでいる高瀬ちゃんでよいと思ってしまったんじゃないの?そして、前任指導者は、高瀬ちゃんより若い人でさ、謝礼金を払うのに、苦労をするような人だった!」

多分そうなんだろう。杉三の答えが一番まっとうな答えだった。

若い音楽家が自分より年上の音楽家に指導をお願いする場合、そのお願いとして高額な謝礼をお願いすることが多い。

「それで、自分の合唱団のことについては、一言も言及しないで勝手にどっかへ行ってしまった。そうだよな!」

「はい。杉ちゃんの推理通りですよ。彼は、何も言いませんでした。僕は、質問をしたい箇所がいくつかありましたが、とにかく皆さん努力家で、一生懸命やっているからとしか、言いませんでしたよ。なので僕は、てっきり同じ発声でやっているのかと思ってしまいました。」

と、高瀬さんはため息をつく。

「そうですね、音楽学校を出たと言っても、今はドイツリートとイタリアオペラと区分しない学校のほうが多いですからね。実質的には音楽学校の声楽科というと、今はイタリアオペラ専攻しかなくて、ドイツリート専攻は、設けていない学校の方が多いですから。」

水穂も高瀬さんに同意した。つまり、前任指導者は、イタリアオペラ専攻であり、声楽科というと、ドイツリートというジャンルがあるという事を知らない世代の若い人だったのだろう。

「なるほど。餅は餅屋というか、時代が変わったねえ。しかし、どうしてその若造は、高瀬ちゃんに合唱指導をお願いに来たんだろう?」

「はい、私費留学でイタリアに行くことになったそうです。なんとも、留学の斡旋会社が格安で留学させてくれるキャンペーンをやってくれているらしくて。」

斡旋会社もご苦労なことだ。少子化の波は、こういうところにも及んでいるようである。だから格安で留学を促すことで、客の獲得を目指すんだろう。

「はあ、バカだねえ、実にバカだねえ。それじゃあ、残したメンバーさんたちのことは考えないんだねえ。ほんとバカだよなあ。今の若い奴は。本当に自分の事しか、考えないんだね。バカだよう。」

まあ確かにそれはそうなのだが、そうやってイタリアに留学したとかそういう肩書をつけないと、ついてこないという問題もある。

「でも、確かにメンバーさんたちは、見捨てられたと悔しくなるでしょうね。そして、後任者が、まったく発声方法が違うわけですから、それは戸惑いますよ。だから、音楽家は勝手だというんでしょう。確かに高瀬さんも傷つきますよね。」

「うん。それだけじゃないんですよ。」

水穂がそういうと、高瀬さんは、さらにがっかりした顔で言った。

「それだけじゃないって?」

「うん、実はダブルパンチと言ってもいいのかもしれないんですが、その合唱団にものすごく歌の上手い少年がいてね。ぜひ、彼に音楽学校に行ってもらって、頑張ってもらいたいと言ったところ、彼を盗るな!と、メンバーさんが怒り出して、、、。」

「ああ、あの、竹田友紀君ですか?」

水穂がそう聞くと、高瀬さんは、しっかりと頷いた。

「そうなんですよ。彼に、白いブランコを歌わせたら、すごい朗々と歌ってくれたんです。これでは、ドイツリートを歌わせたら、ものすごい大物になるだろうと思われる歌の才能をもっていると思いましたよ。其れなのに、メンバーさんたちが、彼に、そんな危険なところは二度と行かせたくないと怒鳴りだして。」

たしかに、白いブランコも歌唱者によっては、ものすごい技術が要る歌に変貌することもある。今の電子楽器に頼りっぱなしという時代ではなく、歌手の歌唱力が要求された時代の歌だからだ。

「じゃあ、炭坑節も歌えるの?」

杉三が、そういうと、

「それはわからないけど、歌を少し教えれば、彼はもっと上手くなることは確実です。たった一人、鳥居さんというおじいさんが、ぜひこの誘いに乗ってみなさいと、背中を押してくれていましたが、ほかの人たちは、もう彼を学校へやることは、絶対にかわいそうだからやめろと言い張って。昨日の練習は、そのダブルパンチでした。」

と、高瀬さんは答えた。

「なるほどねえ。まあ、きっとそいつはな、学校で嫌な目に合ってるんだよ。だから、それと同じ体験をまたしてほしくないわけ。相当傷ついたんだろうね。其れも、ほかのメンバーさんがそうやって、やめさせようとすることができるほどの。」

「確かに、誰かの誘いであれば、普通は喜ぶはずですからね。誰だって、勉強してみたい気持はあるでしょうからね。」

杉三がそういうと水穂もそういった。偉い人が、そうやって、やってみないかというと、普通はスカウトされたという事と同じことになるので、大喜びするはずだ。それに高瀬さんは、ドイツリートの世界では、結構名の知れている人物でもあるし、その高瀬さんからお誘いが来たとなれば、一般の人は嫌とは言えないはずだろう。

「人間、誰だってかっこよく日の当たる場所へ出たいと思うさね。まあ、多少渋ることもあるが、一度や二度は受け入れるだろう。しかし、周りの人まで巻き込んで拒否するってことは相当傷ついてるな。若い奴にしては珍しいよ。そして、鳥居とかいう、その爺さんも珍しいね。田舎の年よりは、大体、音楽を敵視するか、役に立たないと言って、バカにするかのどっちかだから。」

水穂は、杉ちゃんが言うのを聞きながら、もしかすると、自分のような、重い事情を抱えている少年なのかな、と思った。

「まあいい。それより早く対策を考えよう。そのほうがよっぽど大切だぞ。過去や周りの人がどうのこうのなんていったって、変えることはできないんだし、無意味なだけだい。」

杉三がそう発言した。こうして、何も考えずにすぐに対策をどうのと言えるのも杉三だけの特技だった。大体の人は、過去や周りの話、しかも愚痴で止まってしまうからだ。

高瀬さんも、よくこんな風に頭を切り替えられるなあとびっくりして、思わず杉三のほうを見てしまうのだった。

「まあ、一度不信感をあおってしまったのは、素直に謝ることだな。学歴とか肩書は関係なく、そこはちゃんとやるんだぞ。偉いやつってのは、非常に苦手な分野だろうが、それはしっかりやれ。それだけで印象も変わるから。」

「はい、わかりました。それはちゃんとやります。」

高瀬さんは、そこはしっかりとわかってくれたらしい。水穂は不安そうだったが、高瀬さんはもう腹を立てることもなさそうだ。

「あとはそうだなあ。お前さんは、本当にドイツリートしか教えられないんだな。」

杉三がそういうと、高瀬さんは、はい、と静かに頷いた。

「じゃあ其れもしっかり謝罪することだな。そして、あとはそうだなあ、、、。ドイツリートという新しい域に、メンバーさん達を誘うこと。其れだよな。」

「ですが、今まで歌った曲はどうするんだと、誰かから問題が出るんじゃありませんかね。」

「だったら、それはもうできないとはっきり言うこと。ドイツリートっていうのは、柔道と空手くらい似ている様で、違う域にあることを説明しろ。そして、空手には空手なりに、面白い曲がたくさんあるって、いかにも楽しそうに語ること!これが一番大事なんじゃないのかなあ?」

「すごいですねえ。よくそんな風にそうやって、考えられますね。でも、そこへもっていく前に、メンバーさんが、僕の事を信用してくれるかどうか、が問題なのではないですか?」

高瀬さんは、びっくりして杉三のほうを見た。

「だったら、そっちのほうを優先させろよ。ドイツリートの面白さを伝えるほうを先手として出してみろ。何か面白い曲というものはないの?」

「そうですねえ、、、。面白い曲ですか。大体ドイツリートで歌う合唱曲と言いますと、基本的には、

宗教音楽ばっかりになってしまいますね、、、。」

「ブラームスのドイツレクイエムとかですか?」

腕組をして考え込む高瀬さんに、水穂が細い声でヒントを出した。

「そうじゃなくて、もっとさあ、もっと身近なものってないの?普段よく耳にするようなそういう曲って、本当にないのかよ。」

杉三に言われて、高瀬さんはまた考え込んでしまう。大体の宗教音楽は日本ではあまり知られていない。ヨハネ受難曲とか、ベートーベンの荘厳ミサ曲などが有名だが、それらの曲だって大曲すぎて、日本で歌われることは極めて少ない。日本のクラシック音楽というものは、もう少し、敷居を低くしないと身分の高い人の、専用音楽となってしまいそうだ。

「そうですねえ。身近な音楽と言えば、何ですかね。時折、テレビなんかで耳にする音楽はありますけどねえ。でも、其れだって、商品名に歌詞を変えたりしていて、しっかりと聞かせることはないんじゃありませんか?」

たしかに、高瀬さんの言う通り、テレビのコマーシャルで、かかってくる音楽はたまにある。だけど、変な風に歌詞を変えたりして、それでは本当の音楽の価値は伝えられない。

「うーん何かないかなあ。そういう発声をしてさ、比較的知られている曲。僕はバロックが大好きだが、そういう人じゃなくても、割と曲が知られているという、、、。」

杉三が頭をひねって考えていると、急に水穂がせき込み始めた。杉三が急いで背中をたたいてやったりしながら、

「おい、バカ!こんな時にやるな。こういう時に限って、なんでこう、咳き込むかなあ?」

と言った。幸い数分後、咳き込むのは止まってくれたが、杉三も高瀬さんも大きなため息をつく。

「ごめんなさい。申し訳ないです。」

その通り、申し訳なさそうな顔をして、水穂は謝罪したが、雰囲気を一度壊してしまったことは否めなかった。

「まあ、謝ってくれたから、続けようぜ。えーと、たまに耳にする宗教音楽と言えば、、、。」

と、一生懸命杉三が頭を抱えていると、

「ヘンデルのハレルヤコーラスとか。」

と、小さな声が聞こえてきた。

声の主は、水穂だ。

「よし、それで行こう。」

たしかに其れであれば、テレビコマーシャルなどで、多少耳にしているはずであった。

というか、ほかに、耳にしたことのある、宗教音楽なんて、ないかもしれないと思われた。だからもうこれを課題曲として提示する以外方法はなかったのだ。

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