本篇21、思いのたけ
増田朋美
第一章
思いのたけ
第一章
もう春はそこまでというのに、今日は雪が降った。
「やれやれ、今年は役に立たないなあ。本当に今年は何時まで経っても寒いんだなあ。そのうち、急に暑くなるんだぜ、これがよ。」
杉三が、そういいながら四畳半に入ってきた。
「ほれ、ご飯にしよ。今日は二人分作ったから、一緒に食おう。」
そういいながら杉三は、水穂の枕元に、おかゆの入った鍋を置いた。
「ほらあ、今日はうまいぞう。ちょっとさあ、最近さあ、味がなくてつまんなかっただろ。だからさ、ちょっとシイタケを入れてみた。どうだろうかな?」
つまらないと言っても、シイタケ程度であるが、それでも工夫をしてくれている。
「水穂さん。」
そう声をかけても、水穂は眠っている。反応一つしない。
「お、おい、起きろよ。ご飯だよ。起きて頂戴。早くしないと、おかゆが冷めちゃう。人はまたせてもかゆは待たすなって、言うじゃないか。ほら、起きろ。」
それでも眠ったまま、反応はしなかった。
「おーい、起きてくれ。ははあ、そうなると、また、例の強い薬飲んだな。多分、僕が来る前に、大変なことになったか。それで、眠っているという訳ね。」
たしかに、枕元に吸い飲みがあった。
「僕は、変なタイミングでご飯を食べさせに来たという訳か。」
あーあ、と、杉三は、でかい声で言ってため息をついた。
「これじゃあ、暫く、眠ったままかよ。これでは、暫く目を覚まさないな。おかゆがまずくなっちまう。これでは作り直しか。」
でも、それを言っても、あとはそれ以上不満を漏らさないのが杉ちゃんである。それが、ほかの人間とは明らかに違うところだ。そうなると、食べ物をむだにするなとか、そういうお説教が出てくるんだろうが、今はこうするしかほかにない。
「水穂さん、仕方ないものはしかたないな。さて、戻るかな。」
と、杉三が言いかけたとき、ガラッと玄関の入り口が開いた。
「あれ、どなたかいらしたのかいな?」
杉三がそういうと、
「おーい、水穂!いるかあ!一寸相談があるんだけどさあ!」
声の主はすぐにわかった。
「あ、広上さんだ。なんだろう?相談って。」
杉三が、玄関に行く前に、でかい声で、
「わあっはははははは!」
という声が聞こえてくる。
「はれえ、誰かが僕らの事を馬鹿笑いしている、、、?」
と、杉三はつぶやいた。
同時に広上さんが四畳半にやってくる足音がしてくるが、それと同時に、
「わあっははは、わあっははは!」
と笑う声も近づいてくるのだ。
「広上さんどうしたのかな。ひどく泥酔したのだろうか?それとも、頭のねじが外れたのだろうか?」
同時に、布団のうえから、ん、んんと声がして水穂も目を覚ます。
「なんだ目が覚めちゃったぞ。」
「誰か笑ってる、、、。落語でも流したの?」
水穂が細い声で呟くと、
「おーい、久しぶりだなあ。具合どう?」
まさしく広上さん本人が、そこに立っていた。
でも、泥酔しているとか、おかしくなったような様子は少しもない。
「広上さんどうしたの?ここへ来るときすごい馬鹿笑いして。」
杉三がそう聞くと、
「いや、これはペットのペーターくんだ。ワライカワセミのな。」
と、持っていた四角い鳥かごを持ち上げて笑い声の主を見せてくれた。
「広上さんがペット飼い始めたの?」
たしかに、一匹の笑い翡翠がわはははは、わはははは、と泣いているのである。
「へえ、笑い翡翠のペーター君か。それはいいなあ。しかし、ペーターという名前は、広上さんがつけたの?」
杉三がそう聞くと、
「おう。俺は日本式の名前を付けるのは、ちょっと苦手だもんでなあ。」
とにこやかに笑って、広上さんは言った。
「それでペーター君か。しかし、ペットを飼い始めるなんて、広上さんも。」
「年とったなあ、てか?」
杉三がそういうと、広上さんは一寸冗談ぽく言った。
「一体どこで買ったの?笑い翡翠のペーター君。」
「ショッピングモールの中だよ。ほら、沼津で新しいショッピングモールができたの知ってる?そこにさ、ペットショップがオープンしてさあ。こいつが格安で売られていた。まあ、特に姿がきれいというわけでもないしこんな素朴な鳴き声で、特に魅力のあるカナリアとは違うけどさ、なんだかかわいいなと思って、買ってきたわけ。どうだ、可愛いだろう?」
「可愛いというか、不思議でしょうがないのよ。なんで広上さんがこんな鳴き声のする素朴な鳥をペットとして飼うのかが。」
杉三がそう正直な感想を言った。
「え?なんでだ?そんなにおかしいかあな?俺がそんな鳥をペットショップで買うなんて。」
「だって、似合わないんだもん。広上さんみたいな人が。」
「だけど、可愛いなと思ったので、買ってきてしまったんだが、、、。」
広上さんは頭を掻いた。
また、わはははは、わはははははとさえずるペーター君。ほんとに誰かが、他人のことをばかわらいしているみたいで、可愛いペットというよりも、どこかの外国のコメディアンが、やってきたような気がした。
ところが、肝心の水穂だけが天井を見つめて、無反応なまんまだった。
「何か言ってくれないもんだろか。」
がっかりと落ち込む、広上さん。
実は、目が覚めても、水穂は薬のせいであたまがぼんやりしていて、広上さんの話にも、反応を示せなかったのである。
「水穂、お前何か言ってもらえないかな。」
広上さんはさらに落ち込んだ。
「正直にいいな。水穂さん笑わせたくて、その笑い翡翠のペーター君を買ってきたんでしょ。そう、正直に言いなよ。本当は、俺に何かできることないかなとか、そういうこと考えて、それで買ってきたんでしょう?違うの?」
「ばれたか。」
広上さんはため息をついた。
「杉ちゃんにばれたらおしまいだ。俺、そうだったんだよ。それで連れてきたの。こうやって馬鹿わらいしてくれたら、お前も、楽になるんじゃないかって。そう考えて。だけど、もう遅すぎたようだな。」
「ごめん、、、。」
水穂は静かにため息をついた。
「もう、其れしか言えんのか?」
「ごめん、、、。」
「でもよ。もうこんなに辛そうとは、思わなかったぜ。せめてもうちょっとからだが、動いてくれるのかと思っていたのだけど。それではな。あーあ、残念だ。」
広上さんの心遣いにもこたえてやれないのが、今の水穂なのかもしれないと思われた。もう、薬が回っていて、何をいうのかも考えられないほど、思考力が落ちていた。
「そうか。そうなると、俺の面目丸つぶれだな。高瀬さんにはあやまっておこう。」
ぼそっとつぶやく広上さん。
今度は、広上さんをバカにするかのように、ペーター君は、わはははは!わははは!と鳴いた。
「高瀬さん?」
不意に水穂はその言葉を聞いて、思わず口にした。高瀬さんという言葉に何か思い出すことがあった。
「もしかして、あの、声楽の高瀬さん?」
「声楽の高瀬さんって、もしかしたら、高瀬昭雄さんかな?」
今度は杉三までもがそう言い出す。
「高瀬昭雄さんと言えば、ミラノのスカラ座で歌うたっているというあの高瀬さんかな?」
「まさしく!その高瀬さんだよ。その高瀬さんが、お前に相談したいことがあるんだって。初めは、俺に相談を持ち掛けて来たんだけど、俺が、そういう話は水穂のほうがいいだろうって言ったら、じゃあ、できるだけ早くこっちへ来るから、すぐに会えるように話をつけてくれって、俺に行ってきたんだよ!」
なるほどねえ。そういう魂胆があったわけか。
「しかし、高瀬さんは、今はイタリアでは?」
「それがさ、今は日本にクラシック音楽を広めるためにこっちへ来ているのさ!日本でも、アマチュアのバンドが結構増えてな、その指導者が足りてないんだよ。」
なるほど。そうなのかもしれない。しかし、高瀬さんのような人を呼べるアマチュアのバンド何て、ずいぶん金持ちのバンドもあるものだなあと、杉三も水穂も思った。
「結構あるんですね。大物を呼んで演奏会でもするアマチュアのバンド。」
「まあそうなんだ、今回は合唱団だが、なんとも、指導者がイタリアへ留学することになってな。代わりに高瀬さんが指導をしているが、前の指導者の軋轢を埋め合わせるのが、たいへんなんだって。それを相談したいという事だ。」
よくある話なのだが、合唱団のメンバーさんにとっては、大事な指導者が勝手に行ってしまい、迷惑なものだろう。指導者が戻ってくると、最高に劣化していた、何てことはよくある話なので。
「まあ、音大出た後、すぐにアマチュア指導をするとそうなりやすいんだよね。そして、メンバーさんは年寄りばっかりだし。その人たちとの軋轢は、本当に大変らしいよ。」
高瀬さんもご苦労なことだ。そんな様ではまず、信頼を取り戻すことからしなければならない。
「だからあ、お前に聞いてもらいたかったようだよ。高瀬さんは。」
「わかりました。体調次第になってしまいますが、高瀬さんのお話を聞きます。」
水穂は静かにそういった。
「おう!やってくれるか!じゃあ、高瀬さんに話してみるよ!」
喜ぶ広上さんだが、友人で会っても、高瀬さんとさん付でいうのが、やっぱり身分の高い人だなあと思った。
数日後。その日も、春が近いと言っておきながら、なぜか雪が降っていた。
「こんにちは。ここでいいんですかな。」
よく通る綺麗な発音でしゃべりながら、高瀬さんという人が製鉄所にやってきた。連れて来たのはもちろん広上さんだ。ペットのペーター君も一緒にいた。
高瀬さんは、中年の禿げ頭の男性で、声と顔が一致しない、という言葉にふさわしい人物だった。つまり声だけ聴くと素晴らしく響くいい声なのだが、顔を見ると、大きな丸あたまという言葉がまさにぴったりで、黒縁のメガネがさらにそれを助長していた。それに、テノール歌手という職業のせいか、体の筋肉はムチムチで、なんだか、異様な雰囲気のする人物に見えた。
「えーと、この奥の四畳半にいるのだが、、、。」
利用者に、相談があるので来たと説明し、広上さんは、高瀬さんを奥の四畳半に招き入れる。
「あんな大天才が、四畳半に住んでいるなんて、どういう事なんだろう?」
と、高瀬さんは首をひねっていた。
「ここだよ。」
広上さんは、四畳半のふすまを開ける。
「おい、連れてきたぜ。高瀬昭雄さんだ。ちょっと話せるか?」
待っていた水穂は、布団に座ろうと試みるが、それは出来ず、布団に倒れ込んでしまった。
「あ、ああ、これではダメじゃないか。一体どうしてこんな風になってしまったんだよ。」
と、高瀬さんが、不思議そうな顔で自分を見ているのがわかる。
「ごめんなさい。かなり前からこの姿です。で、高瀬さん、何ですか。僕に用事って。」
水穂は、高瀬さんに言った。
「あ、あのねえ。実は、僕が指導している合唱団ですごく歌の上手い子がいてね。」
高瀬さんは、そんな話を始める。
「なんとも、高校時代に、ひどいことを言われて以来、ずっと引きこもってしまったようなんだが、
間違いなく歌の才能がある子なんだ。その子を何とかして、音楽学校まで行かせてやりたいので、彼の伴奏役をやってもらいたいんだよ。それを君に頼みたかったのだけど、寝たきりでは、、、無理か。」
「ごめんなさい。そんな大役はできません。」
「そうだよなあ。ゴドフスキーの大曲をあれだけ流暢に弾きこなした君であれば、彼も、喜んでくれると思ったんだけどねえ。その体では、無理だよなあ。音楽学校をでれば、こういうこともできるんだよと、君を通して伝えてやりたいと思ったが、それもできないか。」
高瀬さんは、残念そうに言った。
「申し訳ありません。もうこの体では、無理です。」
「しかし、残念だねえ。もう少し、体が持ってくれれば、そこを武器としてまた何か別の人を勇気づけることもできるかもしれないじゃないか。ほら、声楽家のべー・チェチョルさんなんかもそうだろう?重い病気にかかっても、何とか体を回復してさ、それを生かして病院なんかを慰問して、患者さんたちを励ましてやるような音楽家も、今はいっぱいいる。それをすることくらいは、できるようになってほしいなあ。」
「いえ、無理です。そういう憐れみをもらうような、演奏活動はしたくありません。」
高瀬さんの話に、水穂は突き出すように否定した。
「そんな、憐れみをもらうなんて極端すぎるよ。憐れみというより、自分のためを思って演奏活動をするんじゃないのかい?」
「いえ、それなら、姿を消した方がいい。つまり、音楽の世界から身を引くべきです。」
水穂は、弱弱しく、しかしきっぱりといった。
「しかし。」
と、また広上さんが、腕を組んで言う。
「それでは、伴奏役をどうやって確保すればいいんだろう?」
「うーん、、、。」
高瀬さんは、暫く考え込んでしまった。
「誰かこの近辺で、音楽学校を出た者はいないかな?できれば、男性のほうがいい。うんと傷ついている子のようなので、女性は避けたい。どうしても、音楽は、女子のモノっていう考え方が強くて、
音楽をしている女性は、高慢で威圧的な人がとても多いからねえ、、、。」
たしかにそこはそうである。高瀬さんの言う通り、特にピアノ関係でちやほやされている女の子は、幼い時からほかの子のあこがれを掴んでいることが多く、非常に態度が大きい女性が多いことが多かった。
「そうですねえ。男性となると、どうしても、音楽学校を出ていることをコンプレックスにしている人が多いからねえ。俺はもう少し、堂々としてもいいと思うんだが。どうも最近の若い奴というのはなあ。」
広上さんは、大きなため息をついた。
「しかし、なんでそんなにこだわるんですか?音楽学校を目指すのなら、多少、いじめに耐えられる経済力はあるのでは?それに、ご家族のご了承も得ているでしょうし。」
「だからな、右城君。」
高瀬さんは、意味深そうに言った。
「僕は、彼の過去を聞いて、本当にかわいそうだと思ったんだ。純粋に音楽を愛しているのは間違いないが、それを、学校の先生が一般常識ではないとして、むしり取ってしまった。彼自身も傷ついて、人間を信じられなくなってしまっているし、彼の周りも、音楽何てもう二度とやらないでくれという雰囲気だ。そうじゃなくて、本当の音楽の世界には、そんな悪い人はおらず、素晴らしい世界がまっているという事を、彼に身をもって体験してもらいたい。それに、彼には、ちゃんと歌唱力もあり、表現力も持っている。だから、一度音楽ってこんなに素晴らしいんだという事を、知ってもらいたいんだよ。」
高瀬さん、そういう話は、かえって有害ですし、家庭崩壊の一因です。一度音楽関係で失敗した場合は、二度とそこへかかわらせないほうが、本人は楽に生きられると思います。と、水穂は反論しようとしたが、口を開いたのと同時に咳が出てしまった。
「おいおい、ここでまさかやらないでくれよな。」
広上さんがそういっても、そんなことは難しかった。水穂はせき込みながら枕元に置かれているタオルを何とかしてとって、口元を拭いたのだが、その白いタオルが赤く染まってしまったのを、広上さんも、高瀬さんも、しっかりと見てしまった。
「右城君、君はもう少し、音楽家であることに責任をもって生きたほうがいいよ。そうすれば、自身で病気を何とかしようという気にもなるだろう。君のように、ゴドフスキーの大曲を平気で弾きこなすなんて、そうはいないんだからね。それを考えて、もう少し、しっかり生きようという気になってくれ。」
水穂は、この問いかけに返事をすることもできなかったのであった。
「ほんとだ。俺だって、リストのピアノ協奏曲は、まだあきらめていないからな。」
と、広上さんもぼそっという。
「君のような人は、本当は若い音楽家のお手本にならなきゃいけないんだよ。それを放棄して、こんな風に病臥していても、何も評価はくれないだろう。それよりも、病気に立ち向かうというか、そういう姿勢を取らなくちゃ。僕たちは、その少年だって、そうなってほしいと思っているんだから、音楽学校へ行けと勧めているんだからね。」
高瀬さんは、一生懸命水穂を説得している。でも、もうそれには時すでに遅すぎるような気がした。
「そんなこと、できやしませんよ。負けたものは一生負けのままです。勝つことは出来ません。」
咳き込みながら、水穂は、そのように言った。
「しかし、高瀬さん。その少年というのはどこの誰なんだよ。高瀬さんが教えている合唱団に入っているのかい?」
広上さんがそう聞くと、
「ああ、名前は竹田友紀君だ。岳南鉄道の沿線に住んでいる子だ。すごく良い声を持っているのだが、
学校の先生に、ひどいことを言われて、音楽どころか生きる気力すらなくしてしまっているような子だよ。」
と、高瀬さんは答えた。
竹田友紀。
その名はどこかで聞いたおぼえがあった。
たしか、青柳教授のもとへ訪れた合唱団で、名前は忘れてしまったが、その少年が在籍していたようなところがあった気がする。時たま、合唱や、お箏教室などが、慰問演奏などに来たことがあった。大体のところは自己本位で、どうせ自身の評価を上げるために勝手にやって、勝手に演奏しているだけであり、たいして交流を持つわけでもない。しかし、その竹田友紀という少年は、また違うのだろうか?
かいつまんで言うと、こういうことであった。ある合唱団に所属している竹田友紀君を音楽学校へ行かせたいので、その声楽伴奏を、高瀬さんはお願いに来たのだ。
しかし、その合唱団の名と、元の指導者の名を、水穂は思い出すことがどうしてもできなかった。
たしか、夏の暑いときに、こっちへやってきた、合唱団に間違いはないのだが。
ああ、何だろう、と考えていると、またペーター君がわははは!と笑いだす。もしかしたら、彼が笑っているのは自分なのかもしれないと水穂は思った。
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