第3話 血族という名の呪い

 読み始めたころは空高く掛かっていた太陽も、いまやすっかり影も形もない。

 最後の頁を開いたまま、柊吾はしばらく放心していた。彼には内容の一割も理解できなかっただろう。それでも榊貞雄がなそうとしていた計画の悍ましさは十分に伝わった。正気の沙汰ではない。純粋な治療目的から出発したはずの医療実験は、やがて不老不死を歪な形で実現させようとする悪魔の研究へと姿を変えたのだ。

 崇仁は父を恨む誰かが一族代々に取り憑いていると考えた。しかし実際は、誰からの恨みでもなかった。榊原家を何代にもわたって苦しめてきたものの正体は、榊貞雄の云う〈霊性遺伝〉――遺伝子に憑依した先祖の霊魂だったのである。遺伝とともに子孫に脈々と引き継がれる呪い……これは紛れもなく「血の呪い」なのだ。


 ……ぎ……。

 不意に微かな異音が耳を掠め、彼は辺りに視線を走らせる。〝それ〟は居間の隅に佇んでいた。崇仁の手記と同じように、白服の男がゆっくりと近づいてきたのだ。その距離は僅か十メートル弱。

(近い……近すぎる)

 喉元に脈打つ鼓動を感じ、彼は生まれて初めて心の底から男が怖いと思った。

 幸か不幸か、この状況下でも不思議と彼の脳は冷静に動いていた。

(いまさらどう抗おうとも手遅れだ。あの男は自分の脳裡にしかいないのだから。だがこれからの世代ならあるいは……)

 彼は自身が辿るであろう運命をすんなりと受け入れ、早くも〝先〟のことを案じていた。呪われた遺伝子は後世に残すべきではない。先祖の〝いれもの〟になるためだけに生を授かる人間など存在してはならないのだ、と。

 であれば、彼が次に採るべき行動は限られていた。この血という呪縛を断ち切る唯一の方法は、子孫を残さないことだ。つまり、貞雄に憑依される前に去勢するか、それが間に合わなければ、自死――。

 他に選択肢はない、自分の代で血の繋がりそのものを断絶させるのだ。そう頭でははっきりと理解していたものの、それでもなお彼は実行に移せなかった。

 父と祖父の手記も、曾祖父の実験ノートも、目の前の光景さえも、すべてが妄想だったら? 曾祖父の常軌を逸した妄想が子孫へ伝播したに過ぎないとしたら? そんな疑念を拭い去れなかったからだ。元より彼の仮説はとても信じられる内容ではない。

 などと、あれこれ逡巡するうちに白服の男との距離は五メートル弱にまで縮まっていた。その輪郭は依然ぼやぼやと朧げに霞んでいたが、男がどこの誰かははっきりと判った。やはり――。

 彼の予感は的中した。〈臺実験〉の犠牲者などではない。新聞記事に載っていた男と同じ顔の……その白い〝手術衣〟に身を包んだ男は、柊吾の曾祖父にして実験の施験者、榊貞雄そのひとであった。

 三メートル。

 果たして実験は成功していた。彼は生きていたのだ。いま、この瞬間も。崇仁、巌三、そして柊吾へ……脈々として受け継がれてきた〝血〟の中で。榊貞雄から後の世代は、全員が彼の器になるためだけに生を受け、一人残らず彼に取って代わられる運命なのだ。

 じりじりと無情かつ着実に詰められゆく距離。

 二メートル。

 彼は生まれて初めて神に祈った。どうかすべてが妄想でありますように、と。自分に云い聞かせるように、一途に祈り続けた――が、

 ……ぎぃ……ぎぃぎぃ……。

 聞き覚えのある音――今度は柊吾ではない。脊髄を鷲掴みされたかのような、痛みを伴う悪寒が彼を襲った。

 一メートル。

 歯をぐいと剥き出し、上顎と下顎を横に擦り合わせるその醜怪な動きはますます激しさを増し、それに呼応していや増す軋り音が柊吾の鼓膜を劈く。

 ……ぎぃ……ぎぎぃ……ぎぃぎぃぎぎぃぎぎぎぃぎぎぎぎぎぎぎいいぃぃ……

 両者を隔てていた空間は露と消え失せた。

 彼の目の前に立った榊貞雄は、おもむろに口を開ける。がぱぁ、と見る間にその大きさは柊吾の顔全体を軽々と上回った。

 反時計回りの渦巻――自分の生はすべてこの瞬間のためにあった……産まれ出でるずっと前から、すでにその何層もの同心円状の迷宮に搦め取られていたのだ……逃れる術はないと悟った彼は、思考さえ放棄した。

 あんぐりと開いた口が視界を真黒まっくろに遮り、脳裡がぐるぐると渦を巻き出す。無限の虚無につづく渦巻の奥へ……奥へ……そのまた奥へ……と、彼の意識は止め処なく吸い込まれ続けた。

 遠のく聴覚が最後に拾ったのは、自分のくびが寸断される鈍い音であった。


     *


 瞼越しの微光が、それとなくに夜明けを告げた。

 重く鎖された瞼をやっとの思いで引き剥がすと、頭を振りながらゆっくりと身を起こし、よろよろと覚束ない足取りで洗面所へと向かう。

 鏡に映る自身の姿を一目見て、彼はにんまりと微笑み、そしてコッ、コッと満足そうに舌を鳴らした。



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霊性遺伝 東方雅人 @moviegentleman

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