悔恨

 包み隠さずに言うなら、かなり落ち込んでしまった。

 タイプライターそのものは、大した痛手ではない。殆ど壊れていたようなものだし、幸運、それもとびっきりの僥倖に恵まれて手に入れた財産からすれば、ほんの些細な損失だ。だから、それが壊れたこと自体は、尾を引く程のことではない。

 インクでどろどろになった少女を老メイドへ引き渡して、自分は片付けにかかった。書面を綺麗にしまっておいたのは幸いだった。要らない布地を沢山持ってきてもらって、まずは本体をそれに包んで縛り、雑巾を手に伸び切ったインクリボンを始末して、外れて散らばった部品を拾い集める。最後に、おざなりながらインクを拭きとって、詳細な後始末はメイドへ引き継ぐこととした。

 溜息が零れた。感傷に浸るなど、信じられないことだった。

 しかし、この屋敷へと持ち込んだ時点で気付くべきだったのだ。タイプライター、かつての生業は、自分の中で予想外に大きな領域を占めていた。あれほど退屈で、非創造的で、薄給で、何のいいところもないと思っていた仕事は、確かに自分の中心だった。それが抜け落ちた喪失感は、言葉にし難いものだった。

「……ふざけるな」

 誰もいない書斎で、口に出た。歯ぎしりをして、インク塗れの手を握りしめた。

 認めたくなかった。あんなに馬鹿にして、見下して、嫌いだった営みが自分の性だと、本質だと、ある種の誇りだったのだと、決して受け入れられることではなかった。

 カバーに包まれた、新品のロール紙が目に入る。インクをぶちまけた机の上でも、その中身は白紙のままだった。俺は、もう一度手を拭ってからそれを広げ、元の主人が使ったであろう羽根ペンを手に取った。

 何も、書くことが浮かばなかった。

 それが事実だった。今まで書き連ねてきたことは、全てが借り物だった。居心地の悪い薄汚れたデスクで、悪態をつきながらタイプしてきたことも、遺された覚書を元に、試行錯誤しながらまとめてきた証書も、誰かが考えたことを刷り増しているだけで、輪転機と何も変わらなかった。そして何より腹立たしいのは、その営みに満足していた自分。変われると思ってやってきて、その実同じことを繰り返しただけだというのに、成し遂げた気分になって浮かれていた俺自身だった。

 いつの間に握りしめた紙には、大きく皺が寄っていた。手についたインクが移って、まるで意味を持たない、虫の這ったような染みを作っていた。今の俺から滲み出てきたそれは見るに耐えない代物で、いっそ金庫にしまい込んだ複写の方が小綺麗に違いなかった。いや、もしかしたら、何もないまっさらな紙さえ、これよりはよほど体裁が良かったかもしれない。

 白紙は、いずれ作品になり得るから。

 夜、書斎へやって来た少女は、いつになくしおらしい様子だった。幼心に、タイプライターを壊したことがとても迷惑だったのだと、敏感に感じ取ったようだ。あるいは、老メイドがきつく叱ったのかもしれない。今までで一番、父親ではなく、俺のことを見つめているような気がした。

 よりにもよって、俺自身すら見るに耐えない、醜態をだ。

「おとうさん、ごめんなさい」

 俯いて、ちょっとだけ泣きそうになりながら、少女が言った。丁寧に梳かれた髪は僅かに金を帯びたクリーム色をして、ウェーブを描きながら華奢な肩へしなだれかかっていた。長い睫毛に覆われた瞳は潤み、今にも消えてしまいそうな水の色をしている。この世全ての愛くるしさを集めてきたような、天使の如き姿に、心を許さない者は少ないだろう。今は亡き父親が、散々溺愛していたというのも頷ける。

「あたし、あれ、見たことなくて。どんなものか知りたくて、おとうさんの大切なものだって気づけなくて、えっと……」

「気にするな。大したものじゃない」

 しかし、そうでなくとも、俺は許した。そも、少女を恨む理由がどこにもなかった。少女はきっかけを作っただけであって、俺が憎んだのは俺自身の浅はかさだった。

 だが、今までの人生で一、二を争うくらい苛立っていたのは確かだ。口の端を歪めて、つい、皮肉が口に出た。

「しかし、お前がそんなことを言うなんて、明日は雪が降るな」

 少女は呆然として、こちらを見た。まずいことを言ったと焦るが、意外にも、そこへは見たこともないような笑顔が花咲いた。

「ほんとう?」

 完全に虚を衝かれて、戸惑う。俺はしどろもどろのまま答えた。

「……ああ。いい子にしているんだぞ」

「うん! えっと、おやすみなさい」

 言うなり、少女はシーツへ包まった。真意は分かりかねたが、喜んでいるなら良いことだろうと思った。大人しくしてくれるなら、こちらとしても歓迎だ。

 卓上のランタンだけ残し、書斎の灯りを消して回ると、眠る少女を背にして机へ向かった。いつになく冷え込んだ夜気が肌に染みるようで、ペンを握る指先が震えた。

 本当に雪が降るかもしれない。そう考えた自分を、馬鹿げていると思った。

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