桜の君
灰島懐音
プロローグ 小学六年生 春
ふと足を止めたのは、やたらと目につく鮮やか過ぎるピンクのポスターが視界に入って仕方がなかったからだ。
真ん中に居座るのはおそらくメインを張るであろう猛獣。周りを彩る魔法のようなエフェクトと、魔術師めいた恰好の女性。ポスターの下には、サーカス団の名前と、公演日程と公演時間、それから公演場所が書いてある。小学校の掲示板にサーカスのポスターとは、なかなか斬新な気もしたが、そうでもないかと思い直した。子供はこういうものを喜ぶ。大人も楽しめるだろうけれど。私はそんなことを考えながら、じっとそれを眺めた。
道化はいなかった。
「…………」
上から下までつぶさに観察してみても、その姿はどこにもない。大事な大事な客寄せパンダ。おどけてみせて、笑ってみせて、わざと失敗しては人々の笑いを誘い会場を温める。
必ずいるはずの役。それでも映らない顔貌(かおかたち)。
「…………」
ビリリとポスターを引き剥がす派手な音に、なんだなんだと近くの職員室から若い男性教師が出てきた。そちらを向いた私と目が合うと、彼は鹿爪らしい顔でため息を吐く。
「鵯(ひよどり)、お前何をしているんだ」
呆れたような声。怒るではないのは、普段私がきちんと『いい子』を演じているからだろう。何か意味がある、そう思ってくれているのかもしれない。そう感じてくれるように、私は日々気を付けて過ごしている。年相応、小学生らしい行動を取りながら、大人には気に入られるような、厭(いや)な子供を演じている。
「センセー、これ、公演日程過ぎてるよ」
くしゃりと握ったポスターを開き、指で差し示してみせる。一昨日の日曜で、一通りの興行は終了しているようだった。剥がさなかった誰かのことを、別に杜撰(ずさん)だとは思っていない。教師は忙しい。しばらく前に貼った広告のことなど、学校行事ならともかく、観に行きもしなかったであろう舞台の日付までは覚えてはいられないのだ。
「ああ、すまん。うっかりしてた」
「しょうがないなー。まあいいや。あ、ゴミはそっちで捨ててよね。俺、これから図書室行くんだからさ」
握った箇所に皺の寄ってしまった張り紙を教師に押し付け、私は身を翻す。嘘ではない。図書室にはこれから向かうところであった。……答えを探しに。
「珍しいな、お前が図書室なんて」
「あ、センセ、俺のこと不真面目だって思ってない? たまには本くらい読みます~。まあ漫画ばっかだけどね」
「なんだ、やっぱり不真面目じゃないか」
「言っとけ! 見てろよ次の国語のテスト。赤点回避するからな!」
「たまには満点でも取ってくれよ」
「善処しまーす」
軽口を叩きあって、廊下を駆ける。「廊下を走るんじゃない!」と、狙い通りの声が飛んできた。比較的私たちと歳の近い教師には、こういった友達じみた付き合いを好む者が多い。なので彼らが好きそうなわかりやすい行動を取って、「はいはい!」と返事する。案の定、「『はい』は一回!」と言われた。望んだ答えを得て、私は面白いやらつまらないやらで、走るのをやめると早足で歩き出した。
*…***…*
私に未来はない。
などというと大袈裟か。別に、死ぬというわけではないのだから。ただ、自由意志がないだけだ。私は、親に望まれるように生きることしかできない。それだけだ。
清く正しく美しく、そして誰よりも強く生きろと父は言う。この言葉だけ受けると良い親に聞こえるから不思議だ。実際のところ、彼は私に命じているのだが。そして同時に、誰よりも強く、と言いながら、自分より優れることは面白く思っていない、そんな小さい男だ。
父は優秀ではあった。若くして官僚に上り詰めた彼は多数の部下を容易く動かし、また当然のように先を見通す力もあり、何かことが起こるより早く手を打つ。人を動かすすべに長けており、その思考ややり口は私にも植え付けられていた。
ただ、彼は典型的な、外面が良いだけの人間であった。外面が良いといっても、他者に舐められることを嫌う彼は、厳しい人ではあったと思う。仕事ぶりを見たわけではないが、プライドが人一倍高いことは容易に窺えたので、きっとそうであるのだろう。部下や上司からの信頼はあっても慕われるタイプではない。そんな父は、家ではまさに暴君だといえた。自分の思い通りにいかないと、簡単に手を上げる。恐怖政治というわけではない。ただ、思い通りに動かして当然、そう思っていただけだろう。なので、自分の思惑と違う動きをすると、単に腹が立ったのではないだろうか。どうしてこんな簡単なことができない。それだからお前は駄目なのだ。それが口癖であった。子供である私はもちろん、自我のある大人、つまるところ母であっても、意思を無視し、自分の思うように躾けるような素振りを見せていた。
当然、母は限界を迎えた。あれは私が幼稚園児になってしばらくが経った頃だったと思う。彼女は、精神を病んだ。当然だ。やることなすことすべて否定され、完璧にやり遂げてもして当たり前という顔をされ、礼もなく謝罪もない。しかし外ではいい顔をし、妻を立てるダブルスタンダードにじわじわと、いや急速に蝕まれていった。
一度臥(ふ)せると、あとは坂道を転げ落ちる球体のようだった。止まることなく加速して、どこまでもどこまでも落ちていく。私が幼稚園を卒園する頃には、彼女は閉鎖病棟に入院するようになっていた。そうなった瞬間、父は彼女に離婚を言い渡した。世間体が悪かったから、だそうだ。病に罹(かか)った妻を切り捨てる方が余程世間体が悪く思えるが、彼がどう考えたのかは私にはわからない。心療内科にかかり始めた時も決していい顔はせず、むしろその時から疎ましそうにしていた。おかげで、通院から一年も経たずしてこうなったというわけである。本当に、可哀相だったと思う。幼い私には何もできなかった。母を慰めるために描いた家族団欒の絵を引き裂かれたことだけ、妙に強く覚えていた。
離婚が成立し、なんの言葉を掛けられることもなく慰謝料だけ渡された彼女は、病状が悪化して別の病院に転院となったらしいことを聞いた。しかし、それから先はさっぱりだった。父が母との関係を完璧に絶ったからである。病院からの電話には出もしなかった。私が受話器を取ることも当然許されず、今では生きているのか死んでいるのか、それすらわからない。
さて、晴れて父子家庭となった私は、すっかり育児放棄された。齢(よわい)六つにして鍵っ子となり、また家事の全てを受け持つこととなったわけである。とはいえ、身の回りのことだけであった。父は自分のテリトリーに人が入り込むことは嫌ったし、自分のことは自分でやれ、と言っていたからだ。人に言うくらいなので、自分もその発言を遵守(じゅんしゅ)していた。逆に言えば、それ以外はしなかったのだけれど。
父曰く『母がおかしく』なって以来、彼はいっそう私を躾けるようになった。子供らしさの一切を排除させ、徹底的に礼儀を叩き込んだ。いつしか私は『僕』であった一人称も変わり、敬語しか話さなくなったが、学校でそのように振る舞うと「なんでそんな校長先生みたいな話し方をするの?」「男なのに私って言うの、変」だとか言われたので、世間で生き抜くために上っ面を覚えた。そのことに関して父は何も言わなかったので、擬態を徹底したというわけだ。
愛情なんて、なかったのだと思う。
先に言ったとおり、彼は自分の思い通りに動くものが好きなだけで、子供の成長を喜ぶことはなかったし、できて当然だという顔をしていた。できなければ落胆された。母を失った私は、そんな彼であろうと縋るものはそこしかなかったため、必死で気に入られるよう努力した。家では徹底して凛として、彼を立て、礼儀作法を守った。
学校で行われる試験はひとつの指標であったが、私は『小学生の私』を演じるためにしばしば悪い点も取ってきたので、彼はそのたびに眉を顰(ひそ)めた。が、結局のところ実際にできているのならば許してくれたので、月に一度、彼が『わざわざ』作ったテストを受けることとなった。そこで満点さえ取れば、何も言われない。中学受験をさせたがっているようではなく、ただ彼と同じ道、とどのつまり、結果としていい大学に入り、官僚となる道を歩むことを言いつけられていた私は、今の時分――マジョリティから外れたものを排除しようとする、無邪気で残酷な子供時代は――周りに溶け込むことが優先だと考えて、赤点を取ったりもしたというわけだ。
笑って。
おどけて。
軽口を言って。
笑って。
おどけて。
私は、ピエロのようであった。自らを殺し、望まれた役を演じる道化。学校でも、家でも、相手の見たい私を見せる。
望まれさえすれば、よかったはずなのだ。
溶け込めていれば。愛されていれば。
けれど気付いてしまったのだ、それは結局『私』ではないのだと。
誰も『私』を見ていないのだと。
望まれているようで、何も望まれていない。
どこにでもいる誰か。
そのことに、気付いてしまったのだ。
ポスターにピエロがいなかったように、彼は、私は、誰の人生にも残らない。居たという記憶は、時が経つにつれあやふやになっていき、消える。
勝手にははっと笑い声が漏れた時、心が限界に近付いていたことに、やっと気が付いた。我ながら遅すぎると思う。だけど、わからなかったのだ、愚かなことに。私は私のことすらも。
ああ、きっと、この先に希望など何ひとつないのだろう。
上手いこと空気を読んで生きていくことしか、個性を殺して演じることしか、できないのだろう。
そんな私に、なんの意味があるのだろうか。
そもそも、私とはなんなのだろうか。
まずそれ以前に、未来のない人間の生きる理由とは一体?
頑張るだけ、無駄なのではないだろうか。
だって、愛されようと努力したところで、仮面ばかり見られて、素顔を覗く者などいないのだから。
そんなわかりきった『この先』を過ごすことに、意味が見出だせなかった。
だから、今この瞬間に、息を止めてしまいたいと思った。
いつだって私は、きっと今と同じようにヘラヘラ笑って人に好まれる発言をして、そうして生きていくしかないのだと、『私』を好く人などいないのだと、気が付きたくもなかったのに、愚かでいたかったのに、だけど、嗚呼(ああ)。
「虚しい」
誰もいない廊下で小さく呟いて、図書室の扉に手をかけた。ガラリと開けた先にも、ひとけはなかった。図書委員は何をしているのだろう。サボっているのだろうか。誰の姿かたちもない。それが、ひどく、寂しかった。
背の高い書架に囲まれて薄暗いこの世界は、モノクロに見える。錯覚だなんて、わかっていた。けれども、窓の外から聞こえてくる同級生や下級生の楽しげな笑い声が、いっそう寂寥感(せきりょうかん)を煽り、気分が沈んだ。
――混ざることができたらなあ。
――何も知らず、普通に笑えたらなあ。
どれだけ楽しかっただろう。
どれだけ幸せだっただろう。
理解しすぎてしまった私は、もう、そちらに行けないのだ。
だから、答えを求めていたのだ。そんなものなどないとわかりつつ、『生きる意味』が欲しかった。
人はなぜ生きるのか。それがわかれば、少しは支えになるのかもしれない。この先も生きていく、精神的支柱ができるのかもしれない。
この学校は大きい。誰かが寄贈(きぞう)していった本も多く、小学校の図書館とはいえ、哲学書や倫理の本、宗教について語られたものがあることを知っていた私は、立ち寄ったというわけだった。隅の一角に居座って座り込み、分厚い本のページをめくる。
しかし、そのどれもが、書いてある結論は似たり寄ったりであった。数冊も読むと、私は該当ページを見ただけで薄く笑うようにすらなっていた。ああ、本当に厭な子供だ。
だってどれもが、人とは、『幸せになるために生きる』と書いてあるのだもの。
ならば幸せになるために生きることができない者は、どうしたらいい?
ねえ、お願い、答えをちょうだい。
救いを、ちょうだい。
「あの……鵯?」
その時、ためらいがちに、名前を呼ばれた。
いつの間にか誰かが図書室に入ってきていて、しかも、こんな奥まった場所にある、小難しい本ばかりの一角にいる私を見つけ出したらしい。まさか人が来るとは思ってもおらず、へたり込むようにしていた私は、驚いて顔を上げた。
そこにいたのは、クラスメイトの西井 透(にしい とおる)であった。何度か話したことはあるが、あえて仲良くはしていなかった人だ。楽観的というかポジティブというか、何事にも前向きで明るく、そんな性格から誰にでも好かれる彼は私が寄っていかなくても常に人と一緒にいたし、笑っていたし、私がその輪の中に入る意味は特になかったからである。
それにしても、人の気配に気付けないほどに没入していたとは思わなかった。それだけ追い詰められていたということだろうか。笑いたくなった。西井の手前、笑わなかったが。
いや、笑った。仮面の笑みで。
「おお、どした」
少し慌てながら作った笑みに、西井はホッとしたように眉を下げて、「見つけたから声かけたんだー」と柔らかく言った。
「その本読んでたの?」
「まさか。こんな難しそうなの読めるかよ。びっくりして座り込んじゃっただけ」
「でもこの辺、全部難しそうだよね。なんでここにいたの?」
「コーキシンで来たんだよ。アタマイー人たちはどんなもん読んでんのか、そのオンケイにあやかろうと思ってさ」
「そういうものかー」
へにゃへにゃと笑いながら頷いてみせた西井は、ふいに私の目を見つめると、「何か悩みでもあるの?」と言ってきた。急な核心に、私は内心揺らぐのを感じながらも「なんで?」といつもどおりの声を出す。
「だって、見たことない顔してたんだもの」
……まいったな。とぼけたように見えて、この男、人のことをよく見ているではないか。
「見たことない顔って?」
「悩ましげ……みたいな?」
「そりゃ、この本が難しかったからだわ。見てるだけで頭痛くなっちゃったんだもん。見ろよこのページ、ヤバくね? 文字しかねえの。漢字とかこんなに使うなっつー話だよな、マジ意味わかんなくね?」
言ってから、喋りすぎたな、と思った。不意を突かれた驚きに、つい饒舌になってしまったらしい。しかし西井はそのことに気付いた様子はなく――結局、とぼけているのか、鋭いのか、どちらなのか――、「そっかあ」と笑う。
「悩みがあるわけじゃなかったんだね! よかった!」
……よかった? なぜ? ろくに話したことのない私に、悩みがあろうとなかろうと、貴方には関係ないのに。
「あ、ねえねえそれならさ、俺の悩み聞いてくれない?」
「はあ? なんでだよ」
「俺いろいろ考えることあってさー」
「まるで俺が何も考えなしみたいな言い方やめろよな」
「そんなこと思ってないよー。むしろ考えてると思ってるから相談したいんだよね」
「いや、意味わかんねえ」
「いいじゃんいいじゃん、話し相手になってよ、寂しいんだよー」
「なら外で遊びゃいいのに。お前友達多いんだから、なんでこんなとこに来たんだか」
「まぁまぁ細かいことは気にせずに。それでねー」
「話聞くなんつってねえだろ。……ったくしょうがねえなあ。聞くだけだかんな」
「うん、ありがとー! あのね、……」
そうして西井が私に話して聞かせたのは、家でゲームができる時間が限られているだとか、お母さんのお小言が増えただとか、お小遣いを増やしてもらえないだとか、気になる子がいるのだけれど話しかけていいものかどうかだとか、そんな他愛もないものだった。
「お前の好きにすりゃいいじゃん?」
私は最初に聞くだけと言ったけれど、相槌代わりにそう返すと、西井はぱあっと嬉しそうに笑い、「じゃあ鵯に話しかけていい!?」と問いかけてきた。……気になる子って、私のことか、まさか。本人に悩みを相談してくる西井のストレートさに、私はついつられるように笑ってしまった。そう、つられるように。演技ではなく、私が、自分の意志で、心から。
なぜ、笑ったんだろう。
なぜ、笑えたんだろう。
西井はまた笑う。先程より嬉しそうに、安堵したように、優しく笑う。
「よかった」
何が?
「鵯、やっと笑ってくれた」
どういうこと?
「えへへ、俺ね、さっきから鵯に笑ってほしかったんだ」
……私に?
笑ってほしい?
……どうして。
「笑いくらいするけど。てか普通に笑ってるじゃん、いつも」
作ったものだけど。それとも私、笑顔、作れてないのかな。
「そうだけど」
なんだ、笑えているんじゃないか。西井のやつ、驚かせてくれる。
「今の笑顔、いつもと違ったし、なんか嬉しいの」
わかるのか。私の表情の違いに。……本当の、私の顔が。
「まあ、いつもの笑顔も好きなんだけどさ」
いいのか。作り物の笑顔なのに。それでも好きと言ってくれるのか。
でも、ねえ、貴方は。
私の笑顔を、喜んでくれるの?
私の存在を、認めてくれるの?
私のことに、気付いてくれたの?
そうか。彼には私が見えるのか。
なんて、勝手な願望かもしれないけれど。
私はここにいていいのだと、誰かひとりでも、一瞬でも私を、私自身を、知ってくれたのだと思うと、嬉しくて。認めてもらえたことが、本当に、本当に嬉しくて。
大多数の中の個だったとしても、それでも、「笑ってほしい」と言ってくれる誰かがいる。
それがどれだけ嬉しいことか、今、初めて知った。
ニコニコと笑う西井の表情が眩い(まばゆ)。明るくて眩しくて、目が痛くなるほどだけれど、そちら側に行きたいと、強く、強く願った。隣を歩けたらと、並び立てたらと、心の底から思った。
誰かが開けたままでいた窓から、微風(そよかぜ)が入る。舞い込んできたのは、桜の花びら。西井の髪に、ふわりと落ちた。立ち上がりつい手を伸ばし、薄紅色の花弁を摘んだ。くすぐったそうに、西井はまた笑う。綺麗だな。笑顔に、花に、そう思う。
……あれ。そんな風に思ったことなんて、なかったのに。
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