第一章:中学校一年生 春
第一章:中学校一年生 春
第一章:中学一年生 春
月日が経ち、私たちは中学に上がった。学区が同じなので、西井も当然、入学式に参列しているはずである。どこかで、校長先生の長々とした挨拶をあくびでもしながら聞いているのだろう。ポカポカと温かい、うららかな陽気である。眠気を誘われているに違いない、と勝手に思い、また、彼のことを考えている自分に気付いた。
あの日、あの時、西井が桜と共にやってきた時から、私はたびたび彼を意識するようになっていた。都合上自分からはあまり話しかけにいかなかったが、西井は図書室での宣言通り、頻繁に私に話しかけた。結果、『仲良し』と周知されるに至ったのである。その言葉をくすぐったく思ったのもまた、初めてであった。おかしなことだ。これまで誰と仲良くしても、何も感じなかったのに。いや当然か。上っ面の付き合いだったのだから。今思えば相手に失礼なことをしていたと感じる。その程度に私は、人を思いやる余裕を取り戻していた。
などと、彼とのことや、これまでの他人との付き合いなどを思い返しているうちに、挨拶は終わった。校長がどれくらい喋っていたのかはわからない。私も途中から、別のことに思考を割いていたからである。すみません先生。でも最初の御高説はきちんと承りました。途中から、私事が含まれてきたので、別にいいかと思ってしまっただけで。
体育館の、入口に近い学年の生徒から順に出ていき、新しい教室へと向かう。ワックスで綺麗に磨かれた廊下に足を取られる同級生を支えたりしながら入ったクラスルームの黒板には、席順が書かれていた。小学校ではあいうえお順であったが、この学校では背の順らしい。私は一番前の席であった。同じ年頃の男子生徒に比べ、私ははるかに小さかったからである。
「鵯一番前なの」
席に着いた私にそう言ってきたのは、小学生の時親しく――上っ面でだ。申し訳ない――していた男子生徒だった。その声音にはからかいが含まれており、私は怒ったように唇を尖らせてみせる。
「いつかお前を追い越す」
「つってお前よりチビ見たことない」
「下級生でも見てろ」
「いやそこは同い年と比べろよ」
いつまでも続きそうな軽いノリのやり取りを繰り返していると、「鵯!」よく聞き慣れた声が耳に届いた。はしゃいだような声。嬉しそうな声。やめてくれ、私を見てそんな風に反応するのは。期待してしまう。
すぐに振り返りそうになるのを堪え、いたって普通に、他の誰かに接するように、「あ?」なんてぶっきらぼうな言葉を吐きながら、声の主を仰ぎ見る。誰かなんてわかっている。わからないはずがない。西井だ。
「また同じクラスだねー!」
「そうだな」
「嬉しい」
へらっと笑ってみせる顔に、不覚にもどきりとした。もちろん顔には出さない。「奇遇」などと短く適当な物言いで見上げた西井は、ずいぶんとサイズの大きい制服を着ていた。手の甲がすっぽりと袖に覆われている。ズボンの裾も、縫い上げた形跡があった。本人も親御さんも大変そうだ。
「でけえ制服」
「身長、伸びるだろうってお母さんが。鵯はぴったりサイズだね」
ジャストサイズ以外はみっともないと、父は私の身長に沿った注文をした。背が伸びたら買い換えればいいだろうと言っていた。いつぞやか思ったが、成長に対する喜びなどを見出してくれないので、そうなったのだろう。大きくなるだろうから、大きなサイズを。困らないように、繕いを。ごく普通の家庭にあるであろう心遣いや関心など、私の家には一切ないのであった。
「そういえばさ」
床に膝をつき、私の机に両手と顎を乗せて、寛いだ様子で西井は呟いた。つぶらな、黒い眼(まなこ)がじぃっと私を見ている。どこかわくわくしたように口元が緩められているので、何を言い出すのだろうと彼の次の言葉を楽しみにしながら、私は、「何」と相も変わらず素っ気ない物言いで先を促す。
「ひより、っていい名前だね!」
下の名前を呼ばれるなど、ましてや褒められるなど予想だにしていなかった私は、思わず「は?」と言ってしまった。仮面をかぶるでもなく素直に目を丸くして、間抜けにぽかんと口を開けて。
「小春日和、のひより? 今日みたいな日のこと?」
「小春日和は冬だ、馬鹿」
「え! そうなの! 春ってついてるのに!」
騙された! と頭を抱える西井の言葉を、私は胸中で反芻する。
いい名前だね。
親がつけたのかさえ定かではない、名に込められた意味などもちろん知らない、そんな名なのに、不思議だな、その一言で、素敵な響きに聞こえるのだもの。
「じゃあお前、俺のこと名前で呼んでいいよ」
「いいの?」
「うん」
周りにいたクラスメイトが「俺らは?」「日和(ひより)って呼んでいいの」などと言ってきたので、「駄目」とばっさり却下しておく。違うのだ。悪いが貴方たちには呼ばれたくない。申し訳ないが、この名を呼ぶのはただひとりであってほしい。私にいろいろ与えてくれる、特別な彼にだけ呼ばれたい。我儘ですまないが、そういった気持ちであった。
「なんで駄目なの」
食い下がってくるクラスメイトに、私は今思いついた「女みたいだからあんま連呼されたくない」という理由を述べておく。それに対し西井は「そうかなあ」と返す。やはり私はよもやそのような答えが返ってくるとは思ってもいなかったため、幾度か瞬(まばた)きしてしまった。
「俺はかっこいいと思うけど。あとね、綺麗」
「……あ、そう」
「日和。ひよりー」
「意味なく呼ぶな、ばーか」
そう言うのが、精一杯だった。
嬉しくて余計な言葉を吐いてしまいそうだったから。
本当に、この人は、自分にとって特別なのだと思う。
そんなこと、冗談ですら言えない私は臆病者だ。
伝えたいけれど、教えたいけれど、そんな機会はないのだろうし、なくていい。私が密かに想っているだけでいいのだ。だってこれは、自己満足なのだから。
それなのに。
「名前呼ばせてくれてありがと」
そう言った後、周りの誰にも聞こえないよう小声で、「俺だけ名前で呼んでいいのって、特別みたい。嬉しい」などと、私の考えを読んだようにその単語を伝えてくるものだから。私が言葉にするのを躊躇い(ためら)、煮え切らない態度を取っている間にも、彼は私の内側に踏み込んでくるものだから。
敵わないな、と思った。
言いたくなってしまった。
そうですよ、貴方は特別なんですよ。
貴方だけは、他の誰とも違うのですよ。
そう、言えたらいいのに。……なんて、贅沢だ。
「ばぁか」
軽く、西井の頭を小突きながら言う。
充分だ。こうして一緒に笑えるだけで、触れられるだけで、満足ではないか。
傍に来てくれるだけで。
名前を呼んでくれるだけで。
貴方の声が、紡ぐ言葉が、私に様々なことを教えてくれる。
失(な)くしたと思っていた感情が、心が、戻ってきている気がした。
それはきっと、つらいこともあるのだろうけれど。
――どうしよう。嬉しいと感じる。
未来がないという、結末がわかっているから、こんなことを――友達付き合いをしたって、意味なんてないのに。いずれ来る日が私たちを引き離すのに。
それでもその日まで共にいたいと思わされてしまう。
ねえ、どうしてくれるんですか。
痛みを思い出した私に、そんな気持ちを教えてくれちゃって、どう責任とってくれるんですか。
ああ、駄目だ、感情をコントロールしなくては、抑えなくては、そう思うのに、口が勝手に滑るのだ。
「西井、お前が俺の特別だったら嬉しい?」
「嬉しい!」
――ああ、駄目だ。
「なんだよお前ら気持ち悪いくらい仲良いな」
「好きすぎだろ」
呆れたような、冷やかすような声に、口角を上げた。今なら言えそうで、好きだよ。そう答えようとしたのだが、
「好きだよ!」
いち早く、西井が元気よく言った。躊躇いなく言った。きっぱりと、しっかりと、……ええ、何、それ、どうしよう。
「あーもー一生やってろ。オシアワセニ」
……はは。
一生ですって。
何それ、幸せ。
「だってよ?」
「一生……うーん、えっと、一生好きって言えばいいの?」
「いんじゃね。言ってみ?」
そうしたら、私、嬉しいから。
「好き!」
「はいはい、知ってる」
今、知ったから。多様な感情を、今、教えられたから。
「もー、ちゃんと日和も返事してよ! 俺だけ好きって言ってるじゃん!」
ねえ、そんな風に言われたならば、言ってもいいですか。
いいえ、言わせてください。聞き流してくれていいですから。
「はいはい、好き好き」
「適当ー!」
はい。
適当に聞こえるように言ったから、どうぞ、忘れてください。
でないと私は、今の言葉を、いつまでもずっと――。
「おーい席に着けー出席取るぞー」
その時ガラリとドアが開き、教師が入ってきた。私はひらひら、西井に向けて手を振ってみせる。
「ほらノッポ、後ろの席に帰りなさい。ハウスハウス」
「犬みたいに言うー!」
「懐いてくる感じが犬みたいなんだもん。ほら、お手」
「ワン」
「やっぱ犬じゃん」
ああ、もう、可愛いなあ。
……好き、だなあ。
言葉にしてしまってから、一気に自覚した。
私、この人のことが。
「西井ー、鵯ー。お前らの仲がいいのはわかったから席に着けー。欠席扱いにするぞー」
「「ごめんなさい」」
重なる声。見合わせる顔。ばっかでー、なんて、年相応に笑い合うこと。
あたりまえの、しあわせ。
――こんな毎日が、続けばいいのに。
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