第六章:高校三年生 移ろう季節

 今年も無事、始業式が終わった。相変わらず、校長の話は長い。とはいえ慣れたもので、ぼんやりとこれからのことを考えて時間を潰していた。

 クラスが今年も一緒で嬉しかったなあ、とか。

 生憎席は例年通り離れてしまっているなあ、とか。

 今日は半日授業で時間があるから、西井と過ごしたいなあ、とか。

 まあ、半日授業じゃない日でも西井とは過ごしているけれど、それ以上に時間があるとわかっているのならば、共に居たいと願っても罰(ばち)は当たらないのではないか。なんてね。

 体育館の、空気の入れ替えのため開け放たれた窓から桜の花が見える。

 今年もやってきたこの季節に、口元が自然と綻ぶのを感じていた。



*…***…*



 その後の教科書の配布や担任からの挨拶と自己紹介を終え、一同はみな帰途につこうとしていた。その時示し合わせたように西井が隣に来たので、私たちとすでに同じクラスだったことのあるクラスメートからは「またかよ」「熟年夫婦」とからかわれた。私はそれに「うっせ」と返し、西井はそれに「まあね~」と返す。

「今日も二人でおうち勉強会ですから~」

「何それ偉すぎ」

「鵯面倒見良すぎ」

「だろー」

 などとしがないやり取りののち、二人で並んで教室を出て、部活動勧誘の精が出る同級生や下級生たちを横目で眺めながら、下駄箱で靴に履き替えて校門をくぐり、他愛のない話をする。

「西井って、部活動してなかったっけ?」

 校門をくぐったとはいえ、まだ学校の近辺だ。私は油断せず、口調を作っていた。

「してるよ~けん玉同好会。日和と付き合ってからはほとんど顔出してないけど」

「いいのかよそれ」

「同好会だし、日和との時間のほうが大事だし」

 ねっ、と顔を覗き込まれて、私は柔く微笑んだ。私と一緒に居たいと思ってもらえるなんて、ありがたい、ことだ。

「日和無所属だっけ」

「一応。成績がそれなりだから、学業に集中したいって相談したら了承してもらえた」

「頭いいもんね」

「どーも」

「大学、どこ行くの?」

「親からは東京大学へ行けって言われてる」

「東大! 頭いい!! どうしよう……日和がすごく遠い存在に……」

「変わらねえよ、志望校ごときで。同じ都内暮らしだし、これからも会えるって。というか、会う」

 西井のためなら時間を作るための努力は惜しくない。レポートで徹夜になろうが父親の望むカリキュラムで体力的にきつかろうが、彼に会えるなら疲れは吹き飛ぶだろう。

 通学路を経て、駅へ向かう。三番線のホームから、十分おきに出ている電車がちょうど行ってしまったところだった。春風を受けながら、しょうもない話をして時間を潰す。

 西井との時間はあっという間だ。普段ひとりだと少し長く感じられる十分も、西井と話しているだけですぐさま過ぎていく。つまるところ、電車はすぐに来たということだ。ガラガラの電車で座り放題だったが、たかだか十五分足らずの距離である。座るほどではなく、私たちは立ったまま話した。やはりここでも些細な話だ。そんな、眇眇(びょうびょう)たる話がとても心地よかった。西井とだけできる、本音の話。口調はまだ、誰が聞いているかわからないから荒っぽいままだけど。早く自宅に着いて普段通りの会話がしたい。

 最寄り駅から歩いて十五分、住宅街に聳(そび)え立つ家は、外観からして坪数がかなりあることが窺える。私と父、二人で暮らすには広すぎる家だ。庭も広く、しかし父は維持などしないので、私が土日や空いた時間に手入れしている。花などは咲かせる余裕がないが、我ながら清潔な庭を保てていると自負していた。

「日和んち、いつ来ても豪華」

「見た目だけな」

 三重の鍵を開け、西井を家へと招き入れる。その瞬間、ほうっと大きく息を吐いた。やっと解放された、そんな気分だ。西井もそれをわかっているのか、苦笑しながら「お疲れ様」と労ってくれた。そのおかげで私は微笑める。

「疲れます、やはり、仮面を作るのは」

「いっそ剥がしちゃう?」

「方向性の変更が著しいですね、やめておきましょう、せめて成人式あたりまでは」

「大学デビュー」

「したと思わせます。落ち着くにはいい年齢になっていますしね」

 本当は、小学生の時からずっとこうだったと知ったらみんなどんな顔をするのだろうか。

 まあ西井さえ気にしないのならば、どうだっていいのだけれど。それに、私が気にするほど周りは私のことを見てもいないだろう。

 先に西井を二階の部屋に通し、紅茶とクッキーを用意して自室に上がる。階段を昇る音を察して西井がドアを開けてくれた。こういうさりげない気配りができるあたり、しっかりしているな、と思わされる。

「ありがとうございます」

「こちらこそ。あっクッキー」

「お好きかと思い、用意しておきました。安価なものですが」

「高校生は質より量なのです。ムーンライト、美味しいよね」

 青い箱のクッキーを大事そうに受け取る西井を微笑ましく思いながら、隣に座る。いつからか、テーブルを挟んで話し込むのではなく、四角いガラステーブルの一辺に、隣り合って座るようになっていた。

 肩と肩が触れ合う距離で、ベッドに背を預けるような姿勢になって、出された宿題をこなしたり、休憩にお茶を飲んだりと、のんびりとした時間を過ごす。

 宿題が終えてポットに注いできた紅茶が空になる頃、すい、と手と手が触れた。どちらから触れたのかは、わからない。ただ私たちは、相手の体温を求めて指を絡め合っていた。戯れるように指先を柔く握ったり、深く絡めて恋人繋ぎをしてみると、なんだかとてもくすぐったく思えてきて、ふふっと笑った。つられるように、西井もへらっと笑う。夕陽に照らされた顔は赤くも見え、途端に愛しさが込み上げてきて、抱き締めたくなる。衝動のままに行動を起こせていたらきっとまた違うのだろうなあと思いながら、私はぐっと堪え、「クラス」と話を振った。すると西井もぱっと顔を輝かせ、「また同じだったね!」と声を弾ませる。

「はい。偶然って、あるものなのですね」

 西井ときちんと喋るようになったのは、小学校六年生の時。

 あれから中学時代、高校時代と、嬉しい偶然がずっと続き、同じクラスで居続けられていた。

「でも、クラス運はあっても席替え運はない」

 唸るように西井が言った。

 確かに、席順は名前順だったり背の順だったり、担任によっては誕生日順だったりとばらついており、そのどれもが西井とは離れていた。決して傍に来ることはなく、悪ければ教室の端から端、対角線上である。席替えが行われても、それは変わらない。小六、中一、中二、中三、高一、高二、高三。七年連続、隣に西井が来たことはない。これはこれで、すごい確率なのではなかろうか。

 とはいえ前の席を西井が引いたら、その後も健啖(けんたん)に過ごし縦に成長した彼が「西井くんがいると見えないです」という指摘を後ろの席から受けるのは自明の理であったし、かと言って私が後ろに行けば、高校三年になって下手に成績が上がったせいで「鵯見えなくないか? 前にしようか」と余計なお世話を焼かれそうだ。生憎視力は両目とも1.0なので黒板くらい見えるというに。……おっと、仮想の話で憤ってしまった。私もまだまだだ。

「プリント後ろに回すときに日和がいたらなー」

「毎度微笑んでしまうのでは?」

「先生に注意されそう」

「それに身長の都合で結局移動させられそうです」

「アアー……じゃあ俺の前に日和が来るしかないね」

「今年はその奇跡が起こることを祈りましょう」

 とはいえ、私としては同じクラスにいることができるだけで充分なのですが。

 けれど、そんなにも『傍にいてくれたら』と思われているのが嬉しくて、嬉しくて、自然と頬が緩み、繋ぐ手に力が入った。「日和?」どうしたの、という意味合いを含んだ声。いいえなんでも、と応えようと、指先の力を緩め、そっと絡めるに留めた。



*…***…*



 一学年の人数が多いとはいえ、三年生ともなれば、クラスの顔は知ったものがほとんどとなる。合同授業もあるのだからなおさらだ。

 その中で珍しいことに、まだ見ぬクラスメートがいた。それも二人。しかも二人は仲良しであるようで、ことあるごとに彼らは傍にいた。

 片方は、髪を金色に染めた体格もいい、いかにも体育会系ですといったテンションの高い男。たしか、空手部だったと記憶している。もう片方は、なぜ共にいるのだ、と思うほど真逆の、ダウナー系とでもいうのだろうか、テンションの低そうな前髪の長い黒髪眼鏡の男。こっちの男の部活動は把握していない。帰宅部かもしれない。委員会をやっているという話も聞いた覚えはなかった。

 そして、気づけば西井はその二人組の中に溶け込んでいた。

昔から、西井は相手との垣根が低い。パーソナルスペースが恐ろしく狭いのだ。誰にでも取り入れるし、誰からも好かれる。私はそれが、少し怖くもあった。

「あ、日和!」

 じっと見つめていたせいか、西井が私に気付いた。ブンブンと手を振っている。私はとりあえず手を振り返し、三人のもとに近付いていく。

「紹介しまーす! 俺の日和です!」

「いつからお前のもんになった」

「去年の夏祭りから」

 ……微妙に本音を混ぜてくるのはやめてほしい。まあ、バレることはないだろうけれど、私は内心で少し焦りつつ、西井の頭にチョップをする。

「ででで、こっちは、鈴木と山本」

「おっす!!」

「うぇーい」

 実は名前も把握していたのだが、そこで初めて知ったふりをする。

「キンパが鈴木、うぇーいかっこ棒読みが山本な。俺は鵯」

「鵯日和? 変わった名前だなァ」

 鈴木が笑う。確かに、日和はともかく鵯という苗字は珍しいだろう。

「ひよどりひより……ひよ……ひよ」

「ひよひよ!? なにそれ可愛い、日和俺今度ひよひよって呼んでいい?」

「却下」

「ひよひよー」

「山本お前はもっと却下」

「ひよひ」

「鈴木まで言おうもんなら裁縫セット使って口縫い付ける」

「「「バイオレンス!」」」

 さて、聞いてみれば、この二人もなんらかの縁で結ばれているらしい。幼稚園から始まって小中と同じ学校、高校に入ってからは三年連続クラスまで一緒になったという偶然の持ち主だ。幼稚園の時からというのはずいぶんと長い。それだけの間共にいられるのなら、余程仲がいいかウマが合うのだろう。でなければどちらかが相当の能天気か阿呆か。

 二人――特に鈴木は、持ち前のテンションからか西井と波長が合うようで、最近よくつるんでいる。まあ、私とばかり付き合うのはおかしいし、良い傾向だろう。少し寂しいけど。

 と思った瞬間だった。

「サミシーのか?」

 山本だ。机に突っ伏したまま、目だけを私に向けている。何を考えているのかわからない、トロリと濁った瞳。

「なんでだよ」

 とだけ返すと、山本は普段の寡黙さからは想像がつかないほどペラペラと私の気持ちを代弁した。

いつも一緒にいるから。西井は鵯にばかり懐いているはずだから。鈴木に取られたように感じられたから。少しないがしろにされたように思えたから。あらゆる可能性の列挙は、適当ではなくかなりの的中率を誇っていた。この男はサイコメトリーなのではないかと本気で思うほどであったが、顔には出さない。超能力者なんているはずないし、せいぜい人間観察が趣味といったところか。この短期間で私と西井のことをそこまで把握できる実力は素晴らしいが、どこか別のところで発揮した方がいい能力だと私は思う。それはそうと、私は「そんなことない」と返したが、嫌な趣味を持った人間だ。どこまで信じてもらえたのやら。それに、この手のタイプは、自分がそうだと思ったことをなかなか覆さない。自身の洞察力を信じているのだ。

「まあ、寂しいっちゃ寂しいけどな」

 なので最後に、山本が望んでいるであろう言葉を述べてやったが、彼は納得しているのかしていないのか、「ふーん」と興味なさげに答えたのであった。



*…***…*



 それからというもの――というには遅ればせながら、私たちはよく行動を共にするようになった。お互いペアが出来ている者同士、またそのペアの片割れ同士が仲良くなれば自然というものだ。

 大体は鈴木が言い出しっぺで、西井に「みんなで遊びに行こうぜ!」と言い始めて盛り上がり、「いいよ! 日和も行こ?」「山本ォ! 空いてっかァ!」となるのだが、二人きりを所望している私としては少々複雑でもあった。とはいえ西井の交友関係を阻害するつもりもない。一緒にいないという選択肢もありえないので、私は「金ねえけど」と言って着いていく。大概の目的地は、ゲームセンターや学生相手の格安プランのあるカラオケ、たまに奮発してボウリング、といった感じであった。

 ゲームセンターでは鈴木が猛威を振るっていた。ワンコインで格ゲーを何時間やるつもりなのだろう、というほど連勝に連勝を重ねる。そして不意に「飽きたわ」「疲れた」と言って負ける。最後に、待たせた詫びにとジュースを奢ってくれるのであった。代わりに、「俺スゲエ!?」と感想を求められるのだが。西井は毎度「すごい!!」と褒めるので、鈴木は満更でもない顔で「コンビニでアイスも買っちゃる」と餌付けしていた。私はというと、『鵯』らしく「まあまあ」「そこそこ」「やるんじゃない」と適当かつドライな反応だったので、鈴木はむっとしているようだった。いや、すごいと思ってますよ、心の中では。心の内を晒せないだけで。

 山本は山本で、音ゲーをやらせれば隣に並ぶ者はいなかった。なぜ、あんなたくさんのボタンがあるゲームを易々とクリアできるのか。私も試しにと山本の金で遊ばせてもらったことがあるが、ボタン配置から覚えなければならず、苦労した。勉強とはまったく違った苦労だ。ついでにそこで自分にはリズム感がないことを知った。早々にゲームオーバーになったからである。「簡単な曲選んだんだけど」と山本は言っていたが、私は見た。イージーモードでもノーマルモードでもなくハードモードを選択していたことを。いくらボタンが少ない初心者用配置でやらせてもらっても、初見ハードとか布教する気がないだろう。『鵯』として睨んでみせると山本は「ケケケ」と悪そうに笑っていた。「この野郎」と言って背中を殴ると大げさによろめいた彼は、「背骨折れた……暴力反対……」とか細い声で言ったので、それでチャラにすることにした。ちなみに西井は意外と器用に5ボタンハードモードをクリアしていた。鈴木はその間格ゲーで連勝していた。

 カラオケに行くと、それぞれがそれぞれの持ち歌を披露した。鈴木は何か、熱唱系を。山本はアニメ系を。西井は……申し訳ないがよくわからなかった。ジャンルも、どこで知ったのかも、まったくよくわからない。よくわからないのに、「日和も歌お!」とマイクを握らされるのだ、一ミリたりとも知らない歌に対して。とりあえず歌詞を追ってみるも、前述したとおりリズム感がほとんどないので、音痴だったと思う。それでも鈴木と山本は「鵯はよく頑張った」「偉い」と言ってくれた。西井はドヤ顔だった。なんでお前がドヤ顔なんだよ、とツッコまれるまでがワンセットだ。そして私にすり寄って「デュエット楽しいねえ!」と言ったので、単純な私は絆(ほだ)されたのだった。ちなみに私は楽曲を聴かないので、持ち歌と言えば合唱曲しかない。そのため最初鈴木に爆笑された。いいではないか、『怪獣のバラード』。海が見たい。人を愛したい。……怪獣にも、心はあるのさ。

 ボウリングは正直、誰も彼も実を結ばない結果となった。鈴木は勢いが良すぎてスプリット過多とガター。山本と私は力がなさ過ぎてガターの連発。西井はフォームをしきりに変えては面白投げに挑戦しガターの連発、というどんぐりの背比べ状態で、「誰が最下位になるかレース」という間違った盛り上がり方をした。ちなみに四戦して仲良く全員一敗である。ある意味次回が楽しみといえる。

 さて、ここまででなんの問題もなく思えるが、ひとつ、問題があった。

 それは西井が必ず傍にいることだ。

 何度も言ったが、鈴木と山本はわりに単独行動をしている。ゲームセンターがいい例だ。鈴木は格ゲー、山本は音ゲー。それぞれ好きなことをしている。

 しかし私たちの場合は違った。なぜなら好きなこと=お互いの傍にいることなのだから、必然一緒になってしまうのだ。

 私がプライズゲームへ向かえば西井もついてきて同じ景品を狙い、カラオケでドリンクバーを取りに行くタイミングは必ず一緒。ボウリングでは球を選ぶ際ポンドの違うものを選ぶにも関わらずいつも傍にいたし、投げるまではずっと私の隣にいた。隣と言えば、カラオケでも毎回隣の席をキープしている。

 その姿を、山本は見ている。鈴木はゲームに熱中したりカラオケで熱唱したりと自分の世界に入りがちで気付いていないが、山本は、私と西井がお揃いのマスコットを持っていることや、デンモクを揃って覗き込んでいるところや、ボールを選ぶところを見ている。視線を感じていたからだ。鈴木も漏れなくその場にいたが、彼から何か変わった視線を感じたことはない。見た目通り鈍感なようだ。何よりだ。そのままでいてほしい。

 それはそうとして、山本である。

 悟られたかな、と思った。この間柄を。西井との関係を。だとしたらまずい。男同士で必要以上に仲良くしているだなんて。

まだそこまでならともかくとして付き合っているとまで断定されていたら。

言いふらされたら。

 私はともかく、西井が。

 どんな目で見られるだろう。囁かれるだろう。それは彼にとって如何(いか)程のダメージとなるだろう。私は私で、父になんと罵倒されることか。いや、そんなことはどうでもいいのだけれど、とにかく、西井が。

「日和ー? 何難しい顔してるの?」

 そんな思いとは裏腹に、遠慮なくくっついてくる恋人の額を裏拳で小突きながら、私は今後どうしたものかと考えた。



*…***…*



 あれから数日が経ち、その間もずっと一緒にいた私と西井の関係を見ていた山本に、悟られた、と確信し、何を言われるのか軽く戦々恐々しながら訪れた学校にて。

 なんとなく一番乗りした教室に、山本が入ってくる、狙いすましたようだった。低血圧なようで、いつもはもっと登校が遅いからだ。

 ああ、山本が近付いてくる。ヒョロヒョロとした痩躯(そうく)が、ユラァリユラリとこちらへ来る。

 そして、言った。

「古文の宿題見ーせて?」

 …………。

 予想外の言葉に一瞬フリーズした。一瞬だけだ。気取られてはいけない。

「いいけど」

 さっと古文のノートを取り出して、山本に渡す。山本は「鵯って几帳面な字書くんだ」などと言いながら、必要そうなポイントだけ抜き出して映していった。効率がいい。地頭がいいタイプだろう。馬鹿と思ったこともないが。

「サンキュ」

 十分も経たずして返されたノートを受け取りながら、私はとっさに「あのさ」と口にする。山本はカクンと首を傾げている。

 一瞬、山本の柳のような雰囲気に呑まれて、西井との仲をカミングアウトしようとしていた。が、すぐに取りやめる。急に黙った私に、山本は「何?」と続きを促してきた。

「なんで今日早かったの」

「んぁ~? いや~昨日ゲームしてたら寝落ちちゃってさ~。古文の宿題朝思い出したんだよね。そしたらやんなきゃーってなって、家じゃできなさそうだから早めに来たんだけど。鵯がいてよかったわ~サンキュカミサマ」

 完全に拍子抜けした。

 しかし、いや、と即座に撤回する。相手は山本だ。どこまで本当かわからない。警戒しておいて損はないだろう。

 私の警戒心を知ってか知らずか、「そういや」と山本は話を変える。

「購買に新商品追加だってさ」

「マジか。今日見に行こうぜ」

 そんな中身のないやり取りで、ひとまずこの場は落着した。

 ホッと、息を吐いている私がいた。



*…***…*



 ところで西井が鈴木とつるみはじめてから、彼の様子がおかしい。

 珍しく二人で帰りたいと言ってきたかと思えば、家に着くなり、

「あのね!? 鈴木曰く、付き合ってから百日目にちゅーするんだって!」

「私たち、付き合ってから百日はゆうに超えていますし、何より付き合ったきっかけが口づけです」

「ああー……」

 明らかに落胆する西井を見ていると、彼はめげずにバッと顔を上げ、

「それにそれに、一年後にはセッ……」

「まだ一年経過してませんし、私はピュアな関係を望みます」

 今度こそ撃沈した。

 あまりにも可哀相なので、ちょっと言葉を追加してやる。

「それとも――したいですか?」

 いたずらめいた口調で誘ってみせると、西井の顔が真っ赤に火照る。

 こういう素直なところが好きなんだなあ、と私は改めて自覚するのだった。

 しかし鈴木は何を吹き込んでいるのか。やめていただきたい。今度山本越しに何か報復しておこう。



*…***…*



 鈴木、山本が加わった日常は果てしなく騒がしい。

「山本ォ! 数学のノート見せて」

「やだわ」

「補習確定なんだけど!」

「ファイトー」

 という声を尻目に、西井が「あのー、日和ー……」と、おずおずとした様子で尋ねてくる。言いたいことは一つだろう、わかってる。ので、

「却下」

「まだ何も言ってないのに!?」

「どうせノートの催促だろ」

「う……」

「たまには自分で頑張ってみたら。応援くらいはしてやるからよ」

 というわけで撃沈した二人がテストに挑んだ結果、まあ、当然、教師の手によって撃墜されていた。

「補習だぁ……」

「俺もだ西井……頑張ろうなァ……」

「ねー……」

 テンションもだだ下がりの二人は、放課後、補習用の教室へと旅立っていく。

 私は自分の席で、本屋大賞を受賞した本を読んでいた。

「帰らんの?」

 すでに帰り支度を整え、いつでも帰れますぜと言いたげなスタイルの山本が言う。

「補習頑張ってるのに待っててやらねえとか可哀相だろ?」

「ヤサシー。俺いつも鈴木置き去りだわ」

「バファリンを見習うことだな」

「いや俺バファリンも同然だから。半分は優しさでできてるから」

「もう半分は?」

「劇薬」

 だろうと思った、とため息を吐いて、おや、と思う。山本が、私の前の席に座った。先日の癖で少し警戒してしまったが、山本は相変わらず何を考えているのかわからない顔で、私の持つ本の帯を爪先でカリリと引っ掻いていた。他意はなさそうだ。

「なんだよ、待つのか。優しいな」

「バファリンだからな」

 そんな話をしたり、話題が尽きたら本を読んだりとしていたところ、一時間も経たずといった頃合いで、教室のドアがスッパァーンと音を立てて開いた。この馬鹿みたいな開け方は鈴木しかいない。案の定ドアを見ると、鈴木が仁王立ちしていた。いや、なぜ仁王立ちなのだ。加えて西井も腰に手を当てドヤ顔をしている。頭が痛い。

 これ、私たちがいたから観客も居てまだ恥ずかしくないけれど、誰もいない教室でやらかしたら恥ずかしいを通り越して埋まりたい黒歴史になるのでは?

 さて仁王立ちしていた鈴木と西井はと言うと、ズカズカと私たちの机までやってきて、バァンと机を叩いた。

「補習! 終わりました!!」

「おおー鈴木チャンおっつぅ~」

「というわけで労いを要求する!」

「うおォい。待っててやっただけ喜ばしいと思えないの? 鈴木チャン補習で脳みそ溶けた?」

「山本さ、面倒だし適当に牛丼でも奢っとけよ」

「なんで俺が」

「そのうち俺に飛び火しそうだから」

「牛丼かあ……」

 西井が羨ましそうに言う。

 補習で頭を使ったから、お腹が空いたのだろう。

「西井、牛丼食い行こうか」

「チョロ!!」

「鵯チョッロイ」

 なんとでも言えばいい、西井には、毒にならない程度の甘やかしをしたいのだ。

 そうこうしていると、鈴木も山本を説き伏せて、私たちは揃って駅前の牛丼屋へ向かったのだった。



*…***…*



 牛丼を食べ終え、〆にコンビニでアイスまで買って堪能した後、私と西井、鈴木と山本で違う路線に乗り込んだ。話によると、鈴木と山本は一番線から出る電車に乗って、二十分ほど先にある駅まで行くらしい。

 こちらときたら、相変わらず同じ路線だ。十分待ちは当たり前の電車で、幸いにして滑り込めた私たちは以前と同じよう、立ったまま会話を交わす。

「牛丼も〆アイスも最高だった~」

 と、ニコニコ笑顔で喋る西井の言葉に、ただただ頷く。

 こんな、風に。

 こんな風に、幸せで、愛しい時が、少しでも長く続けばいい、と。

 愚かな私は望んでしまった。

 錯覚、していたのだ。

 親のレールに沿ってさえいれば、決められたルートを辿っていれば。

 ほんの少しは、自由を得られるのだと。



*…***…*



 その日帰宅した親からの一言、それは唐突な辞令だった。

「大学は京大へ行け」

 私の生家は東京だ。西井の家が近い、この、東京都港区だ。

 以前は、京大ではなく東大を目指すように言われていた。言われ続けていた。京大へ行け、なんて初耳だ。

「知らないと思っていたのか」

 ……ああ、交友関係か。

 毒だと、思われたのか。西井も、鈴木も、山本も。まあ、判を押したような優等生、にはどう足掻いても見えない。成績がいいのだって、山本だけだし。

 それこれの理由で、知り合いのいない京都へ送り出そうというのか。

 ……本当に、どこまでも孤立させてくれる。

「……東大では、ダメなのですが?」

「親に口答えするつもりか?」

 質問に質問で返された。ダメだ、話し合う余地などない。

 育ててやった、だの。

 完璧な教育を施した、だの。

 お前は私のコピーなのだから、と。

 私の心を殺す言葉を、この人はいくつも持っている。

 それでも、私は、この人に、――。

「…………わかりました」

 死んだ声で頷くと、父は満足げに鼻を鳴らして書斎に向かった。

 私はしばらくの間、リビングに立ち尽くしていた。



*…***…*



「…………」

 部屋に戻ると、参考書を開くのも忘れてスマホを取り出した。掛け慣れた、西井の番号に繋ぐ。

 西井は出なかった。きっと、忙しいのだろう。

 私はスマホをベッドに投げて、勉強机に齧りついた。ああそうだ文字通り齧りつくようにして勉強した。

 合格する気などさらさらないが、落ちた時どうなるかと考えると冷たい汗が背中を伝う。私のことを駒としか、自分のコピーにしか見ていないような男であれど、心を壊した母親のことをいともたやすく切り捨てたような男であれど。

 私はまだ、彼に捨てられていないのだ。

 それはつまり、私はまだ、もしかしたら、あの人に、父に、いつか、「よくやった」と言われるかもしれない可能性があるということで、……。

 ……心の奥では。

 そのことを、いつまでも待っているのかもしれない。

 ベッドの上で、マナーモードのスマホが震えている。

 何度も何度も震えている。

 私は興味を向けることなく、参考書の問題を解き続きた。



*…***…*



 次の日学校へ行くと、西井が頬を膨らませて待っていた。普段は遅刻寸前に駆け込んでくる西井が私より早く学校に来ているなんて珍しく、なぜだろうと想い、昨日の着信の件か、と思い至った。私に何か言うためだけに早起きして私より先に学校に来ていた西井の甲斐甲斐しさに微笑ましくなる。

「なんで昨日電話に出なかったの!」

「勉強してたから」

「俺の方にも着信あったからさー、何事!? って心配しちゃったよ。何もないならよかったー!」

 人目をはばからずギュウギュウと抱き締めてくる西井の背をポンポンと叩き、「始業のベル鳴るぞ」と言って、席に着かせた。

 席に座ってから、私は机の影でスマホを操作する。LINEだ。誰に覗かれてもいいように、作った口調のままで打つ。

『絶対大学受からなきゃだから、今までどおり遊べないわ、ごめんな』

 このLINEを受け取ったからだろう、西井はバッと私の方を振り向き、教師に「何よそ見してんだ」と出席簿で殴られた。ちらりと見えた表情は、寂しそうなものであった。ちくり、と胸が痛む。

 まあ、鈴木も山本もいる。他の友達だって、西井にはたくさん。

 私が少しいなくても、大丈夫でしょう?

 私ひとり、いなくたって。

『サミシーのか?』

 いつぞやの山本の言葉がリフレインした。

トロリとした目は、濁っているんじゃない、鋭い目線で相手を警戒させないよう、意図的にぼんやりとした色を浮かべているだけだ。

『サミシーのか?』

 記憶の中の山本が問う。

 私は昔のように、「なんでだよ」とは言えなかった。

 寂しいさ。

 ――このまま私が消えてしまいそうだから。



*…***…*



 冬を迎え、私は京大への推薦合格を勝ち取っていた。

 褒められやしないだろうか。そんな、一縷の望みをかけて父に報告すると、

「そうか」

 と、いくらか柔らかな声で返事をしてくれた。こんな声を聴くのはいつぶりだろう、安堵から涙が出そうだった。

 京大進学を言い渡されてからは一切合切控えたが、高三の大事な時期を西井を始めとした面々と遊んだりと自由な時間を過ごしてしまったことを怒るでもなく、ただ柔らかに、薄く微笑んで。

 もしかしたら見守ってくれていて、それで、純粋に合格を喜んでくれているんじゃ、と思った時だった。

 私のポケットに父の手が伸びる。スマホを奪われた。いや、奪われたという実感すらなかった。いつの間にか彼の手にあった。そんな気分だ。

 何をされるのか、わからず、ぽかんとみっともなく口を開いて見つめていると、スマホが床に落とされた。絨毯の上に落ちたにも関わらず、パキン、と音がして液晶に皹が入る。その液晶を、ガツン、と勢いよく父の足が踏み潰した。バキッ、と音がした。壊れる音だった。何が? スマホが。スマホだけが? ……どうだろう?

 父は何度も、それこそ仇敵(きゅうてき)にとどめをささんとばかりに踏みつけている。狂ったように、何度も、何度も。

 ああ、許していなかったのだ。私が遊ぶことも、馴れ合うことも、親しいものを作ることも、彼は、一度も、一度たりとも、やはり、決して。

 やめてください、と縋れば、鬱陶しいとばかりに蹴り飛ばされた。無様にひっくり返りながら、口や鼻から垂れる血を拭うこともできず、絨毯に血痕を残しながら、私はただ、壊れゆくスマホを見ていた。

 あの、中には。

 西井と撮った馬鹿みたいな、あるいは愛しい思い出の欠片がたくさん詰まっていて。

 パキ、パキ、パキ

 それらがすべて、今、失われているのだと、と。

「やめ、」

 言いかけて、口内に溜まった血が邪魔でゴボリと吐いた。口元を拭う。

「やめてください」

「必要ないだろう」

「必要です。必要なんです」

「何にだ。言ってみろ」

「それは、」

「吃るくらいなら大したことではない。切り捨てろ」

 言いながら、父がようやく足をどけた。スマホはもう、スマホの形をしていなかった。修理も何も、できないだろう。データの復元だけでもいいから、したかったなあ。クラウド保存、しておけばよかった。なんでしなかったんだろう。なんて迂闊だったんだろう。

 ともあれ。

 ――こうして私は、愛しい彼との思い出を、連絡先とを、一気に失ったのだった。



*…***…*



 ――とはいっても。

 私は記憶力がいい。西井のスマホの番号くらい記憶している、

 あの後勢いで家を飛び出し、近所の公園にある公衆電話へと駆け込んで、覚えている番号へとコールした。発信先が公衆電話という、怪しさ抜群の着信に出てくれるかは些(いささ)か不安であったが、杞憂に終わる。特別警戒心もなさそうに、たった三コールで彼は出た。

『もしもし?』

「変な連絡先からの電話、簡単に出ないほうがいいですよ」

 揶揄(やゆ)して言うと、西井は『え!?』と声を上げた。

『日和!? え、これ公衆電話からだよ、え、なんで!?』

 面白いくらいにパニックに陥った西井を落ち着かせ、スマホが壊れた(正確には壊された、のだが、西井の家族は大変に幸せな家庭である。私の家族の事情は、言いたくなかった)こと、進路の都合で高校を卒業したら京都に一人暮らしになること、これは以前と変わらないが、大学進学へ向けて本格的に勉学に励まなければいけなくなり、一緒に帰るのが限界だということを伝えた。

『そっかぁ』

 電話口の西井は、無理に明るい声を出しているようだった。

 色々と、思うところがあるのだろう。――言えないだけで。そう、それは私もだ。

『寂しくなるね』

「…………ええ」

 私はなんとか声を絞り出した。相槌すら打てないとは思われたくなくて。だって、それだけ状況が悪いのだということが、西井にバレてしまう。

 本当は。

 本当は、『寂しくなる』どころではなかった。頷きたくない。寂しいのは嫌だ。もう嫌だ。二人の暖かさを教えてくれたのは西井なのに。彼が差し伸べた手を取ったのは私なのに。私から離さなければいけないなんて、笑えもしない、悲劇だ。

 そういえば昔、ハムレットを観たことがある。シェイクスピア原作の、有名な、戯曲。

 あれを見て私は思った。

 登場人物全員が可哀相だ、と。

 ハムレットにはなりたくない。

 けれどもきっと、私に待つ結末は、それなのだろう。

 誰も彼も幸せになれない、虚しさだけが残るエンドロール。

 そんなもの、誰が好んで見るというのだろう。



*…***…*



 それからというもの、あっという間に、卒業式の日はやってきた。

「記念に貰ってやる」

「じゃあ俺も」

「やめろせめて女子に奪われてえ」

 鈴木と山本を始めとした男子生徒にブチブチとボタンを掻っ攫われながら辟易していると、

「日和!」

 愛しい声が聞こえてきた。振り返ると、西井が『写真班』という腕章を付けた生徒を連れている。卒業アルバム作成実行委員だろう。

「卒業写真だって! 撮ろう?」

「チース、学年公認カップル~」

「男同士だぞ」

「鵯女みたいだしけるいける」

「お前絶対あとでぶちのめすからな」

「まあまあ! ほら、本題に移ろう! 写真だよー!」

 写真、か。

 すべてなくなってしまったんだよなあ。

 そう思うと泣き笑いを浮かべそうになってしまい、私は慌てて仮面をかぶった。

 この機会に、一枚、一枚だけ。

 パシャリ、とシャッターが切られた。

 すぐに現像されるポラロイドタイプのカメラから吐き出された写真に、写真班は唸っていた。私も見る。なるほど、苦笑した。

「ンー? 鵯ってこんな表情硬かったっけ?」

「キンチョーしてんだよ」

「なるほど?」

「ねー、俺にも見せて」

 と言ってくる西井のことを、手で制した。西井はきょとんと私を見ている。

「西井はダメ。アルバムできてからのお楽しみ」

 だって、実行委員は騙せても、きっと西井は騙せない。

 私が、『ここにいるのは、この人の隣に立つのはもう最後』と思って撮った写真だなんて、きっとバレる。

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