第五章:高校二年生 夏

 夏が来た。それだけでソワソワしてしまうのを、西井は知っているだろうか。貴方に夏祭りへ行こうと誘われるのを待っていると知ったら、あまりの受け身ぶりに引いてしまうだろうか。それとも今年は、私から誘ってみようか。たまには勇気を出してみようか。

「西井、」

「日和!」

 かけようとした言葉は、元気な声に遮られた。私は黙って、西井の声を聞く。言葉の続きを待つ。望んだ文言が降ってくるのを、私は期待している。

「夏祭り、行こ!」

 ああ、本当に、貴方は私が欲しい言の葉をくれる。私は笑って、「もうこれ毎年恒例だな」と言った。西井は目をぱちぱちと瞬かせた後、「だめ?」と首を傾げてきた。可愛い。駄目なわけ、ないだろう。そう思いつつ反応が見たくて黙っていたら、途端に意気消沈した面持ちになった。その様がまるで、

「餌横取りされた犬みたいな顔してる」

 と言うと、彼はびっくりしたような顔になって、「どんな!?」と大声を出す。見たかった通りに返してくれる様子が愛らしくて、また笑う。

「有り体に言えばしょんぼりって感じ」

「もー。なら最初からそう言ってよ。なんで犬に喩えるの」

「お前犬っぽいから」

 尻尾をフリフリ、じゃれて懐いてくっついて回る、可愛い大型犬。そんなイメージを持っている。そういえば中学一年生のときに、ハウスハウス、とか言ったっけ。犬みたいに言う、と西井は抗議していた。のわりに、お手、と言ったらワン、とお手してきたけれど。懐かしい。

「日和は猫だよねー」

 不意に、西井が言った。私は冗談めかして「ロシアンブルー?」と返す。そんな、お綺麗なものではないけれど。『鵯』としては正しい返答だろう。西井は「高貴! 好き!」と言ってきた。心からそう思っているらしく、目をきらきらさせている。

 昨年の、春。好きと言われなくなった時期があったけれど、私から言うようにしたあの後から、西井はまた、私に好きと言ってくれるようになった。そして、私もたまに好き、と返すようになった。同級生は「気持ち悪いくらい仲がいい」と言ってきたが、知ったことか。私はこの人と、誰よりも親しくありたい。

「ねえねえ、俺は何かな?」

「何って?」

「犬種」

 問われたので、少し考える素振りをした。実のところ、即答できたがそれは不自然だったから間を開ける。

「んー、レトリーバー。黒いやつ」

「黒? ゴールデンじゃなくて?」

「うん。フラットコーテッド・レトリーバー」

「なにそれ?」

「犬種」

「それくらいわかるよ! 俺から聞いたんじゃん!」

「すげえお前っぽいよ」

 陽気で明るく楽天的で、それから、外交的で、友好的で、楽観的なんですって。

 この間、調べてしまいました。貴方みたいだなあ、って。

 本当に、面白いくらい、貴方のことばかり考えている。それを知ったら、貴方はどんな顔をするでしょう。なんて、去年も思った気がする。驚くほど進歩がないと自分でも思った。

 西井は高校入学祝いで買ってもらったというスマホで、フリック入力して、私の言った犬種について調べては、「俺ってこんな?」と訊ねてきた。「逆にお前は自分をなんだと思ってたの」と訊き返すと、腕を組んで悩んでしまったので、そんな素振りも可愛いなあと、我ながら盲目的な思考に苦笑する。

「……あ! 違った、犬の話じゃない! 夏祭りの話!」

「気付いてしまったか、話題をすり替えたことに」

「なんですり替えるの!?」

「なんとなく?」

「ひどい……日和は俺と夏祭りに行きたくないんだ……」

「んなこと一言も言ってねえだろ」

「え! じゃあ行ける!? 行けるの? 行こ?」

「行こ? ってほぼ確定事項になってるじゃねえか、最後」

「だってー。一緒に行きたいんだもん」

「しょうがねえなあ」

「え! 行ける?」

「カナシーことに予定がねえからな」

 実は毎年、この日だけは遅くまで遊びに行ってもいいように、宿題も予習も復習もすべて終わらせていることを知ったら、貴方は健気さを褒めてくれますか? なんてね。私がしたくてやってるんです、褒めなくていい。ただちょっと、喜んでくれたら嬉しいな。なんてね。

「やったー! あ! あのね! 今年はね! おめかしするから!」

 西井は期待通り喜んでくれて、それに私はほっこりとした気持ちになっていたら、予想外の言葉が飛び出してきたので首を傾げる。

「おめかしって。女子かよ。つか何すんの」

「浴衣着る!」

 その宣言に、私はきょとんと目を丸くした。

「あれ。前、汚すからって着ないつってなかった?」

「え? そんなこと言ったっけ?」

 言いました。覚えていますよ、貴方の言葉は、くだらないことでも、なんでも。

 でもそんなことがバレたら気持ち悪いと思われそうなので、「さあ、記憶違いかも」と適当に誤魔化す。

「でもなんで急に?」

「んー、内緒!」

「意味深にすんなよ気になんだろ」

「気にして気にして。俺のこと考えて」

 言われなくてもいつも気にしているけれど。それを貴方は知らないな。知らないままでいいけれど。

「えー、脳味噌の容量お前のために割くのぉ?」

「嫌そうに言う……」

「嘘だよバーカ、別に嫌じゃねえよ」

「ほんと?」

「嘘ついたら針千本飲ませてもいいぜ」

 と言ったら、私はこれまでに何回嘘をついたのか、何千何万と針を飲めばいいのかと、ひっそり心の底で自虐した。

 すると西井は、「そんなことしたら死んじゃうよ」と真面目に返してきたので、「死なない。嘘ついてないから」と私はさらに嘘を重ねる。ごめんなさいね、嘘つきで。ごめんなさいね、いつも騙していて。

 「そっかー」と素直に笑う西井は明るくて眩しくて、久しぶりに目が眩むような気持ちになった。罪悪感に、心がきゅっと締め付けられるようだった。嘘を、やめられたらいいのに。本当のことを喋れたらいいのに。そうしたらどれほど、貴方とまっすぐに向き合えるだろう。どれほど、嬉しいことだろう。きっとそんな日は来ないけれど。

「じゃ、いつもどおりバス停の前で待ち合わせでいいか?」

「うん! 盆踊りの音が鳴る頃に!」

 指切りげんまん、と小指を差し出す西井の指に、私は自身の指を絡めて、高校生になったというに、小学生のように無邪気な約束を交わすのだった。



*…***…*



 いつものバス停前。

 おめかし、という単語にはしゃいだ私は、随分早く待ち合わせ場所に到着したと思う。

 それなのに、西井は先にいた。

 宣言通りの、浴衣姿で立っていた。

 去年よりもまた伸びた、すらりとした高身長に浴衣がよく似合っている。別に、背が高ければ似合うというものではないと思うので、単に和服が嵌(は)まるたちなのだろう。綺麗な黒髪に、良い意味で日本人らしい顔立ち。スタイルだって悪くない。似合わないはずがなかった。のに、どこかで甘く見ていたのだろうか、会心の一撃、そんな言葉が脳裏を掠める。不意打ちでも喰らった気分だ。

 西井はそわそわと、辺りを見ている。ので、私を見つけないはずがなかった。視界に私を入れると、ぱあっと表情を輝かせ、動きづらそうにてこてこと私の方へとやってくる。和装姿で歩き慣れていないのがよくわかる歩み寄り方だった。そのうち転びそうなので、私の方から駆け寄っていく。

「お待たせ」

「ううん。待ち合わせの時間まで、まだあるよ」

「お前を待たせたんなら、待ち合わせ時間なんてもう関係ねえんだよ」

「日和イケメェエン……」

「普通だ、普通」

 短いやり取りの最中も、後も、西井がちらちらとこちらの様子を伺っていたのがわかった。浴衣に対する感想を求めているのだと、誰でもわかる。何も言わないのは失礼だ。私は思ったことを言うことにした。

「お前」

「うん」

「浴衣、似合うな」

「え! ほんと!? 褒められた! やったぁ!」

 端的な言葉であったのに、予想以上に喜んだものだから、私は逆に驚いてしまった。

「そんな喜ぶことかよ」

「日和と歩くためにおめかししたからね! 日和に褒められたら、喜んじゃう」

「だからさぁ、その言い方、女子かよ」

 口ではつっけんどんだけれど、心の底から嬉しさが込み上げてきていて、どうしよう。ありがとう、と素直に言ってしまいたくなった。言えないけれど。だって、私は私を隠さないといけないから。

 ごめんなさい、言えないんです。ごめんなさい。

「ま、浴衣って着んの大変だし。わざわざお疲れ。あとサンキュ」

「とってつけたように言うなぁ。頑張ったのにー」

 ですよね。本当に、すみません。

 でも、こうして、冗談のようにしか、友達のノリでしか、言えないんです。

 本当は、眩しくて、愛しくて、幸せなのですが。

 この気持ちを伝える言葉を、私は口にできない。



*…***…*



 変わらぬ道を行き、変わらぬ時を過ごし、境内で、花火を見る。

 夏祭りの終わりを合図する、最後の花火が上がった。

「終わっちゃったなー」

 いつも、この瞬間が、悲しい。

 貴方との別れを告げる最後のヒュルルル、ドォン。

 静かになって、火薬の匂いがして、空が煙で曇っていて、ざわざわと、人の帰っていく喧騒がここまで届くようになって、それはさよならを示していた。

「帰ろうぜ」

 でも、そんな気持ちは隠して、笑う。笑えば貴方も笑ってくれるから。でも、なぜか今日、一歩後ろにいる貴方へ笑顔を届けるには、振り返らなければいけなくて、そうした瞬間、ふ、っと顔が近付いた。

 ――え?

 一瞬、ぽかんと間抜け面を晒(さら)す。そんな私の唇に、柔らかな感触がした。

 何が起こったのか、わからなかった。

 すぐさま離れていった体温に、瞬きだけを繰り返す。

 西井が、真面目な顔をして、こちらを見ている。

 え、と。

 鈍い頭をフル回転させる。今のって、まさか、もしかしなくても、キ、ス。

 なんで? どうして? 私たちは友達同士で、私の気持ちは隠していたはずで、西井だって友達に接するような、……いや違う。好き、の表し方が、変わっていた。私はわからなかったわけではなかった。気付いていた。気付いていてなお、この関係を壊すのが怖くて、勘違いかもしれないのが怖くて、何も言わなかった。臆病者だったのだ。彼のように、おめかしをしてみたり、行動に移してみる度胸がなかったのだ。

「西、井」

 ぎこちなく呼びかけた途端、ばっ、と彼が自分の顔を手で覆う。やってしまった。そんな顔をしていた。ように、見えた。あ、とっさのこと、だったのか。とっさ。とっさのこと。衝動に任せてしまったということ。それはつまり、それだけ、これまで我慢していたということ。それはつまり、それだけ私を想っていてくれたということ。

 ……と、解釈、していいですか。

 そう、解釈させてくださいますか。

「ご、ごめん!」

 だから、謝らないでください。

 嫌だなんて、欠片も思っていませんから。

 むしろ、私は、この瞬間を、待っていたのかもしれない。受身の姿勢で、もしも誰かが見ていたりしたら私の姿勢に腹が立つかもしれないけれど、怖がりで満足しいの私には待つことしかできなくて、現状を申し分なく思っていて、だから、……ああ何を言っているのか。落ち着け、落ち着け。

「あのっその、ほんとごめん、あの、花火見てるときの日和の横顔が綺麗で、あっいやそうじゃなくて、ええと、ええと」

 西井も慌てふためいている。こんな時、何かいい言葉を言えたらいいのだけれど、私の脳も大概取り乱していたので、なんにも言葉が浮かんでこない。そのうち、提灯のわずかな明かりでもわかるほど顔を赤く染めた西井が言った。

「ごめ、あの……、……好きです!」

「私もです」

 あ、と思った時には遅かった。完璧に、素が出てしまっている。取り繕いようがないほどに。

 今度はこちらが顔を覆い隠す番になった。西井が、先程までの私と同じように、きょとんとしている。鏡写しのようだ。なんとなく、場違いにそんなことを思った。

「わたし……?」

「……すみません。ずっと騙していました」

「え、なに、え? なんで敬語になるの? え?」

「これが私です」

「わたしって? え? だって普段は俺って」

 ああ、約束通り、針千本飲まないとなあ。

 ずっと貴方に嘘をついていたことを、告白しなければ。

 今がその時だから。

「実は、……」

 その後、私はすべてを告白した。

 これまで、嘘の自分を作って、本当の自分は隠していたこと。

 誰も彼も騙していたこと。

 それが一番擬態しやすかったからであること。

 親の教育方針でもあったこと。

 きっとこれからも、騙し続けるであろうこと。

 だけど貴方だけはもう騙せない、騙したくないということ。

 そして最後に、問いかけを、ひとつ。

「……幻滅しましたか?」

 聞いておいてなんだけれど、頷かれたらどうしよう。

 嫌われたらどうしよう。

 怖い。怖いのに、もう騙せない。何度も言うが、騙したくない。それが本音だった。嫌われる可能性を加味してでも、……受け入れてほしかったのだ、私は、私を。ありのままの自分を。

 エゴだ、わかっている。だから嫌われてもしょうがな、

「なんで?」

 あっさりと、私のネガティブ思考は切り捨てられた。たった三文字の、ぽかんとした声で。そして今度は私がぽかんとする番であった。

「なんでって……騙していたんですよ? 何年も、ずっと」

「んー……だってそれには理由があったんでしょ? 必要だったんでしょ? それに、嘘だったとしても、俺にとっては学校での日和も日和だよ。あと、なんとなく、全部が嘘だとは思えないんだ」

 なんだ、そこまで、バレてたんですか。

 貴方への想いが時折漏れていたこと、気付かれていたんですか。

 恥ずかしいなあ、隠し通せていたと思っていた自分が。

 申し訳ないなあ、勝手に騙せていたと思っていたことが。

 それから。

 こんな私を受け入れてくれる嬉しさに、泣きそうになった。

 嘘でしょう、と言いそうになった。

 けれどそれは相手にとって失礼だから、既(すんで)の所で押し留めた。

 ただ、夢ではないだろうかと頬に手をやってつねってしまった。創作などでよくある確認だ。痛かった。夢ではないらしい。理解すると同時に、「何してるの」と西井が小さく笑いながら言った。

「……夢のようだったので」

「夢じゃないよ。夢にしないでよ」

「だって」

「本当のことだよ。俺、日和のこと好きなんだ。……あ、えと、それとも、夢オチにしたいくらい、やだってこと? わ、忘れる? 今なら間に合う? もとに戻れる?」

「馬鹿言わないでください。私がいつから貴方のことを想っていたか」

「え」

「あ」

 駄目だ。

 さっきから、嬉しすぎて、隠すことができない。

 ずっとずっと、こんなこと言えないと思っていたのに、口にすると呆気ないものだ。するすると、手のひらに掬った砂が零れていくように、さらさら、さらさら、言葉が止め処なく溢れていく。

「想ってって……え? え? 本当? 本当に?」

「本当です。……ずっと、好きでした」

「……過去形なの?」

 言われて気付いた。言い方が悪い。だって、

「違います。現在進行系です。ですので訂正させてください。……好きです」

「……へへ。えへへ。……嬉しい」

「貴方が嬉しいと、私も嬉しい」

 ああ、本当に、嘘みたい、だ。

 こんな風に、想いを口にできるなんて。

 貴方への気持ちを伝えられるだなんて。

 ……一緒に、笑えるだなんて。

「……ね、日和、貴方、なんて言わないでよ。いつもみたいに、名前を呼んでよ」

「西井」

「うん」

「西井」

「はい」

「西井」

「ふふ、くすぐったくなってきた」

「どうしよう」

「え?」

「幸せなんです、すごく」

 未来は決まっていて、この先なんてないのを知っているのに。

 今この瞬間が、尊くて、死んでもいいとさえ思った。

 でも、すぐに、西井の笑顔を見て、撤回した。

 嫌だ。

 この人の隣で、笑っていたい。

 もっとずっと一緒にいたい。

 声が聞きたい。

 体温に触れたい。

 それは我儘ですか?

 貴方は叶えてくれますか?

「抱き締めてもいいですか?」

 精一杯の勇気を振り絞ってお願いした言葉に、西井は両手を広げて応えてくれた。

「嫌なわけないじゃん!」

 嬉しそうな声に、一歩、近付いてみる。

 身長差のせいで、腰に抱きつく形になった。手を伸ばし、背中を抱く。くすぐったそうな、喜ばしそうな声が降ってきた。同時に、強く抱き締められた。苦しいくらいに。痛いくらいに。それほど彼が私を求めていたのだと伝わってきた。言葉がなくとも通じるのだと知った。

「好きだよ」

 それでも言葉にされるとすごくすごく嬉しくて、

「私も好きです」

 気持ちを返すように、何度も愛を口にした。

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