第八章:大学二年生 冬
気がつけば季節は何度も巡り、大学二年生の冬になっていた。成人式当日である。
鵯との連絡は、かろうじて月に一度メールでの連絡がとれるかどうかだった。ついぞかけた電話にも出てくれなくなった時には絶望した。折り返しすらなかったからだ。ただその後、ショートメール(西井は鵯のスマホが新しくなってからのLINEを知らない)で「図書館にいたので、電源を切っていました。今日はもう寝(やす)むので、また今度」と連絡があってひどく安堵した。ただ、やはり電話ははぐらかされたのだが。それからもたびたび、図書館にいたり、勉強に集中していたりで電話に出ることはなかった。電源が入っていないことも稀(まれ)ではなかった。
気にしないようにしていた。忙しいんだ。邪魔をしてはいけない。
そして同時に願っていた。成人式の今日くらい、帰ってきてくれることを。
「透、ちゃんと準備できてる!?」
母の声に、西井はハッと思考を中断させる。そして元気よく、
「うん! 歩きづらい!」
と言うと、「袴なんかにするから!」と母から苦言が飛び出した。
スーツでよかったでしょうに、高い出費だわー、と嘆く母親の声を無視して、靴を履く。
ありきたりなスーツでもよかったけれど、袴を選んだ。もしかしたら久しぶりに鵯に会えるかもしれないからだ。あの、大学一年の夏の日、「お元気で」と言われたきり、声を聞くことすらも叶わなかった恋人へ、少しでもいい恰好で出会いたかったから。それに、
(浴衣で成功したから、和装、信頼してます!)
高校二年生の時に得た、ジンクス的なものだった。
(……でもそもそも、来なかったらどうしよう……)
そう思うと頑丈なはずの胃が痛んだが、今から悩むことはないと切り替える。会場に行けばいいのだ、それですべてわかる。
*…***…*
かくして、想い人は、いた。
最後に見た通りの小柄で華奢な体に、仕立てのいいスーツをまとっている。横顔は凛としていて、綺麗な顎のラインから小さな桜色の唇、色づいた頬、伸びた睫毛まですべて美しいと思えた。我ながら、会えなかったタイムラグが大きいにせよ、美化しすぎて見ている気がするが、かっこかわいいのは仕方がないのでそういうことにしておく。
「日和!」
はしゃいだ声で名前を呼ぶと、彼はゆっくりとこちらを向いた。ああ、本物だ。スマホのデータにある写真ではなくて、質感を伴う本当の彼。髪に、頬に、指に、触れたくなった。触れはしない。こんな公衆の面前でそのようなことをするのは彼が嫌がるかもしれないからだ。今鵯の嫌がることをしたら、致命傷になる気がした。
「西井」
呼ばれた声は、どこか掠れていたように思える。ん? と首を傾げた。風邪だろうか。心配になる。声の変調には鵯もすぐに声に気付いたらしく、何度か咳払いをしていた。
「お久しぶりですね」
そう言った声は何度も聞いた覚えのある声そのものだったので、先程のものは空気の乾燥か何かで噎(む)せただけだったのだろう。
「ね! すっごく久しぶり! 元気にしてた?」
「ええ、それなりに。西井も元気そうですね」
柔らかな微笑。自然と人のことを慮(おもんばか)る性格。ああ、好きだなあ、と、久しぶりに思った。ずっと離れていたけれど、やっぱり好きだ。どうしようもなく。
「日和、」
この混雑だ、うるさいホールだ、ひっそりと小さな声で想いを伝えるのは、許されるだろうか?
「あのね、」
しかし生憎、伝えようとした瞬間、スピーチが始まってしまった。タイミング悪いよ! と心の中で思うも、こればかりは仕方がない。恨むことなく、おとなしく口上を聞く。
途中眠くなったりもしたけれど、たぶん、いいことを言っていたのではなかろうか。
式は、暴れるような輩もおらず、順調に進行していく。西井はできるだけ、鵯の傍にいた。これまでいられなかった時間を埋めるように。
*…***…*
そのうち、同じ高校のメンバーで二次会へ行こうという話になった。メンバーの中には、鈴木と山本もいる。この二人は都内の大学に進学したので、たまに会って遊んでいる仲だったりするが、それは今は関係ない。
「すみません、新幹線の時間があるので」
と断ったのは、やはり鵯だった。
「んだよ~~~こういう時は宿用意するもんだろ! 家は? 事情アリか? 俺んち泊まるか?」
と鈴木が鵯の肩を抱き、
「鈴木の部屋足の踏み場もねえからなァ……やめとけー?」
辛辣なツッコミを山本が入れる。
鵯はそれらにハハハと苦笑し、やんわり鈴木の腕を外すと、「家の事情ではありませんよ。明日、京都で用事があるんです」と言って片手を上げた。
「それでは、また機会があれば」
西井は。
たったそれだけの言葉で終わってしまうのが嫌で、思わず鵯の手を取った。そして、「俺も帰ります!」と高らかに宣言する。
「公認カップル未だ健在か!」
と言ったのは、卒業アルバムの写真班だ。よくまあ覚えていたものだなと関心しつつ、ドヤ顔を決めておく。そうでもしておかないと不安だった。この人は、この人は俺の、恋人なんです。こんな、寂しそうに、独りで帰しちゃ、いけないんです。
鵯は心なしか戸惑ったような顔をしていたが、腕を振り払うことはなかった。
こうして会場を先に抜け出した二人は、駅へと向けて歩いていく。
歩幅は、慣れない和装に身を包んだ西井のものに合わせられている。少しでも長く時間を共にできる和装に、心から感謝した。
「来年かー」
「え……?」
「あ、ごめんね急に。就活の話」
「就活……」
「日和はどうするの? この先」
「この、先」
「俺はどうしようかなあ。
……あ、そうだ、いっそ京都行っちゃう? そしたらずっと、日和と一緒にいれるよ!」
「……っ!」
弾かれたように、鵯が振り返る。苦しそうな顔に見えた。え? え? そう思っている間に、ポツリ、ポツリと雨が降ってくる。
「……日和?」
「この先、なんて」
雨は、みるみるうちに、地面を、景色を染め替える。
「私には、そんな」
大粒の雨が、鵯の顔を濡らしていく。
それはまるで、泣いているように見えた。
「ひよ――」
バッ、と腕が離され、ぐるりと身を翻して、鵯が走っていく。駅に向けて、一直線に。
西井も追おうとしたが、和装が災いした。走れない。もどかしく思っているうちに、鵯の姿はどんどん小さくなっていった。ああ、駅に着いてしまう。鵯の小さな背中が改札を抜けていく。人混みに紛れていく。
もう、見えない。
西井は呆然と、雨に濡れながら鵯の消えた改札をぼんやりと見つめたのだった――。
*…***…*
あの後、何度も鵯に電話をした。別れた直後、新幹線の時間を逆算して京都に着いたであろう時刻、翌日、翌々日。次も、その次の日も、毎日のように連絡した。泣いているかのように見えた鵯の顔が脳裏から離れなかった。
しかし電話は見事に電源が切られていて繋がらなかった。もしや倒れているのでは、と思って心配になったが、心配する以上のこともできない。
小学生の時の連絡網を引っ張り出してきて、迷惑を存じ上げつつも実家に連絡をかけたもののこちらも繋がる気配はなく、常に留守電だった。忙しいのだろう。そういえば鵯の口から家族のことを聞いたことがないということを、今になって思い至った。……忙しい、のだろうか? それとも、放置? 中学三年生の時の、風邪を引いた彼を放っておいた親だったということを思い出して憤る。
とはいえ、相手方にどんな事情があるのかなど知る由もない。ないので、西井は毎回律儀に留守電にメッセージを残した。鵯のスマホにもだ。けれど、実家、スマホ、どちらからも折り返しが来ることはなかった。メッセージを聞いているかさえ定かではない。
西井はただ、ため息ばかり吐く生活を過ごしていた。
ところ、
「やめろやめろ! 不幸せがうつる! おかげで生まれてこの方彼女ナシだ! 西井のせいだ!」
「まあー俺ならこんな陰気な彼氏ほしくないわあー」
腐っている西井を遊びに連れ出し、ファストフード店で話を聞いてくれている鈴木と山本に、散々の言われようをされた。
「二人ともさ、俺を慰めようとしてるの? 貶そうとしてるの?」
返答はなかった。どっちも、という意味かもしれない。まったく、ひどい悪友を持ったものだ。気にかけてくれる、その一点においては気分が晴れたので助かったけれど。
「いっそ家まで凸れば?」
ポテトを食べながら告げられた、何も考えていなさそうな鈴木の発言に、天啓を感じたのは余程追い詰められていたからだろうか。
「やっぱ……そうするしかないよね?」
真顔で受け止めると、山本が、『正気かこいつ』と言うような目で見てきたが、口を出さないやつに説教を垂れる資格はない。それに山本もそんな顔をしたものの止めたわけではないのだ。止める気は、さらさらなかったのかもしれない。
「ありがとう鈴木。俺、日和の家に行ってくる!」
「お、おお!? マジでか! 気をつけてな!?」
実のところ鈴木もわりと出まかせだったらしいことが反応から伺えたが、この際どうでもいい。
動くきっかけがほしかったのだと、西井は知った。
応援してるわ、と鈴木に言われた時、西井は黙って親指を立てた。覚悟はできていた。
*…***…*
鈴木と山本、二人に会って背を押されてからわずか三日後、西井はJR京都駅に降り立っていた。
そして、困っていた。
「京都大学って……なんでキャンパスが三つもあるの……?」
調べずに来てしまった落とし穴がそこにあった。
河原町(かわらまち)からバスで向かう吉田キャンパス。
中書(ちゅうしょ)島(じま)から京阪電車に乗り、徒歩で向かう宇治キャンパス。
京都からバスで向かう桂キャンパス。
そのどこに鵯が在籍しているのか、西井には皆目見当がつかない。
(あ~~~!! 偶然にも日和がおばあさんを助けていてそのおばあさんが日和の入っていくキャンパスを目撃していてこれまた偶然俺の目の前に現れないかな~~~!?)
到底無理なことを考えながら頭を抱えている時だった。新幹線内だからとマナーモードにしていたスマホが震えたのは。鵯かもしれない、というのは、彼からの連絡が途絶えて以来、毎度着信があるたびに思ってしまうことであった。もちろん、そうであったことなど一度もないのだけれど。果たして今回も、そうであった。
「山本……?」
ディスプレイには、『山本 諒』という名前が乗っている。その下に、スライドして通話、という文字。
相談に終始乗り気でもなんでもなく、鈴木の提案に乗った西井をぎょっとした目で見ながら味の薄いコーヒーを啜っていた男がなんの用だというのだろう。疑問に思いながらも電話に出てみると、『京都満喫なう?』と聞かれた。どこから見ているのだこの男。
『お土産は聖護院八ツ橋総本店の焼き八ツ橋がいい』
「待って山本話が理解できない」
『西井IN京都』
「う、うん、正解」
『そして鵯を捜している』
「そうだけど、え、俺今日が京都行く日だって話したっけ?」
『これまでの西井クゥーンの行動パターンからするとそろそろかなとあたりをつけてみました』
そういえば高校時代、山本の趣味が人間観察であるということを鵯と話していた気がする。が、ただの人間観察でここまで行動パターンが予測できるものなのだろうか。それとも盗聴器でも仕掛けられているのか。西井はばっと体を探ってみたが、その瞬間『盗聴器じゃねえから』と言われたので盗撮かもしれない。『盗撮でもねえから』じゃあ超能力者か。
『単純なきみは実にわかりやすいのでねえ』
大仰に言った、何者かを疑いたくなる男はこう言葉を続けた。
『鵯は吉田キャンパスの、本部・西部構内に通ってるんじゃねっかなー。辞めてなければだけどぉ』
「あ、ありがと……ていうか、ツッコミどころ豊富すぎるんだけどひとつ、なんで知ってるの? ストーカー?」
『ミステリアスな男はモテるのでー黙秘権を行使しまァす。じゃあな、八ツ橋忘れんなよー』
と言われて電話は切られた。終話音を聞きながら、山本、彼女いないもんな……モテるために必死なんだろうな……と現実逃避がてら勝手に結論づけて、吉田キャンパスへ向かう。
*…***…*
さて、第二の関門だ。
吉田キャンパスへ来たところで、どうやって鵯を見つけるか。
とりあえず出入り口付近に陣取って、通る人片っ端から声をかけたら警備員さんの詰め所に連れて行かれた。そりゃそうだ、怪しすぎた。
「きみねえ、どこの誰? ここの生徒じゃないよねえ? 何をしているの。最近不審者が多いから変な行動は慎んで――」
「その、人を探してるんです!」
「人ぉ?」
警備員さんも立派な証言者だ。言葉を尽くして鵯の特徴を上げていると、
「ねえ、そのお兄さん、ヒヨドリって苗字じゃない?」
忘れ物を取りに来たらしい女生徒が、西井に声をかけた。西井は鵯の特徴ばかりを話しており、珍しいとされるであろう苗字を明かすことを忘れていたので、おそらくは間違いない。
「知ってるの!?」
食い気味に反応すると女生徒は一歩退き、
「全コマに授業入れるようなバケモノで、ほうぼうの研究室に呼ばれてるって噂。ここまできたら都市伝説だね」
「都市伝説……」
「そ。私も見かけたことあるけど、生気のない、能面みたいな顔してたなあ。幽霊だって言われたら信じちゃうかも」
「日和は幽霊なんかじゃないよ!」
思わず大きな声が出ていた。女生徒がびっくりしている。警備員さんが、「慎んで」と言った。はい、と言ってしゅんとうなだれる。
「ごめんなさい、お姉さん」
「ううん、私こそ。知り合い? を幽霊扱いされたら怒るよね。口が滑った、ごめんね」
お姉さんは天使のように優しかった。泣きそうな西井に飴ちゃんをくれたので間違いない。青りんご味のそれを舐めていると、
「さっき言ったみたいに、いろんな授業出てて研究室にも入り浸ってるからどこにいるかはわからないけど、なんかの役に立てばいいな。それじゃあね」
と言って、忘れ物のポーチを右手に提げ、彼女は詰め所を去っていった。
学校にいても見つからないのなら――。
西井の頭を過ぎった考えを見透かしてか、警備員の目が光る。「慎んで」三度目の言葉に、西井は「あはは」と曖昧な笑いを浮かべて、「もう学校には来ないので! 失礼します!」と無理矢理詰め所を後にした――。
*…***…*
西井が考えた方法は、至極単純だった。
吉田キャンパス付近にある、学生(がくせい)御用達(ごようたし)のアパートをしらみつぶしにあたる。
幸いというか、先程まで忘れていたのだが、鵯という苗字は珍しい。守秘義務だのなんだのと色々煩い(うるさ)だろうが、うっかり教えてくれる大家さんもいるかもしれない。それに、もしかしたら集合ポストに名前があるかもしれない。都合がいいとわかっていても、それに縋るしかなかった。
(……ところで、だんだんストーカーみたいになっているような……)
そんな風に思ってはおしまいだ。正直なところ、京都まで押しかけた段階で結構ヤバい。
でも。
成人式の日の苦しそうな顔が、どうしても忘れられなくて。
恋人が思い悩んでいるかもしれないことが、とてもつらくて。
彼のために何もできないなら、俺はなんのために存在する?
「…………」
だから西井は進む。
無駄かもしれない、無駄でもいい。ストーカー呼ばわりされて終わったっていい。
ただきみが、前と同じように笑ってくれるのならば。
西井は、なんだっていいのだ。
(それくらい、好きなんだよなあ……)
*…***…*
アパートを当たり続けて、何軒になっただろうか。
日も落ち、次がダメなら取っておいた宿に戻り、明日また出向こうと思ったところだった。
最後に訪れたアパートは、白い塗装が真新しく、小奇麗で小洒落た印象を受けた。学生専用の割に作りは良さそうだ。ほへーっと見上げてから、集合ポストを見る。これまでのアパートやマンションでもそうだったが、防犯のためか、なかなか名前を書いている家はない。最初こそ期待はしたが、よくよく考えてみれば防犯意識の高そうな鵯のことだ、今後もそれについて期待はできないだろう。
そのため行われたのはローラー作戦であった。内容は至って簡単。家の前に立ってピンポンを押すだけ。鵯が出ればゲームクリア。出なければ謝って次の部屋へGO。さて、本日後何回やり直しをさせられるのか。集合ポストの数的には、八回か。
そのアパートは二階建ての建造物で、一階に四部屋あるタイプだった。一階の端の部屋から順にチャイムを鳴らしていくが、留守、人違い、セールスに間違われてのうんざりとした顔、人違い、などの対応を受け、二階へ。
そしてこちらも、人違い、人違い、人違い、と三度人違いが続き、本日最後のドアになった。そこでふと思い出す。一階の住民が一部屋、留守だったことに。
(あああ俺の馬鹿……! 留守の家に日和がいたらどうすんの!? どの家が留守だったか覚えてないよ!? 明日もローラーする!?)
途方もなさに頭を抱え悶え苦しんだ後、西井は開き直った。してやろうじゃないか、ローラー作戦。見つけてやろうじゃないか、愛しい恋人を。
やけっぱちになりながらチャイムを鳴らすと、足音が聞こえた。この部屋は留守じゃないようだ。カチャリと音がし、ドアが少しだけ開いた。これまでの家でも数件あったが、しっかりしているのかドアチェーンを掛けて訪問者を窺うようちらりとだけ姿を表す。
「……え?」
その、わずかな隙間から見えた肌に、瞳に、髪に、見覚えがないはずがなくて、
「日和!」
恥も外聞もなく叫んでいた。
ドアの向こうで鵯はびくっと体を揺らす。突然の大声に驚いたのだ、無理もない。いや、ここに西井がいたことに、かもしれない。どうにせよ即座に「いろいろごめん!」と謝り倒す。
「西井……」
なんでここに、とも、どうして、とも、言葉は続かなかった。ただ、愛しい人の口から呼ばれた自分の名前は、他の誰に呼ばれたそれより甘美な響きで、こんな状況でも舞い上がってしまうほど嬉しく、改めて、ああこの人が好きなんだ、と認識させられた。
「ごめん、びっくりさせちゃったよね。事情を説明させてほしいな。少しでいいから、日和の時間、ちょうだい?」
ドアを開けてくれと強気になれなかったのは、ここまでしておきながら、この期に及んで嫌われたくなかったからだろうか。
鵯は、ドアを閉めた。静かに閉めた。駄目か――。そう絶望して空笑いが漏れそうになった時、チャリ、とチェーンが鳴るような音が響き、続いてカチャリと鍵が開く音。そして、ドアが開かれた。
ああ。
目の前に鵯がいる。
成人式の日はスーツを着ていたからわからなかったけれど、簡単な白いシャツに黒いパンツルックの彼は、東京にいた時よりひどく痩せて見えた。食事は、ちゃんと摂っているだろうか? 女生徒が全コマ出席とか言っていたけれど、睡眠は? そういえば顔色がよくない。
今にも倒れてしまわないか心配でオロオロしていると、突然、鵯が涙を零した。度重なるイレギュラーに戸惑いが頂点に達する。
「え? どうしたの? え?? 来たの、迷惑だった……?」
鵯は無言で首を横に振った。涙はまだ、零れている。
「あの……中、部屋の中。入ってもいい……?」
外では抱き締めることさえできないから。
鵯は涙をこすりながらドアを開くと、西井を招き入れた。その際、不躾とは思いつつ部屋を見回してしまう。1Kの部屋だ。玄関の横に、小さなキッチンが見えた。コンロではなくIHで、ひどく狭いその場所を使った形跡はなかった。唯一あるとすれば電気ケトルくらいか。備え付けなのか買ったものなのか、置かれた冷蔵庫は飲み物くらいしか入っていないのではないかというほど小さく、真新しく小洒落た外観に反してひどく殺風景な印象を受けた。
そして、部屋には余計なものが一切なかった。
壁際に寄せられたシングルベッド。その隣に置かれたサイドテーブルの上には、ランプと読みかけの専門書。同じ並びに小さな棚があり、その棚には勉強に使うであろう参考書や、これまでのレジュメなどが整理整頓されてまとめられていた。
部屋の中央にはガラステーブルと、その上には薄型で持ち運びのしやすそうなノートパソコンがコンセントに繋がれ置いてある。
ここに、鵯が暮らしているのだ。もう二年以上になる。……こんな、ろくにものもない部屋で。そう思うと、悲しさと、憤りと、虚しさが湧いて出た。女生徒が言っていたことを、三度思い出す。
『全コマに授業入れるようなバケモノで、ほうぼうの研究室に呼ばれてるって噂』
それは、この部屋に帰りたくなかったのではないか、なんて邪推してしまって。
「……とりあえず、座ってください」
ぐす、と洟(はな)をすすりながら、鵯が言った。電気ケトルでお湯を沸かしている。コーヒーのいい香りが立ち上った。しかし。
「…………」
謎の時間が空いた。鵯はコーヒーをシンクに流し、もう一度ケトルでお湯を沸かす。「そんなのいいよ」西井は言ったが、鵯はキッチンから動かなかった。そして、今度こそ、コーヒーがテーブルの上に置かれた。マグカップは一個だった。食器は一つでいい。それは、この部屋への来訪者が他にいないことを示していた。察してしまった今、何も言えない。黙って、出されたコーヒーを飲んだ。異常事態に味覚が遮断されているのか、味はしなかった。
「あの、日和……」
「…………」
「何が……あったの……?」
何をどう切り出せばいいかわからなくて、曖昧な言葉になった。
というより、これ以上は聞けない。
だって、西井は、大事な恋人に、『何が』あったのか、まるで知らないのだから。
恋人はゆっくりと口を開く。
「なにもなかった」
西井は理解力がいい方ではなかったけれど、このことに関しては、一瞬で理解した。
ああ、『なにもなかった』んだ、と。
なにもないまま、がらんどうの時間を過ごしていたのだろう、と。
鵯はうつろな笑みを浮かべていた。
そのことが悲しくてそっと手を触れようとして気づく。
「ねえ日和……なんでそんな、遠くにいるの……?」
鵯は、学生時代西井と一緒にいる時は、必ず隣にいた。距離があることをもどかしく思うように、誰が変だと言ってきても、絶対に傍にいた。付き合うようになって、家で遊ぶ折になっては、テーブルの一辺に並んで座って、肩を触れ合わせてははにかんでいた。
それなのに、今は、テーブルを挟んで向こう側にいる。
それはひどく、心の距離のように思えて、苦しかった。
「ねえ日和……本当にどうしたの? 俺でよければ話聞くよ……?」
*…***…*
彼の顔を見たら、泣いてしまった。
だって、もう会えないと思っていたから。
みっともなく泣く私のことを、「抱き締められないから」と言って、彼は部屋に入れてくれと頼んできた。断るすべなどなかった。抱き締められたいのはもちろん、もう独りでいるのは嫌だったし、彼と話をしたかったから。何があったのか、きちんと伝えたかったから。誠実な彼だからこそ、私のこんな行為は裏切りにほかならないから。
そんなことを考えていたら、一度淹れたコーヒーが冷めてしまった。こんなものを飲ますわけにはいかず、シンクに捨ててもう一度湯を沸かす。
マグカップを西井の前に置き、所在なげに部屋を見渡した。立ちっぱなしでいるのもおかしいし、かといって彼の隣は眩しすぎて座れない。結果、正面に座った。すると、西井が悲しそうな顔をした。自分の判断を悔やんだ。だけど今更戻れない。
「俺、ね」
西井が話し始める。
「成人式の日、さ、この先の話をしたでしょう? ……それで日和は、その瞬間逃げちゃった。……それって、……俺とは一緒にこの先を歩んでいけないってことなのかな」
「…………」
「責めるように聞こえてたらごめんね、全然そんなつもりじゃなくって。どうあってもいいんだ、日和の意見を尊重したいから。ただ、ね、ただ――」
西井が顔を伏せる。静寂が部屋に落ちた。どれくらいの沈黙があったか、西井が続けて口を開く。
「終わりなら……終わらせてほしい。
日和が俺のこと嫌いになったなら……ちゃんと嫌いって言って?」
今度は私が顔を伏せたくなった。
ああ、そうか、あの行動は、普通に考えればそう取れるのか。
違うのだ、と説明したかった。声が出なかった。必死で首を振った、
西井のことが嫌い?
天と地がひっくり返ってもありえない、そんなこと。
それくらいの思いを込めて無言なりに否定すると、「違うの……?」と、西井はきょとんとしたような、呆然としたような、安堵したような、そんな複雑な声を上げた。私は必死で頷く。
「じゃあ――話してみてくれない? 何があったのか……」
促されるまま、話そうと、口を開く。
しかしやはり声にならなかった、自分でも驚く。先程から、声が出ないのだ。ぱくぱくと、口を開いては閉じる。
「俺のこと、嫌いになったわけじゃない、んだよね?」
頷く。
「じゃあ、なんで?」
「…………」
話は一向に進まなかった。私が喋れないからだ。
いっそ筆談でもと思ったが、では何を書けばいいのかも頭の中にまとまらず、つまるところ――思考が真っ白に塗り潰されていることに、気が付いた。何を話せばいいのかわからないから声が出ない。同じく書くこともできない。それでも西井は黙って待ってくれている。
しばらく待って、どうしても私が話せないとみるや、今度は話を引き出そうと言葉をかけてくれた。
「俺が嫌いじゃないなら、成人式の時、どうして逃げたの? 俺が京都来るの、そんなに嫌だったかな」
「違う」
反射的に声が出ていた。少し驚いて、喉に触れる。今なら喋れる気がした。と同時に、今度は思考の濁流が押し寄せる。落差に驚いて息を呑み、深呼吸し、言葉を選んで西井に伝える。
「西井が、京都に来て、京都に一緒に住んで、たまに会ったりできたら……そんな未来があったなら、どれほどよかったか」
「じゃあ叶えようよ! できるよ! 俺絶対こっちで内定取るから!」
「ないんですよ」
「え?」
「ないんです、何も」
「何、が?」
「未来が」
「……どういうこと?」
「そのままの意味です。私には、未来が、ない」
どういうこと、と再度繰り返しながら、西井がテーブルを乗り越えてきた。急な接近に、肩がびくりと跳ねる。その肩を、大きな手が掴む。目と目が合った。すべて見透かされそうだ。視線を斜めに下ろした。すぐに「俺の目を見て話してよ」と言われ、おずおずと見つめる。その目が暖かくて、優しくて、ぼろりと涙が零れた。
西井は、私が泣いても何も言わなかった。肩を掴んだ腕で、そのままぎゅっと抱き締めるだけだった。私は西井の手の中で、滔々(とうとう)と語った。未来などない、の意味を。
生まれた時から、親に敷かれたレールの上を走っていた。
外れることは許されず、とにかく必死に生きてきた。
愛されたかったから。
母は、愛してくれていたかもしれない。けれどその記憶も薄い。すぐに心を悪くして、私にすらあたるようになっていたからだ。誰からも愛されず、求められず、ただ必死に生きてきた。
それでも愛されたくて。
病んで、入院した母が帰ってくることはなかった。父は知らぬ間に母と離婚していて、再婚することもなく、つまりそれは父だけが愛情をくれる存在だということにほかならず、彼に気に入られようとなんでもやった。そのためいい子を演じたし、学校では年相応に振る舞って浮かないようにもしてきた。
それでも愛されなかった。
それでも愛されたかった。
父に認められれば、愛されると思った。方法はただ一つ。彼の言うとおりに生きること。父の敷いたレールに沿って生き、期待に応え、いつか褒めてもらいたい、ただそれだけだったのに、最初から父の言うことは『当たり前』だったと気付いた。して当然。やって当たり前。やらなければ眉を顰められ、どうしてできないと罵られた。その時気付いた。どれだけ頑張っても愛されないかもしれないと。それでも頑張るしかないと。
父の言う通り、決められた大学を出、決められた職に付き、『父のクローン』となりえる存在になれば、そこで初めて認められるだろうか?
父と同じ性能を発揮し、父の考えに同調し、貴方が真に優れていますとひれ伏せば、あるいは、……それは果たして愛なのか? いいや愛などではない。愛であるとすればそれは父の父に対する『自己愛』だ。
けれどそれに染まってしまった。私は、もうその呪縛から逃れられない。自分しか信じない男の、自分しか愛さない男の、期待に応えて愛されたくて、だから今こうして、独りで。
「独りじゃないよ」
と、そこで西井が口を挟んだ。わかってる。続く言葉を知っている。
「俺がいるよ」
ほら、ね、やっぱり。
「俺が愛するんじゃ駄目?」
貴方は優しいから、そんな言葉をかけてくれる。
でもね、西井。優しい人間は、優しい人間といるべきですよ。普通の人間が普通の人間と付き合うように。
私みたいな、考え方を侵食されたおかしな人間とは、もうここで付き合いを切るべきなんです。
「ねえ、西井。
私からは嫌えないので、貴方が嫌ってくれませんか、私を」
それがきっと、貴方の幸せ。
けれど西井は激昂した。抱き締めていた腕を離し、肩を掴み、声を荒げる。こんな西井の声、初めて聞いた。「なんで?」大きな声だった。驚きはしなかった。予想の範囲内だ。
「なんで? ねえ、理由がまったくわからないよ。どうして俺が日和のことを嫌いにならなきゃいけないの? なれるわけないよ。日和は俺がどれだけ日和のこと好きかわかってない」
「そうですそんなこともわからない愚か者です。馬鹿みたいでしょう? さあどうぞ、付き合いを切って、自由になって」
「自由って何? 日和がいないことが自由なら、俺そんなものいらないよ」
「では、このままでいるつもりですか? いつまで? いつまで我慢できるというのです?」
「我慢……?」
「いつか貴方は離れていく。絶対です。いつか愛想を尽かせて、私のことなど忘れ、幸せに生きていくんです。それでいい。それでいいんです。ねえだからお願い幸せになって、今ここで私を忘れて幸せを見つけて」
がっ、と西井が私の肩を強く掴む。目と目を合わせる。揺さぶるようにして、私の腐った思考を吹き飛ばすようにして、声を投げかける。
「聞いてよ! 俺は日和と一緒にいることが幸せなんだよ! なんで他の誰かと幸せにならなくちゃならないの!?」
「私には、それが貴方の幸せに繋がると思えないのです。私の幸せは貴方の幸せ。私のことを想うなら、どうぞここで関係を切って」
「……っ」
「知ってますか、西井。いつかね、人の愛は枯れるんです。離れていってしまうのですよ」
父と母も、愛し合った時期はあったのだろうか? なければ私は産まれていない。ああでも、最初から打算であったなら。そこに愛はなかったことになる。まあ、どうでもいいか。今私が話したいのは両親のことではない。一般論だ。
「あのね西井。私、それが、貴方の意思で、だったら耐えられない。貴方がね、貴方の意思で、私を嫌ったら、私は、……私は」
視線を落とす。手のひらが見えた。男にしては小さく薄い手だ。震えていた。怖かったからだ。これだけ言葉を紡いでも、まだ、西井に嫌われることが怖いのだ。嫌え嫌えと呪っているのに、怖くてたまらないのだ。その瞬間に、何もかもを失ってしまうとわかっているから。
「それは絶対ないよ。俺が日和を嫌いになるなんて、ありえない」
「絶対、という言葉は存在しないそうですよ」
「だったら俺がその第一人者になってやる」
「ふふ……西井ならなれそうですね」
「! 日和っ」
「私以外の誰かと」
怖かったのだ。
腹を痛めて産んだはずの母からも愛をもらえず、たったひとりの家族である父には見向きもされず、愛情というものを求めてきた私は。
ようやく与えられたそれが、途絶えることが、きっと、死ぬことよりも、何よりも、怖く。
怖いから信じられない。
死んだほうがマシだと思うから信じられない。
それに。
「今しかないんですよ」
西井が私に会いに来たことを、きっと、あの、粘着質で神経質で完璧主義な父親は、もう、知っているだろう。明日には引越し業者が押し入り、どこか別のもっとセキュリティのしっかりしたマンションに閉じ込めるのだ。西井が二度と会いに来れないように。
だから。
「今、嫌ってください」
「……俺はずっと、日和のこと好きでいるよ……?」
「……ごめんなさい。大好きな貴方の言葉でも、こればかりは信じられないんです。ごめんなさい」
気付いたら、泣いていた。泣きながら、笑っていた。大好きな人の、大事な言葉を信じられない自分が嫌で、そのくせ被害者ぶることも嫌で、無理矢理に笑って泣いていた。
終わらせたいな、と初めて願った。
これまでどんな仕打ちを受けても流してきたのに、初めて芽生えた自殺願望だった。
「ねえ西井、もしも貴方が私のことをずっと好きでいてくれるなら。
『好き』のままで止めちゃいませんか。
私の命を、止めちゃいませんか」
もしそうなったら、どれほど幸せだろうなあ。
そう思ったけれど、そんなの私の勝手な願望ですね。
「……できないよ」
でしょうね。
「日和のこと、今も、これからも、ずっと好きだから」
「でもそれは――」
「信じられないなら、俺のこと殺していいよ。
日和のこと好きな俺のまま、止めちゃっていいよ」
すい、と手を取られ、その手を首筋へと誘導された。とくん、とくん、と脈打つ鼓動に、呼吸が荒くなる。
殺す?
私が?
西井を?
殺されるんじゃなくて?
殺して止める?
私のことを好きな彼のままで?
永遠にそのままで?
ごくり、と喉が鳴った。緊張している。わかりきっていた。
首に伸ばした手を、改めて、感触を確かめるようにして触れる。西井が、「ん」と小さく呻いた。苦しいのだろうか。わからない。
そして、そのまま、私は、彼を、床に、押し倒した。
馬乗りになる。
両手で首を抑える。
かけた両手全体に力を込めるようにして、一気に、――。
「ぐっ、あ……」
漏れ聞こえる苦鳴は、聞こえないふりをした、そうでもしないと、私が壊れそうだった。
けれど。
「ひ……より……」
名を呼んで、あまつさえ微笑んで。
これから殺そうとしている私に向けて、涙を流しながらも、愛を伝えるように笑う彼を見たら、もう。
ばっと両手を離し腰を浮かせる。自由になった西井が、ごろんと床を転がって、体を横たえさせて激しく噎せ返る。
私は、何を、していたのだろう。
殺す?
殺すだって?
嘘でしょう?
「ごめんなさい」
空虚のような音がした。誰のものかもわからなかった。辛うじて自分の声帯が震えていることがわかったので、自分の声だと理解する。
「ごめんなさい」
空虚は繰り返す。
「本当はこんなことしたいんじゃない。……大切にしたいのに」
そうだ、大切にしたかった。
大切にしたいし、大切にしてもらいたいし、ただ、本当に、愛した人に愛されたくて。
だから、好きな人を傷つけたくなんかないのに、どうして私は、西井の首を。殺そう、なんて――。
「あ……やまらないで……」
未だに噎せながら、西井が声を掛けてくる。
「俺がさせたんだもの」
ですって。どこまで優しい人なのだろう。どこまで……。
「今も、俺が苦しんだら離してくれたよね。
……もう大切にしてくれてるじゃない」
「……っ!」
「俺のこと大切にしてくれて、ありがと。――日和、大好き」
*…***…*
――その後のことは、あまりよく覚えていない。
たしか西井に抱きついて、大泣きして、謝って、あやされて、落ち着いてから最小限の荷物を持って、最終の便になんとか乗り込み、そのまま東京にある西井のアパートへ掛け込んだ。
父親からの連絡は、ない。
ある日ふと京大の在籍表を見たら、私は除籍されていたので、いないことになっているのだろう。
悲しいかどうか、で言えば、たぶんきっと、悲しいのだろう。
行方をくらませても捜索願などなく、事務的に存在を消去された。
なぜ、たぶんきっと、とつけたのかというと、心がそのことを考えるのを拒絶しているからだ。思い出したくない記憶に蓋をする、それに似ている。
時が来ればきっと、思い出すことも考えることもできるだろう。私は自分勝手なので、そう思うことにする。
さようなら、また会う日まで。
――人生で一番、愛されたかった人よ。
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