第三章:中学三年生 冬

 咳き込んでいたら、心配された。

 大丈夫、の意味を込めて片手を挙げる。が、取り繕いたい心と違って体調は芳(かんば)しくなかった。膝から力が抜けてその場に崩れ落ち、上半身を折り畳むようにして蹲(うずくま)って、ゲホッゴホッと派手に咳をする。マスクはしていたが、これでは他の誰かに迷惑がかかりかねない。

「保健室、」

 行っていいですか、と言おうとした声はひどくガラガラで、みっともなく、聞き苦しいものだった。掠(かす)れすぎて後半は殆(ほとん)ど音にもなっていない。それでも担任の女教師は聞き取ってくれて、「むしろ行きなさい」と強く言ってくる。

「保健委員は?」

「俺です」

 上がった声に、ゆるゆるとそちらを向く。霞んだ視界に、西井らしき人物が挙手しているのが見えた。

 西井かそうでないかを確認している間に、教師と保健委員の間では着々と私を保健室に運ぶ手立てが済んでおり、やや経つと、私は保健委員にぐいと腕を掴まれて肩を貸されていた。

「熱っ! 日和、体熱い!」

 声を間近で聞いて、西井だとわかった。見えなくても、はっきり聞こえなくても、私を『日和』と呼ぶのは彼だけだ。

 ばーか、病人だから熱出て当然だろ。普段の私ならそう返していたけれど、今は無理そうだ。口を開けばまた咳き込みそうで、必死で口を抑えるばかりだった。

「大丈夫だからね」

 という西井のセリフに根拠はない。けれど、

「大丈夫」

 繰り返されるその言葉に、ひどく安心したのであった。

 教室を出、保健室までの道を、私のペースでゆっくりと歩いてもらい、授業中のクラスが並ぶ廊下を歩く。奇妙な気分だった。普段なら、私たちも教室にいる時間なのに、一歩外へ出ただけでこんなに景色が違うだなんて。

「静かだね」

 西井が言った。私は頷――こうとして、吐き気に見舞われ男子トイレに駆けていく。げほげほと咳と唾液を洋式便所に吐き捨てる。嘔吐(えづ)きはしたが、吐くまでは至らなかった。出てくるものがない、というのが実情で、朝も昼も何も食べられなかったので当然といえば当然だろう。そう油断していたら、昼代わりに飲んだ野菜ジュースが、びちゃびちゃと音を立てて、便器を叩いた。

「ひ、より。日和!」

 心配げな声は裂帛(れっぱく)したものに変わり、彼が駆け寄ってくる。背を撫でる。大丈夫。大丈夫だから。そう言いたいのに、声の代わりに吐瀉物が出てくる。参ったものだ。

 厄介な風邪を引いたものだ、と思った。



*…***…*



「西井くんは戻っていいよ」

 養護教諭の穏やかな声に、「でも」と西井は言い募る。優しい彼は、自分にも何かできないかと、何かしようと、まだここに、傍に、いてくれた。

 それだけで、充分なんですけどね。

 真っ先に駆けつけてくれて、助けてくれて、傍にいてくれて、これ以上なんて望むものはない。

 いくらか落ち着いた体調で、今度こそひらりと手を振る。

 大丈夫。

 お前が気にすることじゃねえから。

 そう言外に伝えると、西井は心配そうに眉を下げ、口をきゅっとへの字に結んで、眉間に皺まで寄せて、なんなら泣き出しかねない顔で――私の手を取った。

「無理、しないで」



*…***…*



 保健室で診てもらった後、すぐに病院へと運ばれた。詳しい病名は伏せるが、まあ深刻なものではない。ちょっと厄介な風邪、その程度のものだ。

 ただし本当に厄介で、薬を飲んでもなかなか熱は下がらないし、咳も止まらない。嘔吐感はいくらかマシになったが、吐くことが怖くて食べることはおろか飲み物を口にするのも躊躇われた。

 学校から親にも連絡がいったらしく、初日はすぐに帰ってきた。外面の賜物だ。しかし彼は私を見るなり、「自己管理のなっていないせいだな」と一刀両断した。体調不良で返事もできない私に「今回の件はいい薬になるだろう」と言って自室に戻った。仕事でも持ち帰ったのだろう。まったくもって彼らしいので笑ってしまった。ちょっとだけ、心配してやくれないかと思っていた分落胆して、自嘲のように、ふふふ、と。

 まあ、彼の言うことも尤(もっと)もだ。自己管理がなってなかった。現に、風邪などいつぶりだろう。学校では、「馬鹿は風邪引かねえから俺らには無縁だな」なんて西井と笑い合っていたくらいだったのに。

 その日から、私は学校を休むことになった。



*…***…*



 どうやら私は薬の効きが悪いらしい。それか、罹った風邪がよほど悪いものだったか。

 つまるところ、なかなか良化しなかった。熱と咳。それから、吐き気とそれに伴う食欲の減退。おかげで、ただでさえなかった体重がさらに減った。こうして治るものも治らない悪循環に陥っていたが、何か食べ物を作るにしても私が行わなければならない。作る気力も食べる気力もないのだ、食事が用意できるわけがない。作れないならコンビニ、とも思ったが、外を歩ける体調でもなかった。結局のところ、私は私の部屋で寝ていることしかできないのであった。

 父は、私のために仕事を休むことなどなかった。初日の早退以来、変わらず仕事に行っている。私は家にひとりきりで置き去りだ。別に、だからなんということもないけれど。そういう人だとわかっているから。体調不良程度で、私が彼に何かを願うことなどない。悲しくもなかった。ただ、諦めがあるだけ。

 仕事帰りに何か買ってきてほしい、という駄々をこねたこともある。その結果、買ってきてくれはしたのだけれど、それをうっかり吐いてしまって以来、無駄だったと彼は言い、以降更に不干渉になった。合理主義者なら風邪を長引かせないよう看病してくれてもいいのでは、と思ったこともあるが、あくまで彼は『自分のため』にしか動かないのだと再認識し、諦めた。

 こんな体調なものだから、一週間後にまたいらっしゃいね、と言われた病院にも行けていない。薬も尽きた。本当に、治らない要素だらけで困る。

 はあ、と溜め息を吐いて、真っ白い天井を見上げる。

 ひとりぼっちの部屋は、いつもより広く感じられた。

 眠りすぎて眠れない体が、咳き込んで跳ねる。息ができなくて涙が出てきて、そのまま泣いた。

 なぜ、泣くのだろう。

 なぜ、こんなにも不安に感じられるのだろう。

 なぜ、なぜ。

 ……ああ、弱っているからだ。

 風邪で、気力も体力もないからだ。

 きっとそうだ、とわかっているのに、どうして私はひとりなのだろう、と思った。

 ……馬鹿を言うな。今に始まったことではないだろう。

 今も昔も、きっと私はひとりぼっちだ。

 ……こんなこと、最近は思ったことなかったのに。

 どうしてだろうと理由を探していると、案外、すぐに気付いた。自分の心をさざめかせる人間など、数少ないからである。

 思い至った原因、それは、西井の笑顔がないからであった。

「……っふ、ふふ……」

 笑えてきた。

 こんなにも他人に依存している自分に。

 ……こんなにも彼に惹かれている自分に。

「   」

 彼の名を呟いたはずなのに、それはひどい咳にかき消され、名前の代わりに止まったと思った涙が出た。……きっと、咳のせいだ。そうに違いない。



*…***…*



 どれくらいの時が経っただろうか。時間の感覚がない。意識を失っていたのか起きていたのかも定かではなかった。ふいに、耳に、音が届いた。ピンポーン、という、無機質なチャイムの音。

 西井だったらいいな、ととっさに思った。時計に目をやると、ちょうど、学校が終わって少し経った時間だった。期待してしまう。その期待に衝き動かされるように、ベッドから這うように出た瞬間、烈(はげ)しい眩暈と貧血に襲われた。歩き出そうとしたら視界が真っ黒になってその場にくずおれた。呼吸が、心拍が、乱れている。息を整えて、そうっと立ち上がった。眩暈は相変わらずだったが、貧血はそこまでひどくない。なんとか、歩き出す。しかしふらつくせいでまっすぐ歩けなくて、壁に手をついてゆっくり歩を進めるしかできなかった。その間、急かすようにチャイムがもう一度鳴った。誰だろう。……西井であってほしい。……だったらいいな。お願い、そこにいて。

 思ったよりも眩暈がひどくて、玄関にたどり着くのも一苦労だった。チャイムの音は、途切れている。帰ってしまっただろうか。やだなあ。この扉を開けた先に、誰もいなかったらどうしよう。そう思うと、心細くなった。開けないほうが、いっそいいのではないか。だってそうすれば、ガッカリすることもない。期待するから失望するのだ。最初から期待しなければ、傷つくこともない。

 なのに、手は鍵を開けた。防犯用にと三つもついているから、外すのに難儀しながら。カチャリ、カチャリ、カチャリ。次いで触れたドアノブは、ひんやりと冷たくて、心地よく感じられた。それだけ熱が高いのだと思い知らされながらゆっくりと押したドアは、とても重たかった。

「あ、すみません。新聞の定期購読のお知らせで」

 がっかりした。驚くほどがっかりした。顔色もよほど悪かったのだろう、小宅(こたく)訪問に参った営業マンの彼は、慌てたように「大丈夫ですか!?」と言って私に休むように告げ、帰っていった。粘られなくて良かったと思う反面、西井でなかった落胆がひどく、玄関に座り込む。外が近いせいで寒く、また、悪寒がする。ベッドに戻らなければ。けれど、引き返す気力もない。

 その時また、チャイムが鳴った。放置した。西井でなかったときの喪心を知ってしまったからである。もう一度あんな思いをするくらいなら出ないほうがいい。そう思って、私は動かなかった。けれど、チャイムは何度も鳴る。何度も、何度も、うるさいくらいに。

 ……こんな馬鹿な鳴らし方、普通の人間はしないだろう。西井、なのかな。……西井であってくれ。眩暈に吐きそうになりながら立ち上がり、鍵をもう一度開けて、ドアを開くと、

「日和!」

 聞きたかった声が、聞こえてきた。

 ああ。

 いてくれたんだ。

 来てくれたんだ。

 それだけのことに心が打ち震えるなんて、本当に、自分は。

「ちょっ……顔色悪いよ!? 大丈夫!? っていうかなんで日和が出てくるの!? まさか、家にひとり……?」

 散々咳をしたせいで掠れ果てた声は、どう頑張っても一音も発せなさそうだったので、言葉の代わりにこくりと頷いた。西井は心配そうに眉を下げて、泣きそうな顔になって、「入ってもいい?」と言ってきた。風邪を移したくないから断ろうと思っていたのに、勝手に首肯していた。馬鹿め。私情で彼を危険に晒すな。そう思うのに、自分でも本当に驚くほど心細くて、何より西井に会えたことが嬉しくて、離れたくなくて、話をしたくて、ああ、本当に、どうしてこんな。

「お邪魔します」

 誰もいないと知っているのに、西井は妙に礼儀正しく挨拶をして家に上がった。大雑把なタイプだと思っていたのに、脱いだ靴を綺麗に揃えている。

 部屋に通すべきかリビングへ行くべきか悩みながら歩きだすと、相変わらずの眩暝(げんめい)にふらついて、倒れそうになった。そのまま倒れて壁に寄りかかろう、そして歩いていこう、と思っていたら、ぐいと腕を掴まれ引き寄せられる。西井だった。ぼんやりと彼の方を見ると、先程よりずっとつらそうな顔で、口元をきゅっと引き結び、目を潤ませて、私を支えていた。

 彼は空いた手で自分の目元を拭うと、

「日和、フラフラじゃない。お部屋行こう? 寝よう? 俺がいたら休まらないだろうし、すぐに帰るから……」

 と悲しそうな笑顔で言ってきた。

 本心としては、一緒にいてほしくてしょうがない。だから、彼の気遣いがもどかしくてたまらなかった。

 帰らないで。

 一緒にいて。

 こうして手を繋いでいて。

 そんな、我儘ばかり溢れてくる。

 風邪を引いているのに、彼に移してしまうかもしれないのに、それでも一緒がいいなんて、傍にいてほしいだなんて、こんな――。

 こんなにも強欲な人間だなんて、思いもしなかった。

 浅ましいと思った。

 ――人間らしいと思った。

 無意識にギュッと彼の手を握り返すと、西井は驚いたようにこちらを見た。それから、眉を下げたまま笑って、「大丈夫だよ」と言った。どうしてこうも、的確に、欲しい言葉をくれるのだろう。体調に引きずられて不安定な気分のせいか、簡単に泣いてしまいそうだが、それだけは堪える。

 支えられて階段を上がり、二階の自室に戻ると、「横になって」と言われたので、その言葉に従って布団に入った。ベッドに寄り添うように、西井が座り込む。「手、出して」もう一度言われるがままに、掛け布団の下から手を伸ばす。と、手のひらを手のひらが覆った。自分よりも、一回りは大きい手。包まれているようで、安堵する。

「手、熱いね」

 自覚はしていたが、言の葉に乗せられるほどであったのか。

「まだ熱、あるよね」

 もう片方の手が、額に伸びて、「熱っ!」という、驚いたような声とともに離れていった。

「ちょっ、日和、なんでこんなに熱あるのに、ひとりきりなの!? 熱何度!?」

 西井が、私の部屋を引っ掻き回して体温計を見つけ出しては「測って!」と突きつけてくる。測定終了の電子音が鳴ると、ひったくるようにして体温計を奪うと、そこに表示された体温を見て「救急車!」と叫んだ。それはまずい。救急沙汰になれば、親が黙っていない。だから私は、やめてくださいと首を振った。西井は唇を噛み締めながら、すとんとその場に座って私の手を取った。

「おかしいよ」

「…………」

「日和、こんなに苦しんでるのに、ひとりぼっちにするなんて」

 だって、そういう親だから。

 苦笑を返すと、西井は唇を尖らせる。眉根も寄せられており、彼が怒っているのだとわかった。怒ってくれるのか、私の親に。私を放っておくことに。優しいなあ。優しくて本当に、これ以上好きになりそうだ。

 しばらくそうして手を繋いでいると、西井はハッとした顔をして、慌てたように手を離した。それから、学生鞄の脇に置いてあった袋を掴む。

「えっと、俺ね、スポーツドリンクと、アイスと、プリン買ってきたんだ。あ、あと念の為風邪薬。何か口にできそう? 上半身起こせる?」

 起きることを手伝ってもらいながらようやっと起き上がると、後ろに倒れないよう背中を支えられた。「体、熱い……」と心配そうに呟かれる。どうしようもないことなので、ただただ申し訳なく感じる。

 そんな私の心境を察したかのように、西井は話題を変えてきた。「アイスはね!」と場違いに元気な声が響く。

「カロリーもあるし、栄養価? 高いらしくて、えっと……つまりなんか、風邪の時にいいって聞いたんだ! ……食べられる? 食べたらお薬も飲めるし。処方、されたのがあれば別だけど……」

 という西井の目には、それがないことはもう把握済みであろう。さっき体温計を探す際に部屋を探し回したものな。今頃、風邪薬買ってきてよかった、とか、思っているかもしれない。

 さて食欲はというと、相変わらずなかったし、食べた後動けば戻してしまいそうだったけれど、西井の気遣いを無駄にしたくなくて頷いた。西井はホッとしたように少し笑うと、コンビニの袋をガサガサと漁る。スーパーと名を冠した、安価で量のあるカップアイスの蓋が開けられて、木のスプーンで少量が掬(すく)われ、口元に運ばれた。冷たい。甘い。

 アイスなんて、何年ぶりに食べただろう。毎年の夏祭りにも思わされるが、甘いものは、得意ではない。口の中に残る存在感は、主張することは、自分には許されないことだったから、敬遠していた。私が摂る甘味なんて、りんご飴くらいだ。それだって、本当は苦手なのに、一緒に食べると西井が笑うから、受け取って食べていた。とはいえ、毎回食べきるまでに時間がかかるのだけど。

 アイスクリームは、予想以上に甘かった。安っぽいバニラの香りが、口の中に広がっては残り、次の一口の時にまた上書きされ、また残り、繰り返し、繰り返し、甘さを、余韻を残していく。

「まだ食べられる?」

 西井は気遣わしげに、何度も同じことを尋ねてきた。彼を安心させたくて、いらなかったけれど、問いに頷く。そうすると「そっか」とか、「よかった」などと言ってくれるから。彼の優しさに、少しでも応えたくて――応えるためならば、多少の無茶は簡単にできた。

 時間をかけてアイスを完食すると、スポーツドリンクと薬を渡された。力の入らない手では、500mlペットボトルの蓋を開けることすら難儀する。開けられずに手こずっていると、「ごめん!」と謝られた。謝ることではないのに。

 西井がキャップを開け、渡してくれた。促されるままに飲む。これも甘い。アイスの甘みとは違う、人工甘味料の味。妙に甘ったるい、舌に残る味。

 数口、薬とともに飲んでキャップを閉めると、西井が受け取って、ガラステーブルの上に置いた。冷たかったボトルが常温に触れて、表面が結露していくのが見えた。つぅっと雫が伝い落ち、テーブルに水滴を零すのをぼんやりと見る。

「今までお見舞いに来れなくてごめんね。……受験生だし風邪移ったらどうすんだ、行くなって、みんなが止めて……。でも日和がひとりっきりだって知ってたら、俺、もっと早く、毎日だって来たのに」

 この時ばかりは周囲に感謝した。今日は、傍にいてもらっているけれど、本当は私だって、同じ気持ちなのだ。

 会いたかったけれど、会いたくない。

 だって西井が風邪を引いてしまったら、私はどう詫びればいい?

 こんなつらい思いをさせてしまうなんて、まっぴらごめんこうむる。

 だから、来なくていい。

 今すぐ帰ればいい。

 ――ごめんなさい。嘘です。来てくれて、ありがとう。帰らないでくれませんか。……もっとずっと、傍にいて、くれませんか。

 手にするものがなくなって、繋ぎ直してくれた手が、優しくて、優しくて、離したくなくて、力の入らない手で握り返して、そうすると柔く握り返してくれて。

 ただただ黙ってそうしていた。

 窓の外が茜色になって、カラスが鳴いて、十七時の時報が響いて、暗くなるまで、そうしていた。



*…***…*



 西井が傍にいてくれたことと、私の風邪が治ったことになんの医学的根拠はないけれど、間もなくして、私は学校に通える程度まで回復した。

 久しぶり、元気だったか、なんてクラスメートとの会話をひとしきり終えると、待ってましたとばかりに西井が私の机に齧りついてくる。

「どーした、そんな必死にならなくても俺は逃げたりしな」

「俺ね、日和と同じ高校に行きたい」

 かぶせるように言われたのは、思いもよらない言葉であった。

 気持ちを落ち着けるため、先程快気祝いとして貰った野菜ジュースのパックにストローを挿し、一口、喉を潤す。それからやっと、「なんで?」と尋ねた。

「日和、風邪で学校休んでたでしょ? ずっと。その時ね、考えてたの。

 俺、隣に日和がいるのが当たり前で、いないとソワソワしちゃうってわかって、だから……うーんあのね、うまく言えないんだけど。

 もっと一緒にいたいって思ったんだ」

 進路は。

 進路は、親から言い渡されていた。都内有数の進学校に行けという伝達だ。そこで日々を無駄なく過ごし研鑽(けんさん)に努め、当然のように高名な大学へ行き、自分のように優秀になれと――そう、敷かれたレール。

 そこから、外れても、いいだろうか?

 別に、勉強くらい、独学でなんとかなるだろう。学校が終わって家に帰ってから、ずっと予習すればいい。参考書なんて、本屋にいくらでもある。それに最近は、ネットで有名大学に通う生徒が講義を開いているとも聞く。やり様など、本当に星の数ほどある。ただひとつ、努力さえできれば、私は、西井と、まだ一緒にいられる。そして、西井と一緒にいるためなら、私はいかなる努力も欠かさず行えると、誓うことができるほどなのだ。

 ねえ、大学は貴方が望んだところへ行きますから。

 どこへでも行きますから。

 ――もう少しだけ、彼の隣を歩いていいですか。

 お願いです。

 彼の隣に、いさせてください。

「あーあ、じゃあ俺高校のランク落とさなきゃなー」

 声が、やはり、どうしても弾んでしまう。気付く人がいないのは幸いであった。

「ひどっ! そんな言い方ないじゃん!」

「だってお前テストいつも赤点だしさあ」

「そんなことないよ! 得意な科目もあるよ! 国語とか! 漢字は苦手だけど!」

「最高得点何点」

「七十五!」

 胸張って言える点数じゃないのに、どうだ! という顔をしているの、本当に可愛いなあ。

「自信満々に言ったけどそれ、わりと平均点じゃね?」

「日和は?」

「七十~八十をうろついてる」

「すごい」

「いや平均だから」

 きっちりツッコミを入れておくと、すかさず「勉強教えて?」と言われた。「教えるほど頭良くねえよ」と返すと、西井は身を乗り出して、

「日和の行く高校に行けるようにするから! 勉強頑張るから!」

 と言い募る。

「いやだから聞けよ。俺教えるほど頭良くねえっつの」

「じゃあ日和は日和の勉強しててよ。俺は俺で頑張るから」

「塾でも行くとか?」

「できれば日和の傍に居たいから、日和が塾行かないなら隣で勉強させてほしい」

「……わっかんないなー。なんでそこまですんの?」

「わかってないなー。俺が日和と一緒にいたいの!」

 ああ、もう。

 期待は、していました。

 一緒の学校に行きたいと言ってくれたあたりから、期待はしていた、けれど。

 欲しかった言葉を、本当に、こうも適切にもらえると、駄目だ。

 いなくなった時のことを考えると、恐ろしくてしょうがない。

 だから私は蓋をした。

 気付かなかったふりをした。

 バーカ、と笑うことで、今感じた恐怖をすべて閉じ込めた。

「お前俺のこと好きすぎだろ」

「うん! 誰よりも一緒にいたいよ!」

 だから、本当に、もう。

「マジかよ、もし俺に彼女できたらどうすんの?」

 私も私で、いい加減にしなさい。

「ええ……どうしよう……」

「あからさまにガッカリすんじゃねえよ。そう簡単にできねえよ」

「そうなの!?」

「だっていっつもお前がひっついてんだもん。女寄ってこねえよ。それに俺一回言われたことあるよ、『鵯くんって西井くんと付き合ってるの?』って。馬鹿じゃねえの」

 本当に馬鹿なのは、その言葉に舞い上がった私自身だけど。

「じゃあ付き合っちゃおっかー」

「お前何も考えないで喋るのやめたら。高校の面接で引っかかんぞ」

「え!? うそ、本当!? どうしよう!?」

「演技しろ演技。レッドカーペット目指せ」

「目指す! だって日和と一緒にいたいもん!」

 本当に、どうしてこんなに、好きでいてくれるのかなあ。

 ……わからないけど、嬉しいなあ。

 いつか西井に彼女ができるまで、こうしていよう。

 いつか西井が離れていく時まで、こうしていよう。

 いつか私が離れざるを得なくなるまでは、こうして。

 ――ねえ神様。神様。いるのなら教えてください。

 それくらいの我儘は、許されますか?


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