雪が舞う夜の大桜
ペダルを強く踏み込む。いやこれはもう蹴り込む勢いだった。
実を言うと、おれもユキに謝らなければならないことがあった。たった5日間だったけど、ユキと過ごす毎日が楽しかった。だから。
こうして隣町まで行けば桜が見えることはわかっていたのに。おれはずっとそれを引き伸ばしていたのだ。ユキと、さよならをしたくなかったから。
「ねぇ、どこまで行くの?」
「言ったろ、隣町までだ、川を渡れば、もうすぐだっ」
最近まともに運動なんてしてなかったから、すぐに息が上がる。でも止まれない。もう決めたのだ、おれは。さよならの、その時間を。
心拍数は上がる一方だが、後輪にかかる加重は徐々に軽くなっている気がする。本当に融けているみたいに感じる。サブリメーションだ、とおれは思った。
ドライアイスが融けるように。固体から直接、気体になるように。音もなく気配もなく、ただその存在をゆっくりと消して行く
「ねぇ、大丈夫? 降りようか?」
「大丈夫だ、そのまま掴まってろ」
「冷たくない?」
おれの腹に腕を回すようにして、掴まっているユキ。服越しにも、もうその冷たさを感じなかった。あれだけ冷たかったのに。最初は傍にいるだけで、あれほど空気が冷えていたのに。
凍てつく冷たさはもう感じない。それが、おれたちの終わりを告げているようだった。
だから「大丈夫だ」とだけ、おれはもう一度短く答える。それが今の精一杯だったから。
いつしか自転車は川を渡り、隣町へ。ゴールはもう、すぐそこだ。
そこは川沿いの桜並木。上り坂の堤防道路を、おれは自転車で登っていく。後ろにユキを乗せたまま。
桜の花びらが、鼻先を掠めた。見上げるとそこには。六分咲きの桜が、おれたちを出迎えるように咲き誇っていた。
「ユキ、見えるか?」
「……うん」
「これが桜の花だぞ」
「……思ってたよりもずっと、キレイだね」
「もう少し進めば、大きな桜の木があるんだ。それを見せてやりたい」
「今でも充分、キレイだよ」
「その桜の木はきっと、満開だ。満開の桜は凄いぞ。見て驚くなよ。あと少し。あと少しなんだ」
「……ありがとね、カエデ」
届いて欲しい。間に合って欲しい。それだけを切に願う。
この坂道を登り切れば、その桜は見えるのに。
でも、視界が滲んでよく先が見えない。
その理由は簡単だった。簡単すぎて気がつくのに時間がかかったほどだった。
坂道を登り切った後。
自分が泣いていたことに、やっと気がつく。
そして後ろの荷台に、重さをまるで感じなくなって。振り返って、自転車の後輪の近くにガリガリさんの棒を見つけて。
もう一度、おれは泣いた。
──────────────────
「……どしたの、佐藤ちゃん。その顔は」
もうもうと立ち上がる、店内の湯気。そして熱気。それらを身体に浴びるのは、本当に久しぶりだった。
元気の良い女性店長が、ひとりで切り盛りする行きつけのラーメン屋、恵来庵。やっとのことで、ここのごま味噌つけ麺を食べる気になれた。それは、全てが終わったあの日から、2週間経ってからのこと。
ユキにこの「ごま味噌つけ麺」を食べさせてやるのは、ついぞ叶わない夢となってしまった。まぁ、雪の精たるユキに、温かいものを食べるのはどだい無理な話だと思うのだけど。
「……久しぶりです、店長」
「なんか、凄い顔してるね」
「そうですか?」
「うん。まるで失恋したみたいな顔してるよ」
「当たらずとも遠からずっていうか、まぁ、正解です」
「……そっか。青春してんじゃんか」
失恋。確かにそれは、今のおれにぴったりの言葉だった。
桜並木で、おれとユキは別れた。それから心にぽっかりと、風穴が空いたような気分だった。あんなにあっさりとした終わり方になるとは、思いもしなかったけど。
運ばれてきた水を見て思う。ユキと過ごしたあの短い日は、夢ではなかったのではなかろうかと。
「それで? 今日もいつものでいい?」
「はい。いつものをお願いします」
閉店前の、客はおれしかいない店内。店長は黙ってつけ麺を作る。何も話しかけてこないところに、店長の優しさを感じた。
グツグツとスープが煮立つ音。麺を湯切りする音。そのどれもが澄んで聞こえる、そんな静かな夜。こう言う日につけ麺を食べるのも悪くない。
「はい、お待ちどう」
気がつけば、目の前にいつものごま味噌つけ麺が置かれていた。いただきますと言ってから、ズルズルと麺を啜る。火傷しそうな程に熱いスープ。シコシコとした歯ごたえの麺。いつもの味のハズなのに、やたら今日はしょっぱく感じる。もう、泣いてなんかないのに。
「どう? 美味しい?」
「いつも通り、最高です」
「泣くほど美味しいの?」
「……え?」
「泣いてんじゃんか、佐藤ちゃん。何があったか訊かないけどさ。可哀想な佐藤ちゃんに、今日は特別、ひとつ言葉をサービスしよう」
「なんですか、それ」
店長は背中越しに言う。テキパキと店の片付けをしながら。
「悲しいことは忘れろって、人は言うじゃんか。日にちが解決してくれるよ、とか。あれ全部ウソだからね」
「ウソ?」
「逆だよ、逆。悲しいことほど、強く記憶しておくんだよ。その思い出はきっといつか、キミを強くする。これは間違いない。あたしがそうだったからさ。今はね、その時のことを全部憶えておくんだよ。楽しかったことも、もちろん悲しかったことも。それは今しか出来ないことだから」
「店長も、昔なにかあったんですか」
「まぁね。伊達にキミより長く生きてないよ。人にはそれぞれ、生きてきた歴史があるのさ」
振り返って笑う店長。慈愛に満ちた笑顔っていうのは、こういうのを言うのだろうか。
「さてと。今日はもう閉店。またおいでね、佐藤ちゃん。あぁ、お代は要らないから」
「いや、そう言うわけには、」
「いいよ。泣いてる常連さんからはお金取れないよ。これはあたしのポリシー。その代わりさ、いつかその思い出をあたしに話してよ。話せるようになったらね」
ここはお言葉に甘えることにしよう。でも、施されっぱなしは性に合わない。だから。おれは持っていたコンビニ袋を、店長に差し出した。
「なにそれ?」
「お言葉に甘えます、ご馳走さま。これはお礼じゃないんですけど、もしよかったら。融けかけかも知れませんけど、冷凍庫に入れればまた食べられると思います」
「……ガリガリさん? なんでアイス?」
「意外と美味いですよ。春先に食べるアイスって」
「そっか。なら、店閉めた後にいただくよ。ありがとね!」
深くは訊かない店長の優しさ。おれも、そんな風な大人になれるだろうか。
店を出て、家までいつもの道を歩く。
例年よりも2週間遅れて。この街の桜は、満開となった。
─────────────────
どんなに悲しいことがあっても。それでも人間は生きていかなければならない。そして日常は慌ただしく過ぎ去り、遠い記憶は薄っすらとぼやけていく。
学生の本分は勉学だ。理系の大学生たるおれは、だから忙しくも充実した毎日を送っていた。季節は巡り、再びやってきた初春。おれは希望していた研究室に決まり、この先の研究テーマを決めるのに勤しんでいた。
おれの学科は物質化学科だ。有機化合物や無機物、または金属、さらには身近なあらゆる物質を研究することがこの学科のテーマである。そんな中、おれはあえて身近すぎる物質を、今後の研究テーマにしようと思っていた。
それは水である。この水。調べれば調べるほど、水は奥深い。
まず水は、生命活動になくてはならない物質だ。さらにこの水。固体である氷となった時、液体である水よりもその体積が大きくなる特性を持っている。これは異常液体と呼ばれる物質である。
氷は水よりも体積が大きいので密度が低くなり、結果氷は水に浮く。実はこのような特性を持つ物質は、この世に5つしか存在しないのだ。そしてその異常液体の中で最も身近な物質が、H2O──つまり水なのだ。実に興味深い物質である。
さらに。この水は、地球を循環する。山に降る雨は川となり、海へと流れ。そして海から蒸発した水分は大気中で雲となり、やがてまた雨となって地上に降る、という循環だ。
つまり今おれが喫茶店で飲んでいるこのコーヒーに含まれる水分は、大昔、おれ自身の中にあった水分かも知れないということなのだ。なんてロマンを感じる物質なのだろうか。
まぁ、こんなに身近な物質なのだから、はっきり言って先人が研究し尽くしているのは重々承知のことだ。それでもおれは、思い入れのあるこの「水」を、研究テーマにしようとそう思っていた。
水だけで卒業論文が書けるとは当然思っていない。だけど、この水をより深く知ることで、新たな何かにつながるのではないか。なんて風に思っていたのだ。だからこうして、喫茶店で小難しい学術書を読んでいるという訳である。
季節は春。桜の蕾が、その開花を今か今かと待っている、そんな季節。
それにしては、今日は驚くほど寒かった。季節外れの寒波がやって来ており、地域によっては雪が降るという予報である。マジかよ。桜の開花はもう目の前なのに。
こんなに寒いなら、久しぶりに恵来庵のごま味噌つけ麺でも食べようか。そう思い立ち、喫茶店を後にして行きつけのラーメン屋に向かう。
蕾の桜並木を、自転車に乗って走る。すると鼻先に、冷たいものが落ちてきた。
──雪だ。季節外れの、春の雪。
不意に一年前の、遠い記憶が蘇る。未だにアレは本当にあったのかと感じるほどの、不思議な体験。雪の精と出会った、あの日のことを、おれは鮮明に思い出していた。
ここからならあの大きな桜の木が近い。少し遠回りになるけれど、なんとなく誰かに呼ばれている気がして、おれはハンドルを切った。
川沿いの堤防道路を走り抜けて、その大桜を目指す。雪は相変わらず、ちらついたまま止む気配を見せないでいた。
走ること十数分。ついに目的の、大きな桜の木の下に辿り着く。
あの日、この桜は。他の桜が六分咲きだったのにも関わらず、今日のようにそれは見事な満開だったのだ。早咲きの大桜なのかも知れない。おれは何となく、懐かしくなってその幹に触れてみた。
風が吹いて、雪と桜の花びらが舞う。
それはとても幻想的な風景で。
涙が出そうなほどに、美しい光景で。
頬に触れた雪が融けて、一筋流れた瞬間に。
「また会いに来たよ」と、彼女の声が聞こえた気がした。
【終わり】
「また会いに来たよ」 薮坂 @yabusaka
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