冷たいキミの温度
ユキを家に連れて来て、5日が経った。現代技術の粋を集めた天気予報の精度はやはり高く、気温は予報どおり日を追うごとに高まっていた。
しかし。高まる気温をまるで無視するかのように、桜はその蕾を固く閉ざしたまま開かない。ちなみに、それはこの街だけの話だった。
おれはすぐにピンと来た。何故この街の桜だけまだ咲かないのか。それはおそらく、ユキがこの街にいるからだ。雪の化身たるユキ。きっとそのユキの存在が、この街の桜の開花を遅らせているのだろう。
もちろん根拠はない。それでも両隣の街の桜が、すでに六分咲きということを鑑みれば。この街だけに超常的な現象が起こっていると考えるのは、むしろ自然なことだろう。
皮肉な話だった。誰よりも桜の開花を望んでいるのに、自身の存在がそれを妨げているかも知れないなんて。
バイトを終えて帰宅する。家のカギを差し込む時にいつも考える。今日はユキに、なんて言ってやろうかと。
ユキが家に来た当初は、それはもうぎゃあぎゃあとうるさかったものだ。
家の冷凍庫がやっぱり小さくて、「ここに入れると本気で思ったの?」なんて問い詰められて背中に冷たい手を突っ込まれたり。用意してた各種ガリガリさんは瞬く間に食べ尽くされ、追加を真夜中に要求されたり。桜の様子を見に行こうよと、日が暮れた後、散歩に誘われたり。
もっとも最後の要求は、時間の許す限り付き合ってやった。
だけど。この街の桜は、まだ咲く気配を見せない。
「あ、おかえりー。今日は早いじゃん」
「今日はクローズ勤務じゃなかったんだよ。ほら、土産だ」
「うーん、定番のガリガリさんソーダ味! いろいろ食べたけど、やっぱりコレが一番かなぁ」
言うが早いか、ユキは袋を破ってガリガリさんを齧り始めた。バリバリとした咀嚼音。結構硬いはずなのに、よく噛み砕けるな。いっそバリバリさんに改名すべきなんじゃねーのか、とも思ったが。その響きはなんとなく、伝説のバイク乗りっぽくなる気がして言うのはやめといた。そんなおれのどうでもいい考えを余所に、ユキは言う。
「ね、今日も後で付き合ってくれる? 桜探しの散歩」
「あぁ、もちろんだけど。その前に、ひとつだけいいか」
「ダメ」
「いやまだおれ何も言ってねーぞ」
「ダメ。だってキミ、絶対しょうもないこと聞くつもりでしょ。答えないよ、そんなことには」
「しょうもないかどうかは聞いてから決めろよな」
「一理ないね」
「あるだろ、そこは! おれが聞きたいのはな、ユキの体調だよ。明らかに元気ないだろ、ここんとこ。家に来た時はもうちょっと元気だったじゃねーか。それに桜を探すって、いつも途中で家に帰ろうとするだろう。もうしんどいって言って」
ユキはおれの家に来てからというもの、日に日に元気がなくなって来ている。まるで風邪を引いたように、その言動は緩慢だ。おそらく高まる3月の気温と関係があるのだろう。
「そりゃあ、元気も出ないよ。キミの家に来てもう5日。なのに桜の咲く兆しすら見えない。これはもう、元気もなくなるってものよ。残機ゼロってヤツだよ」
「またゲームしてたのか」
「だって暇じゃん。日中はもう外に出られないんだから。でもコレ、面白いね。最近ずっとやってるよ」
少し前に出た、懐かしのレトロゲームの復刻版。ちょっとだけ本体が小さくなって再登場したそれは、おれにとっては懐かしいものだった。でもユキには真新しいもの。ユキはおれがバイトなどで家を空けている時に、よくコレで遊んでいるらしい。
「ね、対戦しようよ。スーパー鞠男カート。私、かなり速くなったからさ!」
「いいけどユキ、この前も惨敗だったじゃねーか」
「赤甲羅ナシで対戦してあげてもいいよ?」
「それおれのセリフだからな」
「間違っても手、抜かないでよね。私、手を抜かれるのが一番キライなの。だから、本気で挑んできてよね」
それは猛々しいセリフだったのだが。結局ユキと10回対戦して、10回ともおれが勝った。傍から見れば一方的な虐殺に等しい行為だろう。でも不思議とユキは、目一杯の笑顔で楽しんでいたのだった。
「あぁ、また負けたぁー」
「ふん。10年早いぜ。戦いの年季が違うんだよ」
「でもさ、最後のなんて惜しかったじゃん? 私、コレ始めてまだ5日だよ。才能のカタマリじゃん。もう少し時間があったらさ、きっとキミにも勝てる気がする」
笑うユキに、おれは言葉をかけられない。そのセリフは、もうここから居なくなることを暗示しているかのよう。黙るおれに気がついたのか、ユキが言葉を重ねた。
「どしたの? 心配そうな顔して」
「……そりゃ、心配だよ」
「何が?」
「今の言葉。急にいなくなられるのは、困るぞ」
「あはは、そんな急に消えたりしないよ。まだ目的は達成してないんだからさ」
「なぁユキ、」
「とりあえずさ。外に出ようよ。もう風も冷たくなってるでしょ?」
言おうとした言葉は遮られて、胸につっかえたまま。何をユキに言おうとしたのかさえ、おれは忘れてしまっていた。
──────────────────
「さてと。いつものルートで歩く? それとも今日は違う道?」
外に出たユキは、空元気なのが見え見えだった。深夜にはまだ届かないけれど、深い夜だ。それでも3月の気温は暖かい。冬の刺すような風は、いまや角を落として丸みを帯びていた。
薄手のパーカで過ごせそうなその気温。人間にとってそれは喜ばしいことかも知れないが、雪の精にとってはどうなのだろうか。過ごしやすい気候だとは、とても思えないのだが。
おれは自転車を押しながらユキの隣を歩いていた。もしもの時は、すぐにユキを運べるように。自転車の2人乗りは、本当はダメなんだけどな。
「ユキ、あんまり無理するなよ。つらくなったらすぐに言え。家まで運んでやるから」
「それは全然大丈夫! むしろ、風に当たっていい気分、かな?」
「それならいいけどな。まぁ、何かあったらすぐに言え」
「なんでもいいの?」
「あぁ。別に遠慮なんてしなくていい。乗りかかった船、ってヤツだ」
「それならさ、次の角のコンビニで、ガリガリさん買って欲しいな!」
屈託なく笑うユキに、おれは苦笑いをした。そういう意味ではないのだが。
まぁいい、大した額じゃない。おれは思い付きで、自分の分を含めて2本のガリガリさんを買ってやった。
その時にも思ってしまう。以前なら、コンビニの中までユキは入ってきたのに。今は、外でおれを待っている。それほどまでに、気温がきついのだろうか。ユキは何も言わないから、わからないけど。
ガリガリさんを2人して齧りながら、ユキといつもの道を歩く。当たり前だが、ガリガリさんは冷たい。既に唇がかじかみそうだ。
公園の傍の道。街路樹として桜の木が植えられているが、それらが咲く気配はまるで感じられない。蕾はまだ、固く閉じたまま。
「まだ咲かないね。これってさ、どう考えても私に対する嫌がらせだよね」
「桜がそんなことするかよ。きっとまだ寒いんだ、桜にとってはな。3月の頭はマジで寒かっただろ。それに桜の咲く条件には諸説あってな。2月1日からカウントして、1日の平均気温の合計が400℃に達した時に咲くと言われてる。まぁ、他にも説はあるんだけど」
「へぇ、そんなのあるんだ。今、合計で何℃くらいだろうね? 300℃台後半だったらいいなぁ」
「きっともう少しだと思うぞ。桜が咲くまでは」
「そっか。それならもう少し、」
そこまで言ったところで。ユキが急にバランスを崩した。なんてことない、平坦な道を歩いていただけなのに。ユキの手からガリガリさんが離れる。それは地面にぽとりと落ちる。
転げそうになるユキの手を、おれは咄嗟に握った。当然、その手は人間とは思えないほど冷たい。しかし以前のような凍てつく冷たさとは違った。温かい訳では、もちろんない。でもそのユキの冷たさは、明らかに出会った頃とは違っていたのだ。
緩やかな変化は、注意していないと見逃してしまうほど些細で。そしてそれに気がついた時には、大抵なにもかもが遅いのだ。
「……ごめん。バランス崩しちゃった」
「ユキ、正直に言えよ。だいぶ無理してるだろ」
「無理じゃないよ。でもやっぱりちょっと、キツイかな」
「あとどれだけ、ここに居られるんだ」
「わかんないよ、そんなの。こんなこと初めてだし」
「このままでいると、どうなるんだ。本当に、来年またこの街に来れるのか?」
俺はユキに問う。だけど、ユキは曖昧な笑顔を浮かべたまま。
「本当のことを言ってくれ。もしも今年、桜を見れなかったとして。来年もまた会えるのか」
「……多分、それは無理だと思うな」
「本当は、なにを引き換えにしたんだよ。その身体を貰うために、例の山の魔女に本当はなにを差し出した?」
クスリと小さく、ユキは笑った。諦めにも似たその表情。困ったような笑顔で、ユキは言う。
「だから別に、なにも差し出してないってば」
複雑な表情だった。笑っているような、泣いているような。その顔を見ておれは、妙に納得してしまった。あぁ、そういうことか。
たぶんユキは本当に、何も差し出していないのだ。その事に関してはウソはついてないのだろう。そう、その事に関しては。
「……魔女の話っていうのは、ウソなんだな。魔女なんていないんだろ?」
「どうしてわかるの?」
「戦いの年季が違うんだよ。ユキ、どうして対戦ゲームで負けるかわかってねーだろ。ユキの考えは顔に出やすい。何を狙ってるか、顔を見てりゃすぐわかる」
勝てない訳だ、降参だよ。そんな顔をして。ユキはゆっくりと言葉を継いだ。
「なんでもお見通しかぁ。せっかく、本屋さんで読んだ人魚姫の話までしたのにな。台無しじゃん、キミのせいで。別れが悲しくなっちゃうじゃんか」
「説明してくれ。なんでそんなウソついたんだよ」
「ウソでもつかないとさ。悲しいじゃん。せっかくこうして会えたのに、もう二度と会えないなんてさ」
「それって、どう言う意味だ?」
「キミの思ってるとおりだよ、きっと。私はもうすぐ融けていなくなる。ただそれだけ。私はね、最後の北風に乗り遅れた間抜けな雪の精なんだよ。乗り遅れた子たちは帰って来なかった。だから私もそう。でもね、どうせ融けちゃうなら絶対、桜だけは見たいと思ったんだよ。でも、それも無理そうだ」
「まだ無理じゃない。これ、持ってろ」
ひと齧りしかしていない、おれのガリガリさんをユキに手渡す。そしておれは自転車に跨った。後ろの荷台。本来なら人を乗せてはいけないけれど、そこを指をさして言う。
「後ろに乗ってくれ。急ぐから、振り落とされんなよ」
「後ろ?」
「桜の咲いてる場所。そこまで今から運んでやる。最後に桜を見せてやる。どうしても見たかったんだろ?」
「でも、この辺には咲いてないって……」
「この辺には、確かに何故か咲いてない。でも隣町まで行けば咲いてるんだ。そこまで運んでやる」
ユキを後ろに乗せて。おれはペダルを踏み込んだ。驚くほど軽いペダルだった。まるでユキが徐々に軽くなっている、そんな気がするほどに。
(続く)
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