休日

「……わけなかったみたいだぜ、あのハンター」

 河下はつまらなさそうに言って、十字架を高く放り投げた。

 フライをキャッチするように大地は十字架を捕り、「あちっ、あちっ」と何度か両手の中で遊ばせて、手裏剣のように、僕に向かって投げた。

 しかしそれは大きく外れたコースを取り、ゆったりと構えていた僕はキャッチしそこねてしまった。雑草がまばらに生えた地面を十字架が転がっていく。

「おいおい、もっと気合い見せろよ。捕れるだろ、いまのくらい」

「ごめん、正。ボクが悪い」

 いいよいいよ、と大地に手を振り、僕は十字架を拾いに行った。

 右手で十字架を軽くつかむように持つ。熱々の焼き芋を手にしているように、熱が伝わってくる。思い切り握りしめたら、おそらく火傷をしてしまうだろう。

 僕たちは人気のない校舎裏で、三角形を形づくるように陣取り、キャッチボールならぬ〝キャッチクロス〟をして遊んでいた。

 吸血鬼の苦手とする物のひとつ、それが十字架だ。触ると高熱を発する危険物で、納得のいかないことに、信仰などとは無縁の、百円ショップで買えるような安っぽい十字架アクセサリーでさえ、そんな効力を持っているのだ。この国はキリスト教圏でもないのに、不思議なことだ。

 しかしそれはそれとして、火遊びの好きな子供よろしく、僕らは遊び道具のひとつに十字架を使っていた。もちろん使うのは安物で、高熱といってもたかが知れたものである。

 廊下に大量の十字架を敷きつめて、「心頭滅却すれば火もまた涼し」とか言いながら裸足で歩いたり、ドアを開けたら上から十字架が降りそそいでくるような罠を作ったり、まあ、そういうたわいのない使い方だ。信者が見たら怒り狂うかもしれないが、別に侮辱的な意志を込めているつもりはない。本当にただ遊んでいるだけだ。

「……なんだか拍子抜けだな。ハンターって、どれだけ恐ろしいやつかと思えば、あんなにあっさりと生け捕りにされちゃってさ」

 十字架を河下に向かって投げて、僕は会話を再開した。

「こけおどしもいいところだぜ。あんなのが敵なら、楽勝だろ。実際会ってみたら、相手は〝羊のようなハンター〟だったってわけだ」

 河下はキャッチした十字架を手の平に立てたりした後、大地に向かって投げた。

「……でも、あのの使い魔は殺されちゃったよね」

 大地は十字架を捕りながら神妙な顔をしていた。

 富永が生け捕りにしたハンターは、あの後この学校まで連れてこられることになった。残りの二人のハンターはもう姿を見せなかった。どうも仲間を見捨てて退却したらしい。薄情なやつらである。

 富永はハンターを捕まえた手柄話でもさせられているのか、先生に呼び出されてここにはいない。

 今日は休日だ。といっても僕らが勝手に決めた自主的なもので、授業はいまも行われている。基本的にこの学校に休日はない。ただ、猟の翌日は休む生徒が多く、僕らもそれにならったわけだ。今日は赤学の授業はないので、なんの問題もない。

 僕らは十字架を投げ合いながら、だらだらと休日の昼間を過ごしていた。

「三人ぽっちで、勝てると思ったのかね」

「それはあれじゃない? 〝われわれの広範な暗示と結界は、普通の人間ほどではないにしろ、ハンターに対しても功を奏し、敵はわれわれの本拠を探り当てられないようです。したがって、彼らは遊撃隊のようにバラバラに、日々、吸血鬼を各所で捜索しています〟――ってやつ」

「……正、いまの、奥野の口調まんま。よくそんなにすらすら言えるな」

「いつも赤学の授業で聞いてたら、いいかげん覚えるよ」

「んなこと言ってたっけか? どーも記憶にねーけど」

「ボクもない」

「……二人とも、いつも寝てるんじゃない?」

「おまえに言われたくない」

「まあ、それは否定できないけど」

「ボクは授業で寝たことなんてないよ」

「浩介、おまえもどうでもいい嘘やめろよ。いや、そんなのはいいんだ。つまりあれか。三人ぽっちでふらふら当てもなく探していて、で、三組六組合同の猟にたまたまかち合って、これ幸いと戦いを仕掛けてきたってわけか」

「たしかに無謀ではあるよね」

「無謀も無謀、そもそも基本の行動方針から失敗してるだろ。あれだな、ハンターってのはどうも馬鹿の集まりみたいだな」

「景行に言われちゃあ……」

「ケンカ売ってんのか、浩介よ」

 河下と大地の漫才のようなやり取りがまた始まり出したそのあたりで、僕はキャッチクロスを切り上げて、二人と別れてぶらつくことにした。休日にやりたいことも特にないのだが、吸血鬼が十字架を終日投げ合ってるのもどうかと思う。

 校舎に入り階段を上って、教室を横目に廊下を歩く。

 やっぱり三組と六組は欠席者の方が多い。とはいえクソ真面目に出席してる生徒もいて、一体こいつらはいつ休むんだ、と余計な心配をしてしまう。

 六組の教室を覗いたとき、廊下側に近い席にいた城戸原と目があった。城戸原は指先でくるくるとペンをまわしながら、もう一方の手を振ってきた。器用なやつだ。

 使い魔を殺されたあの女子生徒は見当たらなかった。

 他のクラスは普段と変わらない。授業時間に廊下をぶらついていても、教師や生徒から訝しげな目を向けられることはない。そんなやつはごろごろいるから、気にするようなものではないのである。

 僕はそんな風に教室を冷やかした後も、気の向くまま、足の向くまま歩きつづけて、美術室の前に差しかかった。

 数人の生徒が黙々と絵を描いている。

 どうせ暇なことだし、美術室に入って見学していくことにした。

 一人はもう完成間近のようで、せっせと筆を走らせて細かい色の調整をしている。擬人化された樹木たちが寄り集まって嘆き悲しんでいるというファンタジックな情景が、反戦画のような重苦しいタッチで描かれてある。げんなりするような陰鬱さだ。でも、モノトーンのくすんだ色調は、寂しげな情感があって、嫌いではなかった。

 お次の一人は机に置かれたリンゴを前にして、鉛筆でせっせとデッサンしていた。形がどうも気にくわないようで、何度も消しゴムで消しては描いてを繰り返している。

 たかがリンゴによくそんなに熱心になれるなあ、と感心しながら眺めていたが、しかし絵よりも、あのリンゴは用を果たしたらどうなるのか、使い魔の餌にでもするのか、なんてことが気になった。

 リンゴがどんな味だったかも忘れてしまったが、しゃきっとした歯応えはかすかに覚えている。食事はもっぱら蛇口からの血液、というのに慣れてしまうと、歯は退化しないものか心配になる。入れ歯の吸血鬼なんてことになったら目も当てられない。

 窓のそばに陣取った一人は、空をちらちら見上げながら、曼荼羅まんだらのような抽象絵画を描いていた。この作者の意図を四百字以内で述べよ、とか設問されたら、〝涅槃ねはん〟と二字で片づけたくなるような、そんな絵である。

 どの生徒も自分の表現に熱心で、見物人など清々しく無視していた。鉛筆を走らせる音や、カーテンを揺らしている風の音だけが耳に触れる。その凪のように物静かな空間は、居心地が良かった。

「あれ、ミーくん、今日は芸術鑑賞?」

 背中から声をかけられたので振り向くと、廊下を通りかかったらしい玉置さんだった。今日も寝癖が立っている。

「まあね。絵なんてろくにわからないけど、見てみるとけっこう面白いもんだね」

「あはは、ミーくん一時期は美術室に入り浸ってたのに、ずいぶんつれない言い草だね」

 身に覚えのないことを言われる。でも、玉置さんの言辞にムキになっても、振りまわされるだけなので気にしない。

「そんな覚えはないから、誰かと間違えてるんじゃないかな。絵に打ち込む吸血鬼って、なぜだかこの学校には多いみたいだし」

「それは別に疑問じゃないけど。ま、いいや。たしかにミーくんはどう見ても芸術家じゃないわ。よくて詐欺師だわ」

 あはは、と玉置さんは笑う。

 どうも馬鹿にされてるようだが、別に腹が立たないのは、玉置さんの愛敬の為せるわざだろう。しかし時々メチャクチャな罵詈雑言を澄まし顔でかましてたりするから、油断がならない。

「玉置さんこそ、美術とは無縁の衆生としか思えないけど」

「ふっふっふ。甘いねえ。これだから眼が節穴の朴念仁は。あたしがどれだけの研鑽を積んでいるか見抜けないとは――」

 そう言いながら、芝居がかった動作で空いている椅子に座り、おもむろに懐からピンク色の手帳を取り出した。

「刮目して見よ、我が技芸の極致を」

 大言壮語を吐きつつ、こちらに見やすいように親切に手帳をめくってくれる。

 辺りはばからずでかい声を上げる闖入者ちんにゅうしゃにも、美術室の面々は無反応だ。その冷たさがありがたい。

 で、手帳の中身なのだが、ぱらぱらめくられていくページをのぞいてみると、シンプルな線で描かれたかわいらしい人物イラストが、一ページにひとつの割当てで置かれている。魅力的と言えなくもないデフォルメされた絵である。絵によっては色が塗られている場合さえあるが、肌色なら運の良い方で、緑とか赤とか、どこの宇宙人だというような顔色になっているものも多い。といっても、色合いの調和は取れていて、別に悪趣味ではない。

 ページの下には、その絵のモデルになったらしい人物の名前らしきものが記入されているのだが――。

「DV? これ、もしかして大地なのか」

 割れる寸前の風船みたいな人物の下に、大地の特徴的な丸っこい筆跡で、DVと署名されていた。

「そうそう。あたしのつけたあだ名じゃないけど、借用させてもらったわ。似合わないあだ名だよねー」

「いちいちモデルに名前書かせてるの?」

 見れば、署名はそれぞれ筆跡が違う。

 そんな当たり前のことをなぜ訊くのか、というような表情を玉置さんは示して、

「まあね。肖像権バリバリに侵害しちゃってるから、お墨付きを得ないと」

 と答えた。

 いまいちその理屈はわからなかったが(僕らに肖像権なんてあるのか?)、太っているという特徴を思いっきり誇張された絵に、気に入ってもいないあだ名の署名を求められた大地の心中が思いやられる。

「でさ、ちょうどよかった。新作に名前もらってなかったんだよね。ここに書いてくれたらオーケーだから」

 そう言って、玉置さんは手帳の中ほどのページを開いて、ペンと一緒にこちらに差し出してきた。そこに描かれているのはどうも僕であるらしい。

 どんな絵だったかについては、触れずにおいておこう。鏡で自分の顔を確認するわけにもいかないから、似ているかどうかは判別し難い。

「あっ、あっ、違う違う。なにやってんの」

 言われるままに署名したのに、玉置さんは僕の手元から手帳とペンをひったくって、いま書かれたばかりの光岡正という署名に二本の横線を引いて、取り消してしまった。

「はい、やり直し」

「……なんで?」

「ミーくんは当然ミーくんって書かなきゃ」

 なんであだ名限定なんだろう。しかも、自分の名前なのにくんづけで書くのか? なんだか気恥ずかしい。

「……まあ、いいけど。本名なのになんでダメなんだかね」

「この世には本名なんてないんだよ、ミーくん。あたしの絵にはそんなどうでもいい肩書きは必要ないよ。それに、その名前なら前にもらったしね」

「え? 知らなかった。僕と同じ名前の人がいるの?」

「なにボケてんだか。ミーくんが書いてくれたんじゃない」

 そう言って、玉置さんはポケットから赤色の手帳を取り出して、今度はそちらをぱらぱらとめくっていたが、

「ほら、ここ」

 と、あるページを指し示した。

 どんな絵なのかはこれも触れずにおこう。それよりその下の署名を見ると、なるほど、光岡正と書かれてあるが、たしかに僕の筆跡である。自分の書いた文字は好きではないから、すぐにわかる。

「……あれ? 僕、こんなの書いたっけ」

「あはは。ミーくん、健忘症? これだから無責任な男ってダメだね。自分のサインにも責任が持てないなんて」

「ふーん……?」

 記憶を手探りしてみても、思い当たらない。どうも腑に落ちないが、過去はしょせん過去、泥でしかない。というわけで気にしないことにして、乞われるがままに署名をやり直した。

「そいじゃ、またね」

 玉置さんは手帳を懐に収めて、行ってしまった。

 あんなに描いて、どうするつもりなんだろう。もしかして、全校生徒をイラスト化してコンプリートするつもりなのか。それなら卒業アルバム代わりにはなるかもしれない。

 まあ、僕らは卒業することなんてないわけだけど。

 完成間近の絵を描いていた生徒は、どうやら作業を終えたようで、安心したように深々と腰を下ろして、コップに注いだ赤い血を飲んでいる。

 美術室の奥には、廊下に通じるドアとはまた別のドアがあって、準備室と呼ばれる部屋に通じていた。玉置さんも行ってしまったし、その場にいる面々の絵を見るのも一段落ついたので、何の気なしに、僕は準備室に入ってみた。

 そこはほとんど倉庫と変わりなくて、積み上げられた箱や、ひしめく石膏像やイーゼルが、雑然とした埃っぽいその部屋の大部分を塞いでいた。採光が不十分で、昼間にも関わらず薄暗い。

 どう見ても面白味のない空間なのですぐに立ち去ろうとしたが、なにか心残りがあったので踵を返し、そばにある戸棚を開けてみた。整備されていないようで、少々がたついた。

 そこには何十冊ものスケッチブックが積み重ねられており、いくつかのキャンバスも立てかけられていた。保管しているんだか置き忘れているんだかよくわからないが、こんなところにも絵があったのだ。

 スケッチブックを一冊手に取って、ぱらぱらとめくってみた。

 どのページにも肖像画が描かれている。玉置さんのイラストとは違って、写実的なタッチで描かれた細密な絵だ。眼を瞠るほど上手い。

 そこに描かれているのはこの学校の生徒たちのようで、どの絵もそれぞれ違う人物をモデルにしている。画風の相違はともかくとして、やっていることは玉置さんと同じようだった。

「…………」

 僕は段ボール箱に腰を下ろして、そのスケッチブックをじっくり覗いてみることにした。

 そこに描かれている肖像画は、どの人物もそれぞれ個別の空気のようなものをまとっていて、一人一人が、どういうものであれ生を営んでいるという、そんな確かな実感を見ているこちらに抱かせた。

 椅子に腰かけてリラックスした笑顔を見せている女子生徒。緊張でもしているのか、ぎこちない姿勢で立ったままこちらを見つめている男子生徒。机にうつぶせてつむじをさらしている、男だか女だかよくわからない生徒。

 ポーズも状況もさまざまだ。モデルにじっとしてもらって観察しながら描いただろうページもあれば(そばに静物が添えられたりもしている)、日常を切り取ったような、記憶をもとにして描いたように思えるページもあった。

 どの絵にも共通しているのは、慈しむような画家の視線を感じさせることだ。

 すごい絵を描いてやろうというような野心はなく、ただ、こういう人物がいたのだと、できるだけ正確に伝えたがっているような、そんな佇まい。

 技術的なことは僕にはまったくわからないので、この絵を描いた人はきっと優しい人なのだろうな、と素朴な感想を抱いた。

「おもしろいものを見ていますね」

 いきなり声をかけられて、スケッチブックに見入っていた僕は我に返った。

 いつのまに居たのか、準備室の入口に奥野先生が立っていた。

「四組の女生徒が描いたものです。なかなかのものでしょう?」

 そうか、四組の生徒のものなのか。とはいえ、四組に知り合いはいないから、そう聞かされてもなんとも言えない。

「ええ、上手いですね。なんでこんなに一生懸命に描けるのか、不思議なくらいです」

「こういう形でしか、われわれ吸血鬼の姿は記録することが出来ませんからね」

 なるほど。そう言われれば、確かに。だから絵に熱心な同胞が多いのだろうか。

 とはいえ、やはり僕にはその情熱はピンと来ない。城戸原の言い草ではないが、写真だろうが絵画だろうが、姿がそんなふうに残されたからといって、それが何になるというのだろうか。

「ところで、光岡くん、お暇ならハンターの尋問に立ち会ってみませんか? 敵がどのようなものか知りたいなら、何かの足しにはなるかもしれませんよ」

「尋問? ハンターの?」

 昨日、捕らえたあのハンターか。何故だかあまり興味はわかなかった。

「でも、生徒が見ていいものなんですか?」

「もちろんですよ。別に拷問にかけるわけではありませんから。これも赤学の一環でしてね。何人か、見学者を募っているんですよ。といっても、参加必須というわけではありませんが。どうです?」

 必須ではない。とはいえなんだか断りにくいものがあった。

「……じゃあ、お願いします」

 気乗りはしないが、僕はそう答えた。

「では、ついてきてください」

 美術室を出ると、奥野先生は一言も喋らずにさっさと歩いていく。僕も無駄口をたたくことなく後を追った。


 そうしてやって来たのは、体育館だった。

 体育館には教師と生徒が合わせて十名ほど、まばらに立っていた。

「ああ、正も見学か」

 その中に、富永も混じっていた。ハンターを捕らえたのは富永なのだから、ここにいるのは当然だろう。

「……森木さんも居るんだ」

 そう言うと、富永の隣に立っていた森木さんは、不満そうに口を尖らせた。

「居るとおかしいですか?」

「いや、別に」

 ただ、赤学の授業で倉持さんの扱いに憤慨していたのを思い合わせると、また面倒なことになるんじゃないかと思っただけだ。そういえば、ハンターを捕まえたとき、森木さんも富永のそばにいたんだっけ。

 その他に居合わせているのは、他クラスの教師と生徒ばかりだった。

 いや――もうひとり、体育館に入って来た。三島秋さんだ。

 それを見て、森木さんは僕らから離れて、三島さんのそばにかけ寄った。

 親しげに肩をつついて、挨拶している。森木さんがなにか話しかけ、三島さんはそれにうなずき返している。

「……珍しい。三島さんが、他人とコミュニケーションしてる」

「たしかにあまり見ない光景だな。なんでも、森木さんと女子寮で同室らしいぜ」

 それは初耳だ。部屋でどんな会話が繰り広げられているのだろう。想像もつかない。

 その後も数人ほど見知らぬ見学者が増えたところで、奥野先生が、ぱんっ、と手を叩いて注意をうながした。

「では、始めましょう」

 奥野先生はそう言って、体育館の用具倉庫に向かった。みんなもそれについていく。

 鍵を開ける。なんてことのない普通の錠前だ。それを外して、鉄のかんぬきを横にスライドさせてから、奥野先生は扉を開いた。

 薄暗い倉庫内にはさまざまな用具が置かれている。カゴに入れられたバスケットボールやバレーボール、積み重ねられたマット、得点板やネットや卓球台。

 その中央に置かれた跳び箱の上に腰かけて、くだんのハンターは縮こまっていた。

「――ひっ……」

 ハンターが小さく声を洩らした。見るからに怯えている。

 年齢は二十歳かそこらくらいだろうか。黄色い雨合羽を着たままのその男は、僕たちが入ってくるのを見て、気の毒なくらいに身をこわばらせた。

 本当に、これがハンターなのだろうか。イメージしていた像と上手く重ならない。

「さて、少しばかりお話を聞かせてもらいましょう。観客は気にしないでください。なにも取って喰おうというのではありませんから」

 奥野先生は淡々と言う。気にするなというのはどう考えても無理だろう。彼がハンターなら、吸血鬼を不倶戴天ふぐたいてんの宿敵と考えているわけだ。そんな存在にぞろぞろ取り囲まれているのだから、落ち着けるわけがない。

 奥野先生は壁に立てかけられていたパイプ椅子を跳び箱の前に置いて、そこに腰かけた。僕たち見学者は立ちっぱなしである。まあ、別にいいけど。

「改めて名乗りましょう。私は奥野という者です。この学校では生物を担当させてもらっています。どうでもいいことですがね。あなたの名前もまた改めて、聞かせてもらえませんか?」

 先生は聴衆を意識するようにして話しかける。どうやら、これが最初の尋問ではないらしい。当たり前か。

「……ひ、蛭田ひるた

 ハンターは消え入るような声で答えた。

「蛭田さん。あなた方はなぜわれわれを襲ったのですか?」

「……きゅ、吸血鬼を抹殺するのは天命……神がわれわれに与えたディシプリン……」

 ぼそぼそと囁くように言う。

 怯えている割には、物騒なことを口走っている。つまり、この人は、目の前にいる僕たちを、殺されるべき存在だとはっきり言っているのだ。

「われわれ、というのはハンターと呼称されている集団を指していますね。いったいあなた方ハンターというのは何者なのですか?」

「……あ、贖いの聖者……人類の城壁……」

 蛭田は眼をきょろきょろさせながら言う。

「――抽象的ですね。いや、これは質問がまずかったですね。吸血鬼とは何者か、と問われたとしたら、私もはっきりとは答えられないでしょう。別の訊き方をしましょう。あなた方は、どの程度の規模の組織なのですか? また、拠点のような場所はあるのですか?」

「……しゅ、衆をたのむのは怯懦きょうだの証であり、孤独を厭わず使命を果たすべし……だ、大地がわれわれのねぐらであり、肉体の還るべき源である……」

「――昨夜のお仲間二人は、どこへ行ったのですか?」

「……さ、砂漠に還った砂粒は、自ら在るところを意識しない……」

 ――どうもよくわからない。

 こちらの質問は理解しているようだし、黙秘もせずに律儀に答えてくれているのはありがたいが――出てくる言葉が、なんだかちぐはぐだ。

 必死で覚え込んだ文言をただ暗唱しているだけ、といった感じで、この蛭田という人物自身の言葉が、まったく出てこない。

 それも、相手を煙に巻くためにそうしているというより、どうも本気でそういった言葉しか出てこないようなのだ。

 どう見てもまともな振る舞いではない。吸血鬼の僕が言うのもなんだが。

 ふう、と奥野先生はため息をついた。ため息をつくたびに命はすり減っていく、というだれかの言葉が頭を過ぎった。

「――あなた方は、なぜ憑かれたようにわれわれ吸血鬼の死を望むのですか? われわれは人間を害しようと考えてはいません。ただ、生きるために、少しばかりの血をもらい受けたいだけなのです。これだけのことが、それほどに罪深いことなのでしょうか」

 ぎょろり、と蛭田の眼球が奥野先生に向けられて止まった。落ち着きなく動きまわっていた視線が、急に定まって、相手を睨みすえた。

「……罪? 罪だと?」

 声の輪郭が、さっきまでとは違いくっきりとしていた。

「……罪というなら、貴様らは存在自体が罪だ。息をするたびに、創造主の恥を上塗りしている。神が休息しているあいだにこそこそと這い出てきた汚穢おわい。それが貴様らだ。完全になるはずだった世界を、内側から喰い破った。貴様らの暗示は、創造主すらも欺しおおせた。貴様らは善しと観られずに生まれ出た。貴様らの存在は神の許可を得ていない。鏡すら貴様らを認めない。

 人間の罪は、貴様らがもたらした。だからわれわれハンターは、貴様ら吸血鬼を抹殺する。塵ひとつ残さないように消滅させる。これは最終戦争だ。貴様らを消滅させた暁には、人間が争うこともなくなる。不和はなくなり、悲しみも、怒りもなくなり、涙はことごとく拭い去られる。すべての争いを終わらせるために、われわれは貴様らを殺し尽くす」

 そこまでまくし立てたところで、ぎょろり、とまた蛭田の眼球が動き、白眼を剥いた。

「……うぼぇっ」

 跳び箱からくずおれて、蛭田は吐いた。倉庫の床に、反吐をぶちまけた。吸血鬼のそれとは違う、臭気を帯びた反吐だ。

 どうっ、と自分が吐いた吐瀉物の上に頭を突っ伏して、そのまま動かなくなった。失神したらしい。

「――尋問はこれで終わりとします。では、解散」

 奥野先生はそう言って、皆を倉庫から出るようにうながして、外からまた鍵をかけた。

「…………」

 見学していた生徒たちは、なんともいえない表情を浮かべている。森木さんなど、これ以上ないほど苦み走った表情だ。

 教師陣はそうでもない。涼しい顔だ。僕たちが授業中によく浮かべている表情――見慣れたものをまた見ただけ、というような無感動な表情だ。

 三島さんはどうだろう、と見まわしてみたが、早々に姿を消していた。素早い人だ、相変わらず。

 僕と富永と森木さんは、連れ立って体育館を出て、ゆっくりと歩いた。

「……あんなちゃちな鍵で大丈夫なのかな。たしかハンターって、吸血鬼とためを張る膂力を持ってるんじゃなかったっけ」

 尋問の内容には触れず、僕はそんな疑問を口にした。

「いや、暗示を幾重にもかけているらしい。脱走するという発想さえ浮かばないようにな。もっとも、意識が混濁して糸が操りにくいそうだから、見張りは一応つけるらしいが。それに、いまのあいつは普通の人間とほぼ同じくらいに無力だ。薬が切れているからな」

 富永は、僕よりもハンターの事情に通じているらしい。

「クスリ?」

「ああ。ハンターは薬をキメて、肉体を強化しているらしいからな」

「へえ……」

 じゃあ、あの常軌を逸した言動は、薬が切れた反動なのだろうか。

 ただ、最後に並べられた呪詛には、それまでの言葉とは違い、蛭田という人物の感情が込められていた。この人にも意思があるんだな、と実感できた。憎悪にまみれた言葉に人間味を感じたというのは、皮肉としかいいようがない事実だけど……。

「…………」

 森木さんは黙っている。まあ、あんなものを見せられたら、あまりしゃべりたくもなくなるか。

「ショックを受けたの?」

 余計なことだが僕は訊いてみた。

「……え? いえ……」

「まあ、僕らも実際にハンターと接したのは初めてだけど……。本当に、吸血鬼とハンターって、殺し合いをやってるんだね」

「おいおい、いまさらかよ」

 僕の間が抜けた言葉を聞いて、富永は苦笑した。

 でも、それが実感だ。現実感がない。おまえたちを殺す、と憎悪を真正面からぶつけられても、やっぱり現実感はわいてこなかった。節分の鬼を遠くから眺めているような気分だ。

「……あの人と私は、似たところがあるのかもしれません」

 ぽつりと森木さんがつぶやいた。

「は?」

 僕と富永は首をひねった。

 あの人って、あのハンター、蛭田のことだろうか。

 まさか、そんなことを考えていたとは思わなかった。どこを見てそう思ったのだろう。

 ああ、でも森木さんも以前、世界がどうこう、とか大げさな言葉を使っていたっけ。そんなところだろうか。

「ははは! おもしろいこと言うね、森木さん。実際のところ、一ミリも似てないよ」

 富永が笑い飛ばした。

「……そうでしょうか?」

「まったくもって。だって森木さんは、優しい人だから」

 恥ずかしげもなく言う。どうもこの二人、昨夜の猟で少しばかり親しくなったらしい。

 照れるように森木さんは微笑んだ。……もしかして、僕はお邪魔なのだろうか。

「あれ? 正、どこ行くんだ?」

「……いや、そういや図書棟に本を返さなきゃって思って。読み終わったことだし。じゃ、二人はごゆっくり」

 そう言い残して、僕は本を取りに男子寮に向かった。


 本当はその推理小説はまだ読み終わっていなかった。

 とはいえ、途中で読むのをやめて放り出すというのも、読書の贅沢の一つだ。犯人が誰なのか、結末がどうなるのか、あやふやなまま投げ出すのもまた一興。

 生きていれば、いつかまた続きを読むこともあるだろう。

 本を持って、僕は図書棟に向かった。

 校舎とは別に建てられたその建物は四階建てで、一階には一般向けの小説や絵本や雑誌が並び、二階には専門的な学術書や美術書、作家の全集などが置かれている。三階は視聴覚コーナーで、四階には閉架書庫がある。

 図書棟に入ると、受付カウンターの椅子に座って本を読んでいる、白髪をいただいた上品な老婦人が視界に入る。

 その女性、茅原ちはら先生は、いつもここで黙って本を読んでいる。

 先生と呼ばれてはいるが、なにか授業を担当しているわけではないし、校舎の方で見かけた覚えもない。つまりは司書、いわば図書棟の番人である。

「本の返却に来ました」

 僕が声をかけると、茅原先生は顔を上げ、こちらを見てからうなずき、書棚の一角を指差した。そして、また顔を伏せて、読書に戻る。

 僕は指差された書棚の方に歩いた。

 図書棟での本の貸し出しには、カードもなにも必要ない。勝手に持ち出していいし、勝手に戻しておけばいい。返却期限というのも定められてはいない。

 本当は茅原先生に声をかける必要すらないのだけど、僕はなんとなく一声かけずにはいられなかった。この女性にはなにか、長生きした鶴のような品格があって、思わず敬意を表したくなる。

 返しにきた本を手にして、その書棚の前に立つ。

 書籍が雑然と並べられている。五十音順でもなくジャンル別でもない並べられ方で、無秩序としか思えないが、おそらく、茅原先生なりの基準はあるのだろう。

「『黒死館殺人事件』かい。またずいぶんと、偏執的な作品を読んでいるね」

 ふいに、隣で書棚を物色していた人物が、話しかけてきた。

 その人はこの校内では少数派の、正真正銘の人間、倉持さんだった。

「……どうも」

 とりあえず、挨拶をしておく。

 用務員である倉持さんは校舎のさまざまな場所で見かけるが、図書棟も例外ではない。気さくな人柄で、生徒に声をかけることもしばしばだが、僕は好んで接しようとは思わなかった。

 なんせまわりが吸血鬼だらけなのを知らないのだ。おまけに赤学の授業では教材として使われている。そのことに格別うしろめたさを感じるわけではないが、間近に接すると、どうも気後れしてしまうところはあった。

「小栗虫太郎とはね。好きなのかい、探偵小説」

「……そうですね。推理小説を読むことは多いですね」

「ふーむ、推理小説か。私などは、探偵小説という呼び名の方が古めかしくて好きなんだがね。老人の繰り言かな、こういうのも」

 感慨深げに倉持さんは言う。この人、意外に趣味人らしい。

「じゃあ、江戸川乱歩なんかは当然、読みつくしているのかな?」

「いえ、その作家は読んだことがありません」

「乱歩は通らずに虫太郎に直行かい? 奇特な道筋をたどっているね。世代かな、これも」

 静けさを乱さないように声を潜めてはいるが、倉持さんは喜々としてしゃべりかけてくる。どうも、同好の士を見出したと思われているようだ。

 たしかに推理小説を手に取ることは比較的に多いが、僕のは乱読で、図書棟の棚をめぐって目についた本を適当に借りているだけだ。系統立てた読書などしたことがない。

 この本だって、黒死という字面が気になっただけである。黒死病といえばペストのことだ。ペストと吸血鬼はなにかと関連が取り沙汰されたりもするようだから、自分に関係のある本かと思って読んだのだ。まあ、別に吸血鬼の話ではなかったが。

「しかし、なんだね、若い愛好家が健在なのは嬉しいことだね。君、以前もチェスタトンの『ブラウン神父の童心』読んでたよね」

「……いえ、その作品も読んだことはありませんが」

 心当たりがない。吸血鬼が、神父の物語なんて好きこのんで読むものだろうか。

 いや、そんなことよりもなんだか居心地が悪い。どうも倉持さんは僕を見知っているようだ。授業で一方的にこの人を観察するのに慣れているせいなのか、相手もこちらを見ていたという事実には、少なからず動揺させられた。

「ふむ? そんなはずはないが。……記憶違いだったかな。歳のせいか、忘れっぽいところがあってね」

 倉持さんは苦笑した。ははは、と僕もおざなりな愛想笑いを浮かべた。

「『ブラウン神父の童心』といえば、名作の誉れ高い〝見えない男〟が、以前から腑に落ちなくてね。だって、そうじゃないか。見えていたのに見えていなかったなんて、そんな馬鹿なことが起こるものだろうか。ポーの〝盗まれた手紙〟のひそみに倣ってのことだろうが……。君はどう思う?」

 読んでいない、と答えたはずなのに、構わずに倉持さんは読んだことが前提であるだろう質問をぶつけてくる。とはいえ、どんな類いの話なのかは、題名からなんとなく想像はつく。

「……さあ、どうですかね。あるにはあるんじゃないですか」

 すこぶる曖昧な返答を僕はした。

 あなたの身によく降りかかっていることですよ、とは答えられない。

「……ふーむ。そういうものなのかね。チェスタトンは聡明な人だから、なんらかの理はあるんだろうがね。しかし、それにしても……」

 ぶつぶつと、倉持さんは独語するようにつぶやいている。

「――それじゃあ」

 逃げるように、僕はその場を離れたくて、本を書棚に突っこんで、手近にあった階段を上った。

 さて、どうするか。今日は本を返しに来ただけで、すぐに図書棟を出るつもりだったけど……いいや、ついでだ。このまま三階まで上って、映画でも見て時間をつぶそう。

 三階の視聴覚コーナーに入る。そこでは何人かの生徒がヘッドホンをつけて、それぞれに映像を眺めたり、音楽を聴いたりしていた。

 モニターの中では車が爆発炎上したりしているわりに、この空間にはひっそりとした静けさしかない。

 僕はまた適当に棚をめぐって、目につく映画を探した。

 媒体はビデオテープとレーザーディスクしかない。一昔前の映像メディアだ。下の階の書籍もそうだけど、図書棟には最新の事物というのが欠けている。雑誌や新聞でさえ、古いものしかない。

 山の上に取り残されたようなこの空間には、それがふさわしい気がした。

 忘れられた書物、忘れられた記録、忘れられた人々。そんなものが寄り集まっているかのような、この場所の寂れた空気は、悪くなかった。

 映画は『小早川家の秋』という作品を選んだ。秋という字を見て、三島さんの名前を思い浮かべたのだ。馬鹿みたいな選び方だな、まったく。僕は三島さんのことが本気で好きなのだろうか。自分でもよくわからない。

 まあ、三島さんのことは抜きにしても、秋はいちばん好きな季節でもあった。優しく寂しい静かな季節。景色がゆっくりと枯れていくような、黄昏の季節。どうせいつか死ぬのなら、どうか秋に死にたいものだな、なんて思ってしまう。吸血鬼は不老不死だというのに、おかしな感慨だ。

 映画を観る。題名からほのぼのとしたファミリー映画だと見当をつけていたのだが、見てみると人間が死ぬ話だった。といっても死ぬのは一人だけで、それも推理小説のように軽快に死ぬわけではない。おまけに、秋ではなく夏の場面の方が多かった。ずいぶんと古い映画のようだけど、ここに映っている出演者たちにも、もう死は訪れたのだろうか。

 それはともかく、ラストシーンを見て、僕は小躍りしたくなるくらい興奮した。なんせ、鴉、鴉、鴉なのだ。

 木の橋を渡っていく喪服姿の人間たち。喪服というのも鴉と同じ色なので好ましいが、それはともかく、そのカットに続く三つのカットがこの映画のラストを飾る。なんとその三つともに、鴉が映し出されているのである。

 一つ目のカット。橋のたもとの川縁にぽつりぽつりと佇んでいる四羽の鴉。それとは別に、画面奥にはもう一羽が空を舞っている。

 二つ目のカット。川の中ほどを通っている細長い砂地に、やはりぽつりぽつりと五羽の鴉。

 三つ目のカット。地蔵の上に不躾にとまっている、二羽の鴉。

 そして、「終」のクレジット。

 十二羽の鴉が、人間の死と映画の終わりを悼んでいるようだった。十二使徒とでも呼びたいくらいだ。そのラストシーンに流れている音楽は、目の前が真っ暗になるような不吉な曲調なのだが、僕にとっては福音だった。こんなに恍惚としていたら、アサガオに嫉妬されるかもしれない。

 彼らにも既に死は訪れたのだろう。映像が記録するのは人間だけではない。こんなものを目にすると、姿が記録されるというのも悪くはない、なんて思えてくる。

 二時間ほどの映画を見終えた僕は、ビデオテープを最初まで巻き戻してから棚に戻し、一階に下りようと階段に向かった。そのとき、階段を二人連れで上っていく人影が視界を掠めた。

「…………」

 悪いとは思ったが、僕はその二人の後を追ってこっそりと階段を上った。どうも気になってしまったのだ。

 上った先は四階で、閉架書庫がある。いつもほとんど人気はなく、静かな場所である図書棟の中でもひときわ静寂が領している空間である。

 とうに必要とされなくなった、それでもいつか誰かがひもといてくれるのを心待ちにしているような、そんな古びた本たちが所狭しと書棚に詰め込まれている。

 それらの書棚に隠れるようにして、僕は辺りをうかがった。そして、その光景を覗き見ることになってしまった。

 その二人は書庫の奥で、抱き合うようにして立っていた。しかしそれは、単なる抱擁ではない。男は女の肩に手を添え、首筋に顔を埋めていた。女は男の背を抱いたまま、されるがままになっている。

 秘密めいた、それでいて神秘的な行いのように見えた。

 僕は、覗き魔になるつもりはなかったので、気づかれないようにそっとその場を後にしようとした。しかし、男の方は気づかなかったようだが、女の方とは目が合ってしまった。

 ぞっとするほど冷たい目つきだった。

 逃げるようにして僕は四階から立ち去った。

 一階まで階段を下りる。幸いなことに倉持さんの姿はもう見えない。相変わらず本を読んでいる茅原先生の前を通り過ぎて、僕は図書棟の外に出た。

 そして、いま目にしたもの――富永が三島さんの血を吸っていた光景――を思い起こし、〝三島秋は同胞に血を吸わせている〟という噂は本当だったのだな、と考えながら、道をぶらぶらと歩いていった。


 吸血鬼が吸血鬼の血を吸うとどうなるのか? それについては寡聞にして知らない。知っているのは、それが禁じられた行為だということだけだ。

 なぜ禁じられているのか? 同胞の血は生命の糧とはなり得ず、いたずらに風紀を乱すのみだからだそうである。近親相姦が忌避されるのと似たようなものです、と先生は語った。それ以上は知らない。

 ちなみにこの学校では、不純異性交遊は特に禁じられてはいない。吸血鬼に生殖能力はないそうだから、どうでもいいことなのだろう。

 もしかしたらあれは、そんな不毛な吸血鬼なりの、求愛行動なのだろうか。事実、富永は三島さんが気になっていたようだし。

 富永は禁忌に触れる行為をしているわけだ。引き止めるべきだろうか?

 しかし、その行為がどの程度の罪深さなのか、僕にはよくわからなかった。

 未成年の飲酒なら、法では禁じられていても、場合によっては黙認されるし、事故や醜聞を引き起こさない限りは、笑い話にだってなり得る。だが嗜んだのが酒ではなく麻薬なら、笑い話にはならないだろう。少なくとも、この国の良識の水準というのは、おおむねそんなところではないだろうか。

 いや、人間社会の良識なんかはどうでもいいのだが、つまり、この学校において、富永の行為はどう考えられるのか。罪の軽重、それが気になるだけなのだ。

 表沙汰にならないうちに富永に忠告しておいた方がいいのだろうか。

 三島さんの噂はどうも一部の生徒のあいだに広まっているみたいだし、好奇の的のようだ。生徒の立場からすれば、その行為はちょっとした冒険でしかないだろう。

 だから、問題は教師がどう考えるかだった。

 もしも富永の行為が、黙認の対象にはなり得ない、重大な背反行為だと見なされたとしたら――つまり僕は、罪が発覚して、富永が奥野先生に粛清されたりする事態は望んでいないということなのだ。それだけが心配だった。

 僕自身は富永の行為についてどう思うか? どうもこうも、取り立てていうほどの思いはない。それに対してどう振舞うか、それを考えているだけだ。このことを奥野先生にこそこそと耳打ちするなら、まるで卑しい密告屋だし、富永に善意の忠告をするなら、他人の恋路を邪魔する野暮天だ。

 さて、どうしたものだろう。

 気がつくと僕は、数時間前に河下たちと遊んでいた校舎裏に戻ってきていた。いまは誰もいない。図書棟とはまた違う、屋外の静けさがあった。

 空は暮れようとしている。鴉たちはねぐらに帰ろうとしている。吸血鬼のくせに、僕は闇の深まる夜よりも、景色が淡くなるような夕暮れの方が好きだった。死と太陽は直視できないと言うけれど、夕陽はそれほど眼に敵対的ではない気がする。

 昔の人間が空を飛ぶことを夢物語だと思っていた程度には、吸血鬼が太陽を眺めることもまた、昔の同胞にとっては夢物語の範疇に属していたことだろう。そう考えると、すごい時代に生まれたものだ。少しはありがたがるべきなのだろうか。夕陽を見ながら死ぬのも乙なものだ、なんて気もするけど。

「……ん?」

 ふと、向こうの地面に落ちている、ひとかたまりのゴミのように見えるものが気になった。雑草の生い茂った中に、ひっそりと存在している。あんなもの、河下たちと遊んでいた時には見かけなかった気がするけれど……。

 僕はそのゴミに歩み寄ってみた。

「…………」

 ゴミではなかった。ぼろぼろの外套にくるまって横たわっている人間だった。角度を変えて眺めてみれば、蒼白い色を呈した、初老といっていい男の顔が突き出していた。眼を見開いて、口をだらりと半開きにしている。

 浮浪者、なのだろう。既に事切れているのは明白だった。

 僕は踵を返して、職員室に向かった。奥野先生は自分の机で湯呑みをすすっていた。

「先生、人間の侵入者を発見しました」

「ほう。どこでですか?」

「校舎裏です。案内するので、ついてきてください」

 先生は口元の血をぬぐって、立ち上がった。奥野先生を伴い、僕は浮浪者の死体のある場所まで戻った。後ろをついてくる先生はなにも訊かず、僕たちは黙ったままそこまで歩いた。

 死体は依然としてそこに、胎児のような姿勢で横たわっていた。

「なるほど。確かに人間ですね。それも、死んでから間もない。といっても、外傷があるわけでもなさそうですし、衰弱死といって差し支えないでしょう」

「昼間にここに来たときは見かけませんでした」

「ほう……。しかし、それはさほど重要なことではありませんね」

 そうなのだろうか。でも、もしも僕らがここにずっといて、いまよりも早くこの人を見つけていたとしたら、もしかしたら死ぬことはなかったんじゃないだろうか。

「これほど弱ったまま山に入るくらいですからね。本人もそのつもりでいたのではないでしょうか。キリマンジャロの頂上近くで凍りついていた豹の死体という話を思い出しますね。

 たまにね、こんなふうに結界をくぐり抜けて迷い込む人間がいるんですよ。大体は、一般社会から外れてしまった人間であることが多いのですが。人間たちが織り成す糸の編み目から放り出されると、暗示の効果が弱まることがありましてね。無意識に糸をくぐってしまうわけですよ」

「じゃあ、この人も、人間社会から外れてしまったわけですか。人間なのに、そこに居場所が見出せなかったということですか」

 僕らと、同じように。

 奥野先生はこちらをじっと見つめ、それから死体に視線を向けた。

「そうだね。普通の人間よりは、僕たち吸血鬼に近い存在だったのかもしれない。でも、弱者だ」

 先生は穏やかな口調で、だが吐き捨てるように、そう言った。それからかがみこんで死体に手を伸ばし、見開いたままだった男の眼をそっと閉じた。

 吸血鬼と違って人間には魂があるというのなら、この人はいまようやく安らかな場へ赴いているのかもしれない。その場所がどんなところなのか、僕には想像もつかないけれど。

「あとは私が処理しますから、君はもう行っていいですよ」

 先生にそう言われ、僕は校舎裏を後にした。


 寮に帰った。富永に僕は結局なにも言わなかった。アサガオに御飯をあげた。いつものように眠りにつき、いつものように今日を終わらせた。血を飲み、遊び、絵画や映画や尋問や逢瀬や死体やらを見て、僕の休日は穏やかに過ぎ去っていった。

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