記憶

 寮の自分の部屋で、僕は目を覚ました。

「…………」

 ゆっくりと起き上がる。気がかりな夢を見たので、幾分ぼんやりしている。とはいえ、どんな夢だったか、具体的には何ひとつ思い出せなかった。不思議なことだ。ほんのさっきまで間近にあった景色や感触が、記憶の指先をなめらかにすり抜け、遠のいて、消えていく。

 ただぼんやりと、なにかが消えていくのを眺めていることしか、僕にはできない。

 そんな夢うつつの状態を振り払うように、僕は頭をぶんぶん揺らしてみた。

 部屋を見まわす。ベッドは二つあるが、いまのところ、この部屋は僕ひとりで使っている。ありがたいことではあるが、今日は何故だか、ひとりで使うには広すぎるような気がした。

 顔を洗い、口をゆすいでから、窓を開けた。すると、待っていたように、近くの木から飛んできたアサガオがそこから入り、空いているベッドに降り立った。

「おはよう、アサガオ」

 僕はテーブルの上にある皿からラップを剥がして、アサガオがとまっているベッドの近くに置いた。皿の上には食堂でもらった肉や野菜が載っている。アサガオのための取置きだ。

 しかし、アサガオは皿を興味なさげに一瞥しただけで、食べようとはしなかった。

「なんだよ、満腹かい? 今朝はどこかで食べてきたのかな」

 アサガオはじっと僕の顔を見ている。アサガオに限らず、鴉の瞳は奥深い。そこには心に触れる何かがある。今朝はとりわけそうだった。

 僕もベッドに腰かけたまま、アサガオを見つめた。使い魔と主は、深いところでつながっている。だから、アサガオが何かを言いたがっていることだけはわかった。でもそれが何なのかまでは、靄がかかったようにはっきりとは伝わって来なかった。

 やがて、アサガオは食べ物に嘴をつけることなく、来たときと同じように、窓から外へ飛び立っていった。

「…………」

 僕は部屋を出て、蛇口から配給の血をコップに注いでから戻り、起き抜けの一杯を飲みほした。


 朝のホームルームが始まった。

「はい、皆さん――おはようございます。体調は良好でしょうか? 今日も一日、日光に負けずにがんばりましょう」

 いつも通りの三組の教室で、奥野先生がいつもの決まりきった口上を述べた。これが雨の日だと、「降水に負けずにがんばりましょう」に変わる。

「さて、皆さんに喜ばしいお知らせがあります。このクラスにもう一人、同胞が加わることになりました。どうぞお入りください」

 転校生、か。珍しくもない。僕ももともとは転校生だった。というか、この学校に転校生ではなかった生徒なんているのだろうか。

 ホームルームで転校生が紹介されるのも、恒例のことだった。帰りのホームルームの時もあれば、今日のように、朝のホームルームの時もある。

 そう、僕も転校生だった。河下も転校生だった。玉置さんも転校生だった。そして、森木さんも――。

 ふと後ろの森木さんを横目でうかがってみると、彼女は奥野先生が転校生を紹介しているのを、なにかグロテスクな光景を目の当たりにしているような表情で、じっと見ていた。


「ねーねー、タルタルくんって呼んでもいい?」

 ホームルームが終わると、玉置さんは、さっそく転校生に妙なあだ名をつけていた。転校生は細面で小柄な、無口な男子だった。戸惑いながらも、うなずいたりしている。

「あだ名か。変な趣味だよな、玉置も」

 僕の机にもたれるように腰かけている河下は、不思議そうにつぶやいた。

「たしかに。でも、河下も友達に傍迷惑なあだ名をつけたことあったじゃないか。人のことは言えないよ」

「そうだったかね。そんなことあったっけな」

 河下は覚えがないように首をかしげる。

「ほら、DVとかって」

「DV? ドメスティックバイオレンスのことか?」

「違うよ、そうじゃなくて……」

 そこまで言ったところで、僕は口をつぐんでしまった。

 そうじゃなくて、なんだというのだろうか。DV? 家庭内暴力を表す略語でないとしたら、イニシャルか何かだろうか。

 そもそもそのあだ名は、誰につけられたものだったのだろう。急に自分の言ってることに自信がなくなってきた。

「いや、僕の勘違いだったかな。気にしないでくれ」

 夢と現実を混同してしまったような恥ずかしさを感じて、僕は笑ってごまかした。

 チャイムが鳴り、河下は自分の席へと戻っていった。

「光岡くん」

 後ろの席から、森木さんが顔を近づけて、小声で呼びかけてきた。

「ちょっと、話したいことがあるんですけど……」

「いいよ、なに?」

 僕はそう言ってうながしたが、森木さんはためらうように口ごもり、教室を見まわした。なにかに怯えているような目つきだった。

「ここでは、ちょっと……」

 そう言ったところで、一時間目の古文を担当する教師が入ってきた。

 森木さんははっとしたように姿勢を正し、慌ててノートを出して、目を伏せた。そのままもう何も言おうとしない。

 なんだか今朝は様子が変だな。まあいいや。他人の内面なんて、知るよしもない。女性なりの複雑な心理なんてなおさらだ。デリケートな問題は苦手だった。

 僕は前に向きなおり、授業が始まってからほどなくして、机に突っ伏すこととなった。ひどく眠いのだ。


 赤学の授業になっても、眠気はとれなかった。教壇では相も変わらず奥野先生が訥々と弁じている。

「さて、君たちは吸血鬼です。自覚の深浅はともかくとして、君たちは吸血鬼です。人ではない。人々の中で生活することはできない。しかし、人の血は必要としています」

 奥野先生は、日常を退屈に思ったりはしないのだろうか。同じことの単調な繰り返しに、眠気を感じたりはしないのだろうか。

 暗示の説明が始まり、いつものように倉持さんが教室に招き入れられ、手品の舞台に上げられた観客のような扱いを受けて、記憶を歪められて去っていった。

 眠りたい。とても眠りたい。

「われわれはその張りめぐらされた見えない糸を、結び合わせてはほどき、絡ませ合い、ときには断ち切る。そうすることによって、人間たちの認識に介入するわけです」

 僕は眠る。変わることのない日常の、変わることのない恒久的風景を眺めながら、僕は眠る。


 昼休みになると、森木さんがまた話しかけてきた。

「光岡くん、校舎裏に一緒に来てくれませんか? 話したいことがあるんです」

「悪いんだけど、転校生を案内しないといけないんだ」

 そう、嘆かわしいことに、奥野先生から案内人として指名されてしまったのだ。転校生を連れて校舎や寮をまわり、ここがどんな場所なのかをある程度飲み込んでもらわないといけない。案内人なんて柄ではないのだけど、任せられたものはしょうがない。転校生を放り出してしまうのも悪いし。

「そうですか……。そういえば、私のときも案内してくれましたね。あなたはいつも、案内人なのですか?」

 なぜだか森木さんは、皮肉を込めたような口調で僕に訊く。

「まさか。いつもだなんて、やってられないよ」

 そう答えながら、記憶を探る。

 森木さんを案内したのは僕だったっけ。そう言われてみると、そうだったような気もする。ということは、僕は森木さんよりは古株なのか。

 誰がいつ転校してきたかなんて、いちいち覚えていないので、先輩後輩の別などは曖昧だった。その方が気楽でいいけれど。

「……とにかく、一緒に来てほしいんです」

「ねえ、悪いけど……」

 僕がなおも断ろうとすると、いつの間にか近くに来ていた玉置さんが割り込んできた。

「タルタルくんなら私に任せなよ。代わりに案内しとくから。ミーくんは、アスアスの頼みを聞いてあげなさい」

「え? でもそれって、いいのかな」

「いいから、いいから。女の子が人気のない場所で、二人きりで話したいって言ってるのよ。察してあげなさい」

 玉置さんはニヤニヤ笑いながら、 ほらほら、行った行った、と僕たち二人を急き立てた。どうも何か、勘違いされているような気がする。しかしまあ、代わってくれるというのだから、ここは素直に従っておこう。どうせ他に何か、やりたいことや行きたい場所があるわけでもなかった。そんなものは、いつだってないのだった。


「で、話って何?」

 校舎裏には僕と森木さん以外の人影はなく、昼休みの喧噪も遠かった。所々に砂利のあいだから雑草が生えている。いい天気だった。

 自分で呼び出しておいて、森木さんはなかなか話し出そうとはしなかった。落ち着かなげにスカートの裾を握ったり、つま先の方をじっと見たりしている。何を考えているのだろう。

「……みんなは、なぜ平気なんですか?」

 決心したように、やっとで森木さんは口を開いたが、しかし、言ってる内容はよくわからなかった。

「平気って、何が」

「だから、あんな凄惨なことがあって! 人が……人が、死んだんですよ! それなのに、みんな何事もなかったように……」

「ちょっと待って、誰が死んだっていうの?」

 少し驚いて、僕は問い返した。

 すると、森木さんの顔からすっと血の気が引いた。今朝も見たような表情で、凍りついたように顔を固まらせた。

「大地くんが。そして、城戸原くんという方が」

「それは、この学校の生徒なの? 聞き覚えのない名前だけれど……」

 僕がそう訊くと、森木さんは黙り込んでしまった。

 太陽の光は地上に降りそそぎ、空を鳥たちが舞い、虫が校舎の壁を這っていた。風は木をそよがせ、幾枚かの葉を散り落としていった。葉がひらひらと落ちていく軌跡が、指でなぞれるくらいにゆっくりに感じられた。

 そんな真っ昼間の只中で、吸血鬼ふたりの沈黙は、場違いなほどに気まずかった。なにかがずれているようだった。

 ふっ、と森木さんが、引きつった笑みを浮かべた。そのまま、肩を震わせて、ひそやかに笑い続けている。

 笑ってはいても、ちっとも楽しそうには見えなかった。

「そう。やっぱり、そうなんですね。最初は、あえて触れないようにしているのかと思っていました。喪に服すということは、そういった素振りを伴うものですから。でも違うんですね。みんな、本当に、忘れているんですね」

 耳を澄ませないと聞こえないような小さな声で、森木さんは話す。声が震えている。

「ねえ、森木さん……」

 僕は少し心配になり、なにか声をかけようとしたが、森木さんはきっ、とこちらを睨みつけて、遮るように言った。

「あなたの友達の大地浩介くんと城戸原勇くんは死にました。ハンターとの戦いで殺されたのです。そして、相手方のハンターたちも死にました」

「僕の……友達?」

 身に覚えのないことを、森木さんはまくし立ててくる。

「光岡くんも、その場に居合わせたのでしょう? 本当に何も思い出せないんですか? 目の前で友達が死んで、何も感じないんですか」

「ちょっと待って、じゃあ、ハンターは本当に実在するんだね? 驚きだな。話には聞いていても、まだ出くわしたことはないから……」

 僕の受け答えは、森木さんを幻滅させてしまうだけらしかった。話せば話すほど裂け目が広がり、距離は遠のいていくようだった。

 森木さんは泣いていた。誰かを悼んで、何ごとかを悲しんで、耐えきれないように泣いていた。

 その涙を眺めながら、僕はたまらなく居心地の悪い思いを味わっていた。

 困ったな、というのが正直なところだった。森木さんはどうも、情緒が不安定になっているようだ。錯乱しているといっていい。なぜすがる相手として僕を選んだのかはわからないが、女性のヒステリーの相手など、誰も望みはしないだろう。これなら転校生の案内をしている方がよほどマシだった。

 森木さんの語る死者たちが、たとえ妄想の産物ではなかったとしても、冷たい感想しかわいてこない。よく知りもしない相手の死を真剣に悲しめるわけがなかった。

 わけのわからない激昂をぶつけられたからなのか、僕は珍しく苛ついていた。ひどく腹立たしかった。

 自分の置かれた立場を棚に上げて客観的に見るならば、吸血鬼が退治されたというのなら、それは結構なことではないだろうか。どうせ、血をこせこせすすりながら、意味もなく、無駄に長い寿命(聞くところによると不死だという。笑える話だ)を消費しているだけの連中なのだから。何一つ意義のあることをせず、人間社会を白眼視しながら、そのくせ、人間の生活を物真似しているだけの、生産性のない連中なのだから。

 なぜ、泣くのだろう。

 僕たち吸血鬼は、ただの、未来のない化け物でしかないのに。

「富永くんのことも、覚えてないんですね」

「富永?」

 もちろん聞き覚えのない名前だった。

「そう……。大地くんと城戸原くんは、それでも、ほんのひとときだとしても、悼まれる時間はありました。死を認知された。でも富永くんは、いなくなってしまったことさえ認識されなかったんですね。可哀想な富永くん」

 そう言いながら、森木さんは涙を拭った。

 いいかげん、僕は森木さんの戯言に付き合いきれなくなってきていた。感傷的な妄想のお相手はうんざりだ。

「どうも、僕ではいい相談相手にはなれないようだね。保健室に連れていこうか?」

「結構です」

 きっぱりと森木さんは拒絶した。

 そうして、森木さんはその場から立ち去ろうとしたが、二、三歩歩いたところで立ち止まり、なにかを迷うような素振りを見せ、こちらを振り返った。

「ねえ、正くん。あなたはいつからこの学校にいるの?」

 それまでの会話と関係がないように思える質問を、森木さんは口にした。なにか、いつもよりなれなれしい、甘えてくるような口調だった。

「さあ、いつからだったかな。ついこのあいだまでは、人間だったんだけど」

「それはいつ? あなたはいつ、吸血鬼になったの?」

 森木さんはしつこく食い下がってくる。適当にあしらおうとしていたのだが、だんだんこの不安定なが可哀想に思えてきたので、ちゃんと答えてあげようと思った。

 でも、どうしたことか、記憶をまさぐってみても、それ以上のことは探り出せなかった。“ついこのあいだ”。

「……ついこのあいだのことだよ」

「……そう」

 森木さんは、死体を眺めるような眼で僕を見つめた。

「私の母は、憐れみは優しい侮辱だと、ことあるごとに言っていました。でも私は憐れみます。正くん、あなたは哀れです。そのことに自分で気づくことさえ許されない、みじめで哀れな子羊です」

 散々な言われようだった。

 まあ、他人をどう思おうがその人の勝手だ。憐れみたいのなら、好きに憐れめばいい。僕もさっき、森木さんを可哀想だと思ったのだから、お互いさまだった。とはいえ、なにを憐れまれているのか、その内容はよくわからない。

「正くん、本当に思い出せないの? 私が昔、あなたの妹の友達だったことも。何度も一緒に遊んでもらったことも。それがなんで、いまは同級生になってしまったんでしょうね」

「……はあ?」

 森木さんの錯乱もここに極まったのか、突拍子もないことを言い出した。妹の友達? なんだそれ。

「この学校は狂っています。いえ、それは最初からわかっていました。時間の凍結しているあなたを見た時から。いつの間にかいなくなってしまったあなたを見つけた時から」

 そう言い残して、森木さんは踵を返した。

「正くんがダメなら、もう秋ちゃんしか……」

 ぶつぶつとなにかつぶやきながら、どこかへ歩いていく。

「ねえ、本当に保健室に連れていかなくても大丈夫?」

 森木さんは返事もしなかった。

「…………」

 まあ、彼女の用件は済んだようだし、僕も校舎裏を立ち去ることにした。


 昼休みも終わろうとしているが、 何となく、教室に戻る気にはなれなかった。今日は授業をサボるのもいいかもしれない。どうせ咎められるわけでもない。

 それで目的もなく廊下をぶらついていると、壁際にそそくさと、なにか小さな生き物が動いているのが視界に入った。

「クルツ」

 そう、無意識に口にしたが、どこからその言葉が出てきたのか、よくわからなかった。

 その鼠は声に反応したように僕を見たが、すぐに壁をかけ上って、窓から外へと姿を消してしまった。

「…………」

 気がつくと、僕は美術室に来ていた。適当に歩いていると、自然にここに足が向いていた。

 中に生徒は見かけなかったが、奥野先生がそこにいて、画材を片づけていた。

「やあ、光岡くん。美術室になにか用事ですか?」

「いえ、特に用事では……。もしかして、先生も、絵を描くんですか?」

「たまにね。でも、とても拙いものでして、人には見せられません。だからわざわざ誰もいない時を見計らって描いているんです。内緒にしておいてくださいよ」

 奥野先生はそういって、洗った筆をしまい、片づけを終えた。

「ところで、君は転校生の案内をするはずではありませんでしたか」

 僕は赤くなった。といっても、鏡を見て確認するわけにもいかないので、これは気持ちの問題だ。本当に赤面したかはわからない。

「すみません」

「役割の放棄は感心しませんね。しかし、まあ、いいでしょう」

 机に置いていたコップを手に取り、奥野先生は血をすすった。僕がどう行動しようが、この先生は本当には関心を持っていない気がする。

「先生。大地浩介と城戸原勇って知ってますか?」

 ふと思いついて、僕はさっき聞いた名前を口にしてみた。

「ええ、知ってますよ。その二人は四組の生徒ですね」

 あっさりと奥野先生は答えた。

 すると、その人物たちは森木さんのまったくの空想というわけでもないのか。少なくとも架空の人物ではないようだ。でも僕は四組に知り合いなんていない。なんで森木さんはそんな妄想を抱いたんだか。

「それが何か?」

「いえ、別に……。ああ、そうそう、じゃあ、富永という生徒は?」

「富永?」

 奥野先生はコップを置いて、じっと考え込んだ。とんとんと、指先が机を叩く。

「いえ、その名前には覚えがないですね」

「そうですか。それじゃあ」

 僕は何のために来たのかもわからないまま、美術室を出ようとした。

「待ってください」

 それを、奥野先生が呼び止めた。

「富永……富永ね。何か引っかかるな」

 先生は目を閉じ、額に指を当てた。

「……ふむ。糸をいじくられた痕跡があるな。私としたことが、侵入を許したようですね」

 奥野先生はそう独りごちて、

「光岡くん。ついてきてください」

 と急に言ったかと思うと、さっさと歩き出した。

 美術室を出て、廊下を進み、外に出る。

 先生は僕がついてきているか振り返って確認もせず、足早に進んでいく。なんだというのだろうか。今日は人に連れまわされる厄日なのか?


 そうして連れてこられたのは、図書棟だった。

 奥野先生について、中へと入る。カウンターで本を読んでいた司書の茅原先生が顔を上げてこちらを見た。そうして、この女性には珍しく、不快げに顔をしかめた。

「茅原先生、どうやら復元の必要がありそうです。彼を頼みます」

 そう言って、奥野先生は僕を茅原先生の前に押しやった。

「また、その子か……。記憶の糸を、切って、つないで、切って、つないで。奥野、生徒はあんたの玩具じゃないよ。この子はもう狂気すれすれだ」

「説教なら後で聞きますよ。審判の日が来た時にでもね」

 奥野先生は、茅原先生の抗議らしきものには取り合わず、僕の方を振り返った。

「彼女の糸さばきは厳しく強烈ですが、本質は優しいものです。効果は劇的ですがね。安心して、彼女の暗示に身を委ねなさい。では、復元が終わったら、職員室に来てください。お願いしますよ」

 そう言い残して、奥野先生は図書棟を出ていった。

 よくわからないまま後に残された僕は、困ったように茅原先生を見た。

 はあ、と茅原先生はため息をついた。

 “ため息をつくと――”。

 また、あの言葉が浮かんだ。また? 前に思い浮かべたのはいつだったろう。それに、これは誰が言っていた言葉だったのか。どうしても思い出せない。

「もう少しこっちに近づいて」

 茅原先生が言った。言われた通り、僕は近くに寄った。

「少しかがんで」

 言われた通り、少しかがむ。僕の主体性というのは一体どこへ行ってしまったのだろう。

 すると、茅原先生は座ったまま腕をのばし、カウンター越しに僕の額に手をかざした。冷たい指先が、肌に触れた。

「四階の閉架書庫に行きなさい」

 言われた通り、僕は階段へと向かった。


 階段を上って四階に着くと、ばつの悪い思いがわき上がってきた。なぜかはわからない。

 閉架書庫は、たしか何度か来たことがある。読書熱が高じた時に、誰も読まないような古くさい本を求めてここに来たのだ。

 そこは相変わらず静かな場所だった。音だけではなく、目に入る景色そのものも、ひっそりとしているように見えた。

 役割を終えた本、時代から取り残された本、一度たりとも話題にのぼらなかった本、誰からも受け入れられなかった本――まるで墓場のようだった。

 その静けさは嫌いではなかったが、さて、言われた通りここに来て、僕はなにをすればいいのだろう。

 本棚のあいだの狭い通路を歩いて、所在なく、書物の背をとりあえずのように眺めた。

 そこで、ふと違和感を感じた。窓も開いていないのに、流れていく風が頬に触れた。

 奥に進み、本棚の角を曲がると、部屋の隅の床に、四角い穴が開いていた。どうも風はその穴へと吹き込んでいるようだった。

 ゆっくりとその穴へと近づく。

 こんな穴、ここにあっただろうか。以前見かけたのなら忘れるはずがない。

 穴を覗くと、そこには梯子があり、ずっと下へと続いていた。穴の中は暗く、終着点は見えない。なんでこんなところに、こんな梯子があるのか全然わからなかった。

 風はゆっくりと、吸い込まれるようにそこへ吹き込んでいく。だれかが、なにかが、呼んでいる気がする。

 どうも僕は、この梯子を下りなければならないらしい。


 両手足を交互に動かし、僕は梯子を下っていく。

 手を離せばまっさかさまだ。といっても、図書棟は四階建て。その程度の高さを落ちたところで、吸血鬼の身体なら死にはしないだろう。でも僕は、手を離すとなにもかも終わってしまうような気がして、梯子を掴む掌に、汗がにじむのを感じた。

 掌だけではない。梯子を下りていくにつれ、全身から冷や汗がわいてくる。

 この奇妙な穴の中は、なにか不吉なものを感じさせる。

 正直なところ、下りるのが怖かった。何度も手足を止め、上に戻ろうかと逡巡する。でもそのたびに、なにかに押し止められた。

 まあ、いいさ。ここまで来たんだ。いまさら戻るわけにもいくまい。それに一体、僕は何が怖いというのだろう。

 梯子を一段一段、律儀に下りながら、不吉な思いから気をそらすように、考えにふける。とはいえ、明るい考えが浮かぶわけもない。

 この世で一番怖いものといえば、なんだろう。死ぬことか。でも僕は、自分が死ぬという想像をすると、なぜか満ち足りた気持ちになる。吸血鬼になったときに、一度死んだようなものだと思っているからか、死が未知の何かだという気もしない。それはひょっとすると、とても懐かしいものなのではないか。

 首をねじって、下を覗いてみる。先はやはり闇に包まれていて、どこまで続いているのかわからない。

 もう四階分は下りたような気がする。この梯子はもしかしたら、井戸のように地下まで続いているのだろうか。きっとそうに違いない。

 いや、こんなとき、人は時間を実際よりも長く感じるものなのかもしれない。

 人は……か。僕は人ではない。この学校にいる生徒たちは、人ではない。身体はおかしなことになってしまったし、使い魔なんていう得体の知れない従者までついている。まさに不気味な化け物だ。

 それなのに、なぜ、心は、人の名残を半端に留めてしまっているのか。どうせ化け物になるのなら、この心も、原形を留めない、ふためと見られないものに変えてほしかった。

 ひゅうひゅうと、梯子の続く細長い空間を、風が吹いている。長く入院している病者の喘鳴のようだった。巨人の食道を下りているような錯覚に襲われる。

 もしも生まれ変われるなら、僕は何になりたいだろう。吸血鬼ではないことは確かだ。人間も願い下げだ。そう、やはり鴉がいいな。艶やかな羽根を持った、漆黒の鳥。鴉になって、夜明け時にゴミ袋を漁ったり、電線にとまって人間を見下ろしたりするのだ。いや、人間なんて見なくていい。アサガオを眺めよう。僕の隣にはきっとアサガオがいてくれるはずだ。彼女と一緒に、空をかけめぐるのだ。それはなんという幸福な日々だろう。

 でも、そうだ、そうだった。吸血鬼に魂はないのだった。だから僕は死んでも、鴉にはなれないのだった。それはとても悲しいことだ。魂など存在するのか、生まれ変わりなどあるのか、輪廻転生を信じるのか、そんな数々の疑問を差し置いて、死んでも鴉になれないという考えは、僕を気落ちさせるのだった。

 まだこの梯子は続くのか。空間がどこかでループしていて、僕は下りつつ上っているのではないか。いいかげん、気分が腐ってきた。こんな穴をえっちらおっちら下りながら、明るいことを考えようとしたって無理な話だ。

 いっそのこと、もう手を離して、重力に身を任せてみようか。それはとても簡単で、とてもいいアイデアのように思えた。鳥のようにとはいえなくても、ぶざまではあっても、落下というのは飛行の一変種なのではあるまいか。首を吊られた人間には華麗な音楽が聞こえると、なにかで読んだことがある。飛び降りた人間にも、その音楽は聞こえるだろうか。飛び降りた吸血鬼にも、聞こえるか、どうか。だからこれは自殺行為でもなんでもなく、その音楽を確かめるためのひとつの実験なのだ。

 とはいえ、それまでの惰性で、相変わらず梯子を掴み、下り続けてしまう。よし、あと十段下りたら、手を離してしまおう。もう楽になってしまおう。

 僕はそう決めて、自分の下りた段を数え始めた。

 一……二……三……。

 そこで、僕の足は床に触れたのだった。


 僕は一度、目を閉じて、ゆっくりと息をついた。それから、自分のたどり着いた場所を見まわした。

 そこは狭い部屋だった。四方を白い壁に囲まれた、素っ気ない、牢獄のような部屋。床はチェス盤のような市松模様になっていて、窓はなく、椅子さえもない。

 ただ、部屋の中央に、木製の書見台だけがあった。立ったまま読めるようになっている、丈の高い書見台だ。

 そこに一枚の紙片が載っている。

 僕は、ちらりと自分の下りてきた梯子を見上げた。下から見ても、やはり先は暗く、どこまでも続いているように見える。

 僕は名残惜しいような気持ちさえ抱きながら梯子を離れ、書見台の方へと近づいた。

 これだけ長い梯子を経て、たどり着いた報酬が、紙切れ一枚だけとはやるせない話だ。

 僕は書見台の側面に手をついて、また目を閉じた。ため息をつきたくなる。でもそれは、誰だったかは思い出せないけれど、どこかの誰かが嫌っていた行いだ。だから、僕もできるだけ、ため息をつきたくはないと、そう思い決めたはずだった。

 とにかくも僕は、こんなにも長く奇妙な梯子を下りることができたのだ。無意味で無価値な行為であっても、それはやはり何事かではあるんじゃないだろうか。それだけで、満足しようじゃないか。

 それから僕は目を開け、無造作にその紙を眺めた。

 そこには、こう書かれていた――。


 正へ

 俺は三島さんが好きだった。だから許してもらえると嬉しい。森木さんを助けてやれ。彼女はおまえを必要としている。それから、河下と大地によろしくな。どうかこれからもアサガオを大切に。

 じゃあ、元気でな。


 短い、簡素な、ぶっきらぼうな文章。無意味で無価値な、どうでもいいような走り書きのメモ。

 でも僕は、その文字の連なりに目を通しているほんの短いあいだに、頭が割れるような思いを味わった。ストロボが瞬くように頭の奥に閃光がほとばしった。

 実際に頭が割れたようなものだった。脳髄がぶつ切りにされて、ぼとぼとと垂れ落ちていき、代わりにヘドロを注ぎ込まれているような心地がした。

 そのヘドロは、他ならぬ自分自身なのだった。

 これは、ひどい。これはあんまりな仕打ちだ。最悪なのは、これが初めてではないということだ。こんな経験を何度もしたら、気が狂ってもおかしくない。もう狂っているのかもしれない。

 やっぱり梯子なんて下りなければよかったと心底思った。早いとこ手を離して、死ねるものなら死ねばよかったと思った。四階から落ちたところで死ななくても、あの梯子からなら落ちて死ぬことができるような気がした。

 部屋の横手には扉があった。さっきまでは不思議と視界に入らなかったので、とつぜん現れたようにさえ感じた。

 その扉から僕は外に出た。


 扉を出ると、そこは図書棟一階のカウンターの奥だった。

「やあ、お帰り」

 茅原先生が本から顔を上げて、こちらを振り返った。

「後学のために、興味本位で訊いておくけど、なにが記憶の鍵になっていた?」

「富永治の遺書です」

「へえ……。それが君の友達の名前か。それは実際に書かれた手紙ではないよ。その子と一緒にいた君が、その子の思い出をもとにして、心で見出だしたものだ。厳密にいえば、他人の想いは、特に死者のそれは、誰にも推し測ることはできない。まあ、そんな区別にあまり意味はないけどね」

「ありがとうございました。おかげで、ほとんどのことを思い出せました」

 茅原先生は顔をしかめた。

「そんな泣きそうな顔で、お礼を言われてもね。君も厄介な重荷を背負っているものだ」

「もう行きます」

 僕は図書棟を出て、職員室へと向かった。


 奥野先生は僕を待っていた。人影のない職員室で、堰を切ったように、先生は話し始めた。

「さて、光岡くん。記憶は戻りましたね? 私は他人の糸を断ち切るのは得意でも、復元はいまひとつ苦手でしてね。どうしても茅原先生の手を借りることになる。まあ、そんなことはどうでもいい。もうわかっているでしょうが、猟が一段落すると、われわれは生徒一同の意識の刷新を図ることになっています。わかりやすく言えば、記憶の消去ですね」

「なぜ、そんなことを?」

「人心の荒廃を防ぐためですよ。凄惨な争いと犠牲者の記憶は、心をかきむしりますからね。実際、暴動を起こす生徒や、自殺者が多発しました。君も見た覚えはあるでしょう?」

「……ええ」

「それらを防ぐため、われわれは、殺し合いの記憶を隠蔽する。ハンターの存在を知識としては教えても、遭遇した経験は、なかったことにする。効果は絶大です。脅威は常に遠方に追いやられ、我々の平和な日常は、そうやって維持されているわけですよ」

「でも僕たちは、ハンターと戦争をしているわけでしょう? そのつど経験を消してしまうのは、どう考えても賢明ではありません」

「違いますね。われわれは戦争などしていない。もちろん、向こうはそのつもりですよ。しかし彼らの目的は荒唐無稽です。吸血鬼の殲滅せんめつ? そんなことは不可能です。人間が存在する限り、吸血鬼は放っておいても現れます。吸血鬼が滅ぶ時は、人間の滅ぶ時です。彼らは叶わない幻想を追っているだけですよ。われわれは違います。その点ではわれわれの方が現実的です。われわれは、ハンターを根絶やしにしようなどとは考えていない。国民政府を対手あいてとせず、ってね。まあ、これは冗談です。われわれの目的は日常を営むこと、ただそれだけです。どうです、慎ましい目的でしょう? だからわれわれは、ただ隠れひそむだけです。幸いにも暗示を駆使した情報戦においては、われわれ吸血鬼の方が上手ですから」

「でも実際に、吸血鬼は殺されています」

「だから? 犠牲者の数は、想定内におさまっています。この程度なら、幾人死んでも、吸血鬼が滅ぶことなどありません。むしろわれわれの人口は、漸進的ぜんしんてきに増加さえしています。ハンターとの戦闘は、事故のようなものだとわれわれは考えています。交通事故で年間に何千人が死んでも、車社会そのものを廃止しようなんて声は届かないでしょう? ひとたび組み上がってしまったシステムは多少の欠陥はあっても、一から作り直すよりは、とりあえず走らせてしまった方がよほどいい。犠牲者でさえ、自分がそれによって死ぬまでは、そう考えていたことでしょう。そして車社会と同じで、この学校のシステムも、もう固まってしまったわけです」

「…………」

「納得がいきませんか? 別にここから逃げ出しても構いませんよ。ただし、外には配給なんて便利なものはありませんし、集団の庇護を失った吸血鬼は、そのほとんどがすぐに殺されてしまうというのが、厳然たる事実ですがね。そして集団にはシステムが必要なのです。もちろん、ここにいたって、殺される可能性は常にあります。それを寿命と呼ぶこともできます。不死というのも、それは便宜上そう呼ばれているだけであって、それが永遠のものかどうか、誰も確かめたわけではない。世界はまだ終わっていませんからね。老いの兆候を見せず、人間よりは長命。確実に言いきれるのはその程度のことです。しかし、肉体が老化しないとはいえ、精神はどうでしょうかね。三百年生きていると自称する吸血鬼と会ったことがありますが、ひどく怯えきって、疲れ果てて、みじめな姿でしたよ。肉体に皺は刻まれていなくとも、存在そのものがひび割れていました。長生きも考えものだと、あれを見れば君にもわかりますよ。まあ、しかし、安心してください。遅かれ早かれ、君はいずれ殺されるでしょう。私もいずれは殺されるでしょう。しかし、われわれは滅びない。われわれはみな同胞であり、世界の果てまで、歴史の果てまで、同胞は存在するのです」

「なぜ、僕の記憶を復元させたのですか」

「ああ、そうそう、それでしたね。万が一のため、何人かは復元できるように、糸を残しておくのですよ。不測の事態のための、いわば保険ですね。そしてどうやら、君の知恵を借りたい事態が起きたようです。記憶を取り戻してもらった上でね。三名のハンターが死亡し、二名の同胞が犠牲に。その時点で今回の猟は一段落したと判断し、われわれは生徒一同の意識を刷新するトリガーを引きました。これによって、晴れて君たちはこびりついた泥を洗い落とすことができたわけです。しかし、どうも敵はあの三名以外にも潜んでいたようですね。信号の消失を周りに感知させずに同胞を殺し、あまつさえその同胞の存在自体も暗示で隠蔽した。君が名前を口にしてくれたおかげで、苦労しいしい、痕跡をたどって私も記憶を復元しました。富永治くんでしたね、思い出しましたよ。巧妙な暗示でした。われわれの意識の刷新に乗じた部分もありますが、なかなかの手並みです。しかもどうやらその敵は、この学校内にまで侵入しているらしい。もしかしたら生徒に化けているのかもしれません。暗示の技術はハンターも持ち合わせていますが、しかし我々とは方式が違うようなので、どうも筋が読みにくい。我々が糸として把握するものを、彼らはなにか別のものとして把握しているようです。そこには世界認識のずれがある。さっきも言ったとおり、暗示の能力においては概ねわれわれの方が勝っていますが、彼らの思わぬ奇手に惑わされることもままあります。もともと不可解な連中ですからね。あの無意味な戦術にしたってそうです。あの爆殺トリオは、彼らの意味不明で錯乱した論理によれば、父と子と聖霊の三位一体を象徴しているそうですよ。笑えるでしょう?」

 そういいながら奥野先生は、くすりともしなかった。僕も笑わなかった。

「ところで君は、富永という名前をどこから拾ってきたのですか?」

「森木明日香さんから聞きました」

「ああ、あのですか……。暗示の網をすり抜けてしまったのですかね。あのも筋が読みにくい。彼女の親は新興宗教の教祖だそうですよ。詐欺まがいの、とるに足りない三文宗教のようですが、しかし宗教者というのは社会常識とは別の枠組からの暗示をすすんで受け入れているぶん、糸が読みづらくてね。こちらの暗示が思ったほど効果を上げないことがある。私にも推し測ることができない。そう考えると、あの女子生徒が臭いか……。ことによると、侵入者の正体は彼女かもしれません」

「いえ、森木さんは関係ありません」

「ほう。断言しますか。まるで侵入者が誰か、もう知っているような口振りだ」

「ええ、記憶を取り戻した時点でわかりました。三組に堂々と居座っています。あまりにも明らかです」

「ふむ。復元の甲斐がありましたね。それは私の知っている生徒かな?」

「三島秋さんがハンターです」

 奥野先生はとんとんと指先で膝をたたいた。

「三島秋? 誰ですか、それは」

 やはり奥野先生には見えていなかったのか。最前列の席に座っていたのに、認識すらされていなかったのだ。いや、それは僕らクラスメイトも同じようなものだ。目の当たりにしていても、彼女が羊にまぎれた狼だと、気づきもしなかった。見えているけど見えていなかった。三島秋さんは、“見えない女”だったのだ。

「ふむ。君の表情を見るに、私はどうやらそのハンターにたばかられていたようですね。殺意を直接向けられれば気づけたと思いますが、敵は慎重にそれを避けつつ潜んでいたらしい」

「彼女は同胞に血を吸わせると、生徒間では噂の的になっていました。そして、偶然ですが、僕は富永が三島さんの血を吸っているところを目撃しました」

「なるほど。その噂も、ハンター側の仕掛けた暗示でしょう。富永くんの信号の消失を誰も感知できなかったのは、その辺りに秘密がありそうですね。おそらく、周囲の認識に干渉する、特殊な毒でも注ぎ込まれたのではないですか。それでなくても、クスリ漬けのハンターの血なんて、怖ろしくて飲めたものではないですがね。しかし何はともあれ、これで侵入者の正体は判明したわけですね。あとは君の役割です。毅然とした対応をお願いしますよ」

「……先生は、ハンターとは戦わないのですか」

「申し訳ないのですが、システムの内ではそれぞれに役割があります。直接の戦いについては、基本的に生徒が手を下す領分になっていましてね。われわれ教師陣は見守るだけです。生徒の自主性を重んじる、というわけです。これは以前にも言いましたね。光岡くん、君はこれといって飛び抜けた技能のない凡庸な吸血鬼かもしれないが、運だけは強いらしい。それは私が保証しますよ。君が転校してきた当時の三組の生徒は、みんな死にました。生き残ったのは君だけです。その悪運の強さを遺憾なく発揮して、せいぜい案内者として、同胞たちの尖兵として、役割を果たしてください。期待していますよ」

 そういって、奥野先生は眼鏡の位置をなおしてから立ち上がり、水差しを持って流し台へと歩き、蛇口から血を注ぎ始めた。透明な水差しが、赤い血で満たされていく。

 話はこれで終わりのようだった。

 僕は胸の内で、形容し難いような、名づけることのできないような感情が荒れ狂うのを感じていたが、言葉に表すことはできなかった。僕が何を言ったところで、この先生を動かすことはできないだろうし、まして助けてくれることなどあり得ないだろう。この先生は、生徒を駒として扱うことをためらわないが、何故そうするかと言えば、“そういう役割だから”という、ただそれだけのことなのだ。どういう心理によるものかまではうかがい知れないが、この先生は行動原理をシステムに奉じてしまっている。システムが彼自身に死ねと命じたとしても、文句もいわず従うのかもしれない。

 僕は結局なにも言わずに、職員室の扉へと歩き出した。しかし、そこを去る前に、ひとつだけ訊きたいことが思い浮かんだので、立ち止まった。といっても、答えはわかりきっている。単なる確認でしかない。

「先生。四組なんてクラス、この学校にはないんでしょう?」

「ええ、もちろんありませんよ。そんなクラスはどこにも存在しない。教室もないし、担任もいない。生徒もいない。生きた生徒はね。四組というのは、いわば共同墓地の別称です。だからある意味では、そこには数えきれないほどの生徒が属しているともいえる。どのクラスよりも大きく、濃密に、この学校に君臨しているともいえるわけです。底深い過去の泥濘ですね」

 大地も城戸原も、富永も、いまとなっては四組の生徒、か。

 そして、美術室の奥にひっそりと、死者たちの肖像を描き残した彼女も、四組の生徒というわけか。転校してきた僕を案内してくれた、優しく懐かしく慕わしい彼女。

 どうしたわけか、彼女の名前はいまでも思い出せなかった。その記憶につながる糸は、もう完全に途絶えてしまったのだろうか。でも、奥野先生に彼女の名前を尋ねたくはなかった。先生の口からその名前を聞きたくはなかった。

 僕は扉を開けて、職員室を出た。ハンターが誰なのかはわかっても、これからどうすればいいのだろうか。僕の役割とはなんなのだろうか。

 しかし僕がなにかを考えようとしても状況は待ってはくれないし、敵は疾風のように迅速だった。

 扉をくぐって廊下に出た瞬間、横あいから突然、僕は首になにかを刺しこまれた。

「がっ……!?」

 反射的に相手を蹴り飛ばして飛びのく。首に手をやると、突き立てられた凶器が刺さったままだったので、すぐさま引き抜いた。

 注射器だった。

 揉み合った時の勢いで針は曲がっていたが、既になんらかの液体を注入された後のようだった。

 蹴り飛ばされた襲撃者が起き上がった。三島秋さんだった。

 いつもと同じ制服姿だが、今日は片手に日本刀を提げている。吸血鬼の心臓に突き立てられる杭に倣った、ハンターたちの使用武器。

「奥野先生!」

 僕は形振りかまわず、先生に助けを求め、叫んだ。だが、職員室の中にいる奥野先生は、気づいた様子もなく、水差しから注いだ血を飲んでいる。聞こえていないようだ。いまの争いも、僕の叫びも。

 職員室と僕のあいだに、刀を構えて三島さんが立ち塞がった。

 不快感が僕を包む。世界が歪んでいる。糸が、おかしな具合にもつれている。ねじ曲げられている。

 三島さんの肩越しに見える職員室の空間と、ぼくのいまいる廊下とは、地割れを挟んだように隔てられていた。

 殺意のこもった突きが繰り出され、ぼくは転ぶようにそれを避け、脱兎のごとく逃げ出した。全速力で廊下を走る。

 身体がだるい。夜ではないからか。さっきの注射が原因か。両方か。いずれにせよ、本調子とはとてもいえない。血のうずく夜とは違い、これではハンターに狩られるがままの、ワンサイドゲームだ。一方的な猟だ。

 気配を背後に感じ、僕は横あいに跳んだ。窓を突き破り、外に落ちる。ガラス片をばらまきながら転がり、立ち上がって、逃げる。

 ぶらぶらと三人組で歩いている生徒たちが向こうに見える。僕はそちらにかけより、性懲りもなく助けを求めようとした。

 それがあだとなった。

 笑いさざめく生徒たちは、息も絶え絶えに走ってきた僕の方を見向きもしない。間近で叫んでも、何らの反応も返ってこない。相変わらず談笑しながら歩いている。幽霊にでもなったような気分だった。

 そのうちの一人の肩を掴んで揺さぶろうと、僕は左手を伸ばした。

 左手がなくなった。

 舌打ちして、僕はまたその場を転がるように飛びのいた。まずい失策をやらかしたものだ。どさっ、と左手が地面に落ちる音がした。

 刀で僕の肘から先を斬り落とした三島さんが、なおも氷のような無表情で迫ってくる。殺意の具現のような女性だ。片腕で勝てる相手ではない。

 とどめを刺そうとする斬撃をなんとかかわし、僕はまろびながら、ぶざまに逃げ出した。

 走る。不作法に左腕から血をしたたらせながら、かける。本能に衝き動かされて逃げる。

 校庭を歩きまわる生徒たちが目に入る。気づけばもう夕方だ。逢魔が時と呼ばれる黄昏の時間。鴉がねぐらに帰る時間。山上の吸血鬼たちの学び舎に訪れる、気だるく緩やかな放課後のひととき。その中を、左手をなくした吸血鬼が、化け物のようなハンターに追いかけられて逃げ惑っている。これではどちらが魔なんだかわかったものではない。

 どうやら僕は、ハンターなりの暗示だか技術だか薬物だかによって、周囲から切り離されてしまったようだ。さっきから緊急信号を発しようと試みてはいるが、それも上手くいかない。僕の叫びは誰にも聞こえず、僕の信号は誰にも届かず、僕が殺されようとしていても、誰も気がつかないようだった。

 富永もこんな風に、寂しく孤独に殺されたのだろうか。

 必死で逃げながらも、なんたることだろう、僕はともすれば笑いそうになっていた。自分がおかしくてたまらない。自分が滑稽でたまらない。

 なぜ僕は、こんなにもぶざまに生にしがみついているのだろう。死ねばよかったと思ったのは、ついさきほどのことではないか。

 死んでいった懐かしいクラスメイトたちを思い出す。ハンターに破れかぶれな攻撃を仕掛けて返り討ちにあった須藤一二三すどうひふみ。もう疲れた、と言い残して、血を吸うことを拒んで渇き死んだ友田諒一ともだりょういち。狂気に陥って同胞たちに襲いかかり、私刑に処された黒峰透くろみねとおる。色んなやつがこの学校にはいて、色んな死に様をさらして姿を消した。殺された城戸原勇、殺された大地浩介、殺された富永治。それに、絵を描くのがとても好きだった、名前を思い出せない彼女。不死を肯定的に受け止め、この世の終わりまで絵を描き続けるのだと、眼を輝かせて夢見ていた彼女。だれよりも幸せになってほしかった彼女。みんな、死んでしまった。

 未来に希望なんてなにもないし、会いたいと願う人たちのほとんどは、すでに泉下に眠っている。それでも死から逃げる理由が、僕にはあるといえるのだろうか。死を拒む必然性があるだろうか。

 いずれにせよ、僕の死は間近に迫っていた。

 息も絶え絶えに動かし続けていた脚が、背後から斬りつけられ、僕は走る勢いのままにつんのめって、すっ転んだ。

 起き上がろうとしたところで、三島さんに首を思い切り踏みつけられ、仰向けのまま動きを止められ、地面に釘付けにされた。

 三島さんが、刀を僕の眼前に突きつけて、相変わらずの凍りついた美貌で、見下ろしている。その後ろには、赤く染まる夕空が広がり、鳥たちが舞っていた。いつか見た映画でも舞っていた、不吉で暗い愛すべき凶鳥。死ぬ寸前に眺める景色としては、悪くないものだった。

けがれた人外じんがいは、死ね」

 冷たい無表情のままに、三島秋さんは神託を告げるように言い放った。そうか。三島さんは、こんな声をしていたのか。考えてみれば、彼女の声を聞いたのはこれが初めてだった。それはか細くも気高い、凛とした透明な声だった。

 三島さんは、心臓を貫いてとどめを刺そうと、刀を握りなおした。僕はもう成す術もなく、ぼんやりと眺めている。僕を殺そうとする三島さんを眺めている。その後ろで空を舞っている黒い鳥が、こちらに飛んでくるのを眺めている。

 それは鴉だった。アサガオだった。

 急降下してきたアサガオは、速度を伴った嘴を三島さんの後ろ首に突き立てた。思わぬ急襲に、彼女はなにが起こったかもわからず、体勢を崩し、たたらを踏んだ。

 そこに、黒い暴風のような塊が、何十羽もの鴉の群れが襲いかかった。アサガオと、アサガオの引き連れてきた同胞たち。殺意の群鳥むらどり。僕の信号を、使い魔だけは受信してくれたということか。

 三島さんは、狂ったように日本刀を振りまわしたが、数の暴力で圧して、鴉たちは三島さんをついばみ続ける。黒い篝火かがりびが猛り狂っているかのようだった。

 アサガオが、三島さんの片眼を抉り出すのが見えた。彼女は悲鳴をあげて、思わず日本刀を取り落とし、顔を手で覆った。

 僕は、ハンターの手放したその兇器を、残された片腕で拾って立ち上がった。

 この世界は残酷だった。たとえ僕が死にたがっており、彼女に惹かれてさえいても、僕たちは敵同士であり、僕たちは殺し合いをしているのであり、生き残るチャンスが目の前に瞬いているならば、本能がすべてを押しのけて、その希望を掴もうとするのだ。

 なにを想う暇もなく、憑かれたように僕は刀を一閃して、三島秋さんの首を刎ねた。彼女の頭は勢いよく飛んでいき、陸に上がった魚のように何度か地面を跳ねて、その場に転がった。

 頭を失った胴体に鳥たちはなおも群がり続け、宵闇に包まれた学び舎に、場違いな鳥葬の光景を繰り広げていた。

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