日常

 そうしてまた日常が戻ってくる。ハンターとの殺し合いがひとまず止んだ、谷間の休息期間。間延びした、いつ果てるともしれない気だるい日常。そんな日常を享受できるのは、生き延びた者だけだ。死者には与えられない。僕はまた生き延びた。

「はい、皆さん――おはようございます。体調は良好でしょうか? 今日も一日、日光に負けずにがんばりましょう」

 いつも通りの、奥野先生の朝の口上。教室の生徒たちのざわめき。蛇口から注いで飲み下す赤い血。

 いなくなってしまった生徒がいても、なにも変わらないように見える光景。

 それでも、変わったものもある。

 たとえば、とある机に置かれた生首。それは、いまでは最後列に席替えされた、三島秋さんの姿だった。

 三島さんは、信じられないことに、まだ生きていた。首を斬られて頭だけになっても、死んではいなかった。

「これは驚きですね……。頭部だけになった状態で、“発症”してしまっている。このはいまや、われわれの同胞ですよ」

 殺し合いの後にかけつけた奥野先生は、物珍しそうにそう言った。

 吸血鬼は、頭か心臓を潰されない限り生きようとする、強靭な生命力がある。たとえ腕がちぎれても再生してしまうような、気味の悪いほどの生命力。僕の斬り落とされた左手も、いまではすっかり元通りだった。朝顔の観察日記をつけるように、徐々に再生していく左手の観察日記をつけたら面白そうではあったけれど、あいにく僕には絵心がないのでやめておいた。

 頭部のみの状態で発症したという三島さんは、抉られた片眼は再生したが、首から下は失われたままだ。まるでそれがまったき姿であるというかのように。

 ともあれ、いまでは彼女も吸血鬼、この学校の生徒の一員だった。

 殺さないでほしい、という僕の主張は受け入れられた。三島秋さんは改めて三組に転入することとなった。だれも、三島さんのことを憶えてはいなかった。首から上しかない奇妙な同級生として、少しばかり騒がしく受け止められただけだ。玉置さんはさっそく、ミーちゃんなんてあだ名をつけていた。奇しくも僕と同じあだ名だ。三島さんにとってはさぞや不本意なことだろう。

 配給の血を三島さんに与える。コップをあてがって、飲みほしてもらう。飲んだ液体がどこへ行くのか、胃袋もないのにかまわないのか、どうにも不思議ではあったが、とにかくこれで栄養の補給にはなるらしい。

 三島さんはなにも喋らない。なにを思っているのかもわからない。ただ、恐ろしいほどに孤立した冷たい眼で、こちらを見つめるだけだ。そこにはいまだに激しい殺意がこもっている。彼女をこんな姿にしたのは僕だから、それも当然のことではあった。いや、そんなこととは関わりなく、吸血鬼ならみな等しく彼女の憎悪の対象なのだろう。もしかしたら、いまや吸血鬼となりはてた自身でさえも。

 でも、吸血鬼であるにもかかわらず、三島さんから殺意を向けられなかった生徒がいる。

 森木明日香さんだ。森木さんは、三島さんと寮で同室だと言っていた。よく話すとも言っていた。一番近くにいた吸血鬼に、三島さんは害をなそうとはしなかった。友好的ですらあった。

 敵のうじゃうじゃいる拠点に単身もぐり込んでいたハンターの気持ちなんて、僕には想像もつかない。ただ、この学校に違和感を持ち、数少ない人間である倉持さんの扱われ方を見て、抗議さえしようとした生真面目な女子生徒に、三島さんはなんらかの親しみを覚えたのではないだろうか。

 しかし、森木さんも他の生徒同様、三島さんのことを憶えていなかった。富永や大地のことも、記憶を失った僕を糾弾したことも、憶えていなかった。

「……やっぱり、この学校は異常ですよ。頭だけの生徒だなんて……。――いえ、でも……むしろ、この学校は寛容さにおいて優れているというべきかもしれませんね。いまのような言葉は、彼女に対しても失礼でした」

 かつての友達の変わり果てた姿を目にしても、そんなことを呟くばかりだ。

 その忘却は、三島さんのかけた暗示によるものらしかった。意識の刷新とやらはすり抜けたのに、ハンターによる暗示には手もなくやられてしまったらしい。

 自分に関わる記憶の消去。同胞たちからの孤立を引き起こさせるかもしれない記憶の消去。どんな想いでそんな暗示をかけたのかは、他人である僕にはうかがい知れない。でも、それは、三島さんなりの優しさであるような気がした。

 いまや友達を忘れたのは森木さんであり、それを知っているのは僕だけ。以前とは逆の立場だ。あのとき彼女がそうしてくれたように、僕は森木さんのために、忘れられた三島さんのために、泣くべきなのかもしれない。

 でも僕は森木さんのように優しくはないし、吸血鬼になってからこの方、涙を流せた試しはない。どんなに心が痛んでも、泣くことはできなかった。それこそが、自分が化け物であることの何よりの証にも思えた。

 首から下のない三島さんは、当然のことながら自分で移動することはできない。だから、三組の生徒が回り持ちで運び、血を飲ませていたのだが、残念なことに、いじめが発生した。

 ある日、三島さんの姿が見えないので探しまわると、吸血鬼はほとんど使うことのないトイレで発見された。頭が便器に放り込まれていたのだ。蹴り転がされた跡も残っていた。

 その出来事以来、生徒が三島さんの世話をするのは取り止められ、ホームルームと赤学の授業以外の時間は、倉持さんが、三島さんを鳥籠に入れて持ち歩くことになった。

 暗示をかけられた倉持さんは、自分が提げて歩いているのが女子生徒の生首だとは知るよしもない。傷ついた小鳥だと信じこんで、かいがいしく世話をしている。

 三島さんはなにも語らないので、いじめの犯人が誰かは明らかにされていない。ただ、僕は河下がやったのではないかと思っている。河下は、確かには思い出せなくても、親友の大地を殺された怒りが、ハンターに対する根深い憎悪が、かすかな糸として残っているようだった。自分でもなぜかわからないままに、三島さんに苛立っているように見えた。

 僕はどうなのか。僕はみんなと違い、記憶を失ってはいない。三島さんがハンターだったことも、富永を殺したことも、僕を殺しかけたことも、はっきりと憶えている。

 でも、不思議と憎もうとは思わないし、そのことに関してどう考えていいのかも、いまだによくわからない。自分も三島さんも、立場は違えど、駒のひとつであることには変わりない。憎むとしたら、駒ではなく、気まぐれな指し手を憎むべきなのかもしれない。あるいは、魂の宿った駒を次々に使い捨てていく、このゲームそのものを。

 おっと、また間違えてしまった。あちらさんの言い分によるならば、吸血鬼に魂はないのだった。神は僕たちにそれを与えなかったそうなのだ。でも魂のない駒だって、感情はある。歪んではいても、心はある。だれの記憶に残らなくても、存在の温もりはある。

 そして、僕はもう死者たちを忘れるつもりはない。いや、これはあまりにも頼りない決意かもしれない。奥野先生に記憶を消してもらうのを望んだのは、僕自身なのだから。痛みに耐えきれずに何度も消してもらい、何度も復元され、何度も死にたくなった。遠からずまた痛みに屈してしまう可能性はある。

 でも、忘れられていく人々を悼んで、森木さんは涙を流したのだ。だれからも思い出されない人々のために。

 不老の化け物になってから久しい。いまではすっかり思い出したけど、森木さんは、明日香ちゃんは、たしかにかつての妹の友達だった。妹も、いまでは僕と同じ年齢というわけか。いや、この場合、どう年齢を数えればいいのやら。肉体そのものが留年しているのだから。なんにせよ、妹の友達の涙に報いることは、血祭りにあげてしまったわが近親への、せめてもの贖罪だ。

 もう記憶を消さないでほしい、と奥野先生に頼むと、先生はあっさりと了承した。

「きみはシステムにずいぶんと貢献してくれていますから、それくらいはいいでしょう。しかし、辛いだけだと思いますがね」

 感情をうかがわせない先生は、珍しく、憐れむような口ぶりでそう言った。

 僕には夢も希望も未来もない。僕の生きることに何らかの意味を求めるとしたら、それは死んでいった人々の過去の記憶の内にしかない。

 どれだけ生きたくなくても、死にたくなっても、その記憶をこの世にあらしめるために、生きられる限りは生き続けようと心に決めた。それは、消えてしまう人々の肖像を残そうと心を砕いていた、名前を思い出せない彼女への供養にもなるはずだ。

 ハンターとの戦いに終わりはあるのか、この死にまみれた日常は救われるのか、僕にはわからない。やるべきことなど残されているのか、このシステムを変える術などあるのか、僕にはわからない。僕にはなにひとつわからない。

 それでも僕はまだ生きているのだ。人間にも吸血鬼にもひとしなみに訪れる、秋のように優しく寂しい死が訪れるまでは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

吸血鬼たちの学び舎 koumoto @koumoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説