学舎案内
不思議なものだ。僕もついこのあいだまでは、何の変哲もない人間の高校生をやっていたのだ。それが突然〝発症〟してしまい、普通とされる人間社会からはこぼれ落ちてしまったのだ。
発症した時、人はどのような行動に移るのか?
それは人それぞれだが、僕がやったのは街の往来で妹を殴りつけて血をすすり、取り押さえようとする人々の何人かにも同じ仕打ちを加えるという、なんとも見苦しい行動だった。
つまりは大暴れである。惨憺たるものだ。
なんだか他人事のようだけど、そのときの記憶はまともには残っていない。未だに自分がやったこととして実感できていないのかもしれない。
ただ、人倫から外れた行為をしてしまったんだな、という罪の感覚はあった。
それで錯乱した頭ながらも、矯正施設とか精神病院とかに入れられるのかなあ、なんてぼんやり思っていたら、いつのまにかバスに乗ってガタゴト揺られながら、木々が生い茂っている山道を登っていた。
車内には僕以外にも、同い年くらいの男女が何人か座っていた。
一応は若者と呼ばれる年齢であるはずなのに、みんな一様に疲れたような、使い終わった雑巾のようなうつろな顔つきをしている――僕も同様だろう。
窓の外には緑が広がっていて、陽に透けた葉脈なんかが眼に残った。そんな自然の景色を眺めながらバスで運ばれていくのは、虚脱感も相まって、変に心地よかった。
妙な話ではあるけれど、生まれてくる時もバスに乗ってきたんじゃないか、という想像がぼんやりと浮かんだ。見知らぬ世界に運ばれていく、この緩やかな諦念。食肉にされる前の牛もこんな気分なのだろうか。
そうしてバスは、山の中にあるこの校舎へ到着した。
僕を含む乗客たちは調度の整った部屋に通され、並べられたパイプ椅子に座り、ここの権力者であるらしき、年老いて見える容貌の男性から説明を受けた。
いわく、
――君たちは発症した――君たちは正常な人間から外れてしまった――君たちは血を必要とする――君たちは以後ここで生活しなければならない――君たちは以前とは異なる生活様式、倫理観、技術を身につけなければならない――君たちに人間社会は味方してくれない――君たちの生涯を人間たちは気にしない――君たちの世界と人間たちの世界は決して和解しない――しかし、われわれは同胞である!
うんぬん。その他いろいろ。
説明は一日がかりでなされたけれど、僕は終始、夢心地のままだった。現実感がまるでなかった。
けれど、ここで日々を過ごしているうちに、最初の戸惑いもやがて薄れてゆき、異常に感じられた様々な事柄は日常となり、以前とは違った現実に身を置いて、僕はその中で生きているのだ、いまでも。
「校舎は一通りまわったし、外に出ようか」
そう言って、僕は森木さんを連れて昇降口に向かって歩いた。
「あの、光岡くん?」
「何」
「校舎の案内よりも、他に、色々訊きたいことがあって……」
「いいよ、何?」
うながしたのだが、森木さんは言葉に詰まってしまった。
まだまだ整理がつかないのだろう。しかし、少しは落ちついたようだった。
「この学校って……何なんですか?」
何なんですか、と言われても。何なんだろう、本当に。
「吸血鬼が送り込まれる隠れ家の一つだよ。たぶん」
「……たぶん?」
「全容は僕もよく知らないんだけどさ。とりあえず、発症した高校生を集めてる学校だよ。服装に規定はなくて、みんな前の学校の制服を使ったりしている。学年とかは無し。全部で十二クラスあって、僕たちは三組。ちなみに全寮制」
「……えっと、光岡くんも……発症っていうんですか? なにかその、おかしなことをしてしまって、ここに連れてこられたんですよね」
「――そうだよ。森木さんも、〝おかしなこと〟をしたの?」
訊き返してみると、森木さんは黙ってうつむいてしまった。
意地の悪い質問だっただろうか。まあ、こう言っておけば、転校生もあまりそのことについては詮索しなくなるだろう。
みんな過去はあまり語りたがらない。
ある日に突然それはやってくる。数日間、身体の内側が暴力的に配置換えされていくような奇妙な感触(だれかが生理痛に似ていると言っていたけれど、性別が違うので妥当な喩えなのかはわからない)が続いた後、衝動に駆られて〝おかしなこと〟をやらかしてしまい、人間としての社会生活は終わりを告げる。
僕もそのことについて積極的に語りたいなんて思わない。身内の女の子を血祭りにあげちゃって、てへへ……なんて言ったら、印象最悪である。特に女子には。
もっとも、相手も負けず劣らず後ろ暗いことをやってきたのかもしれないが。
「まあ、みんなそうだよ。唐突で不条理なんだ。誰にも抵抗できない」
こういう口振りを、俗に先輩風を吹かすという。
「……でも、発症って何なんですか? どうして私が――吸血鬼なんかに……」
「校長から説明受けなかったの?」
「……一応、聞いたんですけど……」
なるほど。僕同様にぼんやり聞いていたのだろう。それに、同じ立場の生徒の口から説明してもらいたいという気持ちもありそうだった。
「吸血鬼っていうのはさ、病気みたいなものなんだよ。誰でもなる可能性がある」
「吸血鬼に咬まれて、なるんじゃないんですか?」
「たしかにそうなんだけどね。でも、咬まれてすぐに発症することなんて、稀にしかないそうだよ。死にもしない。病原体が潜伏するだけ。で、その病原体は遺伝するんだって。だけど、強靭ではあっても、基本的には無害なものなんだ。その無害なはずの病原体が脈々と伝わって、何代も後になってから、突然発症する」
うろおぼえだけど大筋はこんなものだったはずだ。
もっと込み入った話もされたが、ちんぷんかんぷんだったのでよく覚えていない。高校生の頭の悪さを甘く見ないでほしいものだ。僕が馬鹿なだけかもしれないが。
「……じゃあ、私の先祖に咬まれた人がいたんですか」
「うん。だけど、人間はもう手遅れなんだよ」
「え?」
「吸血鬼はずいぶん昔からごろごろいたみたいでさ。もちろん色んな人たちから血を吸った。たくさん咬んだ。その結果どうなったかというと、どんな人でも血筋を辿ったら、どこかで咬まれたことのある御先祖に行き着くことになっちゃったんだって。病原体を持ってない人なんてほとんどいない。誰でもなる可能性があるっていうのは、つまりそういうこと」
「……なんか……ネズミ講みたいですね」
森木さんはきな臭い言葉で喩えた。
ネズミ講ってそんなんだったっけ?
まあ、ペストの流行と吸血鬼伝承の発生は時期が重なるなんて話も聞いたことがあるし、ペストといえばもともと鼠の病気だそうだし、鼠を使い魔にしている生徒も大勢いるから、妥当なイメージなのかもしれない。
いや、それなら単に、ネズミ算式とかいえばいいんじゃないだろうか。
「だけど、じゃあ、発症する人としない人はどう違うんですか? なんで潜伏していた病原体が突然、発症するんですか?」
「知らない」
がくっ、と森木さんは肩透かしを食らったようだった。
知らないものは仕方がない。僕は博識な教師ではなく、単なる無知な生徒なのだ。
「まあ、なにかきっかけとかはあるのかもね。とにかく発症すると、身体と精神に甚大な変化が起きる」
「……変化って、どんなですか」
「自分でわからない?」
森木さんはまた黙ってしまった。
しまった。せっかく興がのって熱心に質問してきていたのに、また萎縮させることになってしまった。
思わせぶりに引き延ばすのはやめておこう。もったいぶらずにさっさと説明を済ませるべきだ。
昇降口にたどり着いた。
そこで立ち止まって、僕は一気呵成に質問に答えた。
「血さえ飲んでいれば食事はほとんど必要なくなる。人間離れした
よし、これで大体オーケーだ。説明終了。
なんてわけにもいかず、まだ色々と説明してないことはあるのだが、しかし森木さんは毒でも飲んだような顔で、
「……不老不死?」
と、その一語に引っかかっていた。
たしかにそれは重大なことだ。人間が永年追い求め続けている夢。そんなものがいきなり自分の身に降りかかってきたら、それはうろたえるだろう。
「不老不死なの、私……? 光岡くんも……?」
「一応はね」
「このまま永遠に生きるっていうんですか?」
どう答えるべきだろう。
「そういう可能性はある」
嘘はついていない。
森木さんはうつむいていたが、急に首をぶんぶん振り出して、
「――やっぱり信じられない! 嘘です。何ですかこれ? こんな異常な話、聞いたことありません! 私、まったく知らなかったもの。あなたたち、頭がおかしいんじゃないですか? みんなで私を騙そうとして……。吸血鬼なんて、現実にいるわけないじゃないですか!」
と激昂し始めた。
いままでのレクチャーは何だったんだ。ぶち壊しである。清々しい。
「そうは言っても、これだって紛れもなく現実なんだけどね。知らなかったのは人間たちに掛けられた暗示のせいだよ。まあ、それは授業で追々やるだろうから――」
「私も、あなたたちも、真っ昼間からぴんぴんしています。どこが吸血鬼なんですか」
こっちの話を聞いているのかいないのか、森木さんは僕の言葉を遮って新たな問題を出してきた。吸血鬼は日光が弱点という説を言っているのだろう。
「それは昔の話だよ。人間の都市が夜をずいぶん明るくしちゃったから、吸血鬼も光に慣れたんじゃないかな。耐性がついちゃった。でも、まだ名残はあるから――ほら、少し身体がだるくない? 病み上がりみたいな……」
「嘘です! みんな光岡くんの妄想です! ……たわごとじゃないですか」
吐き捨てるようにそう言う。
さて、困った。森木さんはどうあっても拒否する姿勢を固めたようだ。
まあ、みんな来た当初はおおむね似たようなものだし、いずれは受け入れるようになるから、ほうっておいてもいいんだけど……。
「森木さん、ちょっとついてきて」
僕は昇降口近くのトイレへ歩き出した。
とにかく言葉だけじゃダメだな。厳然たる事実というものを示さなければ。
そこで僕は、僕自身がかつてひどく動揺させられた事実を、森木さんに突きつけてみることにした。
しかし、ここに来るまでに、遭遇する機会はなかったのだろうか。
トイレの近くで僕は立ち止まった。入口は二つ、性別によって分けられている。青の人型マークは男、赤の人型マークは女。ピクトグラムとかいうんだっけ。
「……男子が女子トイレに入るのと、女子が男子トイレに入るのって、どっちの方が問題なのかな?」
「え?」
森木さんは眼を丸くした。
まあ、一般的に考えて前者の方が問題だろう。
色からすると、蛇口のハンドルの色分けからも鑑みて、女子トイレの方が血を連想させて吸血鬼らしいのだけど。
念のため、男子トイレに先に入って、誰もいないか確認してから、森木さんを呼んだ。
「入ってきなよ」
「……嫌です」
「いや、別に誰もいないから。見せたいものがあるんだよ」
言ってからちょっと後悔した。こんな場所で言うと、なんだか、受け取りようによっては変態じみた言葉だ。
しかし森木さんはそういう怪しみ方はしていないらしく、ためらってはいたが、やがて神妙な足取りで入ってきた。
罠でも警戒しているような表情だ。ある意味、罠ではあるかもしれない。
「はい、これ」
僕はトイレに備えてあった石鹸を森木さんに手渡した。
「……何ですか、これ? 手でも洗うんですか?」
「いや、別に。そんなことしても
「……?」
わけがわからないと言いたげだ。
百聞は一見に如かず。僕は黙ったまま、あるものを指さした。
森木さんは僕が指し示しているものへ眼を向けた。
初めはぴんと来なかったようで、ぽかんと口を開けていた。けれど、じっと見ているうちに森木さんの表情は訝しげに歪み、みるみる血の気が引いていって、やがて甲高い悲鳴を上げた。
それこそ、吸血鬼に襲われたようなその悲痛な叫びは、屋内の空気を震わしてよく響いた。
やはりこの現象は不気味なものなのだろう。僕もいまだに心穏やかではない。
僕らの視線の先。そこに掛けられた鏡には、人影ひとつなく、宙に浮かぶ石鹸だけが映っていた。
校舎の外はもう夕暮れだった。グラウンドの方からは運動している連中のかけ声のようなものが聞こえてくる。空には鴉が群れを成して飛んでいた。
「――吸血鬼が鏡に映らないというのも、なぜかはよくわかっていない。よく言われているのは、鏡は古来から魂を映し出すもので、吸血鬼は魂のない存在だから映らないんだとか。失礼な話だよね、こうやって生きているのに」
屋外を案内しながら、僕はなんとはなしに、そんな講釈を述べていた。
森木さんは黙りこくったままついてくる。
陽がだんだんと落ちてきて、空に浮かぶ雲が紅色に染まっていくのが綺麗だった。夕陽が校舎の窓ガラスに反射して、眼を差すようにちらちらときらめく。素っ気ないコンクリート造りの校舎も、この時間帯には、なんとなく懐古的な雰囲気に包まれる。
大昔の同胞たちは、こんな落日の風景さえも、命を賭けてしか眼にすることが出来なかったのだろうか。
「衣服も映らないのはなぜだろう。着ているものも含めて魂の姿ってことなのかな。裸の幽霊っていうのもあまり聞かない話だし……よくわからないな」
聞いているのかいないのか、森木さんはすっかりしょげてしまっている。
よっぽどさっきのが応えたのだろう。人間ではない証拠として、強烈なものがあるものな。
それに、自分で自分の顔が見られないという事実は、女性の方が受けるショックは大きいのかもしれない。化粧に念を入れたい
僕の場合、自分の顔は特にどうというものではないけれど、もともとあまり好きではなかった。なので、二度と自分の顔と出くわさなくて済むというのは、せいせいしたと感じるのだけど、不便ではあった。顔にいたずら書きなどされた日には、教えてもらわない限り気がつけないのだ。
屋外も適当にまわって、僕は最後に女子寮へ森木さんを連れて行った。
「はい、ここが女子寮。部屋が用意されてると思うから、あとは別の誰かに案内してもらって。三組の転校生ですって名乗ればわかると思うから。それじゃ」
そう言って、僕は
「光岡くん!」
「え?」
呼び止められて、僕は振り返った。
「あの……ここにいるのって、楽しい?」
素朴な問いかけだった。
学校や吸血鬼についての説明はそれなりに考えていたけど、そんな質問は想定していなかった。人それぞれとしか言いようがない。
「楽しいよ」
気がつけば、僕はそんな返答をしていた。
口に出してみると、それは真実のように響いた。そうか。僕はそんなふうに思っていたのか。そうか、それは意外だった。僕も知らなかった。
「そう……。それなら、いいんです」
意味ありげにうなずいて、森木さんは足早に女子寮に入っていった。
なんだろう。ミステリアスな去り際だ。秘密めかした予兆のような。
あの
なんて、どう考えても推理小説の読みすぎで、不謹慎な想像をしてしまう。現実でそんな簡単に人がいなくなっていたら、たまったものではない。
そのあたりで転校生のことを考えるのは打ち切りにして、僕はいま読みかけている推理小説の犯人をあれこれ想像しながら、男子寮への道を歩いた。
「どうだった、転校生は?」
「吸血鬼なんてこの世にいるわけないんだってさ」
「ははっ。まったくもってその通りだな」
富永は笑って、コップからずずっ、と血をすすった。夜食といったところか。
男子寮の僕の部屋は二人部屋で、富永とは同室だ。
「ほら、アサガオ、御飯だぞ」
僕は食堂からもらってきたパンや肉や果物を、部屋の隅にいるアサガオに与えた。アサガオは跳ねるようにとっ、とっ、とステップを踏んで近づいて、皿の上をつつき始めた。
「――使い魔に餌なんてやらなくていいと思うけどな。食わなくてもやっていけるし、欲しけりゃ勝手に何とかするだろ」
富永が何度目かの意見を口にする。
「いいんだよ、趣味みたいなものなんだから。動物がモノを食べてるのを見ると、なんとなく落ち着くんだよ」
アサガオは
「趣味ねえ。その名前も、鴉に似つかわしい名前とは思えねーけど」
「そうかな。呼んでいるうちに、どんな名前でもなじむもんだよ。富永の
「いいさ、別に。名前なんてない方が気楽なんじゃないかな、あいつも」
「そんなもんかね……。よし。もう行ってもいいよ、アサガオ」
食事を済ませたアサガオは、音もなく部屋の窓枠に一旦着地してから、黒い羽を広げて外へ飛び立っていった。
鳥目なんて言葉があるくらいだから、梟なんかを例外として鳥は夜目が利かないものだと思っていたけど、アサガオは夜でもお構いなしだ。使い魔だからそうなのか、一般の鴉もそうなのかは知らないけれど。
寝間着に着替えた僕は、自分のベッドに寝そべって、伏せていた本のページをめくり始めた。富永も着替えて、また血を注いできてちびちびと飲んでいる。寝る前のひとときの、だらけきった隙間の時間。こういう静かな時間がいちばん落ち着く。
うーん……。犯人かと怪しんでいた登場人物が、途中で死んでしまった。生命というのは儚いものだ。推理小説は、とりわけ人間が駒のように死んでいく。
「しかし、なんだって正を案内人になんて選ぶんだろうな」
ぽつりと、富永が奥野先生の人選に疑問を呈した。僕はすかさず起き直って、よくぞ言ってくれたとばかりに快哉を叫んだ。
「まったくもってそのとおりだね。眼が節穴なんじゃないか、あの先生は。新しい眼鏡を新調すべきだ。何を見てんだか、生徒に関心があるんだか。よりによってなんで僕なんだよ、無責任だけが取り柄なのに。もっと適任なやつは他にいるじゃないか」
「誇らしげに言うことかよ。……しかし、奥野先生についてはえらく嬉々として喋るな、正は」
「え? ……そうかな。まあ、夜だからね。余計なことも口に出るさ」
夜になると、身体は否応なく活気にあふれてくる。血がさわぐ。それにつられて、精神も高揚しているのかもしれない。夜の吸血鬼なんて、半分は酔っぱらいみたいなものだ。
「ま、正は奥野先生のお気に入りだからな。期待されてるんだろうな、きっと」
訳知り顔に富永は言うが、その言葉は寝耳に水だった。
「……何だよそれ? そんなの初耳だけど」
「いやあ、よく目をかけられてるじゃねーか。先生の秘蔵っ子だろ、正は」
「おまえの眼も節穴だったか……。見当外れだよ、それ」
身に覚えがまるでない。なんでそんな勘違いが生まれたんだろう。
贔屓するような先生でもなさそうだし。奥野先生が、教え子に興味を持つことなんてあるんだろうか。
そもそも、期待もなにも、ここの生徒になにを期待するっていうんだ。
「それにしたって、女子の転校生なら女子に任せないか、フツー?」
「性別はどうだっていいんじゃないか? 案内人ったって、学校をまわるだけだろ。同性だろうが異性だろうが、大差ねーよ」
疑問を口にしたのは富永なのに、もう自分なりに納得しているようだった。どうもこいつは勝手に思考を先走らせる。
「そんなことないよ。トイレの案内だってままならないし――」
「トイレ? なんでトイレなんか出てくるんだ?」
富永が眼を丸くした。
「――いや、ちょっと必要があって」
「へえ……。まともに使うことなんてないのにな」
不思議そうに富永はつぶやいた。
たしかに、僕たちは排泄を必要としない身体だから、トイレとの関わりは薄かった。
一人きりになりたいとか、人気のないところで話したいとか、そんなときに使うぐらいがせいぜいだ。
いじめでもやるのなら、おあつらえ向きの場所かもしれないけれど。
「女子から選ぶってなると……三島さんとかかな」
富永はまたもや不可解なことを言う。
「いや、
三島さんに関心がないのを装って、言葉をつけ加えた。
どうでもいいことではあるが、あの人とかこの人とか口にするたびに、なんだか、かゆいところに手が届かないような、もどかしい感覚を覚える。
厳密に言えば、ここの生徒はみんな人ではないのだから。
〝言文一致体〟が発明されてから百年以上が経つそうだけど、〝人外一致体〟というか、人でなしにも重宝な言葉は創られないものだろうか。所詮、僕らは借り物の言葉を使って、借り物の生活を営んでいるだけだ、という実感が拭えない。
「言ってみただけだよ」
そうつぶやいて、富永は血を飲んだあとの口をゆすいで、歯を磨きだした。
どうも富永は三島さんに興味を抱いているようだ。僕と同じように。
すわ三角関係か、と、勝手に想像上で、三人が登場人物の修羅場を繰り広げてみた。思考を先走らせるのは僕も同じだ。しかし、どうも笑ってしまいそうになる。現実感がまったくないからだ。
そんな人間らしい恋愛沙汰が起きたとしたら、天然記念物のように物珍しく見えるだろう。
まあ、そうなったとしても、それならそれで、富永に譲って身を退くけれど。どうせ僕は、本気ではないのだろうし。
三島さんとろくに会話したこともないのに、身勝手で気の早い話ではあった。
「でも玉置って、そんな役割向いてるのか?」
歯を磨き終えた富永は首をかしげた。
「いや、向いてるかは知らないけど、陽気で楽しそうだなって」
「ま、言えてるな」
想像してみたのか、富永は苦笑した。そしておもむろにあくびをして、
「寝るか」
と言い、明かりを消して向こうのベッドに横になった。電灯の光が途絶え、部屋に闇が広がる。
まだ本の続きを読もうとしていたのだけど……まあ、いいか。
僕は本を脇にどけ、仰向けに寝転がった。
「次の猟っていつなんだろう」
しばらくして、僕は思い出したように富永に話しかけた。
「――さあな。そろそろじゃないか。間も空いてるし」
どうでもよさそうな富永の声が聞こえた。
「このあいだの猟のとき、どんなふうに夜を過ごしたか憶えてる?」
「さあ……。忘れちまったよ」
富永の声は、もう半ばほど眠気に浸っている。
窓の外では風が鳴っていた。木々の葉がこすれる音が聞こえてくる。
暗い部屋の天井をじっと見つめていると、見知らぬ人影や叫び声、見覚えのない夢のような情景、見たことなどあるはずもない血なまぐさい惨状などが、さざ波のように次々と脳裏をよぎっていく。それを掴んで確かめようとしても、波は指のあいだをすり抜けていくだけで、いずれまた何事もなかったように、とりとめもなく消えてしまう。何一つ確固とした像を結ばず、自分が空っぽの容器になったような気分だけが残る。
「僕もあやふやなんだ」
富永の返答はなかった。もう寝ついたのかもしれない。独り言のようなものだから、別に構わなかった。
まぶたの裏をかすめていくさざ波は、もう過ぎ去っていた。
僕も眼を閉じて、今日を終わらせることにした。
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