吸血鬼たちの学び舎

koumoto

転校生

 グラウンドで行われていた体育の授業が終わったので、僕は手洗い場まで歩いてきてコップを手に取り、蛇口から血を注いで、一息に飲み干した。

 喉が潤い、滋養が身体の隅々にまで染みていく。

ただし。三島さんの噂、知ってるか」

 隣で一緒に血を飲んでいた富永治とみながおさむが訊いてきた。

「……たしか、おまえから聞いたけど」

「ああ、そうだっけ」

 自分で質問したくせに、富永はどうでもよさそうだった。なんだか心ここにあらずだ。

 富永は蛇口を閉めて、併設された冷水の蛇口の方に移った。

 ハンドル上部の色で蛇口は区別できるようになっている。青は冷水、赤は血液。

 僕はもう一飲み血をいただきながら、富永が口をゆすぐのを見ていた。

 ぺっ、と血の混じった水を吐いた富永は、こっちを見て急ににやっと笑い、

「人は見かけによらないよな。正、おまえ頼んでみたらどうだ」

 と言って、僕の肩をけしかけるように叩いた。

「考えておくよ」

 僕はそっけなく答えた。

 そう、その噂を聞いた時から、僕は考えてはいるのだ。

 富永にならって僕も口をゆすいでいると、手洗い場に河下景行かわしたかげゆき大地浩介だいちこうすけも喋りながらやって来た。

「あー、喉かわいちまったよ。動きまわったから、ぐったりだ」

「大半は寝転がってただけじゃん、景行は。陽射しが強いからだるさが抜けないだけでしょ。それならみんな同じ条件だよ」

 大げさに疲れた身振りをしてみせる河下に、大地が呆れている。

 手洗い場に着くと河下は急に元気になり、どけどけ、と言いながら僕を押しのけて、蛇口の栓をひねった。

 備えてあるコップを使わず、流れてくる赤い血に直接口をつけて、がぶがぶと飲み出した。

「……マナーがなってないよね、河下は。」

「飲み方にも育ちが出るな。野生児かよ」

 僕と富永が後ろで冷やかすように笑っていると、ふりかえった河下が口元にべったり血をつけたまま、

「こっちの飲み方の方がおいしく感じるんだよ! 正も試してみろ!」

 とわめいた。

「僕はそんな下品なことは、とてもとても……」

 ふざけて、気取った口振りで言いながら肩をすくめてみせると、

「どうだかな、おまえも」

 と富永に苦笑された。

「疲れてるわけないよ、あれくらいで疲れるなら景行は普通の人間だよ。おめでたいことじゃん」

 大地はまだぶつぶつ言っていた。

「DV、河下はいいかげんにしゃべってるだけだから、あんまり真に受けるなよ」

 富永はまた苦笑しながら言った。富永はたまに大地のことをDVと呼ぶ。いまだにそのあだ名を口にするのは富永くらいだろう。

 うーん、と大地はうなった。そしてそのまま突っ立っていて、血を飲もうともしない。

 大地は太っている。それなのにあまり血に飢えた様子は見せないので、痩せている河下の血にがっついている様子と対照的で、珍妙な面白さがあった。

 まあ、通常の食欲からいえば、この学校にいる生徒たちは例外なく少食だし、太っている人間がみんな大食漢と決めつけるのも偏見かもしれなかった。

 げふっ、げほっ、といきなり河下がむせて、血を周囲に飛び散らせた。

「うわっ、どうした?」

「――鼻に――血が――入った――」

 苦しげにいいながら、河下はもう一度げほっ、げふふっ、とむせた。

「騒々しいな。やっぱり野生児だよ、おまえは」

「若いっていいよね、元気があって。うらやましいよ」

 富永と僕がまた二人でからかっていると、河下が不穏な動きを見せたので、僕たちはさっと身をかわした。

 鋭い速さで赤い液体が、僕たちが今まで立っていた空間をよぎっていく。

「くそっ、惜しい!」

 河下は蛇口に指を当てて、流れ出す血をこちらに向かって噴出させたのだ。危うく僕ら二人はかわすことができたのだだけど――。

「勘弁してよ……」

 からかいに参加しなかった、後ろに立っていただけの大地の体操着に、赤いまだら模様が塗りたくられ、まるで返り血を浴びた殺人鬼のようにけがれてしまっていた。


 さいわい水で洗えば、大地の体操着の汚れはとれた。学校の蛇口から流れる血――いわゆる〝配給〟――はあまりこびりつかず、跡に残らない。天然の血液ではないからだろうか。

 ごめんごめん、と河下は大地の体操着を洗いながら謝っていたが、血を浴びたのがからかっていた僕らだったとしても、すぐに謝っていただろう。

 突発的な無茶をしたがるくせに、迷惑をかければ素直に謝るのだった。そんなことなら初めからしなければいいのに、衝動的にやってしまうようである。実に荒っぽいのだが何となく憎めない。

 更衣室で制服に着替えて、僕らは三組の教室に戻った。

 みんな制服はそれぞれ違って、バラバラだ。学ランの生徒もいればブレザーの生徒もいるし、デザインも違っている。大抵は以前に通っていた高校の制服をそのまま使っているから、そんな不揃いなことになる。体操着だってそうだし、なかには私服で全部通している生徒もいる。

 この学校はそういうところには本当に無頓着だ。

 少しして、別の場所で体育の授業を受けていた女子たちも、教室に戻ってきた。

 三島秋みしまあきさんも遅れがちに教室に戻ってきた。

 三島さんは今日も麗しく孤立していた。

 煙たがられているわけではないけれど、人を寄せつけないような雰囲気をどこかまとっている。とげとげしいというほどではないが、ほのかににじみ出る厭世観は、僕にとっては眼福だった。

 そんな三島さんを視界の端に捉えたり外したりして時間を過ごしていると、授業はいつのまにか終わっていた。

 掃除の時間になって、僕はトイレに向かった。床のタイルや便器を磨いたり、意味もなく壁に掛けられた鏡の前でぼんやりしたりしていると、チャイムが鳴ったので教室に戻った。

 帰り際のホームルームが始まった。

「はい、皆さん――本日もごくろうさまでした。体調は良好でしょうか? 日光に参ってはいませんか?」

 三組担任の奥野おくの先生が、いつもの決まりきった口上を述べた。これが雨の日だと、「降水に参ってはいませんか?」に変わる。

「さて、皆さんに喜ばしいお知らせがあります。このクラスにもう一人、〝同胞〟が加わることになりました。どうぞお入りください」

 奥野先生が招くと、その女子生徒はおずおずと教室に入ってきた。

 ……転校生か。この学校では珍しくもない。かくいう僕も、もともとは転校生だ。

 というか、この学校に転校生ではなかった生徒なんているのだろうか。僕の知っている限りでは、どの生徒も途中からやって来たはずだ、時期もバラバラに。

 ホームルームで転校生が紹介されるのも、恒例のことだった。朝のホームルームの時もあれば、今日のように、帰りのホームルームの時もある。

 奥野先生は黒板にチョークで転校生の名前を書いた。

 こつ、こつ、こつ、と単調な音が響く。〝森〟という文字がまず見えたが、その続きは先生の身体に遮られて見えなかった。

 書き終えた奥野先生がくるりと振りかえってどいたので、ようやく全文を視界に収められた。名字に木が四本。なんだか緑化運動にでも携わっていそうな字面である。

森木明日香もりきあすかさんです。皆さん、親切にお願いしますよ。では森木さん、自己紹介を」

「……あ……はい……」

 その女子生徒は戸惑ったように周囲を見まわした。

 自分が何故ここにいるのか、何でこんなことになっているのか、いまひとつ掴めない――そんな表情を浮かべていた。

 これも恒例ではある。大抵みんな、そうなのだ。

「あの……森木明日香と、いいます。えっと……あの、ちょっと、まだよくわかってないというか、呑み込めていないんですけど、よろしくお願いします」

 ぱちぱちぱち、とおざなりに拍手が鳴った。

「はい、ありがとうございます。それでは、放課後に誰かに学校を案内させましょう。ええと、それじゃあ――」

 ずれた眼鏡を指でなおした後、奥野先生は首をめぐらして着席している生徒たちを見まわした。僕はさりげなく顔を伏せたが、その小賢しい動きが逆に先生の眼についたのか、

「――じゃあ、光岡くん。案内人になってあげてください」

 と指名されてしまった。

 げっ、と内心舌打ちしてしまう。責任感のなさに自信があるのに、案内人なんて柄じゃなかった。それに、そういう役割には同性の生徒を選ばないか、普通。

「ではホームルームを終わります」

 そう言って、奥野先生は教室を出て行った。

 生徒たちも、寮に帰ったりスポーツに勤しんだり遊んだりするために、それぞれに散らばりはじめた。

「ご指名だな。がんばれよ。じゃ、また後でな」

 と言って富永は僕の肩を叩き、

「親切にお願いしますよ」

 と河下は先生の声色を真似て冷やかし、

「災難だね」

 と大地は手伝うつもりなどはなさそうに同情し、三人とも教室を出ていった。

 転校生に自己紹介やらなにやら声をかけていた女子たちも、「じゃーね」などと言い残して出ていった。

 いつもは教室に何人か生徒が居残ってしゃべっていたり、本を読んでいたりするのに、今日に限って軒並みいなくなっていく。

 放課後の教室に、転校生と二人きりで取り残されてしまった。廊下から喧噪と去っていく足音が響いているが、それも少しずつ消えていく。

 ……かったるい。投げ出してしまおうかな。

「……あ、あの……」

 黙ったままの僕に、気まずそうな転校生が声をかけてきた。

 ……投げ出してしまうのはさすがに悪いか。このも不安そうだし。仕方ない、自分なりに誠意をつくして、案内するしかないか。

 彼女がもっと不安になったとしても、それはどうしようもないことだ。

「はじめまして。光岡正みつおかただしです。よろしく」

「――あ……。――はい。ええと、森木明日香です。……よろしくお願いします」

 とりあえず挨拶してみたが、相手の緊張はまだまだ解けず、珍しい動物にでも会ったように眼を見開いて、こちらをまじまじと眺めている。

 このもいずれはここに慣れてしまうのだろうけれど、それがいいことなのかどうか、僕にはよくわからなかった。

「じゃあ、とりあえず校舎を適当にまわってみようか」

 そう言って僕は教室から廊下に出た。

 僕が転校してきたときはどんな案内のされ方だったかな。慣れてしまうと、新参者として戸惑っていた頃のことなんて忘れてしまう。

 そんなに懇切丁寧にやらなくてもいいんだろうけど――。

「――あれ?」

 振り返ってみると転校生はついてきていなかった。

 教室に戻ると、彼女はさっきの位置に立ったままだった。呆然としているようだ。

「どうしたの、森木さん?」

 声をかけると、彼女はびくっ、とこちらに顔を向けた。

「あ、あの……ここって、その……本当に……?」

 しどろもどろに言うが、ほとんど意味をなしていない。しかし気持ちはわかるような気がした。僕も転校してきたときは、こんな感じだったのだろうか。

「その……この学校にいる人たちって、みんな……?」

 おそるおそる、その質問を口にする。

 ……そうだよな。そこから改めて説明しなくちゃならないんだよな。

 〝人間〟の側からやってきてまだ間もない時期に、どれだけの不安を自分が味わったか、その感覚がおぼろげに甦ってきた。

 とっくに異常に慣れてしまっている自分と、目前の転校生のように怯えていた自分の像を、頭の中で重ね合わせながら、僕は穏やかに答えた。

「そうだよ。みんな、吸血鬼だ。あなたと同じようにね」

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