授業

 翌日になっても、転校生の森木さんはもちろん死んではいなかった。当たり前だ。

 髪に寝癖の立ったままの玉置朋子たまきともこさんが、屈託なく話しかけている。

「ねーねー、森木さん、下の名前は明日香っていうんだよね」

「はい、そうですけど」

「じゃーさー、これからはアスアスって呼んでいい?」

「……嫌です」

「よろしくね、アスアス!」

 森木さんは、とりあえず、昨日のショックから回復はしたようだった。落ちこんだ様子もなく、幾人かの女子と会話している。

「……あだ名か。浩介にもついてたよな、立派なあだ名」

 いまの会話が聞こえたのか、僕の机によりかかった河下がつぶやいた。

「まったく定着しなかったけど」

 大地は不平そうに言い返した。

「定着してほしかったの?」

 僕が疑問を呈すると、

「そんなわけないよ」

 と大地はこともなげに言った。

 河下の言う、大地につけられた立派なあだ名とは、〝デブのヴァンパイア〟、〝デブヴァン〟、〝DV〟というふうに推移した、どちらかといえば失敬なあだ名だった。ドメスティックバイオレンスとは全く関係がない。

 たしか河下が言い始めて、すぐに飽きて、瞬く間に廃れたあだ名だったが、なぜか富永は、その後もこの呼び名を使うことがある。

「富永はいいの?」

「まあ、別に悪気はなさそうだし」

「オレもまたそう呼ぼうかね。な、DV」

「景行はダメだよ、腹立たしいから」

 断固として大地は拒否した。

 なんだよチクショウ、と河下は不満げに口をとがらせた。

 朝の教室では、そんなたわいない雑談がところどころでなされていた。

 門野奈々かどのななさんが「朋子、寝癖立ってるよ」と指摘し、「げっ、マジ?」と玉置さんが自分の頭に手を伸ばしていると、奥野先生が教室に入ってきた。遅れて富永もやってきた。

 みんなが席に着き、ホームルームが始まった。

「はい、皆さん――おはようございます。体調は良好でしょうか? 今日も一日、日光に負けずにがんばりましょう」

 三組担任の奥野先生が決まりきった口上を述べた。これが雨の日だと「降水に負けずにがんばりましょう」に変わる。

「さて――皆さんに報告があります。今日は猟の日です。六組と合同になります。ですから授業は午前中で切り上げ。皆さん、存分に昼寝でもして、夜に向けて備えてください。ホームルームを終わります。それでは、また。陽が沈む頃に会いましょう」

 噂をすれば影、というけれど、ついさっき、起き抜けに血を飲んでいるときにも猟のことを話していたが、まさか今日になるとは。なんとなく、そろそろかなと感じてはいたけど。

 奥野先生が教室を出て行くと、あちこちでまた私語が交わされはじめた。

「あー、これでやっと、久々に山から下りられるぜ」

 河下の歓声が聞こえた。

「あの……猟ってなんですか?」

 背後の席に座っている森木さんがおずおずと訊いてきた。

「来たときにそれも説明があったはずだけど。……ああ、ごめんごめん、そんな顔しないで。猟っていうのは、定期的にある行事で、大がかりな遊び時間みたいなものでね。遠足とでも言った方がいいのかな。夜になるのを待ってから、バスで下山して街に行くんだよ。それまでの午後は休み時間。帰ってくるのは夜明けどきになるから、昼寝が奨励されている。まあ、寝ないやつもいるけど、その辺は人それぞれ」

 気づけば翌日になっても転校生に講釈を述べている。

 嫌だな。滑稽だな。どの面下げて、先輩ぶってるんだろう。自分の顔は確かめられないけど、偉そうになっていないのを願った。驕り高ぶる自分なんて、万死に値する。

「街にって、何しに行くんですか」

「そりゃあ吸血鬼のお勤めを果たしにだよ」

「え?」

「人間の血を吸いに行くんだよ」

 ふと森木さんを見ると、顔色が悪くなっていた。

「森木さん、血はちゃんと飲んでるの?」

「え? ……だって、それをしに行くんでしょう? 今夜――」

「ああ、そうじゃなくて、蛇口から飲める血だよ。校内のあちこちにあるし、寮にもあるやつ。ここでは〝配給〟って呼ばれたりもしてるけど」

「……いえ……なんだか、怖くて」

 飲んでないのか。それは由々しき問題だ。

「飲んできなよ。健康に悪いよ。人工の血だから、気に病むことなんてないし」

「え? 本物の血ではないんですか?」

「あれ? 知らなかったんだっけ? 血のまがいものだよ。何も生き血を汲み上げているわけじゃないんだから」

「……わかりました。それなら」

 森木さんは席を立って廊下に出て行った。

 やけに素直だった。

 森木さんはもう順応する姿勢に移ったのだろうか。こんな現実は受け入れられない、という人間らしい気持ちなんかは、捨てようと努力し始めているのかもしれない。

 なぜか、それが少し残念に思えた。

 気に病むことはない、と助言したばかりだが、自分がありふれた犯罪グループのやり口をなぞっているだけのような気もした。通過儀礼として万引きをやらせるようなものだ。新入りにも手を汚させて、共犯者に仕立て上げ、逃げられないようにするわけだ。

「文句いってたわりに世話焼いてるじゃないか。さすがは案内人」

 富永が近づいてきて、からかうように笑った。

「……まあ、席も近くになっちゃったからね。質問されて無視するのも変だし」

 そう言いつつ、僕はため息をついた。

 自分はなんでそんなにこの役割を嫌がっているのだろう。特に森木さんが気にくわないというわけでもないし、みんなが知っていることを、来て間もない新顔に伝えているだけだから、そんなに大それたことでもないのに。

 誰かが〝ため息をつくたびに命はすり減っていく〟と言っていたっけ。おおげさな話だ。不老不死なら、なおさら意味をなさない言葉だ。誰から聞いたんだったかな、あれは。

「ま、誰だって最初は慣れなくて当たり前だ。助け合いの精神だ。お互い様だからな」

 富永はずいぶんとお人好しなことを言う。

義人ぎじんかよ、おまえは。福祉の仕事でも目指してたのか?」

「正だって誰かから教わったんだろ? 最初から知ってたみたいな顔しやがって。すっかり古株だな」

 うーん……。やっぱりそんな顔をしてたのか? いや、でも、なにも知らないかのように教えるというのも変だろう。

 そうだよな、僕もそうだったんだ。誰に教えてもらったかなんて、もう憶えちゃいないけれど。

 そうやって富永と雑談していると、森木さんが教室に戻ってきた。

 相変わらず顔色は冴えない。本当に飲んだのだろうか。飲んでさらに気分が悪くなったようにも見える。

「どうだった、味は?」

「……おいしかったです」

「そりゃあよかった」

「血を飲みにいってたんだ?」

 富永が森木さんに訊ねた。

「はい。――えっと」

「ああ、富永です。富永治」

 富永は爽やかに自己紹介した。

 なんだか、名乗り方が芝居がかっているというか、「ボンド、ジェームス・ボンド」みたいだったので、思わず笑いそうになってしまった。

「……なんで笑ってんだよ、正」

「別に笑ってないよ」

「いや、笑ってましたよ」

 森木さんは意外と目ざとかった。

「……鏡に映らないせいかな。こころと表情が分離しちゃってね。意味もなく笑ってるときがよくあってさ」

「本当かよ。気味が悪くないか、それ」

「なんてね。いや、本当は『007』を思い出して笑ってた」

「あ? なんでそこでスパイ映画が出てくるんだよ?」

「いや、おまえの名乗り方が……。ほら。ねえ?」

 説明するのが面倒で、ねえ? などと、曖昧きわまる同意の催促を森木さんにしてしまった。

「『007』って何ですか?」

「あれ、知らない? シリーズ物のスパイ映画だよ。〝殺しのライセンス〟なんていう、物騒な認可を持っている人殺しが主人公の」

「映画――ですか。スパイというと、もしかして冷戦下の産物ですか? すみません、ポップカルチャーとはあまり縁がなかったので……」

 恐縮したように森木さんは言った。

「いや、別に謝らなくてもいいけど――」

 ポップカルチャー? なんだか浮世離れした用語で話すだ。

「ところで」

 と、森木さんは改まったように別の話を始めた。

「私たちは鏡に映らない――確かに、その通りでした。でも、あれから考えたんですけど、それって本当に吸血鬼の証なんですか」

「え? ――ああ、まだ納得いってなかったんだ」

 もう彼女も順応の端緒についたのかと思っていたけど、まだまだそうでもないようだ。

 なにが嬉しいのか、僕はまた笑いそうになっていた。こころはともかくとして、笑顔の枷は本当に緩くなっているのかもしれない。何事もすぐに笑ってしまいたくなる。陽気な性格でもないのに、ついへらへらしてしまう。

「じゃあ、森木さんはどう思ってるの? あの現象について」

「この学校のすべての鏡にトリックが仕掛けられているとか――」

「なんだ、そんなことを疑ってたの」

 それは見当違いだろう。この学校がそんな楽しいテーマパークのような場所だったら、それこそ笑いが止まらなくなるだろうけど。

「鏡が信用できないのなら、水はどうかな。水鏡ってやつ。僕たち、水面にも映らないんだぜ。びっくりだよね。さすがに自然にまでトリックは仕掛けられないんじゃないかな」

「……そう、なんですか」

 森木さんはまたしょげてしまった。

「なに? 森木さんって吸血鬼のことまだ信じてないの?」

 黙って聞いていた富永が言った。

「当たり前です! そんなの、簡単に受け入れられるわけ――」

 そこで、チャイムが鳴った。そして、時間ぴったりに先生が入ってきた。

 あちこちの私語が止んで、廊下から生徒が遅れて入ってきたりした。

 授業の始まりだ。

 富永は自分の席に戻り、納得いかなそうな森木さんも静かに席に着いた。

 吸血鬼という異常は受け入れていなくても、チャイムが鳴れば席に着くという、人間の学校で仕込まれた習慣については、素直に従っているようだった。異常といっても、実はそれと同じようなもので、仕込まれてしまえばいずれはなじむのだ。

 あれ? そういえば、森木さんに猟の説明を結局しなかったような。

 まあいいや。どうせ実地に臨めばわかることだ。


 一時間目の授業が始まった。

 〝赤学〟の時間だ。

 せきがく、と読む。碩学せきがくではない。アカ学なんて読み方をするやつもいるが、それだと共産主義の講義みたいだ。もちろんそんなものとは関係がない。赤というのは血の色を表しているのだろう。

 簡単にいってしまえば、吸血鬼に関わりのあることを教える時間だ。

 奥野先生は生物の教師だが、赤学は各クラスの担任が受け持つことになっている。

 陽が沈むころに会いましょう、なんてさっき言っていたはずなのに、一時間目にやって来るなんて、前言無視にも程がある。いつも口にしている口上だから、細かいことは気にしていないのだろう。

 それとも奥野先生は、多重人格なのだろうか。ホームルームのときと授業のときとでは別の人格で、いまの人格にはさっきの記憶がない、だとか。

 そんな益体もない妄想をしながら、僕は頬杖をついて、教壇に立つ奥野先生の話を聞いていた。

 教卓には絆創膏の入った小箱が置いてある。

 赤学の授業は繰り返しが多い。転校生のためでもあると思うけど、聞いたことのある話を毎回毎回飽きもせずやっているから、ついついだらけてくる。たまに違ったことも話すけど、基本的には、まだ慣れていない生徒のための時間といえた。

 まあ、僕はどの授業もだらけていたりするわけだけど。

 同じような話を同じような調子で延々と聞かされていると、催眠術でもかけられているような怪しげな気分に陥ってきて、つまり、とても眠たくなってくる。

 先生の話は猟に関わる部分に差しかかろうとしていた。

「……さて、君たちは吸血鬼です。自覚の深浅はともかくとして、君たちは吸血鬼です。人ではない。人々の中で生活することはできない。しかし、人の血は必要としています。

 君たちもご存知の通り、この学校の各所に設置された蛇口から血を飲むことはできます。君たちの言うところの配給ですね。

 しかし、あれはまがいものの血です。長い年月をかけて生み出された、点滴のようなものなのです。

 われわれが生きるためのエネルギーの大部分はそれでまかなえます。だが、それのみでは、決定的なものは欠けている。通常の食事は少量しかわれわれの喉を通らない。どうしても定期的に、直接、人間の血を吸わなければならないのです。

 それを怠るとどうなるか。

 枯木のようにしなびて衰弱死します。まがいものの血をいくら注ぎ込んでも止められません。われわれの不死というのも、脆弱なものですね。

 なぜ吸血行為が必要なのか。理由はいまもって解明されてはいません。人間という存在が謎だらけであるように、人間の鏡たるわれわれ、吸血鬼も同様に謎に包まれているのです。

 もっとも、われわれは鏡に映らないわけですが……」

 奥野先生は言葉を切って、反応をたしかめるように首をめぐらした。

 いつも疑問に思うのだが、ここはもしかして笑うところなのだろうか。先生は表情をまったく変えずにいるので心中を読みがたい。

 三島さんは最前列の席に座っている。ここから表情は見えないが、もちろん笑ってはいないだろう。アサガオと同じくらい彼女も楚々としている。

 生徒たちに特に反応がなくても気にせず、奥野先生は話を続けた。

「……量は少しでかまいません。なにも、相手が死んでしまうまで吸い尽くせ、というわけではありません。ほんの一口いただくだけでいい。

 そのために、我々は猟と称して、下界に赴くわけです。

 さて、猟というのは、人間の街まで下りていくことです。しかし、われわれは外れた存在。日陰者です。なんの工夫もなくその本性を人間の眼にさらしてしまえば、騒動が起きてしまいます。

 それはわれわれの望むところではありません。

 なぜならそれは同時に、普通の人間だけではなく、われわれの天敵たる〝ハンター〟の眼にも晒されることになるからです」

 天敵? と森木さんが小声でつぶやいたのが、後ろから聞こえた。

「ハンターは吸血鬼に勝るとも劣らない、人間離れした膂力りょりょくを誇ります。

 その全容はようとして知れませんが、われわれ吸血鬼を死にもの狂いで抹殺しようとしていることは間違いありません。

 人類の守護者を任じているようですが、殺戮の遂行のためなら人間の犠牲もいとわない。

 本末転倒ですね。大義がすべてを正当化する――どうも、そう考えているふしがあります。

 われわれより数等倍、危険な存在です。われわれはハンターから自らの生存を守らなければなりません。そのために、これから教える技術が必要なのです。

 それが〝暗示〟です」

 そこで奥野先生は廊下を向き、

「では、どうぞ。お入り下さい」

 と声をかけた。

 扉を開けて一人の人物が入ってきた。

 またもや転校生――というわけでは、もちろんない。

 用務員とおぼしき年老いた男性だった。気のよさそうな、柔和なおじさんだ。

「やあ、奥野くん。この教室の机を運べばいいのかい?」

 そのおじさんは先生に向かって話しかけた。

「ここにいる人物、倉持くらもちさんは吸血鬼ではありません。正真正銘の人間です。この学校にいる数少ない人間の一人として立ち働いていますが、本人は普通の学校だと認識しています」

 奥野先生は倉持さんを無視するように、生徒たちの方を向いて話している。

「……何を言っているのかな。どこに向かって話しているんだい?」

 倉持さんは教室を見まわすが、僕たちに眼の焦点が合うことはない。

「この方は君たちがここにいることを認識していません。暗示にかかっているからです。もちろん、かけたのは私です。ここを単なる空き教室だと信じ込んでいます」

「……一体、どういうつもりなんだね?」

「では、この方に君たちの存在を教えてあげましょう」

 そう言って、先生は初めて倉持さんの方を向き、ポケットからピンポン球を取り出した。技を披露する前の手品師のように、それを倉持さんに掲げてみせる。

 倉持さんは訝しげな顔をしている。

 先生はゆっくりとした動作でピンポン球を上に放った。

 ピンポン球は天井近くまで浮かんだ後、重力に従って、最前列の席――三島さんの机に落下した。

 こつん、というその音を合図に、その場に張りめぐらされている見えないなにかが――空気中に張りめぐらされた糸のようなものが――ざわめくのを、確かに感じた。

 途端、いま初めて気がついたというように、驚愕の表情を浮かべて倉持さんは教室の生徒たちを見まわした。

「えっ……?」

「倉持さん。私はこの子たちに話していたのですよ」

 奥野先生はようやく倉持さんに話しかけた。

 倉持さんは声を失って、呆然としている。

 それはさぞ不気味に見えたことだろう。無人のはずの教室にとつぜん姿を現した、自分を注視する、少年少女の皮を被った何者かたち。

「さて。次に、吸血行為の実践をお見せしましょう」

 奥野先生は眼鏡を外して、教卓に置いた。

 そして倉持さんの方へ歩きだす。

 倉持さんは一歩後ずさったが、奥野先生の眼に魅入られたように、それ以上は動けず、顔に恐怖を浮かべたまま立ちつくしていた。

 先生は、倉持さんの両肩をつかみ、首筋に顔を近づけていった。

 抱擁するような、伝統的な吸血スタイル。いわゆる〝正常位〟だ。

 後ろで息を呑むような気配がした。森木さんだ。まあ、初見はそんなものなのかもしれない。

 他のみんなは僕も含めて、決まりきったプログラムがこなされているとしか見ておらず、無反応だ。

 先生は倉持さんの首に咬みつき、ほんの少しだけ血を吸った。倉持さんは口をぱくぱく動かして、ひゅーひゅーと震えるような息をつくだけで、なすがままだ。

 吸血行為が終わると奥野先生は身を離した。それから教卓に歩み寄り、眼鏡をかけ、絆創膏を手にして、倉持さんの方に戻ってきた。

 そのあいだも、倉持さんは石膏像のように佇立ちょりつしている。

 奥野先生は倉持さんの首の傷口に、丁寧に絆創膏を貼った。そして、落ち着きのない子供の注意をうながすような調子で、平手で軽く倉持さんの頬を叩いた。

 さっきと同じく、また、見えないなにかがざわめいた。

「おはようございます、倉持さん」

「……え? ――ああ、うん。おはよう、奥野くん」

 倉持さんは、まるでいま目覚めたかのように眼をしばたたかせて、上の空で答えた。さっきまでの恐怖はもう見当たらない。

「ありがとうございました。もう、用件は済みましたよ」

 奥野先生は何事もなかったように言った。

「はあ……。そうかい。じゃあ、私はもう戻るよ」

「ええ。お大事に」

 倉持さんは教室を出ていこうとしたが、その前にふと、忘れものを探すように室内を見まわした。

 教室に入ってきたときと同じように、やはり生徒たちにその眼の焦点が合うことはなかった。

 倉持さんは首をかしげながら、廊下に去っていった。

 足音が教室から遠ざかってゆく。

 その音が十分に離れてから、奥野先生は話を再開した。

「……いま君たちが眼にしたように、彼は血を吸われたということを認識していません。暗示をかけられたからです。彼の意識が真実に触れることはありません。首に貼られた絆創膏も、自分に都合のいいように解釈するか、ほとんど意識することすらないでしょう。平静な日常を保つためなら、記憶の捏造さえ厭いません。

 人間は本能的に異変を怖れますから、〝何事もなかった〟〝いつも通りだった〟という暗示は比較的に容易です。ほんの少し手を貸すだけでいい。

 君たちも感じたでしょう。見えざる手が、彼の認識の糸をいじくるのを」

 だんだん眠たくなってきた。まだ一時間目なのに。うつらうつらと、僕は頭を揺らした。

「こうも感じたはずです。いま見せられた技術の手の内を、自分は既に知っているのではないか。自分にも、同じようなことが出来るのではないか。

 その感覚は正しい。暗示をかける技術を言葉で説明することは困難ですが、先ほどのようにあからさまに見せられれば、君たちも感覚的に、理解の端緒についたはずです。

 なぜなら、われわれは同胞だからです。われわれには同じ能力がある。蜘蛛が巣の張り方を知っているように、君たちも潜在的には、糸のさばき方を理解しているはずです。

 人間社会は認識の糸で織り上げられています。あらゆる空間にそれは張りめぐらされているのです。

 ものに名前をつけるというのが、その第一歩でしょうか。この世に二つと同じものはありませんが、名づけることによって、類になる。認識の糸でくくってしまうわけです。魔術のようなものですね。

 個人にそれぞれ名前をつけるというのは、また別系統ではありますが……。こちらは過去、現在、未来と呼ばれている時間の流れに糸を通して、個人の同一性を安定させるのに役立ちます。

 貨幣というものも、認識の糸がそこから延びているからこそ成り立つのでしょう。物体としてはつくりの細やかな紙切れでしかなくても、誰もそんなふうには受け取らない。動物と赤子は別ですがね。もちろん何事にも例外はあるし、状況によっては糸が断ち切られて、本当に紙切れ同然の価値しかなくなる場合もあります。

 時代が下るとともに、人間社会の糸の編み目は複雑に、高度になっていきました。蜘蛛の巣の比ではありません。さすがは万物の霊長といったところでしょうか。

 集合住宅の一室で餓死する人間がいるでしょう? まわりには人間もいるし、そこには食物もあるはずなのに、死に至るまで孤立してしまう。それはその人間が、社会と自身によって紡ぎだされた認識の糸に縛られてしまい、抜け出せなくなったからです。

 生存本能すら、糸は絡めとってしまうわけです。

 我々はその張りめぐらされた見えない糸を、結び合わせてはほどき、絡ませ合い、ときには断ち切る。そうすることによって、人間たちの認識に介入するわけです。

 この学校の建っている山中に人間たちが足を踏み入れないのも、暗示による、いわば結界が張られているからですね。

 猟に繰り出す者たち――下界に赴く君たちの存在も、暗示によって、表沙汰にならずに済んでいるわけです」

 赤学の授業はいつも通り滞りなく進行してゆき、奥野先生の淀みない声を子守歌代わりにして、僕は眠りに落ちていった。


「……なんなんですか、あの授業は?」

 休み時間に、森木さんは憮然として言った。

「なにって、赤学の授業だよ。吸血鬼についての話とか、暗示についての話とか」

 授業の終わりを告げるチャイムの音でようやく僕は目覚めた。心地良い眠りだった。

 もし富永の言うように、奥野先生が僕になにかを期待していたとしても、こんな体たらくが続いていたら、諦めるに違いない。

 まあ、最初からそんな期待はないだろうけれど。

「暗示……」

「そうだよ。そのおかげで、吸血鬼はおとぎ話の存在でいられる。僕たちの家族も、身内が吸血鬼になったなんて知らなくて済む。遠くに行ったことになっているのか、死んだことになっているのか、最初から存在しなかったことにでもなっているのか、それは知らないけどさ」

「……あの倉持さんという人は、毎回あんな仕打ちを受けているのですか?」

 家族についてのことでも訊かれるかと思ったのだが、森木さんの質問は別のことだった。

「まあ、そうだけど」

「そんなの、人権侵害です!」

 人権……。きな臭い言葉だ。たしかに、あの人は人間だけど。

 激昂している森木さんを何人かが振り返ったが、すぐに気にしなくなった。

 こういうのを抑えるのも、案内人の役目なんだろうか。こういう時は他の連中も近づいて来ないし。

「そうかな。別にそんなに悪いことだとは思わないけど」

「なんですって……?」

 森木さんはこっちを睨みつけてきた。

 まずいなあ。もしかして、僕の言葉って、ことごとく森木さんの神経を逆撫でしているんじゃないだろうか。

「まさか光岡くん、あの人を見下しているんじゃないですか? 許せませんよ、そんなの。年長者への軽侮は罪悪ですよ」

 およそ高校生らしくないことを森木さんは言う。慈善家でも目指してたんだろうか。

 年少者なら見下してもいいの? と訊きそうになったけど、また逆撫ですることになりそうなので、やめておいた。

「別に見下しているつもりはないけど……。だって、ひどい傷を負わせているわけでもないし。そりゃ、咬んではいるよ、もちろん。でもまあ、ほんの少ししか血は吸わないし、絆創膏も貼って、アフターケアもばっちり。咬み方が上手いのか、治りも早いみたいだしね。蚊に刺されたようなものだよ。なにも問題ない」

「問題ないかどうかは、あの人の決めることです!」

 まあ、それはその通りかもしれない。

「でも、そこは仕方ないよ。なにせ憶えてないんだから」

「それです。それこそ、まさに明白な侵害です。誰にも他人の記憶を操作する権限なんてありません。そんなことは、人には禁じられた行いです」

 なにか根拠でもあるかのように、強い口調で森木さんは言う。

「どんな人の人生も、どの瞬間も、記憶に残すに価するものなんです。例外はありません。その大切な日々の思い出を、不当に奪い取ってしまうなんて、許されざる罪だと思いませんか? そうでしょう?」

「……そんなに確固とした記憶を持っている人なんているのかな」

 森木さんの熱の入り方にはいま一つピンと来ないのだが、なんとなくその点が特に、僕には疑わしかった。

「……どういうことですか?」

「記憶なんて、もともと曖昧で、あるようでないようなものなんじゃないかな。簡単に操作される方にも落ち度はあるんじゃない? それに、いたずらに恐怖を与えるよりは、よほどマシだと思うけど。人間の最大の長所は、忘れることができるということだ、って、なにかで読んだよ。聞いた話では、倉持さん、奥さんと穏やかに暮らしてるそうだよ。不幸そうには見えない。このままなにも知らせないでいる方が、親切なんじゃないかな。僕が逆の立場だったとしたら、余計なことなんか知りたくないね」

「でも……でも、虚偽におおわれた世界は真実の世界ではないんです」

 奇妙な物言いだった。森木さんって、やっぱりどこか変わっているのかな、と、いまさらながらに思う。

「まあ、でも、僕に言われてもね」

「……私、抗議しに行ってきます」

 そう言って、森木さんは席を立ち、教室を出ていった。

 職員室に向かったのだろうか。奥野先生に直談判する気なのか。

 最初に見たときは、おとなしいなんじゃないかと思ったのに、ずいぶんと直情径行な女の子のようだった。

 せっかくの休み時間をあんな議論で潰すというのは、とても不毛な気がしたけれど、一方では興味深いものも感じていた。

 なんで他人のことで、あんなに本気になれるんだろう。

「いやー、なんだかアスアス、ヒートアップしてたねー」

 寝癖を直そうと努力していたが、まったく直っていない玉置さんが声をかけてきた。

「そうだね。意外と猪突猛進タイプなのかな」

「追いかけなくていいの、ミーくん?」

 ミーくんって僕のことなのだろうか?

 また変なあだ名をつけられている……。といっても今回はわかりやすい、シンプルなあだ名だった。以前はミル・マスカラスとかミート・イズ・マーダーとか蜜三郎みつさぶろうとか、理解に苦しむあだ名を色々と頂戴していた。〝ミ〟が付けばなんでもいいのだろうか? それに比べれば、ミーくんだなんて、玉置さんも以前よりは丸くなったのかもしれない。ちょっと猫みたいなあだ名ではあるが……。

「どうして僕が追いかけることになるんだろう」

「あれ? 痴話喧嘩じゃないの?」

 なんでそうなるんだ。

「……全然違うよ」

「そりゃそーだろーね」

 玉置さんは事もなげに言う。

 僕も相当に投げやりだが、玉置さんもなかなかのものだった。

 通りがかった門野さんが「朋子、寝癖まだ立ってるよ」と教えたが、「もーいいよ、諦めた」と、悟りを開いたように玉置さんは居直った。

 チャイムが鳴った。

 数学の先生が教室に入ってくるのと入れ違いに、玉置さんは出ていった。

 サボるのだろう。

 森木さんはまだ戻ってこないが、教室にいないのは森木さんと玉置さんだけではない。ところどころ席が空いているし、河下と大地もいなくなっていた。

 構わず二時間目は始まった。

 この学校は、サボりに寛容だ。赤学の授業は出席が義務づけられているけれど、それ以外は基本的に自由である。窓の外を眺めていると、授業時間でも生徒が結構ぶらぶらしていたりする。

 そんなことだと誰も授業に出なくなりそうだが、意外に律儀に出席するやつは多いものである。暇だからか、他にやることが見つからないのか、それともそうやって、人間の学生であるふりでもしたいのか。

 なんにせよ、授業を遮るような真似をしないなら、寝ていようがなにをしていようが自由なので、気は楽だった。

 ちなみに警告を受けても授業を妨害し続けた場合、〝実力をもって排除される〟という話である。実際に目撃したことはないけれど。

 すべての授業に出席する生徒、出席したりしなかったりする生徒、赤学以外はまったく出席しない生徒、とさまざまである。

 そういえば、いつのまにか三島さんの姿も教室から消えていた。


 午前中の授業が終わった。森木さんは結局教室に戻ってこなかった。僕は寮に帰ってアサガオに御飯をやり、猟の時間まで眠ることにした。

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