夕暮れがやって来た。山を下りる、猟の時間が近づいた。

 僕はナイフをポケットに入れて、寮を出た。

「また会いましたね、みなさん。さあ、もうじき出発です。バスに乗ってください」

 校門近くに止まったバスの前で、奥野先生が声を上げていた。

 もう一台のバスの方では、六組の担任が似たようなことをしゃべっている。

 車内に乗り込むと、運転席近くの席に森木さんが座っていた。

「やあ。あれから教室の方には戻ってこなかったね」

 声をかけてみると、森木さんはぼんやりとこちらを見つめた。

「あ……正くん……」

 なぜだか下の名前で呼ばれた。

 なんとなく、僕と同じように、必要がなければ他人を絶対に名字でしか呼ばないような印象があったので、少し違和感を感じた。

「どうだったの、抗議の首尾は?」

 そう訊いてみたが、森木さんはぼんやりしたままで、

「……なんのことですか?」

 と言った。

 質問にどうもピンと来ていないようだった。

「――いや、いい。気にしないで」

 僕は森木さんから顔をそらした。

 言いくるめられたのか。諭されたのか。触れられたくないのか。なかったことにでもなったのか。忘れてしまったのか。

 森木さんの怒りを買った、倉持さんの様子と似たようなものだ。

 よくあることなので、気にしないことにした。

 僕はそのまま通りすぎて、バスの後ろの方の席に座った。富永が近くにいた。

「よう。おまえも実際、よく眠るよな」

 からかうように言われた。

「少食だから、英気を養っているんだよ」

 いいかげんに僕は答えた。実際は、単に眠るのが好きなだけだ。死ぬまで眠り続けていたいくらいだ。眠りと死は似ているというけれど、それでいうなら、僕は死ぬのも好きなのだろうか。難しい問題だ。

 車内には段々と生徒が集まってくる。

「――はい。全員そろいましたね。では三組、出発します」

 奥野先生がそう言うと扉が閉められ、ぶるん、と音を立てて、バスは走りだした。

 校門を出て山道を下り始める。

 僕は窓の外の風景を眺めていた。

 新入りの転校生……彼女の生真面目な抵抗も、これで終わりかな。わずかな時間だったけど……。少しだけ、残念ではあった。

 森木さんの隣には玉置さんがどうやら座っているようで、いつもの調子で話しかけている声がちらほら聞こえてきた。

 運転手は物静かな老人で、ほとんど喋らないが、時折ひそひそと奥野先生に何か囁いているようだった。

 がやがやと雑談が車内に満ちて、トランプをやっている生徒たちの歓声が上がった。大地と河下は、あっち向いてホイ、なんて、子どもっぽい遊びをしている。

 心なしか、みんな眼がぎらついているようだった。僕も身体の内側に高揚するものを感じている。もう夜はすぐそこに迫っていた。

 奥野先生が車内を歩いて、生徒たちに絆創膏を配る。ぴん、ぴん、と指で弾いて生徒たちの手元に渡していく。ピアニストのように指先の器用な人だ。

「……こんなのが配られるのは、三組だけだとも聞くぜ」

 先生が席に戻った後、声を潜めて富永がぼやいた。

「いいんじゃないの、別に。気配りが細やかってことだろ」

「ま、そうだけどな。ただこういうところが、〝羊のような三組〟なんて呼ばれる由来かな、って思ってさ」

 富永が自嘲するように笑う。

 他の吸血鬼の隠れ家がどうなっているのか詳しくは知らないが、この学校は穏健派のグループに属すと言われている。その中でも三組は特に人間を傷つけない方針で、それは奥野先生の意向だという噂だ。

「僕は、特にそのことに不満はないけれど」

「俺だって別にないよ。ただ、他のクラスのやつにからかうように言われると、釈然としないっつーか。絆創膏ぐらいしか思い当たる要因もないしな」

 確かに、人間をなるべく傷つけないという方針は他のクラスも共有しているはずだから、改めて考えてみても、三組に突出した部分なんてあまり思い当たらない。

「……まあ、レッテルなんて、そういうものじゃないかな。根拠なんてないんだよ。ただ何となく、いつのまにか、そう呼ばれるようになったってだけだろ。噂さえ立てば、真偽なんてどうでもいいんだ。それでもって、一度貼られたら、何事もそのレッテル通りに見えるってだけ」

 つまりはそれも、ある種の暗示なのだろう。

「そんなもんか」

 そう言って富永は黙ったので、僕も窓の外を眺めることに戻った。

 窓外の闇におおわれていく山林を、なんとはなしに見ながら山道を下っていると、いつも、冥府に下りていくような不思議な感慨を覚えてしまう。

 でも客観的に見れば、それは話が逆だった。

 人間の側からすれば、山上の僕らの住処の方こそ、よほど冥界じみたものだろう。

 がたごととバスが揺れる。その揺れに身を任せていると、ここに来た時のことが思い出される。人間の世界と吸血鬼の世界。それをつなぐような坂道を、バスは走る。

 外が暗くなると、明かりの反射した窓ガラスが鏡のようになって、車内の様子が映っているのが見える。そこに座席の背もたれや肘掛けは見えても、運ばれていく乗客たちはだれ一人映っていない。鏡に映る魂を、だれも持っていない。

 この山道を境にして、僕らは別々の世界を往き来しているのだ。


 山を下りた。バスは繁華街の外れの、人気のない場所で止まった。

 六組のバスも近くに止まっている。

「無事に着きましたね。さあ、皆さん。猟の始まりです。各々、自由に血を吸ってきてください。夜の空気を存分に楽しみなさい。夜は我々の時間です。十全に能力を発揮できるでしょう。では、また。陽が昇る頃に会いましょう。……ああ、ちょっと待ってください。森木さんは初めての猟でしたね。ええと、それじゃあ――」

 奥野先生は車内の顔ぶれを見まわしはじめた。

 何となく嫌な予感がしたので、つい椅子の陰に顔を隠したりしてしまう。

「――じゃあ、富永くん。森木さんを先導してあげてください」

 予感は的中せずに、富永が指名された。

「俺ですか? ……わかりました」

 富永は素直にうなずいた。

 富永は僕とは違い、げっ、なんて思わなかったのだろう。なんといっても義人であらせられる。

 まあ、僕よりも富永の方が明らかに向いているのは確かだ。親切だし面倒見もいい。なんせ僕と友達づきあいしているぐらいだから。

 僕が僕でなかったとしたら、僕は僕とお近づきになりたいなどとは毛ほども思わないだろうが、あいにく僕は僕として生まれたわけだし、あるいは生まれ育った環境によって僕として形づくられたわけだから、生きている限り、僕は僕なりに僕と一生つきあっていくしかないのであった。

 なんでこんなこと考えてるんだか。

 三組の生徒はみんなバスから降りた。

 先生も一度降りてきて、富永になにかを渡した。

「じゃあ、富永くんに任せます。森木さん、夜明け前にはバスに戻ってくるように。頼みましたよ。それじゃあ……」

 そう言い残して、先生は再びバスに乗り込んだ。

 先生と運転手だけを乗せたバスはぶるん、と音を立てて走り去った。

 時間が来るまでバスは街中を走ったり、とどまったり、うろうろしているのだろう。そうしながら、移動するバスから紡ぎだされた、蜘蛛の巣のような暗示の網を街にかけて、異質な存在が跳梁していることを人間に悟らせないようにするのだ。

 三組の生徒たちは各々自由に、思い思いの方向へと向かいはじめた。人間の街に若い吸血鬼たちが散らばってゆく。

 三島さんも迷いのない足取りで、どこかへ行ってしまった。

「バスに戻ってこいって……。行ってしまったじゃないですか! これじゃあ、どこに戻ればいいんですか?」

 森木さんが困惑したように言った。

 彼女はどうやら、さっきの虚脱したような状態からは立ち直ったようだった。なにかをなくしたような空白自体が、なかったことになったのだ。そうやって過去は消えていく。

「アスアス、大丈夫だよ。バスは独特の信号をピコピコ発しているから、吸血鬼ならオールオッケー。どっちの方角にバスがいるのか、ピピンと本能で察知できるはず」

 玉置さんが焦る森木さんをなだめている。

「はい、森木さん。これはあなたの武器だ」

 富永がさっき先生から預けられたものを手渡した。

「え? これって……」

 腫れ物でも触るようにそれを手に載せて、彼女はまたも困惑していた。

「ナイフさ。何かあったときのための」

「何かって……。こんな、人を傷つける道具、いりませんよ!」

「まあまあ、森木さん。全員に配られてる物だから」

 横から僕は口を挟んだ。

「なおさら悪いじゃないですか! 夜の街にナイフを持った、それも未成年の集団が紛れ込むなんて、危なっかしいにも程があります!」

 頑として拒否反応を見せる。

 このって本当に、自分が吸血鬼だっていう自覚がまったくないんだろうなあ。

「まあ、確かに、そこだけ切り取ればまるっきりの非行少年、非行少女の集団だけどさ。その点は大丈夫。既に僕たちは車内で暗示をかけられている。必要以上の危害を人間に加えることは、不可能になっているよ」

「……暗示を、既にかけられた?」

 安心させようとしたのだが、森木さんは不気味なことでも聞いたように、顔を曇らせた。

「正の言うとおりだ。街のあちこちで人が刺されるなんて、そんな馬鹿な事態は起こりっこないさ。そういうことをやりたがるのは、人間の方だったりするからな」

「嘆かわしい世の中だよね」

 通り一遍の感想を僕が口にすると、

「暗い暗い暗―い! シニカル気取ってる暇があったら遊びなよ!」

 と、玉置さんに茶々を入れられた。

「というわけで、あたしは遊びに行くっつーことで。そんじゃね、またね、アスアス」

 そう言い残して、玉置さんは一足先に立ち去った。

「じゃ、がんばれよ、富永」

「ああ、またな」

「森木さんもね」

「あの、ちょっと待ってください! このナイフって、もしかして、戦うための……?」

「戦う? 誰と?」

「敵、って。確かそう言ってたじゃないですか。ハンターだとか……」

「ああ、大丈夫だよ、そんな心配しなくても。狼が来るぞ、みたいな話なんだから」

「え?」

「実は僕たちも、ハンターに会ったことなんて、一度もないんだ」

 狐につままれたように森木さんは目を瞬いた。

 後は富永に任せて、僕は街をひとりで徘徊することにした。


 文明が進んで夜はずいぶん明るくなったものだ。

 そこかしこに街灯は立っているし、二十四時間、明々としている店も珍しくはない。街灯のない夜道に入り込んでも、遠くの明かりなんかが眼に入る。真の闇というのはとても稀なものになってしまった。

 といっても、僕は闇がまだそこかしこに残っていた時代を知っているわけでもないし、なにもかもピカピカに仕立ててしまう時代に生まれたとも言えるのだが、そのくせ、街がこの有様じゃあ光に耐性もつくはずだよな、なんて勝手にうなずいてしまう。

 考えてみれば、吸血鬼が獲得したこの耐性は、人工の光が太陽光さえ凌駕したという、自然に対する科学の勝利の証ではないだろうか。

 そんな根拠もない哲学にふけりながら、薄暗い夜道をぶらぶら歩いていると、知り合いである六組の城戸原勇きどはらゆうが、電柱から突き出た蛍光灯を見上げて、ぼんやりと立っていた。

「よう、城戸原」

 声をかけても、城戸原は蛍光灯がちかちか点滅するのを相変わらず眺めている。もう一度、「おい、城戸原」と呼びかけると、ようやく振り返った。

「あ? ……あー、……誰だおまえ?」

 不審そうに目を細めて城戸原は言う。

「おいおい。僕だよ。忘れたのかよ?」

「……どこかで会ったっけ?」

「…………」

「いやいや、冗談、冗談。久しぶりだな、光岡正」

 さっきまでの呆けたような顔を崩して、城戸原は気安そうな笑みを浮かべた。

「そんなに長いあいだ会ってなかったかな」

「さあ、どうだったっけ。最近物忘れがひどくてな。誰が誰だかわかんなくなったり、つい昨日のこともぼんやりとしか思い出せなかったりするんだよな。おれも歳かな」

「若年性健忘症か? それとも認知症か? もしかしておまえ、見かけよりもずいぶん爺さんだったりするわけなの?」

 吸血鬼は不老不死なのだから、そういう可能性だってあり得る。

「いや、そんなことはねえよ。そんなことない。……うん? そんなこと、ない……よな?」

「…………」

「いやいや、冗談、冗談」

 そんな会話をしながら、僕たち二人は一緒に歩いた。

 大通りに出た。夜になっても人は多い。まだまだ宵の口だ。獲物を探すのに困ることはない。

「光岡、ちょっとこの店のぞいていこうぜ」

 城戸原は煌々と電光を灯している家電量販店の前で立ち止まった。

「いいけど、何で」

「バカ、決まってんだろ。人間様が作り出した機械文明の精華を一望するんだよ」

 城戸原がずんずんと中に歩いていくので、僕も店内についていった。

 店内は真昼のように明るく、広い空間に様々な電化製品が陳列されている。

 自分から入ったわりに、城戸原はどこへ向かうともなく立ち止まった。気分屋だから特に目的があって入ったわけではないだろう。なんとなく、僕たちはテレビがずらりと並ぶ一角に向かった。

 展示された多数のテレビは、同じチャンネルに合わせられていて、誰かの追悼番組を流していた。よくは知らないが、先日亡くなった著名な俳優らしい。

 デビュー作の映画や、主演を務めたテレビドラマ、舞台で立ちまわる記録映像、幼年期の写真、出演した対談番組で趣味の釣りを語る晩年の姿など、いくつものモニターのなかで俳優は若くなったり年老いたりしていた。

「――死んでしまっても、姿は残るんだなあ」

 僕は思わずそうつぶやいた。

「相田みつをみたいに言うなよ」

 城戸原が茶々を入れてくる。

 だなあ、という語尾を使っただけなのに相田みつをというのも、ずいぶん粗雑な決めつけだった。レッテル貼りだ。

「……〝にんげんだもの〟」

「いや、人間じゃねえだろ、おまえは」

 別に僕が人間であると主張したわけではない。知っているフレーズを口にしただけだ。

「この人のことだよ。この亡くなった俳優さん」

「ん? ああそうか。ま、人間だものな、確かに」

 ちなみに僕たち吸血鬼は鏡だけではなく、写真や映像にも映らなかった。

 以前だれかが、クラスのみんなで記念写真を撮ろうと言い出して、集合写真を撮影したことがあった。教室に四十人近くは並んでいただろうか。

 しかし、出来上がった写真を見てみると、そこには誰もいなかった。無人の教室が寒々しく写っているだけだった。こういうのも心霊写真といえるのだろうか。何も知らずに見れば、特に異常のない風景写真としか思わないだろうけれど。

 それきり二度と、写真を撮ろうなんて気は起きない。

「羨ましいとか、思ったりしているわけか?」

 城戸原が質問してくる。

 どうだろう、と僕は考えて、

「というよりも、不思議なのかな。僕も人間だった頃は、自分の姿が写真や映像に映っていることなんて何とも思わなかったけど。それが金輪際ありえないってことになると、写真という発明は、一つの奇跡だったんだなって思えてくる」

「へえ。そりゃずいぶん高く評価されたもんだね。そんなに大したことか? この人間みたいに生涯のいちいちが記録されたからって、それが何になるっていうんだ。どうせ死んじまったわけだし。写真が発明される十九世紀以前だって、人間は生きてたんだぜ。もちろん吸血鬼もな」

 城戸原は一蹴するように言う。

 その口ぶりは、僕よりも城戸原の方が羨ましがってるんじゃないか、という考えを起こさせたけど、勘繰りすぎなのかもしれなかった。

 近くを店員が通り過ぎていく。

 テレビの前でぺちゃくちゃと妙なことを喋っていても、変な視線は向けられない。それが暗示によるものなのか、店員としてのたしなみなのかは区別できなかった。少なくとも僕はまだ暗示をかけてはいない。

 今夜の獲物はあの店員さんにしようかな。

「光岡、おまえのクラスの三島っての噂、知ってるか?」

 城戸原が、どこかで聞いたような質問をしてきた。三島さんのことは各所で話題にでもなっているのか?

「……知ってるけど。なに? 六組にまで届いてるわけなの、その噂って?」

「いや、おれもたまたま小耳に挟んだだけだけどよ、それって……」

 城戸原がそこまで言いかけた時だった。

 きーーーーーーーーん、と突然、頭の中に金属を叩きつけたような音が鳴り響いた。

 びっくりして、僕は思わずまわりを見まわしたが、それが物理的な音ではないことはわかっていた。店員は相変わらず無反応だ。

 城戸原も手で頭をおさえている。

「今のって……」

「緊急信号……。集合時間が早まった、ってわけじゃねえよな」

 城戸原は神妙な表情になっている。

 僕たち吸血鬼は夜になると感覚が冴えて、他の吸血鬼が発する信号のようなものを感知できるようになる。蟻や蜂の集団と似たようなものだ。だからどのあたりにどれだけ同胞がいるのかも察知できるし、バスが今どこを走っているのかも大体のところはわかるのだが……。

 今の信号は、誰かが異変を知らせるために発した、サイレンのようなものだった。

「――他のみんなも、信号の場所に向かって集まりはじめたみたいだね」

「ああ。おれたちも行こう!」

 僕たちは家電量販店を出て走りだした。

 信号が発せられた場所への直線ルートは、数多くの建造物で遮られている。

「よっ」

 一声あげて、城戸原は跳んだ。

 一跳びで目の前のビルの四階部分に張りつき、そのまま軽快に跳躍を続けて、屋上にまで上っていった。

 僕もそれにならって跳んだ。

 夜風が頬をかすめる。この解放感を味わうときだけは、吸血鬼になってよかった、なんて思いそうになる。

 ビルの側面に取りつけられた看板の上に降り立ち、ふと気になって、地上を見下ろしてみた。

 目の前で宙へと跳んでいったこちらを、人々は気にすることもなく、道を歩いていく。もう既に、街のそこかしこに暗示の網はかかっているようだが――一人、酔っぱらっているとおぼしき男が、ぽかん、と口をだらしなく開けてこちらを見上げていた。

 なんとなくその男性に向かって手を振ってから、僕は跳躍を再開した。

 ――もし記憶に残っていたとしても、彼がまともな人間なら、その眼で目撃したことよりも常識を信じることだろう。視覚的記憶よりも、日常的認識の方がよほど強力だ。悪くしても、せいぜい怪しげな都市伝説が増えるだけのことなので、気にする必要はない。

 屋上から屋上へ、屋根から屋根へと、バッタのように跳ねて緊急信号の発せられた場所へと向かう。

「城戸原、ちょっと待って」

「なんだよ、置いてくぞ」

「一応、先に吸血を済ませていた方がいいんじゃないかな」

「ん? 確かに、食いっぱぐれるとヤバイか。よし、手早く済ませとこう」

 急を要するかもしれないのに呑気とも思えるが、これはこれで死活問題だ。

 ちょうどおあつらえ向きに、眼下のコンビニの前に二人の人間がたむろしている。

 僕らはコンビニの屋根に向かって跳び、一度跳ねて、彼らの前に着地した。

「すいません、献血をお願いしまあす」

 城戸原が気さくに声をかけた。

「……え?」

 気怠げに談笑していた二人は、突然の闖入者ちんにゅうしゃに眼が点になっている。

 二人とも指に吸いかけのタバコを挟んでいる。喫煙者は好みじゃないんだけど、そうも言っていられない。

「僕からも、献血をお願いします」

 控え目に僕も声をかけた。

「……いま……上から……?」

 喫煙者二人はUFOでも探しているみたいに空に目をやったりしている。

 挨拶もそこそこに、僕たちは獲物に襲いかかった。

 僕は坊主頭の男、城戸原は茶髪の男を狙う。

 相手は抵抗しようとするが、僕はぐっと腕を押さえ込んで、眼を合わせて暗示をかけた。

 身体から力を抜け、というような簡単な暗示である。

 そんな暗示をかけなくても、普通の人間が力で僕らに敵うわけはないのだが、暴れられると血は吸いにくい。

 相手がぐったりしたように抵抗をやめたので、僕はポケットからナイフを取り出し、その男の腕に小さく傷をつけた。

 うっすらと血がにじんできたので、僕は腕に口を当てて血を吸った。

 奥野先生が授業でやっていたような正常位で血を吸うのは、大仰で気恥ずかしいようなところがあった。古めかしいというか、大時代的というか、貴族ぶっているというか。なのでもっぱら、生徒たちのあいだではナイフを使う、こういう崩した吸血スタイルが普及している。

 だからといって、このスタイルも決して見栄えがいいわけではないが。吸血というのは、どうしたって滑稽な行為だと思う。

「終わったか?」

 城戸原は吸血を終えて待っている。

「ああ、済んだよ」

 僕は坊主頭の男の腕に絆創膏を貼り終えた。

「ご親切なことで。さすがは羊のような三組だな」

「そんなに優しくもないけどね」

 ちらりとコンビニの店内を見る。店員も幾人かの客も、まったく外を気にしていない。暗示の網の効果はばっちりだ。

 僕たちは移動を再開した。

 いつのまにか、城戸原の肩に蝙蝠こうもりがとまっていた。彼の使い魔だ。

 僕の頭上でも、アサガオが羽ばたいてついてくる。

 使い魔と主は精神が糸でつながっている。異変を察知して、そばにやってきたのだ。

 僕らは使い魔を引き連れて、自らも獣になったように、目的地へと向かっていく。


 その場に着くと、既に多数の生徒たちが取り囲んでいた。三組のバスもすぐ近くに止まっている。

「……大丈夫。安心しなさい。あなたが生きている限り、新たな使い魔は現れます。この子は運がなかったのです。諦めなさい……」

 奥野先生が、その場にへたり込んだ女子生徒に噛んで含めるようになにかを諭している。

 女子生徒はそれを拒むように、弱々しく首を振っていた。

「ありゃ。あいつは斉藤穂波さいとうほなみだ。どうしたんだろ?」

 城戸原が首をかしげた。どうやら彼女は六組の生徒のようだ。

 あのがさっきの緊急信号の発信源なのだろうか。

 斉藤さんがへたり込んでいるのは、人気のない通りの路地裏の前だ。そこに何か落ちているようなのだが、他の生徒たちが邪魔になってはっきりとは見えない。

「やっと来たか、正。おせーじゃねーか」

 声をかけてきたのは河下だった。

「大地は?」

「ああ……向こうでゲーゲー言ってるよ」

「?」

 なるほど、確かに壁に手をついてうつむいている大地が見えた。

「どうしたんだろう?」

「ナイーブなんだよな、浩介は」

 答えになっていないので、なぜ大地が吐き気をもよおしているのかはわからなかった。実際に吐いてはいないようだから、気分を悪くしたという程度だろう。

 ちなみに吸血鬼の吐瀉物は色がない。においもそれほどではなく、澄んだ水のようにさらさらしている。清らかなものだ、まったく。ろくな痕跡も残らない。

 僕は城戸原と一緒に人垣をかきわけて、何が落ちているのかを見に行った。

 半ば予想していたことではあるけれど、あまり気持ちのいい眺めではなかった。

「うっ……。ひでえな、こりゃ」

 城戸原が思わず顔をしかめた。

 そこに横たわっているのは蝙蝠こうもりの死体だった。蝙蝠というのはあれでなかなかかわいらしい顔をしているものだけど、この死体は無惨にも首を切られており、頭部がなかった。打ち捨てられた、小柄な首なし死体が、路地裏を猟奇的な空間に変貌させている。

 きっと、斉藤さんという、彼女の使い魔だったのだろう。

「さあ、気を取り直して……。この子のことは、忘れることです」

「……無理です。忘れられるわけ、ないじゃないですか」

「忘れることです。我々は過去の泥に足をとられているわけにはいきません。道は未来へと続いているのですから。大丈夫です、いずれ必ず忘れられます。時間は常にわれわれの味方ですから。記憶は優しく立ち去ってくれるでしょう。だから、そのときが来るまでは、この子との思い出を大切にしなさい」

 奥野先生は彼女を落ち着かせようとしてか、諄々と説いている。

 風が吹いて、使い魔の死体からにおいが漂ってきた。そこに含まれている、死臭ではないあるにおいに、吐き気とまではいかなくても、僕ははっきりと不快なものを感じた。

「先生、これって」

「――光岡くんですか。そうです。君が考えているとおりでしょう」

 こくりと、先生はうなずいた。

 これは、ニンニクのにおいだ。蝙蝠の切られた首に、ニンニクが埋め込まれている。

 使い魔は普通の動物ではない。吸血鬼によりそい、共に生きる、動物のまがいもの。吸血鬼が、人間のまがいものであるように。

 そんな特殊な動物が殺されて、吸血鬼の苦手なニンニクがこれみよがしに残されているということは――。

「我々の天敵が現れました。生徒諸君、気をつけてください。今夜の猟は食事と遊びだけでは済まされません。戦うときです。神経を研ぎ澄ましてください。これは、ハンターからの挑戦状です」

 奥野先生の警告は、戦慄を伴って生徒たちをざわめかせた。

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