訓練
休日も明けて、また相も変わらぬ授業が続く。ハンターとの接触も、学校生活のサイクルにはなんらの変化ももたらすことはない。
いや、少しだけ変わった点があった。体育の授業に、いままでとは違う内容が混じることになったのだ。
「今日の体育の時間は、戦闘訓練にあてることにしましょう」
奥野先生はそう宣言した。体育を担当する教師ではなく、赤学同様、担任じきじきに指導するらしい。
「戦闘訓練……ですか?」
門野さんが、その耳慣れない言葉に疑問を呈した。
「ええ。ハンターとの対峙を経験して、君たちも、その必要性を感じたのではないでしょうか。なにごとも備えは大切ですからね。いざというときに身体が動くように、暴力に慣れておいた方がいいでしょう。では皆さん、準備ができたら、グラウンドまで来てください。ああ、そうそう。ナイフは持参してください。使いますから」
そう言われたので、僕たち三組の面々は、体操着に着替えてから――着替えずに制服のままのやつもいるが――自分のナイフを持ち、グラウンドに集合した。といっても、この授業も、出席が必須というわけではないようなので、サボっている生徒もちらほらいる。三島さんもいなかった。
「さて、皆さん。暴力とはなんでしょう?」
奥野先生は、集まった生徒たちに出し抜けに問いかけた。
「河下くん。暴力とはなんですか?」
「――殴ることですか。あと、蹴るとか、刺すとか、絞めるとか、撃つとか」
指名された河下は、端的にそう答えた。
「そうですね。暴力は多様です。人は人をさまざまな手段で傷つけます。言葉の暴力、なんていうものもありますね。人の歴史は暴力にまみれています。では、暴力はなんのために行使されますか?」
質問はまだ続くようだった。どうも、僕はこういう形式の話の持っていき方が苦手だ。なにか述べたいことがあるのなら、さっさとその話を進めていけばいいのに、思い出したように聞き手に問いかけたりして、それでいて質問者が想定する答えとは別の解答が飛び出すと、やんわりと却下、もしくは無理矢理に軌道修正されたりする。それなら最初から訊かなければいいのにといつも思う。
まあ、次に指名されるのは自分かもしれない、という緊張感を聞き手に与えて、話への注意をそらさないようにするためなのかもしれないけれど、やはりどうしても好きになれない。まだるっこしさと意地悪さが絡み合って、茶番劇のにおいがする。
「光岡くん。暴力はなんのためですか?」
そんな悪口を考えているときに限って、運悪く指名されたりするのだった。それが世の常である。嫌だなあ。
「……相手を屈伏させるためでしょうか。相手への要求をのませるために、暴力を行使する。それと、自分を守るため」
しどろもどろにそう答える。まあ、間違ってはいないんじゃないだろうか。正解でもないかもしれないけど。暴力はなんのためか、なんて、そんなもの、そのときの状況によるだろうと言いたくなる。無意味としか思えない暴力も多々ある。
「そうですね」
またも、奥野先生の“そうですね”。この先生は、指名して質問するわりに、生徒の答えなんてどうでもよさそうである。どんな解答がなされても、“そうですね”と一旦は受け入れる。決して頭ごなしに否定することはないし、その点はマシなことなのかもしれないけれど、なぜか、そこには優しさよりも冷たさが感じられた。
「聖書によるならば、最初の名高い暴力というと、カインとアベルの悶着があげられますね。アベルの供物は神に受け入れられ、カインの供物は神に受け入れられなかった。そのことをきっかけに、兄であるカインは弟のアベルを殺しました。殴って殺したのか、刺して殺したのかは、寡聞にして知りませんが。殺人の罪によって、カインは神から印を刻まれました。われわれもまた、吸血鬼となった時点で、罪の印をつけられています。少なくとも、ハンターにとっては、ですがね。しかし、カインにつけられた印は、カインを傷つけようとする者に七倍の罰を与えるという、不可思議なものです。神の意図はともかくとして、われわれもまた、われわれを傷つけようとする者たちに、思い知らせなければなりません。ハンターたちの要求はただひとつ、“死ね”という、とてものむわけにはいかない要求ですから。むざむざとおとなしく殺される義理はありません。理不尽な暴力には、暴力によって対抗するしか、術はないのです。思うのですが、なにもかもをつかさどる峻厳な神があまりにも身近だったカインは、供物を拒まれたことで、自らの生存の危機を感じたのではないでしょうか? その殺人は妬みによるものではなく、自衛のためのものだったのかもしれません。少なくとも、本人の意識の中ではね。われわれもまた、自衛のために、暴力に慣れる必要があります。さて……」
そこで一旦、話を区切って、奥野先生は生徒たちを見まわした。
「きみたちには、身を守る武器として、ナイフが与えられています。今日は、このナイフを使って、訓練をしましょう」
では、ナイフを持ってください、と先生が言うので、各々、持参したナイフを取り出した。昼間の陽光に、鋭利な刃がきらめく。客観的に見ると、とても剣呑な授業風景だ。
「光岡くん。ちょっと、私にナイフを投げてみてください」
「え? 投げる、ですか?」
「はい。念のために言っておきますが、渡してくれ、という意味ではなく、
先生は淡々と促す。
どうせ、僕が本気で殺しにかかったところで、奥野先生を殺すことなんてできないだろう。じゃあ、お言葉に甘えて、と、僕は先生に向かって、無造作にナイフを投げた。もちろん、先生が簡単によけるのを予想しながら。
先生はまったく動かなかった。僕の投げたナイフは、ざくっ、と奥野先生の肩に突き刺さった。わずかに血が飛び散った。
おいおい、勘弁してくれよ。なんでよけないんだよ。
肩にナイフが刺さり、血がにじんだ教師を目前に、生徒たちは固まっていた。投げたのは僕だけど、こんな気まずい沈黙を招き寄せるつもりはなかった。
「せ、先生、血が……」
森木さんが、悲鳴のような声をあげた。
「はい。もちろん、ナイフが刺されば血が流れます」
奥野先生は、こともなげに、指で眼鏡の位置をなおす。そして、肩からナイフを引き抜いた。
「しかし、見ていてくださいよ。これが、われわれ吸血鬼の身体なのです」
先生は、着ている服の袖を引き裂いて、傷口がみんなによく見えるようにした。わずかのあいだ待つと、血が止まった。そして、じくじくとにじんでいた傷口が、みるみると塞がっていく。満開に咲ききった花が、しぼんでいくように。いま振るわれたはずの暴力が、嘘であったかのように。手品のような、現実感のない光景だった。
「光岡くん。ナイフを返しますよ」
そう言って、先生はナイフをこちらにゆっくりと放った。僕は慌ててキャッチする。ナイフには、血の跡がたしかに残っている。決して嘘ではなかったのだ。
「われわれは、頭部、もしくは心臓を完全に破壊されない限りは、死にません。われわれの肉体には、人間よりも圧倒的に勝る再生能力が備わっています。われわれには暴力への根づよい耐性があるのです。本領を発揮できない昼間ですら、些細な傷ならものともしません。ですから心配は無用です。今日の授業では、みなさんそれぞれで、ナイフで殺し合いをしてもらいます。もちろん、本当に殺してはダメですよ。くれぐれも心臓は狙わないように。そうですね、どちらかが先に刺すか切るかすれば、その時点で勝敗が決まることとしましょう。体操着なら、裂けようが破れようが、また新しく支給しますから、心配はいりません。制服のままの方は、着替えてくることをおすすめします。刃物を刺すことに、慣れなさい。相手を傷つけることに、慣れなさい。それが生き延びるコツです」
奥野先生はよどみなく今日の授業内容を説明していく。本当に物騒な授業だな。まあ、でもたしかに、なかなか死なないし傷も残らない身体だから、これくらいなら、訓練の範疇で済むのかもしれない。誤って死ぬ可能性も皆無ではないけれど、人間の学校でだって、柔道や器械体操をやっていて、運悪く命を落とすことだってあり得るのだから、本質的にはそんなに違いはない。
「――私は、ごめんです。だれかを傷つけるなんて、私にはできません。こんな血なまぐさい授業はうんざりです。申し訳ありませんが、この授業は辞退させてもらいます」
森木さんは、静かな怒りと抗議をにじませて、奥野先生に向かってそう言った。
「そうですか。別にかまいませんよ。この学校では、赤学の授業以外は、基本的に参加も不参加も自由ですから。生徒の自主性を重んじる、といったところですかね」
先生は相変わらず、表情も変えずに答える。
森木さんは宣言どおり、その場から足早に退出した。本当に、頑なな
「……すみません。俺も、抜けさせてもらいます」
森木さんの後ろ姿を見送っていた富永は、振り返ると、そんなことを口にした。
奥野先生は黙ったままうなずく。やはり、この先生は、なにもかもどうでもいいと思っているのではないだろうか。常に口調は丁寧なのに、ことあるごとに、どこか投げやりな、すべてを諦めているような心根が垣間見える気がする。
「悪いな、正」
そんなことを僕に小声で言うと、富永は森木さんの後を追った。
富永は――富永の言動が、最近よくわからない。富永は、三島さんのことも森木さんのことも好きなのだろうか。そんな決めつけは短絡的すぎるのか。好きという感情が、僕にはよくわからないので、よくわからなくなった富永の言動は、その感情に結びついているのではないかと、勝手に想像してしまうのだ。
富永は、この変わらない日常から、どうにかして逃れようとしている。そのための出口を探っている。そんな気がした。
「では、参加する方々は、始めてください」
先生のその言葉で、三組の生徒たちは戦闘訓練を、ナイフによる模擬的な殺し合いを開始した。グラウンドのあちこちで、ナイフの刃が閃いた。
「よし、正、やろうか」
血に塗れたナイフを提げた河下が、嬉々として無邪気な笑顔で近づいてくる。大地とはもう勝負を済ませたようだった。大地はあっけなくやられていた。腕を刺された大地は、うへぇ、なんて自分の血を見てわめいて、向こうに座りこんでいた。仲のいいはずなのに、河下も容赦のないことだ。まあ、河下らしいといえばいえる。
大地だって、戦いは嫌いなはずなのに、戦闘訓練には参加していた。それが大地のお人好しなところであり、意志の弱さでもあるのかもしれない
「うーん。どうしてもやらなきゃダメかな」
「おまえ、なに言ってんだよ。やらないなら、なんで富永と一緒に行かなかったんだよ」
「いや、お邪魔かな、と思って」
「は? どういう意味だよ、それ」
「どうでもいいような話だから、気にしなくていいよ」
「じゃあ、気にしねーよ。そんなことはいいから、早くやろうぜ。刺したくてうずうずしてるんだよ」
「危ないやつだな。狂犬かよ、おまえは」
「いくぜ!」
大地は刃物を手に躍りかかってきた。
僕は向かってきた河下の間合いに踏み込み、その一閃をすり抜けるように華麗によける……はずが、呆気なく肘を切りつけられていた。
「あれ?」
血がしたたるのを眺めて、僕は間抜けな声を出した。
「おいおい、張り合いのないやつだな。もう終わりかよ」
拍子抜けしたように河下が言う。
「そうみたいだね。僕は殺された」
「大丈夫かよ、そんなんで。ハンターにやられちまうぞ」
珍しく河下に心配されてしまう。
「そのときはそのときだよ。なんとかなるさ、きっと」
「お気楽だな。真っ先に死ぬんじゃねーか、おまえ」
河下は僕を殺したことで関心をなくして、次の相手を探しにいった。まあ、一戦まじえたことだし、これで一応、訓練の義務は果たしたことになるだろう。
僕は座りこんだ大地の隣に腰を下ろした。ふたりでぼんやりと他のクラスメイトたちの殺し合いごっこを眺める。大地も僕も傷口はとうに塞がっているが、完全に見学モードへと移行していた。人間の学校にも必ずいる、体育から落ちこぼれた連中といった感がある。なんて言うと、大地まで巻き込むようで悪いかな。
「弟とチャンバラごっこをしていたのを思い出すよ。懐かしいな」
訓練の風景を眺めながら大地がつぶやいた。
本物の刃物を振りまわしてはいても、血が流れてはいても、やはりどこか遊び半分なところは抜けきれないようで、訓練の様子には、たしかにそんな牧歌的でのどかな風情があった。危険とたわむれてさえも、呪わしい非現実感はぬぐえない。
「大地って、弟がいるんだ? 初めて聞いたな」
「正は、兄弟は?」
「妹がひとりいるよ。仲はよくもわるくもなかったけど」
しかし、最後にはひどい暴力を加えてしまったから、もしも妹がそれを覚えていたとしたら、さぞや、くたばれクソ兄貴と恨んでいることだろう。まあ、たぶん、僕の存在なんて、家族のあいだではなかったことになっているはずだから、妹が僕を思い出す心配はないだろう。恨みを買わなくて済んだのは、不幸中の幸いといえる。
「弟に会いたいなって、ときどき思うときがあるんだよね。弟はいま何しているのかなあ、とか考えちゃったりしてさ。向こうはもうこっちのことなんて忘れているだろうけどね。正は、妹のことを考えたりする?」
「僕は……あまりないかな」
ほとんどない。家族がどこで何をしていようが、いまや何の関係もつながりもないのだから。家族といっても、自分が人間から吸血鬼になってしまえば、もはや同胞たちよりも距離は遠い。どうせ、二度と会う見込みはないだろうし。ついこのあいだまでは、人間として一緒に生活していたはずなのに、ずいぶんと薄情な話ではあった。これが、吸血鬼特有の、“情動の欠落”というやつだろうか。それとも、単に僕がもともと冷淡なクソ野郎というだけか。
「まあ、まさか兄が吸血鬼になってるとは思わないよね」
大地は笑う。僕も笑う。本当に、バカみたいな話だ。笑うしかない。
「でも弟も両親も、二度と会うことはなくても、幸せだったらいいなって思う。眠りにつくとき、たまに祈ったりしてるんだ」
「へえ。殊勝な心がけだね。親切だね、大地は。僕は家族のために祈ったことなんて一度もないな」
吸血鬼なのに、大地は冷淡でもなく、柔らかで穏やかな情緒を保っているように見える。となると、やっぱりこれはそれぞれの性根によるものか。きっと、吸血鬼になる前から、僕は冷血漢だったのだろう。
「こんなのナイーブすぎるかなって思うんだけど。景行に話したら、絶対にバカにされる。正は嗤わなそうだから」
「河下も祈ったりすることなさそうだもんなあ……。ああ、でも、祈りといっていいかわからないけど、僕も眠るときによく願うことはあるな」
「ふーん、正が願いごとね。意外だな。どんなこと?」
「それは秘密だよ、悪いけど」
どうかそのまま目覚めませんように、明日が訪れませんように、というのが眠る前に僕がたびたび抱く願いなのだが、あまりに後ろ向きなので、他人に言うのは気がひける。そんなことを願ったところで、不死の吸血鬼には、明日は永遠に訪れつづけるのだが。
「あ、ミーくん、サボってるの発見。なにDVとまったりしてるのよ。ちゃんと訓練しなよ。みんな一生懸命に殺し合いしてるんだからさ」
せっかく大地とふたりで座ってのんびりしていたのに、そばを通りがかった玉置さんに見とがめられてしまった。玉置さんは、すでに何戦かまじえたようで、体操着の一部が切り裂かれている。本人は気にしていないようだが、女の子のそんな姿は、ひどく痛ましいものを感じさせるので、視線のやり場に困る。
「いいじゃないか別に。僕が訓練しなくたって、困るのは僕なんだから、それぞれの勝手だよ」
「いざというとき動けなかったら、仲間たちだって困るかもよ。ミーくんの愉快で素敵な仲間たちが襲われたら、訓練不足のミーくんは、おのれの無力さに泣き濡れるというわけね。哀れ、ミーくん」
「愉快で素敵な仲間なんていないしな……」
「たるんでるなあ。よし、ミーくん、あたしと勝負しよう!」
「ええ? 玉置さんと?」
それはさすがに気がひける。申し合わせたわけではないけれど、他のクラスメイトたちも、男子生徒は男子生徒同士、女子生徒は女子生徒同士で戦っている。吸血鬼の異常な身体能力には、男女差なんて関係ないかもしれないが、やはりどこかで人間の頃の古めかしい男女観を引きずってしまっている。
「それはちょっと……」
「なに、ミーくん、あたしが相手だと役不足? あ、ちなみにいまの役不足の使い方は、誤用の方の意味ね。力不足、的な? 言葉って難しいわ、ホント」
「わざと負ければいいんじゃない?」
大地が僕にこっそりとささやく。
「DVさんDVさん、聞こえてますよ、しっかりこっちにも聞こえてますよ。ミーくん、手加減なんてしないで、本気でかかってきなよ。あたしを刺せるものなら刺してみなよ。メッタ刺しにしてあげるから」
玉置さんはなんだかハイになっているようだ。流れる血と振りまわされる刃物に酩酊したのだろうか。というか、この
「……うーん。でも、やっぱり、女性に刃物を向けることはできないよ」
「それは聞き捨てなりませんね」
と、いつのまにか近くに立っていた奥野先生が、口を挟んだ。この先生は、よく気配を消して近づいてくることがあるので、心臓に悪い。
「光岡くん、殺意に性別はありませんよ。きみが躊躇しようがどうしようが、相手はためらわずにきみを殺すでしょう。もしも自らを守りたいのなら、襲いかかるものがだれであれ、きみは相手を排除しなければなりません。慈悲心に、命を賭けるほどの価値はありませんから。それは躓きの石ですよ」
これは、もしかして、怒られているのだろうか。いや、奥野先生が怒るわけなんてないので、単なる忠告か。
それにしても、女子生徒との戦いを拒否したくらいで、なんでここまで言われなきゃならないのだろう。理不尽だ。
「……まあ、殺されそうになったら考えます」
「ミーくん甘すぎー。殺し合いナメすぎー」
玉置さんにけらけら笑われる。
「なるほど。光岡くんがそれでいいのなら、それもいいでしょう。ところで、どうです、私と勝負してみませんか?」
思いもよらぬ相手から勝負を申し込まれた。玉置さんの次は、奥野先生か。なんで、平和裡に体育から落ちこぼれさせてくれないのだろう。
奥野先生の袖は裂けたままで、傷の塞がった肩口をさらしている。まさかさっきの仕返しではないだろうな。この先生に限って、それはないか。それに、ナイフを投げたのは先生の指示だし……。
まあいいや。どうせ敵いそうな相手ではない。拒否するのももう面倒だから、さっさと勝負してさっさと負けよう。
「わかりました。やりますよ」
僕はやけくそのように言った。
というわけで、僕は奥野先生と対峙することになった。間合いを取り、ナイフを構える。
周りの生徒たちが、戦いを一旦やめて、こちらに注目し始めた。やめてほしい。なんでわざわざ負け姿をみんなにさらさなきゃならないのか。早く終わらせたい。
「あれ、そういえば先生、ナイフは?」
奥野先生は手ぶらのままだ。
「必要ありません」
必要ないそうである。じゃあ、僕はどうやって負けたらいいんだ。切るか刺すかしないと、終わらないんじゃなかったっけ。
いやいや、それなら、僕が勝てばいいだけの話だ。ちょっとかすり傷を負わせるだけだ。それくらいなら、僕にもできるはずだろう。
そう覚悟を決めて、じりじりと奥野先生へと距離を詰めていると――ふらり、となにげないような、揺らめくような動きで、あっさりと懐に入られてしまった。
あ、やっぱり負けたな、と僕は冷静に悟った。
腕をとられた僕はされるがままに、地面に引き倒されていた。そして、そのまま、奥野先生は力を込めて僕の左腕をあらぬ方向にねじった。
ぼきり、と鈍い音がした。
それでようやく先生は手を放してくれた。ひどい暴力教師もあったものである。まあ、でも、とにかく終わってはくれたようだ。
左腕を見てみると、ぶらん、と力なく肩からぶら下がっている。完全に折れていた。といっても、あまり応えはしないが。痛みは感じるのだが、麻痺したように遠い。つくづく現実感のない身体である。
「皆さん、ごらんください。骨折は、再生するまでに、切り傷よりも時間がかかります。たとえ強靱な肉体を持とうとも、慢心してはなりません。たとえ吸血鬼でも、自ずと限界はあるのです。油断すれば、再生に時間のかかる重傷を負うことになる。そして、その隙を突いて、ハンターはわれわれにとどめを刺そうとするでしょう。これは、あくまで訓練です。しかし、戦うときは全身全霊を注がなければならないと、いまのうちに、肝に銘じておいてください」
どうやら、僕は教材として使われたようだった。やれやれ。ため息をつきそうになり、なんとかこらえる。
そのとき、奥野先生の顔のそばを、黒い影が素早くかすめた。そして、その影は、先生と僕のあいだに降り立った。
アサガオだった。
「――鴉。光岡くんの使い魔ですか」
先生の頬を、血が流れている。アサガオが、翔る勢いのまま、
「どうやら私はきみの使い魔を怒らせたようですね。獰猛でかぐろい守護天使が、きみを見守っているというわけですか」
「おいおい、アサガオ。大丈夫だよ。心配性だな」
僕はアサガオに近づき、折れてない方の手で、落ち着かせるように羽根を撫でる。それでおさまったのか、アサガオは、先生に向かって威嚇するように一声鳴くと、飛び去っていった。
「奥野先生。戦いの心がまえを教えるためとはいえ、いまのはひどいと思います。そこまですることはないでしょう」
いつも落ち着いて物静かな門野さんが、生真面目な声音で抗議してくれた。おお、珍しい。森木さん以外にも、こんなことを言う生徒はいるんだな。
「そうだねー。先生ひどーい。横暴だー。横暴だー」
門野さんと仲のいい玉置さんが、便乗するように、囃し立てるように言う。どこまでマジなのか全くもってわからない。
「――そうですね。少しやりすぎだったのかもしれません。反省するとしましょう。では、ふたりとも。光岡くんを保健室に連れていってあげてください」
「え? いや、別にそんなのいいですけど……」
「まあまあ、ミーくん。お言葉に甘えときなって」
「行きましょう」
そんなこんなで、僕は玉置さんと門野さんのふたりに付き添われて、保健室へと向かうことになった。
保健室の先生は姿が見えなかった。この学校では、保健室を利用する生徒自体があまりいないので、席を外すことも多いのだろう。別に治療をする必要もなく、再生するのを待つだけなので、勝手にベッドだけ使わせてもらう。
「あ、そうだ。せっかくだから、保健室でダウンしているミーくんを描き残しておこうかな。手帳を取ってくるから待ってて」
そう言って、玉置さんはあわただしく保健室を出ていった。変な
「朋子って、光岡くんのことが好きなのかな」
ふたりきりになった門野さんが、意外なことを口にした。いきなり何を言うのだろう。玉置さんが僕を? 考えたこともなかった。
「……そんなことはないと思うけど」
「そう? わたしには、光岡くんになついているように見えたから。人を好きになるっていう感覚が、わたしにはよくわからないから、想像でしかないのだけど」
僕だってそんなのよくわからない。だいたい、自分で自分のことがあまり好きではないので、他人に好意を抱かれるという想像もぴんと来ない。
「光岡くんは、だれかを好きになったことってある?」
またも妙なことを訊かれる。門野さんは門野さんで、ちょっと風変わりなところがあった。
だれかを好きになったこと……。三島さんのことは、気になってはいるけれど、好きというと、なにか砂利を噛んだような違和感がある。でも、それ以外には、思い浮かぶ相手は特にいなかった。少なくとも、記憶に残っている限りでは。
「たぶん、ないかな。顔立ちが整っているとか、物腰やわらかだとか、印象みたいなものは他人に抱くけど、それと好きっていう感情がどう結びつくのかはわからない。だれかを強く求めるというのは、ぼくにはよくわからない」
「そうなんだ。わたしも、それに近いかな。吸血鬼は情動の欠落者が多いっていうから、そっちの方が多数派なのかもしれないけど。だからなんとなく、朋子のことがわたしには不思議なの。光岡くんは、朋子に気に入られているようだから」
「別に求められてはいないだろうし、オモチャ扱いのような気がするけど。猫みたいな
「朋子は、争いが嫌いなのよ。血が苦手なのよ。だからああやって、はしゃぎまわって、気持ちをまぎらわしている」
そうなのだろうか。まあ、だれにだって陰影はあるものだから、そういうこともあるのかもしれない。
「とにかく、ああ見えて繊細なところのある
そう言い残して、門野さんは保健室を出ていった。傷つけるつもりなんて別にないんだけど……。女の子ってよくわからないな。いや、女の子だけじゃなくて、他人というのはみんなよくわからない。
さて、骨が治ってくれるまで、ひと休みだ。そう思って保健室のベッドに横になると、だれかが入ってきた。玉置さんが戻ってきたのかと思ったら、訓練をサボった富永だった。
「正、大丈夫か? なんか、奥野先生に刃向かって、手ひどくぶちのめされたって聞いたけど」
もう噂話に尾ひれがついている。
「刃向かってないし、ぶちのめされたってほどでもないよ。教育効果のために、ちょっと腕の骨を折られただけ」
「なんだ、心配して損した」
富永は笑って、それから流し台の蛇口に近づき、コップに血を注いで持ってきてくれた。
「まあ、血でも飲んで元気だせよ。災難だったな」
「ありがとう」
僕はコップを受け取り、ゆっくりと血を飲み干した。富永はそれを見届けると、
「じゃあ、俺は野暮用があるから」
と言って、そそくさと立ち去っていった。
こいつもなにやってんだかよくわからないしな。心配して来てくれたというのは、ありがたいことではあるけれど。
本当に、学校というのは、生徒が人間だろうと吸血鬼だろうと、色んなやつが集まる場所であることに変わりはない。それが面白いときもあれば、面倒くさいときもある。
気づけば、腕はもう問題なく動くようだった。しかしせっかくなので、今日は授業を全部サボって、放課後までふて寝しよう。保健室はサボり魔の楽園だ。遠慮なく眠りを
ちなみに、手帳を取りに行ったはずの玉置さんは、いつになっても戻ってこなかった。あとで聞いてみたら、「太陽がまぶしかったから」気が変わったのだという。やっぱり、女の子はよくわからない。
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