*小学三年 雪あかり
冬になっても、コンビニの前には見慣れた少年の姿があった。遠目に看板が見えると同時に、その姿もすぐに見つけられる。梨田は半分ほど暮れた空に視線を向けていた。西に向かうにつれて変化するグラデーションはうつくしいが、彼の目には写っていないようだった。
梨田の口から吐き出された白い息が、なかなか消えずに通りを漂うたび、「もうやめよう」と言うべきか香月は迷う。けれど、梨田だってどうせ通り道なのだからと毎回自分にいいわけして、断る言葉を飲み込んでいた。
深く積もった雪は音を吸収してしまい、香月の小さな足音は梨田に届いていない。それでも何かの気配を感じ取ったように、いつも15m手前で梨田は顔を上げる。香月を見つけて、寒さでこわばった顔をほっとゆるめると一度コンビニの中に入り、外で待っていた香月のところへ小走りでもどってくる。
「はい」
梨田が分けてくれるおやつは、アイスクリームから肉まんに変わっていた。半分に割った肉まんからは少し湯気が上がったけれど、受け取った白い生地はすでに人肌程度のあたたかさしかなかった。
「ありがとう」
少しでもぬくもりを逃さぬように、急いで口に含む。中の餡がそれなりにあたたかいせいで、生地の冷たさがいっそう感じられた。
ほんのふた口で食べ終えた梨田が歩き出すので、香月も肉まんを食べながらあとを追う。
「寒いなー」
ぎゅっ、ぎゅっ、と深い雪を踏みしめて、梨田がスキー用の防水手袋に包まれた手を顔に当てた。歩道につけられた道は一人分の幅しかない。ふたりで帰るには一列に並んで進むか、どちらかが雪藪の中を進まなければならなかった。梨田は最初から雪藪の中を歩いていた。
「こっちの道歩いたら?」
スペースを空けて歩道を譲っても、梨田はそのまま雪の中を歩きつづけた。
「一列になると声聞こえない」
「だったらわたしが雪を歩く」
「別に平気だから。おれ、雪好きだし」
いつもよりさらにほっぺたを赤くする梨田が、平気そうには思えない。けれど断固として香月に歩道を譲るので、居心地の悪さに耐えながら隣を歩いた。
「おれ、雪が好きなんだ」
踏みしめる雪を見下ろしながら、梨田はくり返す。冬休みが明けてからめっきり口数が減った梨田のその仕草は、まるでうなだれているように見えた。
ぎゅっ、ぎゅっ、
雪が梨田の足元でつぶされていく。車通りが多いのに、その音はなぜか痛いほどにはっきり聞こえた。
少し先の信号が赤になったらしく、車の通りがやんだ。うす暗くなった歩道では、獣道と雪藪の境さえあいまいになる。ただ雪だけが、内側から光でも放っているかのようにあかるかった。
「カズキも、東京に行くよね?」
立ち止まった梨田が、雪あかりの中でうるんだような目を向けていた。
「ここからなら関東奨励会だろ? だったら、東京に行くよね?」
「東京に行く」その言葉に痛みを覚えたせいで、梨田が使った「カズキも」という言い方に気づけなかった。
「東京には、行かない」
梨田の目は見られず、踏まれた雪に話しかけるようにつぶやいた。
「じゃあ、奨励会にはここから通うの?」
実は梨田に将棋で勝った直後、香月は女子から距離を持たれていた。仲間意識、嫉妬、いろんな感情がまざり合った結果だろう。「いじめ」というほどでもない。しかし桃の産毛ほどに小さな棘は、確実に香月を消耗させていた。
ほどなくクラス替えがあり、香月も別の友達ができて、ひとりでいるようなことはなくなったが、学校で将棋の話はしなくなった。
それでも将棋はやめなかった。ここから奨励会に通って、いつかプロになる。将棋への情熱と努力さえあれば、それは叶うのだと思っていた。
「奨励会には行かない。プロになるのは……あきらめる」
正月に親戚と交わされた会話で知ってしまった。奨励会に入ると、どれほどお金がかかるのか。どれほど周囲の協力が必要なのか。休みなく働く母にとてつもない負担をかけることになる。それは香月の情熱や努力で補えるものではなかった。
「……なんで?」
梨田の声は震えていた。寒さのせいでないこともわかっていた。
「なんで? カズキ、なんで?」
将棋を好きな自分を梨田は受け入れてくれた。それが香月にとってどんなに救いであったか、梨田との時間が心踊るものであったか、梨田自身は知らないだろう。
生来、自己主張するよりは耐えることが多かった香月は、このときも胸の内を洗いざらい話すことができなかった。
「お母さんに、言いにくくて」
「カズキのお母さんってそんなに怖いの?」
「そんなことないけど」
「じゃあ、将棋より勉強しなさいって言う人?」
「そういうことでもないんだけど」
煮え切らない香月の態度に、梨田は焦れてしまったらしい。怒りを含んだ強い口調で言った。
「カズキ、家出しよう」
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