*小学二年 雪どけ

 二組の転校生が来る。

 男子の間で怪談のように噂が伝播していっても、香月はふたたび無関心を貫いていた。一組でいちばん強い子を負かした彼は、三組でいちばん強い大紀に対戦の申し込みをしてきたらしい。「勝った方が昼休みのドッジボールの場所を全部使ってもいい」という条件付きで。

 気温が徐々に上がってきた三月。雪どけがすすんで、校庭はいつもどろどろ。雪遊びもできず、鬼ごっこやサッカーもできないので、生徒たちは体育館の使用場所を争うか、クラス内で将棋やトランプをするしかなかった。エネルギーを持て余していた少年たちにとって、それは願ってもないチャンスだったのだ。


「だったら香月がやればいいよ。だって香月のほうが強いんだから」


 ドッジボールの場所欲しさにだれかがそう言い出した。戸惑う香月や、唇を噛む大紀の気持ちをくみ取れる子などいない。


「絶対勝てよ!」

「男爵に負けたら三組の恥だ!」


 本人の了承を得ることなく給食後に組まれた対局は、もはや二組と三組の威信をかけたものになっていた。


「『男爵』って?」


 聞き慣れない言葉に香月が首をかしげると、陽介が何かにおびえるように声をひそめて教えてくれた。


「二組の転校生。そういうあだ名なんだって」


 “男爵”などという立派なあだ名で呼ばれ、東京から来た将棋の強い転校生。きっと洗練された容姿をしていて、庶民を見下すような尊大な人間に違いない。

 にわかに緊張した香月の前に、彼は散歩でもするような暢気さで現れた。そして、


「あれ? カズキって女なの?」


 とやわらかく高い声で言ったのだ。それはバカにしたわけでも、落胆したわけでもない純粋な驚きの声だった。驚きはしたもののすぐに「じゃあカズキ、将棋しようよ」とふわっと笑って、香月の返答も待たずに「女の子とやるのって初めてだなあ」と前の席のイスをくるりと反対に向けた。


「なんで“男爵“なの?」


 目の前の男の子があまりに自然体だったので、本来人見知りの激しい香月も、臆せず話しかけることができた。がっしりと堅そうな身体つきで、パンパンに張ったほっぺたが赤くいろづいている少年には、お世辞にも貴族的な雰囲気はない。東京からやってきた、というだけで都会的なイメージを持っていた香月は、少しがっかりしたほどだ。

 落ち着いていた“男爵”が、その質問には不服そうに口を尖らせた。


「前の学校でじゃがいもを植える授業があって、それでだれかがそのじゃがいもがおれに似てるって言い出したんだ」

「あ、じゃがいもの『男爵』?」

「そう。単純だろ?」

「でも前の学校のあだ名なんだよね?」

「自己紹介で言ったら、こっちでも呼ばれるようになった」

「言わなきゃよかったのに」

「うん。バカだよな」


 他人事のようにのんびりした声で『男爵』は言って、さっそく将棋盤に駒をザラザラと出した。そしてそのままお互いに手を出さず、動きを止めて見つめ合う。


「王将、使ってもいいよ」


 男爵は人差し指で王将を香月のほうに押しやった。


「わたしは玉将でいい」


 同じように人差し指で、香月は王将を戻す。

 将棋は上位の者が先に王将を取り、そこから交互に並べていくのだけれど、どちらが上位かわからない。そしてどちらも王将を取らなかった。仕方なく男爵は今度、玉将を香月のほうに滑らせてきた。


「おれ、もう一個持ってくる」


 そう言って、遠巻きに見ていた大紀に近づいて「その玉将ちょっと貸して」と頼んだ。ずっと不機嫌だった大紀だが、男爵の屈託のない態度に押される形で玉将を渡す。手に入れた玉将をかかげて、男爵は自慢気に笑った。


「おれはこっち」


 双玉そうぎょくの対局が始まろうとして、香月はふと思う。


「ねえ、名前なんていうの?」

「梨田史彦。カズキは?」

「杉江香月」

「じゃあ、よろしくお願いします」

「あ、よろしくお願いします」


 学校で対局前に挨拶する人はいなかったので、香月は一瞬出遅れた。梨田の挨拶はごく自然体で、将棋に対する愛情と真摯さが感じられるものだった。

 しかしおだやかな第一印象と違い、将棋になると梨田はまるで顔と指は別々のように厳しかった。将棋はまず攻め方を覚えるので、たいていの子は相手玉を追いつづける。しかし梨田は、香月が積極的に出した銀を見て、玉のとなりにスッと金を寄せた。受けの手を指すということは、それなりにできる子なのだとわかる。安易な攻めは軽くいなされるので、香月も慎重に駒を取ることから梨田に迫ろうとする。それを梨田が、もともと赤いほっぺたをさらに赤くしてどっしりと受け止める。「受け将棋」という言葉さえ知らなかった香月にも、梨田の大きな身体がひと周りもふた周りも大きく見えた。

 それでも兄たちとの対局で慣れている香月のほうが、幾分上手だったらしい。ふんだんに駒得して攻めに転じると、着実に一枚一枚、梨田の守りを剥がしていった。最初は勢いよく指していた梨田も、腕を組み、少し首を傾けて考えこむようになってきた。そして裸同然になった玉将を、典型的な頭金の形で詰ませてしまった。


 ピシッ


 その金を見て、梨田はほっぺただけでなく顔全体を真っ赤に染めて、まばたきひとつしない目から涙をこぼした。


「もう……将棋はしない。絶対」


 それが香月が見た梨田の最初の涙で、最初の投了だった。




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