▲3手 晩夏
急いで帰った自宅は日昼の熱がこもっていて、しかもキッチンの窓から入る西日が一段と室温を上げていた。窓を大きく開けて換気を試みるが、そよとも風は入ってこない。
「夕食も一緒に」という兄夫婦の誘いは、あいまいな言い訳をならべて断った。とにかく早くひとりになって、向き合いたいことがあったからだ。
ベッドに座って携帯で『梨田史彦』と検索する。棋士であれば公式のプロフィールなどがかんたんに出てくるけれど、梨田はまだ奨励会員なので、奨励会成績といくつかの棋譜以外の情報はほとんどわからない。それでもわずかに探し出せた写真は、確かに今日見たあの記録係で、同時に角度によっては『男爵』の面影も感じられた。
梨田は本当に奨励会員になっていた。
奨励会とは、将棋のプロ棋士を養成する機関で、試験により選抜された幼い精鋭たちが、競い合いながら昇級昇段していくところだ。
6級から二段までは一定の成績(それでもすべて勝率7割以上)をあげれば上がれるけれど、三段からプロである四段に上がるためには、三段同士で半年間に18局戦って上位二人に入らなければならない。半年で二人、一年で四人。これが将棋のプロ棋士になれる“定員”だ。
驚きはしたものの、これは自然なことでもあった。梨田はかんたんに折れたりあきらめたりする子ではなかったから。
卒業以来一度も開いたことのなかった卒業アルバムを開くと、パリッと音が立った。しかしめくったその中に、梨田の姿はない。
ページの間から取り出したのは、三年生のとき遠足で撮った集合写真と、ノートの切れ端。集合写真の梨田は、同級生の中では大きなほうだが、まだ背は低い。ずんぐりとした体型で、日差しがまぶしいのか眉根を寄せてしかめっ面をしている。
『カズキ!』
高くてやさしい声をしていたのに、今日聞いた秒読みの声は低く、そして覇気のないものだった。それはそのまま、奨励会の苦しさをかたどったように見えた。
四月~九月の三段リーグにおいて、梨田は二局を残した段階で10勝6敗。現在第四位。残り二局を全部勝ったとして、上位二人に入れるかどうかは微妙なところだった。
奨励会には年齢制限があり、二十一歳までに初段、二十六歳までに四段になれなければ、強制的に退会となる。梨田に残された時間はあと一期。
まさに薄氷を踏むようなギリギリの状態で、梨田は今も戦っている。ここを離れてからずっと戦い続けている。その事実に香月は目も眩むような羨望を覚えた。一度は同じ場所にいたのに、今はこんなにも遠い。
首筋を汗が伝い落ちるのを感じてハンカチを当てる。
今は、夏だったっけ。
素直に反応する身体とは別に、心は星冴ゆる冬へと戻っていた。あの夜、空はどこまでも果てなく暗く、逆に地上はかがやくほどにあかるかった。その不思議なあかるみの中で、普段から赤いほっぺたをさらに赤くして、震える指で駒を掴む少年。音も人の気配もしないあの時間は、幼かった香月には真夜中に思えたけれど、ちょうど今と同じ、夜の入り口だった。
換気はほとんど意味をなさないので、エアコンのスイッチを入れて窓を閉めた。十七時を回っても明るい空を背景に、家並みが黒々とした影を連ねている。地表にはすでに夜の気配があるのに、上空はいつまでも陽の名残りを惜しむ。その空を、香月はいつまでも眺めていた。
*
九月。梨田は12勝6敗の二位で、四段昇段を決めた。同じ勝ち星の人は他に三人いたけれど、その場合は前期の成績上位者が昇段する。前期六位という位置がギリギリ梨田を拾った形だった。
梨田は十月一日付けで正式にプロ棋士となり、テレビ棋戦の記録は取らなくなった。タイトル戦や人気棋士でなければ、そうそう対局は中継されない。梨田の姿を見ることはなくなり、香月は専門誌やネットに載った新四段のインタビュー記事と、録画したテレビ棋戦をくり返し見つづけた。
『三段リーグは思っていた以上に厳しく、年齢的にも不安があったので、昇段できてほっとしています。悪くなっても粘り強く指して、より良い将棋、より強い棋士を目指して頑張ります』
一日過ぎるごとに日脚は短くなり、王座が決まるころにはエアコンからファンヒーターにかわった。冷たい雨の日が増え、竜王戦も佳境を迎える。
また、冬がくる。
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