*小学三年 葉ざくら

 梨田に勝って以来、香月はふたたび息をひそめるように生活していた。そのため三年生のクラス替えで梨田と一緒になっても、学校では将棋を指さない香月と、将棋ばかりしている梨田では接点がなかった。

 パチッ、パチッという駒音が聞こえてはいる。けれど、反応しないことにももう慣れ切っていた。将棋は男の子の遊び。

 高校卒業と同時に県庁に就職した竜也は遠い市の地域振興局に勤めていて、月に一、二度しか帰ってこられない。桂太は短大で理学療法士の勉強をしているため、学校の寮に入っていた。そのため母が仕事の間、香月はひとりで留守番をし、土曜日は少し離れた祖母の家に預けられていた。

 夕方になると、祖母はいつも車で送ってくれるのだが、その日は急に知人が亡くなってしまったらしい。


「タクシーを呼ぶから、かづちゃんはそれで帰ってね」


 近所の人や知人との電話の合間に、祖母は香月のためのタクシーを呼ぼうとした。しかし香月は、タクシーがとてもお金のかかるものであることが気になった。


「歩いて帰るから大丈夫」

「かづちゃんだったら一時間近くかかるよ?」

「道は知ってるし大丈夫」

「ダメよ。暗くなったら危ないでしょう」

「暗くなる前に帰るから大丈夫!」


 祖母はかたくなにタクシーを呼ぶというが、香月のほうでも譲らない。そのくらいには大人なのだと祖母や母に示したい気持ちが強くなっていて、けれどそれがワガママであることに気づけるほど大人ではなかった。

 人の多い大きな道を歩くこと。わからなくなったらお店に入って道を聞くこと。家に着いたら祖母の携帯に連絡すること。それらを固く約束させられ、困ったらタクシーを呼ぶように三千円をバッグに入れられた。


「おばあちゃん、またね!」


 五月も半ばを過ぎると、日はだいぶ長くなっていた。黄いろ味を帯びながらも消える気配のない青空を見上げて、香月はとても誇らしい気持ちで歩きはじめた。車では数え切れないほど通った道も、歩いてみると全然違って見える。パチンコ屋さんの喧噪も、ハンバーガー屋さんのパンの匂いも、部活帰りの高校生が自転車で駆け抜けて行く様子も、すべてが自分で勝ち取った戦利品のようにうれしかった。

 しかし楽しめていたのは最初だけ。歩いても歩いても進んでいる気がしない長い国道は、果てのない世界に迷い込んだように香月をよるべない気持ちにさせた。車の通りも、通り過ぎて行く人もたくさんいるのに、だれひとり頼れる人がいない。困ったらお店に入ってタクシーを呼んでもらう、という祖母との約束も、不安に駆られて自信を失っていた香月には守れそうもなかった。

 また一台、自転車が横を通り過ぎていく。うつむいていた香月には、そのタイヤの一部が視界の端に見えただけだった。

 キイイ、とプレーキの音がして、その自転車がすぐ近くで止まる。不思議に思って顔を上げると、メタリックブルーのその自転車にはガチッとした体型の少年が乗っていて、ふり返る体勢で香月を見ていた。


「カズキ? こんなところでなにしてるの?」


 あの対局以来話したことはないのに、『男爵』は昨日も話したような当たり前の口調で話しかけてきた。


「おばあちゃんの家から帰るところ。……男爵は?」


 少し迷ったけれど、香月は『男爵』と呼びかけた。去年までは幼稚園の名残で名前で呼んでいたけれど、今はみんな名字で呼び合っている。梨田は『男爵』や『梨田』と呼ばれ、香月も『杉江』と呼ばれていた。梨田が『カズキ』と呼ぶので名前で呼んだ方がいいのかためらったのだが、『史彦』と呼ぶのはなんだか恥ずかしかった。

 梨田は特別そのことには反応しなかった。恐らく『史彦』と呼んでも同じだっただろう。


「おれは……」


 気まずそうに目を逸らす様子を見て、香月は梨田が今来た道をふり返った。そこをずっと行くと、池西将棋道場がある。県内でもアマチュア強豪だった池西先生が趣味で始めたような小さな道場で、数人の小学生と常連さんが通っているところだ。竜也に連れられて、香月も何度か行ったことがある。

 見えないはずの将棋道場を見つめる仕草で、梨田のほうもバレたことに気づいた。


「ああ、うん。そう」


 あいまいながら肯定の返事をする。


「学区の外にひとりで出ちゃいけないんだよ」

「カズキだって」

「わたしはおばあちゃんの家だもん。保護者が一緒だもん」

「今はひとりじゃないか」

「今は……男爵とふたりだもん」

「おれはカズキの保護者じゃないよ」


 梨田は自転車を降りて香月の隣に並んだ。

 いつの間にか頭上はすみれ色に変わっていたが、それでも家々の間からあふれる夕陽はまぶしく、まだしばらくは夜を追い返しそうだった。その夕陽の中で、短くカットされた梨田の髪の毛は明るく透けていた。きんいろのようで、もっとやさしくやわらかい、触れたくなるようないろ。香月はそのいろがとても好きだと思った。


「カズキは道場行かないの?」

「お兄ちゃんに連れて行ってもらったことはある」

「いつもはどうやって練習してるの? お兄ちゃんに教えてもらってるの?」

「ううん。お兄ちゃんは仕事で別のところに住んでるから、いつもはパソコンのソフトとかネットで指してる」


 母親はほとんどパソコンを使えないが、竜也が使わなくなった古いパソコンを実家用につないでくれた。最初はソフトだけ使っていた香月だが、ネットで対局をしたくて、去年の誕生日プレゼント代わりにインターネットの契約をしてもらったのだ。それを聞いて梨田はしぶい顔をする。


「ネットが悪いわけじゃないけど、ネットでばっかり指してると早指しの癖がついて抜けなくなるよ?」


 どこかの大人に言われたに違いない、背伸びした言葉だった。悪意のない借り物の言葉であっても、香月の気持ちを沈めるには十分な力がある。


「仕方ないじゃない。他に方法がないんだから」


 ムキになり、梨田を追い越して先を急ぐ。どんなに早歩きしたところで、自転車の梨田はすぐに香月を追い越すだろう。メタリックブルーの自転車が無情に走り去るのを、香月は覚悟した。しかし梨田は自転車を小走りで押して、ふたたび隣に並ぶ。


「学校では感想戦(対局者同士が行うその対局の振り返り)ってしないよね」


 香月の不機嫌に気づいているのかいないのか、梨田は変わらない調子で話しかけてきた。


「感想戦はゲームじゃないから、楽しくないんじゃない?」

「でも感想戦しないと強くなれないだろ?」

「男爵だって、わたしとやったとき感想戦しなかったじゃない」


 痛いところをつかれて、梨田は言葉に詰まった。うまく言い逃れるほど器用ではないので、結局素直に答える。


「だって、悔しすぎて」


 どっしり受け止める棋風きふうと同じで、梨田の人当たりはやわらかくまっすぐだ。泣くほど悔しがる姿でさえ、その印象を深めるばかりだった。

 ゆるやかな風が吹いて、川沿いの桜が葉をさわさわと鳴らした。ひと月前はあんなに華やかな姿だったのに、今は息をひそめるようにしずかなささやきだった。その桜並木の下を行く分かれ道の前で、梨田が足を止めてふり返る。


「カズキはこっち?」


 梨田が指さしたのは国道を直進する道だったので、香月はこくんと頷いた。


「ガソリンスタンドの向かいを右に曲がったところ」


 梨田はずっとつづく国道の先を見て、それからふわっと笑った。


「そっか。おれも同じ」


 梨田が少し前を歩き出したので、小走りで隣に並んだ。


「最初、カズキって男だと思ってた」

「驚いてたよね」

「なんで『カズキ』っていうの?」


 一瞬立ち止まって、スニーカーの踵に書かれた『杉江香月』の文字を見せる。


「ちゃんと女の子の名前だよ。最初は『香歩かほ』って名前にしようと思ってたんだって。『香車』の『香』と『歩』」

「お父さん、将棋好きなんだな」

「すっごく狂ってたみたい」

「今は?」

「わたしが生まれる前に事故で死んじゃった」


 梨田の足が止まったので、ふり返る形になった。逆光でその表情は読み取りにくいけれど、眉間に寄った皺ははっきりと見えた。


「あの、ごめん。おれ……」

「大丈夫。わたしが生まれたときにはいなかったから、さみしいなんて思ったことない。お兄ちゃんたちもいるし」


 あっけらかんとした返答に、梨田はほっとしてふたたび歩き出す。


「お父さんの名前が『和樹かずき』だったの。それでお母さんが『香月』って字にして名前を付けてくれた」

「お父さんの名前だったんだ」

「ひらがなで書いても違うよ。呼ぶと同じだけど」

「『香車』はいいよね」


 梨田の視線は、終わりの見えない、ひたすらに伸びた国道を見ていた。


「どうして?」

「香車は前にならどこまでも行けるから。後ろにも横にも行けないところが格好いい」


 盤の上を香車がまっすぐに走っていく姿が目に浮かんだ。自分の名前の由来でもあるから『香車』にはそれなりに思い入れがあったけれど、そんな風に考えたことはなかった。

 この瞬間、香月にとって香車が何より好きな駒になった。


 あんなに遠く果てなく感じた道も、梨田と会話しているうちに、いつの間にか家の前に着いていた。ずいぶん夜が深くなっていて、梨田の表情もはっきりとは見えない。


「じゃあ、わたしの家はここだから」


 自転車に跨がる梨田に、ずっと気になっていたことを問いかける。


「男爵の家ってどの辺なの?」


 梨田は道の向こうを指さす。


「ここからもう少し先。あっちの方」

「近いの?」

「自転車ならすぐ」

「そっか。気をつけてね」


 梨田は軽く手を上げると、力を込めてペダルを踏み込む。その姿はまたたく間に小さくなり、曲がり角でもう一度手を上げると見えなくなった。


 家の中に入ると、脚がぐったりと疲れてあることに気づいた。こんなに歩いたのは久しぶりで、倒れるようにソファーに沈み込む。すぐにトロトロと眠りに誘われ、香月はおばあちゃんに電話することも忘れて、楽しかった時間を思い出しながら意識を手放した。


 次の土曜日もまた車で送るという祖母を必死に説得して、香月はひとりで歩いて帰ることにした。今度こそ帰ったらちゃんと電話する、という約束をして。

 月曜日に学校で顔を合わせたとき、香月は梨田に「おはよう」と声を掛けた。また将棋の話をし出すかと思った梨田は、しかし軽くうなずくように頭を下げ、「おはよ」と小さくこぼしただけで男子の輪に入ってしまう。休み時間になると一心に将棋盤に向かっていて、香月の存在なんて覚えてもいないように見えた。

 あれは、夢?

 梨田はこれまでと変わらず、ただ同じ空間にいるだけの存在だった。

 だから香月はもう一度だけ、同じ時間に、同じ道を歩いてみようと思った。そうしたら、またあの目を輝かせた少年が、将棋道場の帰りに通りかかるかもしれないと思って。

 ひとりで歩く道はやはり長く退屈だった。いつもなら頭の中で駒を動かして時間をつぶすけれど、自転車が通り過ぎるたび目で追うせいで、盤がうまく描けない。

 国道に出て埃でかすむ道の先を見遣ると、少し先のコンビニの前に腕を組んで立つ少年の姿があった。あえて同じスピードを維持して近づくと、あと15mという距離で梨田は顔を上げた。


「あのさ」


 香月を認識すると、何の前置きもなくポケットから紙を取り出す。


「これ、解ける?」


 書かれていたのは詰将棋だった。


「何手詰め?」

「五手」

「うーーーーーん」


 渡された詰将棋を見ていると、梨田は自転車を引いて先に歩き出した。香月も歩きながら考え続ける。


「▲1二馬?」

「それ詰まなかった」

「うーーーーーん」

「難しいだろ?」

「うん」


 お互いにぶつぶつ言いながら考えているうちに、靴屋も花屋も美容院も通り過ぎた。強烈な夕陽が、古くてヒビの入ったアスファルトに、ふたり分の濃い影を作っている。


「金、捨てたらどうかな?」

「△同玉?」

「馬が寄って」


 しわしわに折り目のついた紙を梨田の前に広げて、指さしながら説明する。


「詰んだよね?」

「詰んだ」


「あーーーーーー」と梨田はすっきりとした顔で笑って、すぐに悔しそうに表情を歪める。


「やっぱり、まだカズキには勝てそうにないな」

「もう一回やったらわからないよ」

「いや。絶対勝てるって思うまではやらない」


 梨田はふてくされたように、折り目とは違う位置で紙を折り曲げ、クシャクシャとポケットに突っ込んだ。そして、まぶしさに目を細める。


「わー、すごい夕焼け」


 ふたりのうしろには金いろがかったオレンジが空いっぱいに広がっていた。梨田の全身も赤っぽく、髪の毛は透き通るようなやわらかいいろに染まっている。こんな夕陽に気づかないほど、紙と頭の中の将棋盤とお互いのことしか見えていなかった。

 教室では特別したしくしない。けれど、何かを約束したわけではないのに、梨田は毎週土曜日、将棋道場の帰りにはコンビニで香月を待っていた。香月も祖母の家からは毎回歩いて帰るようになった。学校とは別の切り離された時間を、秘密のように共有して。





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