*小学三年 蝉しぐれ

 車の助手席で梨田は黙って窓の外に顔を向けていた。その頬に強めの冷房が当たっている。父親がバックミラー越しに後部座席の香月に話しかけているものの、香月は居心地悪そうにポツリポツリと答えるだけ。


「香月ちゃん、宿題は終わった?」

「あ、はい」

「え? 全部?」

「えっと、プリントとドリルは終わりました」

「あとは何が残ってるの?」

「工作だけ」

「そうかー。もうそんなに終わったんだ。偉いなー」


 梨田が会話に加わらなければいけないことはわかっていたけれど、胸の中の嵐はまだ収まりそうもない。きちんと膝の上でそろえられた香月の手には、図書カードが入った封筒がある。将棋道場で開かれた『夏休み子ども将棋大会低学年の部』の優勝商品だ。


 学校の将棋熱はすっかり落ち着いて、今でも将棋を指しているのなんて、梨田とあと数人くらいになっていた。しかも梨田は三年生では敵なしで、友達と戦うときは駒を落として(減らして)ハンデをつけて戦うことさえある。将棋道場でも同じくらいの年の子になら負けないし、大人にだって勝てるようになってきた。だから自分は当然優勝するつもりで出場するけれど、最大のライバルである香月も誘ったのだ。


「来週の水曜日、道場で夏休み子ども将棋大会があるの知ってる?」


 封を開けたアイスの箱をずいっと押しつけると、香月は迷ったように梨田の顔を見た。それでも「ありがと」と、付属のピックでチョコレートコーティングされたひと口サイズのアイスをひとつ、口に入れた。もぐもぐと口を動かしながら、小さく首を横に振る。


「おれ出るんだけど。カズキも出ない?」


 香月から受け取ったピックでアイスを口に入れると、チョコレートコーティングからバニラアイスがやわらかく溶けた。いつも以上に甘ったる感じ、こっそり顔をしかめる。


「その日はお母さんもお兄ちゃんもいないから無理」


 アイスを飲み込んだ香月は、感情の読めない顔できっぱりと断ってきた。


「おれのお父さんが連れて行ってくれるから、カズキも迎えに行くよ」

「でも、」

「カズキのお母さんにもちゃんと話してもらうから」


 遮るものもなく照りつける太陽は、夕方とは思えないほど高い位置にある。梨田の背中には、汗でTシャツが張り付いていた。


「ぜったい来て! それでふたりで決勝に行こう! 約束!」


 ベタついた小指を差し出すと、ためらうように香月も小指を絡めた。


 梨田は香月と自分が優勝を争うのだと、信じて疑っていなかった。そして今度こそ香月に勝って雪辱を晴らすつもりだった。それなのに。

 勇んで向かったはずの梨田の目の前には、きれいに詰んだ盤面が広がっていた。一手詰み。駒の動かし方を覚えた人なら、すぐにでも詰ませるほどにわかりやすい投了の局面だった。しかも、対戦相手は香月ではない。

 トーナメントの組み合わせ上、香月とは準決勝で当たることになっていた。お互い順当に勝ち上がった場合、香月と梨田、勝った方が決勝に進むことになる。それでも事実上の決勝は自分たちだと思って梨田は対局に臨み、あっさり一回戦の相手に負けてしまったのだ。何度か顔を見たことはあったけれど、相手にもしていない子だった。だけど負けた。

 負けはわかっているのに投了できずにいるのは、現実を受け入れられないせいだった。相手の少年は、容赦なく持ち駒の金を叩きつける。

 梨田の喉の奥からぐうううっといううめき声が漏れる。けれど本人はそれを自覚していない。もう一手だって指す手はなく、投了するか時間切れで負けるかの二つしか選択肢はなかった。

 梨田は素早く何度か呼吸する。涙がすぐそこまで迫っていて、深い呼吸にならないのだ。それでも落ち着いてはっきりと投了を告げたつもりだった。


「負━━━━━」


 こみ上げる嗚咽が鼻に抜けて言葉にならなかった。頭を下げたせいで、目頭にたまっていた涙が机の上に落ちる。

 油断以外何ものでもない。楽に勝てる相手だと軽視して臨んだ結果、敗退してしまった。相手の玉にきれいな詰み筋を発見して、勝ったと思った。自玉の詰みを見落としていた。対する相手の少年は、お互いの玉が詰むまでの速度計算を、きっちり読みきっていた。全力を出して負けるならよかったが、恥ずかしい敗戦だった。しかもそのすべてを香月に見られている。香月の顔を見られなかった。

 感想戦どころではなくて、鼻と口を押さえるようにしてトイレにかけ込む。対局を待つ香月が視線を向けてきたことはわかっていたけれど、身体ごと避けて逃げた。

 それでも香月を置いて帰れるはずはなく、同じ車でふてくされた背中を見せるしかない。


「そんなにちゃんと勉強して、将来何になるの?」

「将棋のプロ棋士になりたいです」


 決して大きな声ではなかったのに、それは梨田の中にまでしっかり届いた。


「そうなんだ! 女流棋士かあ」

「いえ、女流じゃなくて、ちゃんと奨励会を抜けたプロになりたいんです」


 それまで遠慮がちにしていた香月が、ここだけきっぱりと言い切った。

 将棋の棋士になる道は、本来男女の別なく門戸が開かれている。しかし、養成機関である奨励会を抜けて四段に昇段した女性は、現在一人もいない。

 女流棋士というのは女性にだけ用意されているもので、奨励会の下部組織である研修会を経たり、奨励会を退会後にその権利を得たり、アマチュア棋戦での成績によって資格を得たりと、いくつか道がある。女流棋士は基本的に女流棋戦に出場するのだが、そこで好成績を残すと男性も出場する棋戦に出られることもある。けれど、あくまで奨励会を抜けた棋士とは別枠だ。

 香月が女流棋士を否定して「奨励会を抜ける」と言ったのは、男性棋士と肩を並べる位置を目指す、という意味だった。

 しかし、梨田も梨田の父も、そんなことだとは知らない。


「そうか、そうか。すごいなあ。がんばってね」


 父の言葉に香月があいまいに笑ってうなずくのを、梨田は不思議な気持ちで眺めていた。

 将棋が楽しくて、毎日そのことばかりを考えていた。強さには自信があるし、もっともっと強くなりたい。もっともっと強くなれる。そしてそのうち香月よりも強くなる。そう思ってきたけれど、香月はその先を見つめていたのだ。

 将棋のプロって何だろう? どうやったらなれるんだろう?


「すごい蝉」


 赤信号で停まったとき、窓に軽く手を触れながら香月がつぶやいた。視線の先には官公庁街に突然森を植え付けたような公園がある。もともと市立病院だった土地をそのまま公園にしたため、少し不自然に見える。夜になると不気味な噂もある場所だが蝉には関係ないらしく、夏を謳歌するがごとく元気な声が響いていた。


「ああ、今年は蝉が大量発生したみたいだね」


 香月と父の会話を聞いて、梨田も窓の外に目を向ける。言われてみると、これまで聞いたこともないほど数も多いような気がする。


「そういえば、最近は蝉しぐれなんて聞かなくなったな。香月ちゃんは聞いたことある? すごくいっぱいの蝉の声」


 蝉の声にかき消されそうなほど小さく、香月は首を横に振った。


「じゃあ、ちょっと寄り道して山の方に行ってみようか。今年なら聞けるかもしれないから」


 父が向かったのは、雪が積もるとスキー場となる場所だった。その駐車場の脇から細い遊歩道が山の上へとつづいている。


「やっぱり、こっちの方がすごいな」


 父が言うように、車のドアを開けた瞬間から、わんわんという蝉の声に包まれた。遊歩道は一応整備されているものの、少し進むとほとんど森の中。途中、公園と呼べるほど大きなものではないが広場があり、すべり台とぶらんこ、鉄棒といったわずかな遊具があった。この道の先には神社があるらしい。

 蝉の声はさらに濃度を増し、もう自分の足音さえ聞こえない。山全体が鳴っているような騒々しさなのに、自分ひとりにしか聞こえない耳鳴りのようにも思える。すぐ近くにいるはずの父や香月の気配すら薄くなり、時間も場所も曖昧になった。


「なんか、こんなにうるさいと、逆に静かだね」


 すぐそばで香月の声がした。蝉の声で聞こえないと思ったのか、耳に吐息がかかるくらいの距離だった。

 驚いた梨田が勢いよくふり向くと、香月は今日はじめて楽しそうに笑って、降ってくる音を目で追うように空を仰いだ。その顔にブナの葉陰がやわらかく揺れる。

 わんわんと蝉の声が渦を巻く。その中で、楽しそうに目をかがやかせる香月と「プロ棋士になりたい」という声だけがくっきりと感じられた。










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