*小学三年 星あかり

 梨田にとっては、到底納得できる話ではなかった。


「家出する覚悟を示せばきっと伝わると思う。そんなに長い時間じゃなくていい。ひと晩」


 子どもがひと晩行方不明になったら、きっと母親は心配して、香月の想いをわかってくれるだろう。香月と一緒にプロを目指す。梨田の想いはそれだけだった。

 何か言いたげに開いた香月の口から言葉が出ることはなく、浅い呼吸だけがこぼれている。一向にうなずかない香月を見て、梨田は口調を強めた。


「カズキならきっと棋士になれる。そのチャンスを逃がすなんてもったいないよ」


 声には次第に怒りがこもっていった。両親も妹もいて、裕福とは言えないまでも生活に困ったところのない梨田に、香月の気持ちが想像できるわけがなかった。

 それでもきっぱり断ることができない香月の迷いは、確かに梨田に伝わっていた。手袋に包まれた手がその気持ちを表すように、握っては開くをくり返している。手袋とコートの隙間から覗く、細くて白い手首を梨田は掴んだ。


「家出しないなら、おれが誘拐する」


 強く引っ張ると、ほんの一瞬抵抗して、それでも香月はついてきた。

 家出するにも誘拐するにも、小学生の梨田に宛てなどあるはずもない。足にまかせて歩いていたら、秘密基地だと思いこんでいる保健所の車庫裏に向かっていた。普段から人通りは多くないが、土日は特にひとけがない。古くなって今は物置小屋と化している車庫の裏のスペースを、梨田はたびたび遊び場に使っていた。


「雪の上に座ると濡れるから」


 途中、スーパーマーケットの裏口で「苦うま緑茶」と「すっきり烏龍茶」のダンボール箱を拾って、引きずりながら歩いた。丈夫なダンボール箱は紙といえど重く、つるつる滑る手袋では思った以上の握力が必要だった。それでも、これが香月を助けるために必要な苦労なのだと、懸命に引きずりつづけた。

 人の通らない車庫裏は当然除雪されておらず、膝上まで雪が積もって、半分埋まりながら進んだ。三方を壁に囲まれたスペースをふたり分足で踏み固めて、ダンボール箱を敷く。

 少しだけ高くなっているその場所からは、市が所有している畑が見える。今は一面の雪野原で、その中を単線の線路が渡っていた。

 三方を壁で囲まれていても、畑を渡ってくる空気は冷たい。ふるえる香月を奥に入れて、梨田は自分で蓋をするように隣に座った。


「これからどうするの?」


 香月に問われて梨田は考えた。これでは家出だろうと誘拐だろうと変わらない。誘拐と言ったのだから、何かそれらしいことをしなければならない。


「カズキのお母さんは何時に帰ってくるの?」

「五時過ぎ、かな」

「じゃあ、そのころに電話して要求を伝える。それまでは電源切っておくよ。GPS使われたくないから」


 携帯電話の電源を切ってしまったため、時間もわからないまま香月も梨田も黙っていた。いつもなら他愛ない会話がつづくのに、今は沈黙ばかりが降りている。


「寒いね」


 やっと口を開いた香月がそう言うから困ってしまう。梨田だって首筋や顔が冷えて、痛いくらいなのだから。梨田は自分をも励ますつもりで答える。


「でも、雪は降ってないから大丈夫。風もほとんどないし」


 昼間はとても気持ちのいい晴天だった。雪雲は彼方の底に沈み、クリームを溶かしたようなやわらかな青空が、街全体に広がっていた。雪に照り映える世界はあかるく、通り過ぎる車のフロントガラスに太陽の光がきらりきらりと反射する。まさに冬晴れの陽気な一日だった。

 今はほとんど闇に呑まれて、山の稜線にたゆたうあかりはぼんやりとにごっていた。それでも真上の空は雲ひとつなく、いつもより澄んだ空気が星あかりを一層かがやかせている。

 そんな空を見上げた香月がにっこりと笑う。


「本当だ。こんなに天気だと、屋根いらないね」


 電車が何本か通り過ぎたころ、山々の間に残っていた最後の残り火が、夜に吸い込まれた。

 それからもうしばらく待って、ようやく携帯の電源を入れる。六時三分という時刻を確認したところで、梨田は香月に電話を渡した。


「カズキの家の番号入れて」

「お母さんの携帯しかない」

「それでいい」


 香月は暗記している番号を入れて、そのまま梨田に返した。梨田はすばやく何度か深呼吸して、通話ボタンを押す。

 プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル━━━━━


「出ない」


 何度鳴らしても香月の母親は出ない。もしかしたら知らない番号は警戒しているのかもしれない。そう思って一度切ろうとした瞬間。


『…………もしもし?』


 あきらかに不審そうな問いかけが、電話の向こうから聞こえた。切るところだったから油断して、かける前に考えたはずの脅迫文も、すべて真っ白に吹き飛んでしまった。


「あ、あの! 杉江香月さんのお母さんですか?」

『香月を知ってるんですか!?』


 飛びつくような反応で、相当心配していたのだとわかった。罪悪感が胸を突く。


「えっと、おれ、梨田史彦と言います」

『梨田……君?』


 犯人自ら名乗ってしまったことにも気づかず、梨田は必死に言葉をかき集める。


「香月さんを誘拐しました。それで、あの、返してほしいなら、香月さんを奨励会に入れてあげてください! お願いします! カズキなら、絶対、絶対、棋士になれると思うんです! だからお願いします!」


 見えない母親に頭を下げながら必死に伝えた。香月がどれほど将棋が強いのか、どれほど将棋が好きなのか、自分がそれをどれほど尊敬しているのか、言いたいことは身体の中を渦巻いているけれど、口に出すと吐息とともに消えてしまう。伝わらないもどかしさに、自分が情けなくなって涙が出そうだった。


『今、どこにいるの?』


 冷静さを取り戻した香月の母親の問いかけに、うっかり答えそうになったけれど、そこはこらえる。


「言えません」

『もう遅い時間よ? お家の人も心配してると思う』

「いいんです。約束してくれるまで返しません」


 母親の沈黙がつづき、梨田が次の言葉を待っていると、電話を持つ腕を香月が引いた。見ると、電話を切るように手振りで示してくる。相手の反応を待つ必要はなかったのだとようやく気づいて、梨田は耳から電話を離した。そして思い出してもう一度話しかける。


「あの、もしおれの親に連絡するなら『絶対に転校はしない』って伝えてください。じゃあ、さよなら!」


 今度は相手が何か言う前に電源ごと通話を切った。緊張で固くなっていた身体が、深いため息とともにほどける。

 携帯電話をポケットに突っ込むと、香月が目を見開いてまっすぐに梨田を見ていた。


「転校するの?」


 悪さが見つかったみたいに言葉に詰まって、梨田は目を逸らし、小さくうなずいたあと、打ち消すように首を横にふり直した。


「いつ?」

「……今月いっぱいで、東京に帰るって」


 香月は少し顔を上げて宙を見つめる。頭の中にカレンダーを呼び出していたようだ。


「あと、一週間、ない」

「……うん」


 梨田の父親は転勤ではなく、長期の『出張』だったのだ。出張だから期間は不確定で、最初から仕事が終わればすぐに戻ることになっていた。本宅はずっと東京にあり、父はすでに戻っている。けれど、梨田たち兄妹は今月いっぱい学校に残ることにしていた。


「でも! おれ行かないから!」

「どうして?」

「え……だって……」


 梨田にとって、ここでの生活はとても大事なものだった。ただのゲームだった将棋が生き甲斐に思えたのも、その将棋に生活のすべてをかけるようになったのも、香月と出会ったからだ。

 香月と一緒に棋士を目指す。

 それは梨田には当然のことだった。しかし香月は梨田を責めるような目をして言った。


「東京なら奨励会に行けるのに」


 香月の言葉の意味が、梨田にはわからなかった。奨励会ならここから通う。池西将棋道場に通って、そのうち小学生名人戦で優勝して、それで奨励会に入って、一緒に棋士になればいい。梨田から見て、離れる理由はなかった。

 言葉に詰まる梨田に、香月は諭すように言う。


「東京に行って、奨励会に入って、棋士になった方がいいよ。男爵は男の子なんだから」


 女性で奨励会を抜けた人はいない。それはなぜなのか、香月や梨田はわからないけれど、「男だったら棋士になれる」という共通の認識があった。それでも梨田は、香月が女性で最初の棋士になればいいと思っていたし、なれるものだと信じて疑っていなかった。


「わたしも男の子に生まれたかったな」


 遮るものさえないほど星々はくっきりと見えるのに、なぜかいつもよりも遠く感じる。そんな夜だった。きらめきの中をスキップしたくなる昼間が嘘のように、音さえ凍る夜だった。

 畳んだダンボール箱はそれなりに厚みがあったけれど、それ自体がパリパリに凍ったように冷たい。座っていたらお尻が冷えるので、ふたりはやむなくしゃがんだ体勢をとった。それでもすぐに曲げた足首や膝がキシキシと痛み、時折立って身体を動かす。立ったら立ったで寒く、すぐにしゃがんで身体を抱え込む。そのくり返しだった。

 ドドドドドドドッ、と音がして、香月の隣で雪煙が上がる。屋根から雪が落ちたのだ。

 おどろきすぎて声も出せず、ビクンとふるえた香月の帽子は、白く染まっていた。


「カズキ! 大丈夫?」

「……びっくり、した」


 帽子を脱いで雪を払う香月の腕を引き、自分のいた場所と入れかえる。しかし車庫の屋根はどこも雪が積もっていて、安全だと思える場所はなかった。

 梨田は少し後悔していた。香月を連れてきたことではなく、十分な準備ができなかったことに。

 膝に顔を埋めるようにして耐える香月を、どうにかあたためてあげたいが、何の手立てもない。自分の着ているスノーウェアを香月に譲ろうか。そんな殊勝な考えも、首筋から入り込む冷気の前に打ち砕かれた。


「星、きれいだね」


 上目遣いで空を見上げる香月のまつげには、細かな雪のひとひらが溶けずに残っていた。まばたきするたび、その雪も一緒に瞬く。それを見ていた梨田は、なぜか泣きたくなった。夜空はあまりに遠く深く、あれが“空”ではなく“宇宙”なのだと、はじめて理解できるようだった。

 ふたりは宇宙の底にいた。宇宙の底で、たかが小学生の梨田にできることは何もない。あまりに無力だった。


「……将棋、しようか」


 香月の返答を待たず、背負っていた青いリュックからゴソゴソと盤と駒を取り出した。車庫の隙間は陰になっていて暗いので、保健所前にある街灯の真下までダンボール箱を持っていき、その上に盤と駒を広げた。それを見て、香月は笑う。


「あのとき、『もう将棋はしない』って言ってたくせにね」


 梨田の盤は蝶番が壊れて割れ、ガムテープで止められていた。香月に負けたのが悔しくて、その場で叩き割ったのだ。


「将棋やめられなかったね」


 あっさり宣言を破った梨田に、香月はやわらかな声を投げかける。


「家に帰るまではやらなかったよ」

「盤が割れてたからでしょう?」

「そのあとも、何日か学校ではやらなかった」

「家では?」

「……やってた」


 仏頂面のまま梨田は玉将を香月の方に滑らせる。そしてリュックのポケットからもうひとつ玉将を取り出して、自分の前に並べた。

 カチッ、カチッ、

 一面に広がるしじまの中に、不器用な駒音だけが響く。手袋をつけたままではうまく掴めず、いつもより時間をかけて並べ終わると、どちらからともなく顔を見合わせた。


「カズキの歩先ふせんでいいよ。今のところ、負けてるのはおれだから」


 先手か後手かは、時に勝敗を左右する。それを決めるのがごまで、歩を五枚手の中で振り、“歩”の数が多いと”振り歩先”の人が先手、“と金”の数が多ければもう片方が先手となる。駒を振るのは“振り歩先”で、それは通常上位の者だった。

 少しだけ梨田の表情を伺ってから、香月はそっと手袋をはずした。街灯と雪の中で、人形のように青白い手に駒を五枚乗せる。カシャカシャという音が小さな手の中から漏れ、手を開いて落ちた駒は“歩”が四枚。

 香月が再び駒を並べると、梨田も手袋を脱いで雪の上に置いた。固い筋肉を動かして、ぎこちない笑顔を向け合う。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 先手である香月が飛車先の歩をすすめる。それを見て梨田は、ひと呼吸おいてから角道を空けた。

 たった一手。歩をひとつ進めただけのその手で、梨田は将棋の世界に没頭した。先手の利を生かして攻撃的に進める香月の手を、軽くかわす。そして揺さぶりをかけるように攻めの手をくり出した。いつも確信を持って指す香月の手が迷う。それでも緩めることなく、さらに前に出た。


「え! この手、受けないの? 強気過ぎるよ、カズキ」


 予想を上回る苛烈な攻めに、梨田は受けに回らざるを得なくなる。


「だって、強く出ないと受け切られそう」


 駒を掴む香月の指先は寒さでぎこちなく、真っ赤に染まっている。それでも、そこには灯がともったような強さがあった。梨田の指先もすでに感覚がなくなっていて、わかるのは駒音と、ほのかな雪の匂いばかり。

 香月の攻めは鋭いがリスクも大きく、丁寧に受けていたら切らすことができた。梨田はそこから一気に攻撃に転じる。受けが苦手な香月は、とたんに動揺し出した。そうして生まれた隙に、梨田の角が香月の玉に迫る。香月の長いまつげが、おどろきに震えた。梨田の飛車の位置や桂馬の打ちどころ、歩の突き捨てばかり考えていて、角は見えていなかったらしい。焦って逃がした玉の先に、ずっと狙っていた桂馬を打ちこむ。

 盤上は明らかに梨田が支配していた。めちゃくちゃな手を指してくる級友と違って、香月は一本筋道の通った手を指す。だからこそ、次に考えることが手に取るようにわかった。常にその一歩先に、梨田は駒を進めていく。香月が読んでいるだろう手とは別の手を追い打ちで差し向けた。

 白い息を盤に落としながら、香月が駒を逃がす。サラサラとした髪の毛が顔を覆っていて、梨田にその表情は見えない。

 ふいに、香月が両手を祈るように合わせ、真っ白な息を吹きかけた。何度かすり合わせるようにしたあと、梨田から顔を隠すように横を向く。その目元で光るのは雪ではない。顔を上げた香月は、きらきらと膜が張った目を細めて、まぶしいほど清らかな笑顔を見せた。


「負けました」


 冴え渡ったこの夜空と同じように清々しい声だった。凍てつく雪の中では特別に響くような。

 心に沁みる笑顔を見ているのに、梨田の胸は痛みでいっぱいだった。


「ここで? まだ、つづけられるのに」


 盤を見るように目線を落として、香月は首を振った。


「もう無理。勝てない」


 絶望的に適わないと思っていた香月には、いつの間にか届いていた。早い投了ではあったけれど、梨田の勝ちに間違いはない。

 こんなにうつくしい投了ははじめてだった。そして、投了されてうれしくなかったのもはじめてだった。


「カズキは、あきらめるときも潔いんだな」


 空気をさらに凍らせる言葉にも、香月は反応せず、盤を見たままだった。

 サクサクと雪を踏みしめる音がして、香月が顔におどろきと恐怖を浮かべた瞬間、梨田の脳天に激痛が走った。


「いっっっっっってえーーー!!!!」


 首が埋まるほど強く殴られ、涙目でふり返った梨田を見下ろしていたのは、東京に戻ったはずの梨田の父だった。


「史彦!! こんな時間までよそのお嬢さん連れ回して、何考えてるんだ!」


 さらに二発ほど頭と顔を殴られ、目からはとうとう涙がこぼれたけれど、それはあくまで痛みに対するもの。梨田の気持ちは全然折れていなかった。


「なんで……」


 父が引っ越しの準備に戻ってきたことにも、妹が秘密基地を告げ口したことにも思い至る余裕はなく、殴られた場所をさする。


「お前の行くところなんて、そうそうあるわけない。━━━━━香月ちゃん、大丈夫?」


 急に口調をやさしく変えて父親は香月の顔を覗き込む。おどろいたままの香月は、ただこくこくとうなずくだけ。


「杉江さん、本当に申し訳ありませんでした」


 父親が頭を下げた先には、困ったような顔で佇む女性と若い男性がいた。


「……お母さん。竜也兄さん」


 呼びかけるというよりも独り言に近いつぶやきを発して、香月は下を向いてしまう。座り込んでいた梨田は急いで立ち上がり、パンツやウェアについた雪を払うことすらせずに、香月と母親の間に入り込んだ。


「おばさん! お願いします。カズキを奨励会に入れてください! お願いします!」


 梨田の必死な声にも、香月の母親は反応しなかった。疲れ切ったその顔からは、何の感情も読みとれない。ただ、立ちふさがる梨田の肩に、カサカサに荒れた手をやさしく乗せた。


「梨田君、香月のためにどうもありがとう」


 梨田の反応を待つことなく、今度は香月の正面にしゃがみ込んで目線を合わせた。


「香月」


 決然とした声で呼ばれ、香月は顔を上げる。


「奨励会に、入りたい?」


 怒ることも笑うこともしない母親の表情に、香月が息を飲むのがわかった。きっと今香月がうなずいたら、その願いは聞き届けられるような気がした。そしてそれに応えるべく、香月も人生のすべてを賭けなければならなくなる。梨田は香月がうなずくことだけをじっと待った。

 ところが、香月は少しだけ顔を動かして街灯の灯りの中に広げられた将棋盤を見ると、そのままゆっくりと確実に首を横にふった。


「奨励会には行かない」

「……なんで? カズキ、なんで?」


 香月よりもずっと絶望した声で梨田は言った。そんな梨田に、香月は固まった顔の筋肉を懸命に持ち上げて笑顔を作る。


「男爵に負けているようじゃ、棋士になんてなれないよ」


 香月の母親は、しばらく娘の顔を見ていた。言葉ではなく、その表情を受け取るように。

 そしてしずかに「わかった」と言って立ち上がる。


「さあ、帰りましょう」


 言葉を失う子どもたちを親が促す。


「杉江さん、本当に申し訳ありませんでした。お詫びは後日改めて」

「いえ、香月の意志でもあったでしょうからお詫びは結構です。こちらこそご迷惑をおかけしました。とにかくもう今日は帰りましょう」


 雪藪を越えて、それぞれが親の車へと引っ張られていく。


「カズキ!」


 母親と兄に挟まれて、足元ばかり見て歩く香月が気がかりで、梨田は大声で呼んだ。香月は顔を上げ、小さく手を振る。


「また、学校で」



 車の中で父は不機嫌だったが、それも気にならないくらい梨田はもっと不機嫌だった。たった一度負けたくらいで夢をあきらめるなんて。一緒に棋士を目指すという夢を、香月の方から手放されたことがショックでならなかった。


「史彦」

「んー」


 父の小言がくることを予想して、梨田は面倒臭い気持ちで窓の外に目をやった。


「奨励会に入るとどれくらい金がかかるか考えたことあるか?」


 思いがけない質問に父の方をふり返る。


「お金、かかるの?」

「当たり前だ。慈善事業じゃあるまいし」


 転校する前に通っていた水泳教室や書道教室の月謝がいくらだったのか、梨田は知らない。考える手がかりさえないままボーッと父を見ていると、信号を見たまま嘆息される。


「入会金十万。それ以外に会費が月一万でこれは十二ヶ月分を毎年一括払いする。だけど、それよりかかるのが交通費。月二回の奨励会を往復するとして、夜行バスを使っても片道一万くらい。だから月四万。子どもひとりで行かせるわけにはいかないから、大人の分も合わせて八万。毎月、何年も、これをずっと続けるんだ。こんな言い方は失礼だけど、多分、杉江さんの家では出せないと思う。……香月ちゃんには絶対言うなよ」


 千円を越える棋書にも手が届かない梨田にとって、数万単位の話は手に余る。そして、香月の家が片親であったことも、今思い出した。


「東京や大阪から離れた地域からなかなか棋士が出ないのは、こういう事情もあると思う。練習相手もいない。金もかかる。そこを突破するのは、余程の才能とそれを応援してくれる環境が必要だ」


 親は口うるさいものだけど、やることなすこと否定されてきたわけではない。実際、宿題もせずに将棋道場に通っても、食事もそこそこに詰将棋に没頭しても、両親は何も言わない。

 香月の母親だって娘を思い通りに束縛しているわけでないことはわかった。つまり、香月を取り巻く環境が難しいのだ。


『東京なら奨励会に行けるのに』


 習い事のような感覚で通えるところではない。ここから奨励会に行くということは、人生を捧げるという並々ならぬ覚悟が必要なのだ。そして香月もそのことをよくわかっている。


『わたしも男の子に生まれたかったな』


 それでももし、香月が男だったら、無理をわかって一歩進んだかもしれない。それとも、梨田が勝たなければ、香月は迷いながらもうなずいただろうか。どれもこれも、いまさらどうにもできないことだった。


「明日、改めて杉江さんの家に謝りに行くからな。よりによってこんな冷え込んだ日に雪の中に連れ出すなんて」

「雪降ってなかったから大丈夫だと思って」

「雪が降らないから余計に寒いんだよ」


 雪が降らない日は冷える。これは雪国に住む人間ならば、誰もが体感で理解していることだったけれど、東京育ちの梨田は知らなかった。


「放射冷却っていうんだ。雲がないから雪は降らないけど、その分直接上空に熱が逃げて行く。今夜は氷点下だよ」


 気温の話をする父の言葉を聞きながら、梨田はウインドウ越しに空を見上げる。あたたかい車内から見るそれは、香月と見上げた宇宙とは違って、ただの闇だった。


「お父さん」

「なんだ?」

「東京にも将棋道場ってある?」

「選び放題だな」


 雪が降らない日は寒い。泣けずに笑う香月の心も、地上の熱と一緒にあの宇宙へ逃げていったような、そんな気がしていた。







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