▲5手 寒月

 長湯で上気した頬を手の甲で冷やしながら、香月と美優は廊下を歩いていた。お風呂から上がった人たちは休憩スペースで飲み物を飲んだり、お土産を見て回ったり、夜に入っても旅館内は活気に満ちている。

 手のひら大の大きな駒の将棋があって、そこでは小学生の男の子が数人固まって将棋を指している。楽しげな笑い声を響かせつつも真剣なその横顔を見て、赤いほっぺたの少年に思いを馳せていたから、香月はそれが幻聴ではないかと思った。


「カズキ?」


 何度も何度もテレビを通して聞いた声。懐かしいなんて思えないほど低くなっていて、その声で呼ばれるのには慣れていない。

 まさかと思って見ると、テレビや雑誌でくり返し見つづけた棋士が、同じようにおどろいた顔で香月を見ていた。


「うわー、久しぶり! やっぱりカズキだ!」


 一気に破顔して、足取り軽く走ってくる。そのあかるい顔にもうクマはなく、全身が内側から発光しているような生命力を感じた。あまりにおどろいて声も出せずにいたので、相手はその反応を誤解したようだ。


「あ……もしかして覚えてない? 俺、小学校のとき同じクラスだった梨田。途中で転校しちゃったけど」

「あ」


 忘れてなどいるはずないのに、そんなことは言えなくなっていた。隣で怪訝な表情をしていた美優が事情を察して、「私、先に部屋に戻ってるね」と行ってしまったために、向き合うしかなくなってしまう。

 梨田は目を細めて懐かしそうに香月を見下ろす。その顔をまともに見返すことができす、もじもじと持っていたタオルを持ち直した。そのとき左手にはめられた指輪が照明でキラリと光り、反射的にタオルの内側に左手をもぐりこませた。指輪を見られることが、なぜだかたまらなく気まずくて。


「俺、棋士になったんだ」


 知ってる。そう言うべきなのだろうけれど、香月は白々しく嘘をついた。


「へえー! そうだったんだ! すごいね。おめでとう!」


「おめでとう」だけは万感の気持ちがこもる。


「将棋、好きだったもんね」

「俺のこと、全然覚えてないくせに」

「覚えてるよ! こんなところで会うと思ってなかったからビックリしただけ」

「本当に偶然。でも、カズキには伝えたいと思ってたから、会えてよかった」


 梨田はテレビや雑誌で見たままの棋士だったけれど、同じだけ確かにあの”男爵”だった。声は変わっても、見た目が大人びても、会話の速度やリズム、選ぶ言葉に自然と反応していた。記憶の彼方の少年と憧れの棋士との間が、みるみる縮まって0になる。


「出世したからお茶くらい奢ってあげるよ」


 そう言ってポケットの中を手で探りながら自動販売機に向かう梨田を、小走りで追いかける。


「それなら、むしろ私にお祝いさせてよ」

「お祝いがペットボトル一本? ケチだな」

「じゃあ、何ならいいの?」


 梨田はじっと香月を見下ろした。幼い頃から背が低かった香月は、小学生のときでさえ梨田に見下ろされていたけれど、その距離がさらに広がっていることを実感した。


「……すぐに思いつかないから、飲みながら考える」


 畳でくつろげるスペースも、マッサージチェアも、ゆったりした応接セットのようなものも、休憩スペースにはたくさんの種類があったけれど、香月と梨田は自動販売機の前に無造作に置かれた長イスに座った。


「カズキはやっぱり女だったんだな」


 冷たい緑茶をひと口飲んで、正面の販売機を見たまま梨田は言った。出会ったとき、単純なおどろきで言われたものと同じ言葉は、今どことなく照れを含んで香月の耳に届く。思わずタオルで浴衣の襟元を隠すと、その反応を見た梨田は失言したことを悟ってあわて出した。


「いや! 変な意味じゃなくて! 昔はほら、女の子って言っても将棋仲間で、越えられなくて、性別とか意識してなかったっていうか」


 言いたいことは十分に伝わったので、笑ってうなずいた。気恥ずかしさから、買ってもらった烏龍茶を手の中で転がす。


「梨田先生は━━━━━」

「さすがにカズキから”先生”って呼ばれるのはちょっと……」

「じゃあ“男爵”?」

「あはは! それ、懐かしいな」

「全然“男爵”じゃなくなったもんね」

「そう?」

「うん。メガネ、かけたし」


 本当はもっと言うべきことはあったけれど、浮かんでくる言葉はどれも気恥ずかしくて言えなかった。香月は烏龍茶でそれらを流し込み、別の質問を投げかける。


「大変だったでしょ?」

「うん。予想より、ずっと」


 香月が目指せなかった場所を、梨田は越えてきた。その短い返答に込められた重みを受け取るように、しばらく黙々と烏龍茶を飲んだ。

 あんなに憧れた棋士が、今隣にいる。それなのに、十年以上会っていなかったのに、梨田と話すことには何の違和感もなかった。

 そのまま黙っていると、畳の上で何かに没頭していた少年のグループが、チラチラとこちらを見ていることに気づいた。その少年たちに向かって、梨田が笑顔で手招きする。


「実は今、将棋教室の合宿中なんだ。昨日から二泊三日で明日まで。その生徒たち」

「合宿なんてあるんだ」

「うん。夏休みとか冬休みに」


 隣に香月がいるせいでしり込みしながらも、少年たちは近づいてくる。


「偶然友達に会ったんだ」


 梨田が説明すると、バラバラながら「こんばんはあ」とちゃんと頭を下げて挨拶する。香月も笑顔で「こんばんは」と返すと、素直にほっとした表情をした。『決定版!将棋名局大全』などという本を抱えていても、中身はやはり小学生なのだ。

 梨田が視線で問うと、中央に立っていた少年が眉を下げながらタブレットを梨田に差し出した。


「もう詰まされそうで……」


 梨田の手に渡ったタブレットには、将棋盤が広がっていた。合宿なのだから将棋はさんざんやっただろうに、今も将棋ソフトをしていたらしい。けれど、合宿に参加するほど将棋に夢中な子どもならば、どんなゲームより将棋がいちばんたのしいのだ。将棋しか見えていなかった幼少期を持つ香月にも、その気持ちはよくわかった。

 ディスプレイをチラリと一瞥した梨田は、ふっと口元を綻ばせて、タブレットを香月に押しつけてきた。


「このお姉ちゃんも将棋強いんだ」

「え!」


 動揺する香月に、子どもたちの視線が集まる。


「俺なんて瞬殺されたんだから」

「ちょっと! そんな大昔の話……」


 香月の訴えも聞こえていただろうに、梨田はタブレットを引っ込めず、また子どもたちからプロ棋士に勝ったという憧れの視線を向けられ、香月に逃げ場はない。しぶしぶ見た盤面は、竜に大暴れされたのか自玉はボロボロに崩壊しており、駒損も差がついている。これはもう投了間近ではないかと思ったけれど、勝手に終わらせるわけにもいかない。とりあえず、差し支えなさそうな歩をひとつ進めると、その歩が元々いたマスにスパンと桂馬が打ち込まれた。


「あーあ」


 すぐ隣でタブレットを覗いていた少年が、がっくりと肩を落とす。


「その桂馬を打ち込まれないように、あの歩を打っておいたのに」

「ご、ごめん……」


 いたたまれずに、梨田の腕にぐいぐいとタブレットを押しつけた。身体を震わせて笑っていた梨田は、ふっと息を吐いて盤に向き合う。収まらない笑いを口元に残したまま、スイスイと指していく。

 間近で見る梨田の指は、細く長くつるりとしていた。それでいて健康的な赤みが差しているので作り物っぽくはない。将棋専用に機能美を追求したら、こんな形になるのではないかと思わせる手だった。


「さっきの歩、ひどい悪手だな」

「だから、ごめんって!」


 どうにもならないと思われた局面は、動けていなかった角が馬に成って攻守に利き、持て余し気味だった香車も交換して持ち駒とする。瞬く間に、すべての駒が意味を持って活躍し出した。梨田を前後左右から囲むようにタブレットを覗いている少年たちも、「すげー!」と目をかがやかせている。梨田はノータイムでどんどん指すのに、ソフトの方が考える時間が増えてきて、とうとう投了した。


「おおーーーーー!!」


 少年たちは興奮しながらタブレットを見て、また羨望の眼差しを梨田に向ける。少年たちと同じ次元に戻っていた香月も、その手に強い憧憬を抱いた。梨田がやさしく解説する言葉を、少年たちは一言一句聞き逃すまいと懸命に耳を傾け、


「ありがとうございました!」


 最後はそろって頭を下げて帰っていった。


「すごいね」

「かなりやさしいソフトだし、そこはさすがにプロだから」


 少年たちの背を見やる梨田に誇ったところはなく、あの程度は勝って当たり前なのだと教えられる。香月が目指したかったプロの位置と、自分がそこからいかに遠いのかを、改めて突きつけられる思いだった。

 胸いっぱいで見つめるその横顔が、曇っていることに気づいたのは、梨田が三口ほど緑茶を飲んでも、決して香月に視線を向けなくなったからだった。


「あの、どうかした?」

「カズキさ……結婚するの?」

「え? ……あ!」


 隠していたはずの左手がすっかり見えていた。薬指の指輪はダイヤの小ささにも関わらず、異様なほど存在感を放っている。思わずかくんと落とした首を、梨田は肯定と受け取った。


「そっか」


 緑茶をひと口飲んで、すぐにもうひと口飲む。


「そっか。……そっか」


 いまさら隠しても意味はないのに、そっと右手をかぶせる。梨田は何度か小さくうなずいて、ようやく香月に視線を向けた。


「おめでとう」


 香月は烏龍茶を見たまま、黙ってわずかに口角を上げる。


「あ、そうだ。俺、昇段した記念に指導対局イベントに呼ばれたんだ。池西将棋道場」


 気を取り直したように、あかるい笑顔で言った。


「四月の第二日曜日。カズキも来て。一度カズキをメタメタに負かしてみたかったんだ。お祝いはそれでいい」

「もう負けてるのに」

「あんな投了、俺は納得してない」

「四月の第二日曜……」

「あ、もちろん。旦那さんがいいって言ったらね」


 四月ならば、旦那さんどころか付き合っている人すらいなくなっているだろう。よほどのことがない限り行ってしまうのだろうが、香月はなんとなく言葉を濁した。


「仕事の都合がついたらね」

「じゃあ、約束」


 一度香月に伸ばした手を、梨田はすぐに引っ込めた。そして乾杯するように、緑茶のペットボトルを香月の烏龍茶にペコンとぶつける。


「俺は約束守ったからな」





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