*小学三年 風邪とアイスクリーム

 色褪せた白い天井に、いつもの癖で九マスの格子を描きかけ、香月は意識的にそれを打ち消し目を閉じた。

 家出の翌朝から、香月は熱を出していた。幼少期はよく高熱を出していたが、それも最近ではめっきり減っていたのに。当然学校も休んでいる。

 もう一度見上げたら、また将棋盤を思い浮かべてしまいそうだったので、窓のほうに寝返りを打ってから目を開ける。薄いカーテン越しの部屋は、昼間なのにぼんやりと暗い。少しだけ頭を上げてカーテンの裾を持ち上げると、白く曇った窓ガラスの向こうで、雪の影が絶え間なくはらはらと落ちている。重く濃い雲は、香月の部屋だけでなく街全体を暗く沈めていた。

 こんなに薄いカーテンでも多少は断熱効果があるようで、パジャマの首元に冷気が入り込んでくる。ぶるっと震えが走ったので、急いでカーテンを元に戻し、布団を鼻の下まで引っ張り上げた。身体の節々が痛い。瞼を閉じていてさえ世界がぐるぐる回る。この二日は、鰹出汁のきいたおかゆも、ぬるいスポーツドリンクも気持ち悪くて、ひたすら吐き気に耐えていた。

 その間に梨田とその両親が謝罪に来ていたらしい。もちろん“誘拐”を真に受けるわけではないけれど、香月が熱を出してしまったために、余計に責任を感じたのだろう。母との長い押し問答の末、治療費は受け取らなかったものの、菓子折とたくさんの果物はありがたくいただいた。


「かづちゃん、何か食べる?」


 仕事のある母に代わって看病に来てくれた祖母が、いただいた品々を並べる。りんご、バナナ、オレンジ、キウイ、いちご、洋梨。立派なそれらの隣に、チョコレートコーティングされたバニラアイスの小箱も並ぶ。好きではないのに、この夏さんざん食べたもの。


「そのアイスは……」

「これ食べる? ちょっと消化に悪そうだけど、食べられそうなら食べようか」


 断るタイミングを逃していると、小箱のフィルムを外してコンビニのビニール袋に捨てようとした祖母が、その手を止めた。


「あら、お手紙?」


 ビニール袋の中から折り畳まれた紙片を取り出す。ひと目でノートの切れ端とわかるそれは、四つに折られていて、確かに手紙のようだ。端はビリビリに破れて不格好なのに、吸い寄せられるように手を伸ばす。カサリという音につづいて、罫線を無視した大きな文字が飛び込んできた。


『やく束は守もります。

 はやく元気になってください。』


「これ、さっき男の子が持ってきてくれたのよ。梨田君って子」

「さっきって?」

「一時間くらい前かな。━━━━━はい」


 アイスクリームを差し出す祖母に背を向けて、カーテンを大きく開ける。結露で曇った窓ガラスを手でこすると、びっしょりと濡れて滴が手首を伝った。ようやく見えるようになった窓に額をつけて、通りの向こうに目を凝らす。

 ボタボタと降る雪は10cmほど積もっていて、一時間前の足跡どころか、さっき祖母が使ったばかりのスコップさえ見えなくなりそうだ。


「かづちゃん、また熱が上がるから!」


 祖母の制止には生返事をして、降りしきる雪の向こうに青いリュックを探しつづける。


「早く治して学校で会えばいいじゃないの! ぶり返したらもっと休まなきゃいけなくなるよ?」


 しびれを切らした祖母の手によって、ふたたびカーテンが閉ざされる。罪滅ぼしのような気持ちで、仕方なく口に入れたアイスは、チョコレートの周りが結露で濡れていた。

 残りを断ってベッドに深く沈み込む。祖母が出て行ってひとりになると、抱きしめるようにして持っていた紙切れをそっと取り出した。


『やく束は守もります。』


「棋は対話なり」という言葉通り、口には出さなくても盤上では多くの会話がなされる。それと同じように、特別なやりとりなどなかった梨田との日々は、一緒に過ごした時間そのものが“約束”だった。


『必ず棋士になる』


 香月はもう、その“約束”を果たせない。香月の進む未来は将棋にはない。母が安心できるような、女の子らしい女の子になるのだ。

 今度会ったら━━━━━

 梨田には何も言えなかった。お礼も、謝罪も、応援も。遠く離れる前に、言うべきことがたくさんある。知りたいこともたくさんある。

 積もる雪は音がしない。風がないだけではなく、雪が音を吸収してしまうのだ。ぎゅっ、ぎゅっ、というあの足音も、香月には届かなかった。見上げる白い天井には将棋盤ではなく、青いリュックを背負った梨田の後ろ姿が見えるような気がした。きっと真っ白な音のない世界に、消えて行った背中。口の中の甘さが消えても、香月の瞼からその幻が消えることはなかった。



『また、学校で』


 梨田と交わした約束は、些細なものでさえ守れなかった。微熱が下がり切らず、梨田の引っ越しに間に合わなかったのだ。

 卒業アルバムに梨田の姿はない。香月の手元に残っているのは、三年生の遠足で撮った集合写真と、ノートの切れ端だけ。それも時間の流れとともに、思い出さなくなっていた。あの声を聞くまでは。





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