やく束は守もります

木下瞳子

▲初手 朱夏

 蝉しぐれを聞いたのはいつだったのだろう、と香月かづきは手を止めた。まとわりつく熱。ブナの葉を抜ける風。クレヨンで塗りつぶしたような青空。そして、肌も毛先も包み込み、肺の奥まで満たす圧倒的な蝉の声。

 色あせた記憶を掘り起こす間も、蝉はたった一匹でエアコンの音さえかき消す勢いで鳴いている。隣の家のカエデにでも止まっているのだろう。ずいぶんと音が大きい。

 蝉は一匹でもこんなにうるさいのに、蝉しぐれは静かだった。

 蝉の声がやんで、香月は過去から引き戻された。時計を確認して、あわてて上生菓子を皿に移していく。勤務先から社割で購入してきたそれらは、すでに秋を意識したものになっている。緑餡を葛でくるんだ「こぼれ萩」と、練りきりの「桔梗」。そのうつくしくおいしそうな生菓子を目の前ににしても、香月は胃より少し上、その奥の奥に、少しずつ何かが沈殿していくような気持ちになっていた。麻婆豆腐にとろみをつけるとき、あらかじめ溶いておいたはずの片栗粉が沈殿して水と白いどろどろした固まりに分離している、あれによく似た。

 鼻から深く息を吸って止め、わずかに開けた口からストンと落とすように息を吐く。そうするとその白いどろどろが少しだけ減ったような気持ちになった。

 香月はストンと息を吐き出す。これで何度目になるのか。このため息は空気よりも重そうだから、床に積もったため息が見えるのではないかと足元に視線を落とすが、見えたのはフローリングとベージュのスリッパだけ。その上にもうひとつため息を重ねた。


「香月ちゃん、お茶の用意もお願い! お寿司の予約って十一時半でよかった? それともやっぱり十二時にしてもらう? あ、英人ひでとさんってなま物のアレルギーないよね?」


 埃取りモップを振り回しながら、義姉あねかおるがキッチンにかけ込んできたので、香月は笑顔を作って振り返った。


「薫義姉さん、アレルギーなんてないし、お昼の時間もいつでもいいよ。それから掃除もほどほどで大丈夫。そんなのこだわる人じゃないから」

「英人さんはやさしくていいねぇ。うちなんて……」


 薫が鋭く睨んだ先のリビングでは、香月の兄・竜也たつやがソファーに寝そべってテレビを見ていた。


「役に立たないのは仕方ないとして、ああしていられるとさすがにイラッとする」

「ああ、日曜日だもんね」


 日曜日の午前中には、地上波で将棋の番組と棋戦の放送がある。将棋好きで自身もアマチュア初段を持つ竜也は、観たい対局があるとテレビやパソコンの前を離れない。


「でもさすがに今日は諦めてもらう! 香月ちゃんの結婚の挨拶なんだから。これより将棋を優先したら、盤駒も棋書も全部リサイクルショップに売り払う!」


 意気込んでリビングに入っていった薫は、竜也からリモコンを取り上げたらしい。「まだ時間あるだろ?」「心の準備も必要じゃないの」「別に俺は緊張しないから」「どうせ録画なんだから、あとで観ても一緒でしょ!」というにぎやかな応酬が聞こえる。

 仲のいいふたりに顔をゆるめながら、水玉模様の茶筒を開けてみた。中身が煎茶であることを確認するとそのまま急須に入れ、またため息をつく。その空気の揺れは急須の中にまで届き、乾いた茶葉をわずかに揺らした。

 今日結婚の挨拶にやってくる英人は、香月より三歳年上。友人を通して知り合い、付き合うようになって二年の相手だ。二十五歳での結婚は平均よりは少し早いが、香月にとってはむしろ遅いくらいだった。

 香月の両親はすでに他界しているため、今日は長兄である竜也と義姉の薫に挨拶することになっている。甥のしょうあゆむは、近所に住む薫の両親に少しの間預かってもらっているけれど、お昼には戻ってくる。仕事で遅れて、次兄の桂太けいたも帰ってくる予定になっていた。ずいぶん古くなった実家も、少し遅れてやってきたお盆のようににぎやかになるだろう。

 その高揚した空気に反して、香月のため息は止まらない。職場の同僚で友人の美優みゆは、


「典型的なマリッジブルーね。『この人で本当にいいのかな?』っていう悩みは定番中の定番らしいよ」


 と笑い飛ばした。

 定番と言われても、香月にとってははじめての経験なのだ。幸せそうに笑う世の花嫁の多くが、内側にこんな不安を抱えているというのだろうか。そんな疑問を投げかけたところで、


「もうプロポーズ受けちゃったんだから、ここまで来たら戻るよりも進む方が楽だって!」


 と力強く背中を叩かれただけだった。

 茶筒を持つ左手には、ごくシンプルな婚約指輪がはまっている。申し訳なさそうに小さなダイヤモンドがついていて、けれどその小ささでさえ左手が疲れるような重さを感じる。これを返却するよりは、ため息をつきつつ流れに身を任せた方が確かに楽そうだ。

 少し内側に回っていた指輪の位置を直したとき、玄関のチャイムが鳴った。時計を確認すると、約束の十一時を二分だけ過ぎている。完璧に予定通りの時刻。


「遅くなって申し訳ありません」


 迎えた薫に謝罪する英人の声を聞きながら、香月も出迎える。


「どうぞ」


 笑顔を向けると、英人もほっとした顔をしたが、「お邪魔いたします」とミニトマトの鉢を避ける足取りからは緊張がうかがえた。

 リビングではシャツにデニム姿の竜也が、妙に背筋を伸ばした体勢でソファーに座っていた。英人の姿を見るとぎこちなく立ち上がり、そのまま錆びついたバネのように頭を下げる。


「おはようございます。今日はわざわざありがとうございます」

「いえ、こちらこそ。お時間を取っていただきありがとうございます」


 戸惑いながら挨拶を交わした英人を、香月は隣の仏間に案内する。今朝活けられたばかりの白いカーネーションは、みずみずしいフリルで仏壇を華やかに飾っていた。お鈴を鳴らし、しばらく目を閉じている英人の隣で、香月は立ちのぼる線香の煙を追うように顔を上げる。

 やっと安心してもらえる。

 重い左手とため息に彩られているものの、この瞬間はとても満たされていた。微笑みを浮かべる両親の遺影に香月も笑みを返す。生きていても母はきっと同じように微笑んでくれただろう。

 ふたりが両親に挨拶を済ませると、薫はせっせとお茶を淹れ、


「さあさあ、お寿司が届く前にやることやっちゃいましょう」


 と面倒事のように促す。兄夫婦を前にひとつ深呼吸した英人は、しかしよどみなく話し出した。


「香月さんとは友人を通して知り合い、二年ほど前からお付き合いさせていただいてます。当初から結婚は視野に入れておりましたが、異動なども重なって、落ち着いたタイミングで、と思っているうちに今になってしまいました。香月さんはいつも笑顔でやさしく、私にとってはとても安らげる存在です。今後とも支え合い、ふたりで明るく幸せな家庭を築けたら、と思います。私のことを頼りなくお感じになるところもあると思いますが、一生懸命頑張りますので、どうか香月さんとの結婚を認めていただけないでしょうか?」


 おそらくたくさん練習したのだろうと、香月はうれしくもおかしくもあった。けれどそれを表情には出さず、とろりと深い煎茶を見つめて竜也の言葉を待つ。英人の挨拶に居心地悪そうにしていた竜也はボソボソと、


「あー、はい。どうぞ」


 とだけ言った。


「は? 何それ? もっとちゃんと答えなさいよ」


 テーブルの下で薫に蹴られたらしく、竜也はしぶしぶ姿勢を正した。


「ご存知でしょうけど、香月が生まれる前に父は亡くなってます。母も三年前に他界しました。だから香月にとって家族は私たち一家と次男の桂太だけです。どうか幸せな家庭を持たせてやってください」


 リビングから見える仏壇には、まだ十分に若い父親と、それよりは年老いた母親の遺影が並んでいる。

 香月が母のお腹にいるとき、父は事故で亡くなった。当時十三歳だった竜也と九歳だった桂太は幼いながら母親を助け、香月の面倒をよく見た。元々父を知らない香月はそれをさみしいと思ったことはないけれど、母や兄たちは違っていただろう。

 物心ついたときには竜也が父親のような役割を果たして、学校行事にも参加してくれていた。三年前母が病気で亡くなって、父代わりとしての竜也の負担はさらに増えたはずで、こうして結婚することで解放してあげたいと香月は思う。


「ありがとうございます。精一杯頑張ります」

「竜也兄さん、薫義姉さん、どうもありがとう」


 少し奮発したお寿司がならぶころ、呼び戻された将と歩のおかげで狭いリビングは一度に大騒ぎとなった。


「英人さんって将棋できる?」


 人見知りをしない将は、遊んでくれそうな人なら誰でも寄っていく。好きなネタだけ選んでつめ込むと、安い折りたたみ式の盤とプラスチックの駒を持って英人の腕を引いた。


「小学校以来かな? ルールくらいはわかるけど」

「だったらやろうよ! おれ、先手ね!」

「え……本当に最近は全然やってないんだけど」

「英人さん、ごめんなさいね。一局付き合ってくれれば満足すると思うから。遠慮なくボコボコにしてやって」


 薫の許しが出たところで、将は嬉々として駒をならべていく。戸惑いながらも英人は駒を進めるが、


「あれ、銀って隣に行けないんだっけ?」


 と駒の動かし方にさえ苦労していて、結果は当然のように将が勝った。


「なーんだ、ぜんぜん弱いね」

「だからずっとやってないって言ったのに」


 子ども相手だからやんわり笑いながらも、声にはわずかに悔しさが滲んでいる。


「ただいまー。よかった。間に合った」

「桂太おじちゃん! 将棋やろー!」


 将がすぐに腕を引っ張るので、桂太は将を抱えたまま英人と挨拶を交わした。


「お邪魔してます。内藤英人と申します」

「香月の二番目の兄で杉江桂太です。妹をよろしくお願いします」


 まとわりついて離れない将を、薫が力ずくで引き剥がす。


「将、桂くんはご飯まだだから後にしなさい」

「えーーーー!」

「冷蔵庫のプリン食べていいから」

「やったー! プリン食べるー!」

「桂くん、イス足りないからこっちで食べて。お茶は勝手に淹れてね。あーーーーっ、歩! それワサビ! 手洗うからおいで!」


 薫が歩を連れてキッチンに下がったので、香月も席を立つ。


「桂太兄さん、お茶は私が淹れてくるよ。もう終わったからここ座って。英人さんと竜也兄さんのお茶もついでに替えてくるね」


 歩の手を洗った薫と入れ替わってやかんを火にかけ、茶葉を交換しながらお湯が沸くのを待つ。

 きごちなく会話を繋ぎつつ食事をする竜也と桂太と英人。プリンを食べる将と歩。それに付き添う薫。その向こうに両親のいる仏壇。香月の大事な家族が一同に会していた。

 来年も、再来年も、そして数十年後も、みんな年を取りつつ、家族が増えつつ、ここにこうして集まるのかもしれないと容易に想像できる。

 数十年後を見つめながら、香月はまたため息を漏らした。飲み残した煎茶は茶器の底に茶葉が沈んで、どろりとした濃い緑いろを作っていた。




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