*小学二年 インフルエンザ

 香月の実家には、竜也が大事にしている黄楊つげのものとも、将が愛用しているプラスチックのものとも違う駒が、大事に保管されている。プラスチックも黄楊もまざり合いいろ味もバラバラな駒と、線がところどころ消えている将棋盤。無類の将棋好きだったという香月の父のものだ。

 根っからの指す将(もっぱら指すことを趣味としている将棋ファン)だったという父は、今だれが竜王なのか、名人戦でどの戦型が採用されたのかなどということよりも、目の前の飛車を交換するか否かのほうがずっと重要、という人だった。それなのにさっぱり上達しないという奇跡の人でもあった。

 当然竜也にも桂太にも、ものを握れるようになると同時に駒を持たせた。てのひらにちょうどおさまりザラザラとたくさんある駒は、子どものお気に入りのおもちゃとなり、当然の結果として杉江家の駒はよくなくなった。「とりあえず四十枚そろっていれば将棋は指せる」という大雑把さが生んだバラバラな駒。それは香月にとって父そのものに思えた。

 その環境ゆえか、香月が生まれると兄たちは妹に将棋を教えた。いそがしい母は、おとなしくしているならなにをしていてもかまわない、それが健全なものならなおさらよし、という態度だったので、香月はおままごとより駒で積み木遊びをし、絵本の代わりに詰将棋の本をめくる、という幼少期をすごしてきた。

 けれど世の中の多くの女の子はそんな育ちかたをしていない。小学校に入学するときにはすでに「どうやら将棋は男の子の遊びらしい」ということに気づいていた。そして「将棋をすることは女の子のグループからはずれてしまう」ということにも。

 香月は将棋盤をかこむ男子のグループには近づきもせず、将棋を話題にすることもしなかった。

 それまで一部の男子しかしていなかった将棋が爆発的に流行したのは、二年生の夏休み明けのことだった。隣の二組に東京から将棋の強い転校生がやってきて、その子が中心となり二組で将棋ブームがおこったらしい。その熱は他のクラスにも飛び火して、学年中の男子が将棋を指す状態が数ヶ月つづいた。それを香月は、窓越しに雲の様子を見るのと同じ目でながめているだけだった。

 たとえば、通りすぎざまに盤面が見えて「あの桂馬を打たれれば金銀両取りされちゃうのに」「あの歩を突き捨てれば詰みそうなんだけどな」と思っても口には出さない。言ってしまえばきっと、男子からは「生意気だ」って目で見られる。そして女子からも「男子にまざって将棋してる」と距離を取られてしまうと思ったから。

 香月にとって将棋は、胸の中に秘すべきもののはずだった。


 雪が重さをまし、春の足音が聞こえはじめるころ、全国的な流行より遅れてインフルエンザが流行り出した。いつもは六人いる登校班も、その日は香月を含めて三人だけ。足の遅い一年生が休んだ影響でずいぶん早く学校に着いてしまい、クラスに女子は香月ひとりだった。

 その教室内にパチパチと駒音が響いている。香月の隣の席で大紀だいきたちが将棋を指しているのだ。話し相手もなく手持ち無沙汰から、香月はついその盤面をのぞいてしまった。

 大紀は三組において追随を許さない強さを誇っており、今も相手をしている陽介が、投了しそうな状態で苦しんでいた。


「負けたらジュース一本ね」


 一人前に賭け将棋なんてしていたらしい。他に女子がいないという油断があったのだろう。また、友人をカモにするような態度が、気に入らなかったのかもしれない。


「陽介」


 特別したしくもないクラスメイトを呼ぶと、香月は席を立って盤を横から見下ろした。


「ここに桂馬打って」


 「▲3四桂」と言っても通じないと思ったので、指で盤面を示した。大紀も他の男子も、突然入り込んできた香月に「は?」とか「いきなりなに?」と拒絶の反応を示したけれど、行き詰まっていた陽介だけは素直に桂馬を打った。それを見て大紀は一瞬悩んでから、ぎょくを隣に逃がす。


「この歩を取って、香車を成る」


 陽介は言われた通りに歩を取りつつ香車をひっくり返す。大紀はその成香なりきょうを玉で取ろうとして、角が睨んでいることに気づいた。そして玉を引いてまた逃げる。


「ここに金を寄る」


 陽介はもう何も考えず、香月に言われるがまま駒を動かす。大紀の玉はその金を取れない。しかも盤石に玉の周りを固めていた駒たちが、逃げ道を塞ぐ形になっている。きれいな五手詰だった。

 大紀はしばらく悩んで悩んで、盤上の駒を手でバラバラに崩した。


「横から口出すなよ!」

「ジュースは?」

「おまえには関係ないだろ! 横入りしただけなんだから!」

「じゃあ、最初からやる?」


 大紀は何度負けても「負けました」とは言わなかった。形勢が悪くなると盤をグチャグチャにして「もう一回!」と駒を並べる。しかも上位者が使うべき『王将』は決して譲らず、香月は『玉将』を使わされ続けた。

 香月は友達が登校してきても挨拶もせず、クラス全員が見守っていることにも気づかず、とうとう先生が「いい加減にしなさい!」と大声で怒鳴るまで指しつづけた。そして、一度たりとも大紀に負けることはなかった。

 悔しさで涙をこらえる大紀を除いて、「三組で一番将棋が強いのは杉江香月」という、畏怖に似た視線が香月に注がれる。目立つことが嫌いな香月はすぐに後悔し、顔を背けてその視線から逃げつづけた。

 それがあの出会いに繋がっていくなど、想像さえできずに。






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