白蛇の囁き
「ふぁあ……」
カナミは白飯の入っていた茶碗を置くと、幸せそうな声を出す。
煮魚も味噌汁も綺麗になくなり、米粒のひとつすら残っていない器だけがカナミの前に置かれている。
「ほんに綺麗に食べたねえ、いい子いい子」
隣に座った白蛇が不意にカナミの頭を撫でる。
それによって夢見心地でいたカナミの心は一気に現実へと引き戻された。
「な、なん、なんですか!いいじゃないですか別に!」
「誰も悪いなんて言うてないやないの、綺麗にご飯食べてええ子やねえって言うただけよ」
「私は、まだあなたのことを信用してるわけじゃないんですからね!」
カナミはきっぱりとそう言い切る。
この白蛇という存在は、世界を危険に晒した上に生贄を要求する邪神なのだ。
それを決して自分は忘れていない、例えご飯が美味しかったとしても。
「あぁ、悲しいわぁ、そないに嫌われるとうち泣いてしまうかもしれへんわあ」
「うっそだー、白蛇が泣いたとこなんて見たことないよー」
「……鬼の目にも涙、とは言いますが……蛇の目にもあるのですかね……涙」
白蛇の言葉にサクラコは楽し気に、チヅルは冷静に反応した。
何故、みんなこんなに白蛇と親し気なのだろうか。
彼女たちも元は生贄だったはずなのに。
カナミには不思議だった。
「しかしまあ、こんだけ美味そうに食ってくれりゃあ作ったほうも感極まるってもんよ、いやあ感極まって酒が進む進む……」
「感極まってなくても飲んでるでしょヒバナは」
「本当にねえ、少し控えてよヒバナちゃん」
「やだー!」
サクラコとミズホにそう言われたヒバナは一升瓶を抱きしめて駄々をこねた。
この人が本当にあの美味しい料理を作ったのか、と思えるような反応であった。
「アタシから酒を取ったら何が残るってんだー!!」
「……酔ってないヒバナさんが残るのでは」
「うるせー!!とにかくアタシは飲む!!こんな楽しい日に飲まずにいられるか!!」
「だから、飲んでない日ないでしょって」
こんな騒がしい食卓は、カナミは初めてだった。
隣の白蛇は愉快そうにくすくすと笑い、誰もがとても楽しそうに食事と会話を楽しんでいる。
明らかにおかしい状況のはずなのに、誰もがそれを受け入れて暮らしている。
……自分もそんな風に笑いあうようになってしまうのだろうか。
カナミにとっては、それはとても恐ろしいことだった。
「難しい顔してんねえ、カナミ」
「……!」
そんなカナミに白蛇がまた話しかけてくる。
ここに馴染んだら、こいつの思うつぼだ。
カナミはそう考え、精一杯白蛇を睨みつける。
「あらこわい。何がそんなに不安やの?」
「私は……あなたの思うようにはいきませんから……!」
「ふぅん、ようわからんけど、まあそれでええんと違う?」
「はあ……?」
白蛇はにっこりと微笑む。
まるで一切の邪気がないような、そんな笑顔をカナミに見せた。
「好きに過ごしてくれて構わんよ、もし本気でここから逃げたいと思うのなら頑張って逃げてみてもええよ」
「え……」
「絶対無理とは言わんよ、本当に帰りたいんならええんちゃう?帰る方法、探してみても」
「……」
カナミは、膝の上でぐっと拳を握る。
白蛇はなおも微笑んだままカナミに近づき、耳元で囁く。
「でも、うちとしてはここで楽しく暮らしてくれると嬉しいんやけどねえ」
「……!」
ぺろりと、白蛇の細い舌がカナミの耳を舐めた。
カナミは耳を抑えながら飛び跳ね、転がるように壁際まで逃げた。
白蛇は少しだけ舌を出したままけたけたと楽しそうに笑った。
「白蛇ちゃん、またカナミちゃんをからかって!」
「そんなん違うって、ミズホはうちのこと信じてくれへんの?」
「はいはい、そういう嘘を平気でつくってところは信じてるわよ」
そう言ってカナミをなだめるようにミズホは寄り添い、頭を撫でた。
カナミは少しだけミズホの着物の袖を掴みながら、白蛇のことを怒った子犬のように睨みつける。
「ああ悲しい、誰もうちの味方はおらへんのやね、よよよよよ……」
「ほら、全然泣いてないもんこの子」
やれやれと言った様子でサクラコが冷静に白蛇の嘘泣きをばらす。
一方でカナミは、やはりこの白蛇に心を許してはならないと決意を新たにするのであった。
そんな折、扉が開くような音と少しの話し声がどこからか響いてきた。
それに気付いたらしいヒバナが酒をぐいと飲みながら立ち上がった。
「やーっと帰ってきたなーあいつら。まったく遅いっての」
そう言って台所の方へとふらふらと歩いていく。
不安そうにするカナミにミズホは優しく語り掛けた。
「ヒイラギちゃんとスズちゃんが帰ってきたのね。大丈夫、二人ともいい子よ」
「はあ……」
カナミは少しずつ近づいてくる足音の方に何気なく目を向ける。
そして扉が開くと……どすん、と大きな音と共に巨大な猪が顔を出した。
「……ふえっ!?」
呆気にとられたカナミの短い叫び声が、部屋に響いた。
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