大人でも子ども、子どもでも大人

斉賀 朗数

大人でも子ども、子どもでも大人

「鍵を閉めたままで夜中の四時三分になったら、鍵を開けて閉めて開けて閉めて開けて閉めて開ける。それで玄関をがちゃっとやったら、はい! そこは黄泉の国」

 そう得意気に語っていたタクローは、行方不明になってから八年経ってなぜか分からないけれど私の家の前に現れた。行方不明になってから七年経った時にタクローの家族はタクローの失踪宣告をしてそのまま引っ越してしまったから、仕方なく私の家に来たのかな? とは考えてみたものの、生前……っていうか今も目の前で生きているんだけど、まあそれはどうでもよくて。タクローは特別仲が良かったって事もないのになんで私の家に来たのかなと悩んでいたら、タクローが答えを教えてくれた。

「なんか分かんないけど、俺ん家ないやって思ったら、ぱっと頭に浮かんできたのが桜だった。で、知らない内に桜の家の前に立ってたからピンポン押したってわけ。そんだけ」

 最後のそんだけが、どんだけなのかは理解出来ないけれどなるほど。タクローは私の事が好きなんだろう。今年で二十一歳になるんだから、それくらいは私だって想像出来る。でも二十一歳になろうとしている私だって、タクローが行方不明になった時と同じ十二歳? 十三歳? か、どっちかの姿のままでいる理由は分からない。分かるわけない。神隠し。そんな安易な発想が頭に浮かぶし、それは実際にあるんじゃないのかなっていう考えで頭の中はいっぱいに満ちていく。でも少しだけ神隠し以外にも頭のスペースは残っていて、それがもう一つの疑問。なんでタクローは二十一歳を目前に控えた私を私だって認識出来たんだろう?

「なんでタクローは、私を桜だと思うの?」

 タクローは目をぱちぱち。右足くねくね。別にタクローは学年一のイケメンではなかったけど、改めて見ると目はぱっちり二重で、足はすらっと長いし悪くない。色は浅黒くて運動とかしてそうな爽やかさがある。

「耳とか口とか、桜のパーツって感じのは、そのまま桜のパーツって感じで、残ってるじゃん」そして目を逸らす。

「まあ、なんていうか、おっぱいは、デカくなってるけどさ」

 うわ。なんかちょっと頬とか赤らめていてヤバイ。別にショタコンとかじゃないけど、これはなかなかたまんない感じ。とりあえず落ち着かないとって思っているのに、ごめんねタクロー。私ムラムラしてる。結構ムラムラしてる。この前トモ君と色々あって別れてからご無沙汰だから。でも、さすがに中一相手は、ヤバイ。

 あれ? でも、実際の年齢は二十歳か二十一歳なんじゃないの? 失踪宣告って行方不明になってる期間も年齢は加算されていってるはずだよね? 失踪宣告が出せるようになる、行方不明になってから七年経った時の年齢で死亡扱いになるはずだから、これってギリセーフだったりする?

「あのさ、タクロー」生唾を飲んだ。

「ここじゃなくて、私の家に来ない? いやここも私の家なんだけど、実家じゃなくて、今一人暮らししてる私の家って事」

 いや、なにテンパってんだよ私。

「いいの?」

 って、上目遣いはずるい。

「いいよ。ここだと、私の両親もいるし、なんか落ち着かないでしょ?」

 大人になるって、咄嗟に上手な言い訳を思い付く事なのかな。なんて、去年の成人式で便宜的に大人になった私は感じた。


「部屋、なんにもねえじゃん。女の子の部屋って感じしねえ」

 部屋に入るなり遠慮もなしにきょろきょろと観察したかと思ったら、第一声がそれ?

「そういう事いうとモテないよ」

 中学生男子なんて、ヤリたいって気持ちをオブラートに隠し切れていないのに隠したつもりでモテたいって言葉に置換してるだけの性欲モンスターだから、こういう物言いは結構グサっとくるはず。

「モテるとかモテないとか、そういうのよく分かんねえ」

 少し寂しそうな顔で指先を弄ぶタクローがいじらしい。というより煽動的。あー、もう無理。いただきます。タクローをベッドに押し倒す。実は性欲モンスターは私、尾道桜二十歳でした!

「なにやってんだよ桜」

「ごめんごめん。痛くしないから、大丈夫大丈夫」

 やばいやばい。これっておねショタになるんじゃない。毎回年上の男ばっかりだったし年下も悪くないかもしれない。癖になったらどうしよう! とか思いつつ、ズボンのベルトに手をかける。

「なにしてんだよ。やめろって」

 そんな事いいながらも抵抗が弱いぞタクロー。ベルトを外すなんて、おちゃのこさいさい。私はいまや野獣なのです。野獣っていったらやっぱり食欲・睡眠欲・性欲に忠実じゃないといけないわけで、タクローと寝るってなったら食欲・睡眠欲・性欲の全部が満たされるんじゃない? タクローを食べる為に寝てヤるって、字面だけだと三つの事が同時に行われているように見えなくもないでしょ。って考えてる間にズボンをずぼーん。待って待って、タクローのちんちんがすごい。

 大きいとかじゃないし多分仮性なんだけど、今まで私が見てきたどのちんちんより綺麗。こんなの不謹慎だって分かってるのに、なんだか神様みたいに思える。無闇に触れて良いものじゃない気がして、でも、だからこそかもしれないんだけど皮を剥いてあげないとって使命感みたいなものが、タクローのそれと一緒でむくむくと屹立してきて、私は右手をちんちんに添える。いまや私の中にエロさみたいなのはなくて、神聖な儀式の幕開けみたいな荘厳さだけを体全体で感じている。そんな中で、無駄に熱を帯びていた下腹部だけが、「あれ? どうしたらいい? このびしゃびしゃなの一旦体の中に戻しとく? 無理だけど」って私に主張してきて、なんだか恥ずかしい。私はタクローの皮だけを剥いて、一旦落ち着こうと思う。恍惚の表情で天井を見ているタクローには申し訳ないけれど、ちょっと今の状況ではヤれない。ごめん。って心の中で謝りながら皮をぐっと剥くと、タクローの腰が勢いよく縮こまって同時に勢いよく飛び散る愛らしい嬌声と白い蛭が私を貫く。

 髪とか顔とか服とか太腿とかふくらはぎに纏わりつく白い蛭は、血じゃないものを吸い取っていく。縮こまったタクローからは、それでも神聖な感じは抜け落ちてはいなかった。その神聖さを除外するとちんちんだけ放り出した色っぽい男の子になったんだけど、私からは性欲って感情がごっそり吸い取られていて、そのエロさを形式的にしか捉えなれなくなっていた。まあ単純に言うと、なんとか理由を付けて中学生男子を犯そうとした私に神様が罰を与えたんじゃないかなって、パンツをびしゃびしゃにしながら思い至ったってわけ。それが昨日の出来事で、それから私は考え方を少しだけ改める。少しっていうのは本当に少しの事で、未成年とはヤらないって当然の事を当然の事として私は私に迎え入れた。

 でもこの時に起こった現象――っていっても表面上には何も変化は見られないんだけど――は、私にたいしてだけのものだと思っていたらそうじゃなかったみたい。朝に寝室から出てくると、タクローは現象――表面上の変化――として昨日より確実に年を重ねていた。

 ぱっと見でも身長十センチは伸びてるし、ちょっとだけどうしても気になってズボンをずらすと、ちんちんもなんかかわい気がなくなってちんこって感じになっていた。イッタイゼンタイナンナンダ。


「とりあえずさ、なんかある度にズボンずらすのやめてくんない?」

 目を少し逸らしながら私に言う。その姿はかわいいはずなのに、ぜんぜんムラムラしない。なんかちょっと寂しい。

「タクロー、なんかちょっと成長したよね?」

 タクローの話を無視して私は私の言いたい事を言う。別にズボンをずらすのを止めたくないとかではないけど、止めなくてもいいなら止めないつもりだ。

 神様はみんなの為に存在するものだと感じているから、タクローが独り占めするのはズルいし間違っている。と思う。それがタクローに付いてるものだとしても。

「そう言われると、デカくなったような気もする。昨日より、サクラの頭の位置が近いし」

 身長の話。

「でしょ? 多分寝てる間に、止まってた分の成長が一気にやってきたんじゃないかな? 寝る子は育つって言うし」

 一日家にいただけなのに、冷蔵庫からさっと麦茶を取り出してローテーブルの上に置いてあったコップに麦茶を注ぐ動作が手慣れて見える。目を合わせないタクロー。麦茶を一気に飲み干すタクロー。水滴だけが残ったコップを見つめるタクロー。何かを熟考しているタクロー。

「俺の八年間ってやつは、肉体的なものだけ返されて、精神的なものは返されないってわけ? そんなの嬉しくないし。っていうか、肉体的な八年間だけ返されてもマジで困るんだけど。なに肉体的な八年間だけ律儀に返してんだよ。その前に家族とか友達とか、もっとさ、もっと俺の大切なもんを返してくれよ。ユーイチとかゴンとかさ、あいつらと一緒に遊んだ思い出とか、みんなで行くはずだった修学旅行とかさ、っていうかなんで俺を諦めて、俺を死んだ事にしてんだよ。父ちゃんも母ちゃんもタクミもユリカも俺をもっと必死になって探せよ。なんでしっかり諦めてんだよ。俺もう分かんねえよ。桜、俺どうしたらいいんだよ」

 水滴はタクローの持つコップの底で集まって、わなわなと震えている。それは手が震えているからだし、今の状況への不安や恐怖や怒りが実際にコップを通して水滴に伝播していっているんだろう。タクローは泣かなかった。本当に言いたい事は、もっともっともっともっともっともっともっともっとあるんだろう。それを出し切ると涙が止まらなくなってしまうと、野性的な本能で理解しているんだろう。でも、ごめん、タクロー。何回目のごめんかは分からないけれど、本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当にごめん。

「な、ない、ぐっんぐ、ないぃんっぐ、てぇへっ、んふんっぐ、いいんっ、ぐ、あぁよ、んっふぐっ」

 私が泣いたって、意味がないって分かっている。でも素直に涙を流せない子どもっていうのは、この世で一番切ないって紀元前から決まっていて、そんなものをまざまざと見せられて泣かずにいられるわけがない。この涙は、タクローが流せない涙を私が代理で流している。なんて高尚な意味付けに意味はないし、それにこれは私が流したいから、ただ流している涙。だからタクローの色々とは一切合切関係ない。ただ、もしかしたら、私の涙に釣られてタクローが泣ければ、それもアリかなって思う。

「何言ってるか全然分かんねえよ」

 タクローは呆れた顔でそう言った。

 私の涙のわけなんて知らないくせに。

 お前の事を少しでも可哀想って思ったの返せ。

 本当はタクローの家族が七年間ずっとタクローを探していたのも知っているし、失踪宣告を出す時も最後までタクミ君とユリカちゃんが嫌だ嫌だと言って泣き喚いていたのも知っているし、マスメディアのクズがタクローの家族をぼろぼろにしたのも知っている。タクローの家族は、タクローに対して誰よりも真摯だった。だって家族なんだから。でもその真摯さがあったがために、マスメディアの卑劣な態度によってタクローの家族は疲弊しきってしまった。七年間は長い。生まれたての赤ん坊だって小学生になっているくらいに。七年間は長い。何万人もの男に抱かれるくらいに。

「ぐっ、んぐっぐ。ひっ、たく。ぐ。たく、ろー?」

「なんだよ、鼻水きたねえ」

 うるさい。

「っしゅう、ん。がっく。ひくっ。りょうう。こう、いっくよ?」

 あっ。だいぶ落ち着いてきた。

「えっ? ちょっと本当に何言ってるか分かんねえって」

 うん。私だってね分かんないって事は分かってるから。

「修学、旅行、行くよ」

 ユーイチとかゴンとか、いまだに付き合いがあるから誘ったら来てくれると思う。だってあいつら、楽しい事はだいたいなんでも好きだから。




「かんぱーい」

 そこからはあっという間で、タクローが現れてから五日目の土曜日には新幹線に乗っていた。土曜日は今日。新幹線に乗るまでに、タクローは見た目でだいたい四つ年を重ねて、高校生くらいになっていて、毛も生えていた。ズボンをずらされても、もう文句を言わなくなった。ちなみに新幹線には、私とタクローとユーイチとゴンの他に、ハルちゃんとマナミとサカイ君も乗っていた。意外とみんな暇なんだ。

「いやいや、俺は酒飲めないんだけど」

 タクローはそう言いながらも嬉しそうで、コーラをぐびぐび飲んでいる。斯く言う私も手にはビール。アルコールを摂取していてどこが修学旅行なんだって感じだけど、これはタクローが楽しむ為の旅行なんだから私たちだって楽しくなって一緒に盛り上がらないと意味がない。そう力説したのはゴンで、ゴンは馬鹿だ。でも馬鹿なりにタクローと楽しもうって意気込みを感じて採用に至った。なによりタクローを一番ちゃんと受け入れているのは、誰でもないゴンなんじゃないかって思う。ゴンにタクロー帰ってきたよって電話したら、ずっと泣いてたもん。ウルサかったから電話は切っちゃったけど。そうしたら私の家までダッシュでやってきた。そしてタクローを抱きしめて、また泣いた。それがやっぱりウルサくて、私は隣のサカシタさんに怒られた。本当迷惑な馬鹿だよ、ゴンは。

「タクロー、本当に生きてて良かったよ」

 一本目のビールを一気に飲んで――ちょっと口の端からこぼして――無駄にデカい声でゴンは言う。

「いや、俺死んでる事になってるんだけどね」

 その一言で、みんなが一斉に笑った。知らない人が聞いたら、何言ってんだこいつらって感じだろうなーと他人事みたいな感想を抱く。それにしてもタクローが元気になって良かった。

精神的な八年間は、肉体的な八年間とは違ってすぐに取り戻すことは出来ない。それは分かっているけれど、こういう形で少しずつ取り戻していってタクローの心の癒しみたいになれば嬉しい。なんでそこまでタクローに親身になってあげれるのかっていうと、やっぱり罰を受けたからにはしっかり償う必要があるんじゃないかと思うからで。っていうのも当然あるんだけど、まだタクローの神聖な神様みたいなちんちん改めちんこを狙っているからっていうのがデカい。ちんこは小さいけど。いやいや、そうじゃなくて。狙っているのがタクローとのセックスって意味ではなくて、純粋に物質としてタクローの神聖な神様であるちんこを欲している。異常かもしれないとは思うけれど、なぜそう思うのかも定かではないし実際これって異常なの? いや、神聖な物がタクローのモノであったってだけの話で、実際に神聖な神様って事実に変化はないはずなんだ。それじゃあ、やっぱりこれを異常と呼ぶのは間違っているんじゃないかって考えが頭に浮かぶ。

「ねーねー、さくちゃん。さっきから、何を真剣に考えてるの?」

 乾杯の一口だけ流し込んだビールを横目に、ハルちゃんが私を気にかける。手の中にあるビールは、聖火リレーの聖火みたいに大事に大事に持たれ続けて三百年。ジーパンのちょうど股間のあたりに何度も垂れた水滴が、まるで生命の源である子宮に直接アルコールを運ぼうと躍起になっているみたい。

「えっと、ちょっと、まだ時間早いから言えない」

 ぼーっとした頭で受け答えをする。私は酔っぱらいのアプロディーテー。

「なにそれ。もしかしてえっちな事? さくちゃん意外とえっちなの?」

「いや、えっちっていうか、まあ受け取りようによってはそうかもしれないけど、まあ話すか分からないけど、覚えてたら夜にでも話すよ」

 どうせ話さないけど。煙に巻く。新幹線の中だと喫煙ルームじゃないと煙草は吸えない。関係ないか。

「えっちって言ったらさ、この前コンパで会った子が……」

 サカイ君が話を変えてくれたおかげで、私への追求はあっという間に終わった。新幹線はスピードをあげる。トンネルの中に入ると耳がぐうわあああんと悲鳴を上げた。体を捻って後ろの席のタクローを見ると、コンパに興味津々ですげーすげーと同じ言葉を繰り返している。音飛びするCDみたいって今の子はぴんと来ないのかな。おばさんみたいな言葉をビールで流し込んで、タクローに笑いかけてみる。なんか、朝から飲むビールって思っているより回る。ぐるぐるぐるぐる。

 気付いたら私は新幹線から降りていて、隣には見た目年齢二十歳のタクロー。手なんて繋いじゃってちょっぴり恥ずかしい。だって見た目年齢二十歳のタクローは、今風ツーブロックで男前。目はぱっちり二重で足もすらっと長いから、おしゃれな服も嫌味なく着こなしちゃう。私はこれが夢だって分かってるのに俯いてしまって、まともにタクローの顔を見れない。

「桜」

 タクローの声が芯に響いて、私の中の女が疼く。自分の体が火照っていくのをタクローに悟られたくない。それなのに私の体はどんどんどんどん火照りを増していって、あそこから発火する。火は熱く、そして冷たい。体だけを燃やし続けて思考を凍らせる。ただ一つ、神様に愛されたい。その思いだけを氷より堅実に固めて、私は少しだけ体積を増やす。その実、隙間の多い構造は、私のすかすかな頭の中みたいでやるせない。やりたいけど。

 口を開こうとしても、火照った体は熱波を発散させるだけ。言葉は蒸発していく。それでもタクローは私の言いたい事を理解しているかのように、うんうんと頷いてみせる。さすが神様。言いたい事をわざわざ口にしなくてもいいなんて最高。いや、最高なわけない。私の考えがタクローに伝わっているとするなら、なんでタクローは私を抱いてくれないんだろう。こんなに火照って、あそこは燃えているっていうのに。別にMとかじゃないから焦らしプレイとか全然興味ない。

あっ、そうか。

 タクローは童貞だから、恐怖があるのかもしれない。

 いくらタクローのちんこが神聖なもので神様のようだっていっても、本人にそんな自覚はないだろう。だから自信がないのかもしれない。自信がない。それは恐怖を自然発生させる装置で、同時に躊躇を発生させる装置でもある。いくら見た目の年齢が二十歳になったって、精神的な八年間はすっぽり抜け落ちたままなんだ。結構な人数とえっちしたと自負できる私が、タクロー、いや、神様を導いてあげないと駄目なんだ。私は神様を導く存在。それってアプロディーテー? それより私のあそこの火を、まずはどうにかしないと。

 マナミに揺さぶられて目を覚ましたら、新幹線はもう博多駅に着いていた。

「もう、いつまで寝てるの?」

 どうしよう。ジーパンのあそこの部分には、水滴だけじゃなくてビールまで零れている。それよりも。

「童貞の神様って、殊更に神聖なんじゃない?」

 私の頭の氷より堅実な固まりを溶かす為に、冷気を口から放出する。同時に熱波も感じる。

「うん?」

 怪訝な顔のマナミ。

 ごめんねマナミ。

 私はここが夢なのか現実なのか、まだ分かっていないの。


「やっぱりラーメンでしょ」

 タクローがそう言うのでラーメンを食べた。まあ博多らしいっちゃらしい。だけど修学旅行らしいかと問われると疑問は残る。豚骨ラーメンより味噌ラーメンの方が好きだから、そう思うのかもしれない。

「いや、それ関係なくない?」

 ユーイチの言葉にびくっとなるけど、私の考えをエスパーよろしく読み取ったわけではなくて、ゴンとの話の流れで放った言葉のようだった。今日はなにかと敏感な私。きっと夢で見たタクローとか、あそこの出火とか、スカートのあそこの部分に零れたビールとかが神経を少しずつ少しずつ研ぎ澄まして鋭敏にさせたんだろう。

「関係なくないって。ハルちゃんは、どう思う?」

 ハルちゃんはいつまでラーメンに息を吹きかけているのかな? 麺はもう伸びているっていうのに。

「えー。まあ私は関係あると思うけど? 耳から入る情報って結構大事じゃない? 目隠しとかしてるとさ、音に対してもすっごい敏感になったりするじゃない?」

「いや目隠しとか普段しなくない? えっ、なに、ハルちゃんそういうのしてんの? 普段から」

 墓穴を掘るって言葉がぴったり。ソフトSMとかちょっとだけ興味あったし、今度こっそり聞いてみよう。

「してないしてない絶対してない!」

 顔を真っ赤に染めちゃって。こんな猿いたな。ってあの猿が赤いのはお尻だっけ? 私の記憶は曖昧だし、私が赤くなるのはあそこが発火する時だけだ。

「怪しいぞー」

 マナミが軽い口調で言って笑う。そうやって軽く流して深くは追求しないあたりに優しさを感じる。ハルちゃんは昔から優しい。それは友達に対してだけじゃなくて人間、いやもっと動物全般だったり植物全般だったり、世界の全てに対して優しい。だからマナミが誰かに優しくしたからといって、あの子が特別視されているとか、私には優しくないのにとか、そういう稚拙な厄介事は起きなかった。それは、学生時代から今までずっと。でも私は、これから先、それが崩壊する時がくるんだろうなという確信めいた気持ちを抱き続けている。それも、学生時代から今までずっと。

「そんな私の事なんか、今はどうでもいいじゃん! それより、あれだよ。タクローの中では、音っていうのがキーワードだったりするんじゃない?」真剣な顔になるハルちゃん。

「黄泉の国に繋がる方法を試した時のタクローは、耳鳴りみたいな音が、どんどん大きくなって自分を包んでいくような感覚をあじわったんでしょ?」

 タクローに視線が集まる。

「まあ、そんな感じかな。言葉で表現するのは難しいんだけど、耳鳴りって無理矢理さ、きゅいーんって耳の中に響く感じじゃん? あれが全身に起こるみたいな。なんだろう、あの無理矢理感? 突然やってくる感? それが、黄泉の国への扉開いちゃった。って説得力みたいなのを与えてる気がしたんだけど、実際のところは、昔に俺が住んでた家の前に突っ立ってただけっていうね」

 一通り話すとラーメンのスープを啜った。

 ハルちゃんは今の話を頭の中で整理しているのか、少しだけ考える素振りを見せて、再び口を開く。

「黄泉の国っていうとさ、死者の世界なんじゃないかと思っちゃうけど、タクローは死んだっていうか次元を跳躍して、また戻ってきたんじゃないのかな?」

「時間じゃなくて次元?」

 そう言ったのはユーイチ。

「そう。時間の跳躍はあれでしょ? 時をかける少女。私たちじゃ無理でしょ? でも次元跳躍はみんな経験してるはずなの」

 ハルちゃん以外のみんなは、呆然って言葉をポスターにして顔に張り付けられたみたいに、揃いも揃って同じ顔をしている。同級生掲示板。

「ごめん。何言ってるかちょっと分かんねえ」

 謝る必要なんかないよタクロー。あんたは間違っちゃいないんだから。

「みんな、ソシャゲとかするでしょ? リセマラとかしない?」

 何人かが頷く中でタクローは首を傾げる。

「待って待って。ソシャゲって何? リセマラって何? 全然分かんねえんだけど。ポケモンの名前?」

 ああ、そうだ。すごいこの場に馴染んでるから忘れちゃってたけど、タクローはハルちゃん曰く次元跳躍者なんだった。ソシャゲもリセマラもポケモンになるわけだ。私はなんとなく保護者面して、みんなより早く説明を始める。

「ソーシャルネットワークゲームとリセットマラソンの略だよ。タクローが行方不明になるか、ならないかって時期くらいに、アイフォンって流行りだしてたと思うんだけど知ってる? っていうか覚えてる?」

 タクローは眉毛の間に皺を作る。

「ああ。なんか持ってる人いたな。あのボタンとかないやつだろ? 今はみんな使ってるよな」

「そうそう。あんな感じの携帯電話が今の日本じゃ普通になってて、あれで電話とかメールとかだけじゃなくて、パソコンみたいにゲームとかも出来るんだ。このゲームってやつが昔の私たちがやってたゲームとはちょっと趣が違って……なんていうか、底なし沼なんだよね」

 説明にこんな大雑把な表現を使うのは良くないって分かっているけど、端的に表現するには逆に大雑把な表現が必要な時もある。

「底なし沼?」

 予想した通りの反応。

「課金っていって、ゲーム内の通貨だったりをリアルのお金で買えちゃうの。それでガチャっていうのを回して、キャラとかアイテムをゲットする。でもガチャで出てくるキャラとかアイテムはランダムだから、良いものが絶対に出るとは限らない。それだけじゃなくてアップデートとかイベントが定期的に開催されるから、前までの良いキャラとかアイテムよりもっと良いものが現れる。運営会社が終わらせない限り永遠に終わらないゲームなんだ。だから底なし沼。それがソーシャルネットワークゲーム。略してソシャゲ」

「へー、なんか分かったような分かんないような……リセマラ? ってやつはなんなの?」

 ああ、そっちの説明を忘れてたと思ったら、私より早くハルちゃんが口を開く。

「ソシャゲって、大体チュートリアルで一回ガチャが無料で引ける事が多いの。その無料分で良いキャラとかアイテムが出るまで、何回もアプリのデータを消したりしてやり直す。それがリセマラ」理解出来ているのかどうかは分からないけど、タクローが頷くのを確認してからハルちゃんは続ける。

「次元跳躍の話に戻すね? ソシャゲの世界って二次元じゃない? あれを神の如く自由に弄んでいるのが私たち三次元の存在。ゲームの中のキャラクターの台詞って作られたものだって思うでしょ? それは正しいよ。でも私たちの考えとかは誰かに作られたものかっていうと、皆がそうじゃないって答えると思うんだよね。でも、それって間違い。私たちは神様って存在によって作られたキャラでしかないの。神様は四次元に存在している。でも、たまにね、その次元を跳躍しちゃう存在が現れたりする事ってあるの。これは、いうなればバグだよね。創造主の意図を越えた出来事。それって必ず存在してしまうから」

 また同級生掲示板。まあハルちゃんが言わんとする事は分かる。でもそれって暴論じゃないかな。私は自分の目で見たものしか信じないって性格ではないけど、さすがにこれに関しては確認できるどんな目も存在しないから、私は信じられない。って、いや。これって、タクローはその目になれるって事なんじゃないの? 私の心臓が突然どっきんどくどく早鐘を打つ。今気付いたこの可能性を、みんなに伝えるのを、なぜか戸惑う。だって自分でもちゃんと分からないから。でもこの分からないをハルちゃん的に思考すれば、上の次元に住むモノのプログラムでしかないって事なんだろう。

でも、それって、なんだか寂しくない?

 タクローのちんこが神聖なものに見えたのは、タクローが次元跳躍者だから? でもタクローが三次元におけるバグだっていうなら、それに触れた私にもバグが派生したりしないのかな? そうしたら私も次元跳躍者になったりしないのかな?

 それよりなにより、私は次元跳躍者になりたいの?

 分からない。

 でも、分かりたい。

「うーん。よく分かんねえ」獣臭のきつい豚骨ラーメンのスープを、器を持ち上げ一気に飲み干すタクロー。

「でも、俺が次元を跳躍してるとかしてねえとか関係なくって、みんなと一緒に楽しくやってる今があれば、俺は全然満足だよ?」

 これで、この話はおしまい。って事に、なったっぽい。




 タクローは大人になっていた。私なんかより身長は高くなって見た目の年齢は昨日より一つ増えたんだろうと思えるけど、そんな意味ではない大人だ。どういう流れだったのかは分からないけれど、昨日の夜にタクローとマナミはヤったらしい。私だけの神聖な神様みたいなちんこ――正確には、もともと私のものでは無いけれど――は、私の手を離れて、マナミの手中で入ったり出たりを繰り返したのだろう。それによって、途端にタクローへの興味がなくなる。なんて事はなくて、以前にも増してタクローのちんこが欲しくなる。とりあえず私たちは大人――色々な意味を含んでいる――の修学旅行を終えて、それぞれ自分の家――タクローは私の家――に到着するとタクローと話し合った。

「なんでマナミとヤったの?」

「なんでって、別に良くない? マナミとヤった事、桜にいちいち理由とか言わないとダメだったりすんの?」

「だって気になるんだもん。気にしちゃダメ?」

「だから、なんで桜が気にする必要あるんだって。俺とマナミの間の話だろ?」

「なんでって、なんででも、いいじゃん」

「いいわけねえよ。俺だけだったらいいかもしんないけど、マナミに関係する事は俺が勝手に話していいわけないだろ? 桜はさ、俺と違って大人なんだから分かるだろ、それくらい」

 あっ、ダメだ。泣いちゃう。

「理屈じゃないんだってえ。知りたいのお。タクローの、んぐ、こと、知りた、ひっく、いのお」

 恥ずかしい。タクローの前だと泣いちゃう自分が恥ずかしい。再会してから六日目だっていうのに、私はタクローの前で二回も泣いている。しかも子どもみたいにしゃくりあげながら。涙がぽろぽろと頬を伝っていく道程が温かくて、私をこっそりと子どもに戻していく。タクローが大人になっていくのとは逆で。

 この数年の間で、私は無理に大人になろうとしすぎたように思う。看護師になろうとしたのは、一人でも生活できるだけの収入が欲しかったから。何人もの年上の男と体を重ねたのは、大人に認められたかったから。家の中に物をあまり置かなかったり一人の男に固執しないのは、執着という感情を稚拙だと感じたから。私は私の人生を、爪先立ちで少しだけ高いところから見下ろしていた。気付けば爪先はぷるぷると震えて、今にも踵は地面に付いてしまいそうで。そんな状態だった私に、「踵を地面に付けてしまってもいいんだよ」とタクローのちんこであり神聖な神様は語りかけてきてくれた。それなのに私は、どうしようどうしよう踵を地面に付けちゃったらもう一回爪先立ちするのは面倒だしそれにみんなに笑われないかな格好悪くないかなって、あってもないようなプライドを大事に大事に抱きしめちゃってバカみたい。バカみたいっていうかバカ。だってマナミにタクローのちんこと童貞を奪われたせいでやっと気付くんだもん。

「なに泣いてんだよ。わけわかんねえ」

 好きなんだよ、タクローの事が。

「ひっ、だ、だ、んっぐ、だってええ、うっぐ、たく、ひっ、たくろお、あっは、ひっぐ」

 言葉にならないけど、それでも好き、タクローの事が。別にタクローは学年一のイケメンではなかったけど、目はぱっちり二重で、足はすらっと長いし、浅黒くて運動とかしてそうな爽やかさがあって……こんなの好きな子じゃなかったら覚えてるはずがない。だって八年も前に失踪したのに今までしっかり覚えていたなんて、こんなの好き以外のなんだっていうんだ。ずっと私の心には、タクローがひっそりと存在し続けてくれていたんだ。きっとタクローは私の中で八年間を過ごしていたんだとなぜかそんな風に思うし、それは間違ってない。きっと私が好きだと強く思うあまり、無意識でタクローを隠匿していたんだ。私の中に。タクローが三次元におけるバグなんじゃなくて、バグは、私。尾道桜が三次元のバグ。

「ふふ、ごめん、なんかおもしろいわ、桜の泣き方」

 タクローは私をそっと抱きしめる。私の考えも知らないくせに。でも嬉しい。タクローの体は冷たくも温かくもないけど気持ちいい。今まで何度も抱きしめられた事はあったけど、本当に好きな人に初めて抱きしめられて私は気付いた。好きが大きすぎて、私は好きってものの存在に気付いてなかっただけなんだって。好きは私の内から溢れるものだと思っていたんだけど、そうじゃなかった。私の好きは隠匿したタクローに寄り添い何年も成長を続けていて、私からはみ出してしまっていた。私からはみ出した好きは、世界を巻き込み始めていたんだ。私の手が届く範囲の世界で、私の手から離れて。私がタクローを具現化させたあたりまでは、確かに好きは私のものだったのに。あまりにも大きくなった好きは私の内から溢れるものではなくなって、一人歩きを始めてマナミを巻き込んだ。マナミは私の好きに感化されて、タクローを誘惑して、抱いた。もしくは抱かれにいった。

「桜の考えは合ってる」タクローは私の内で成長していたから、私の思考をいとも容易く読み取り言う。

「桜の好きを沈静化させないと、このバグは終わんねえんじゃないのかって。だからさ、俺、桜に嫌われないとダメなんだって思ったんだよね」

 私がタクローを好きだって気持ちは、筒抜けだったって事?

「まあ、うん、そう」

 だからって、なんで、マナミと?

「さっきも言ったけど、詳しくはマナミのプライバシーの事もあるから言えない。でもこれだけは言える。っていうか、桜のさっきの思考から桜自身もなんとなく分かってるとは思うんだけど、桜の巨大な好きにマナミは巻き込まれたんだよ。あと単純に、俺の考えと好きに巻き込まれたマナミの利害ってやつが一致したって感じかな」

 でも、それでも、私はタクローを嫌いになれないよ。

「ん、あふっ、そ、んぐっ、それ、ひっく、でもお、ひっぐ、んん、わたっし、あはぁ、だくろ、んっぐ、きらい、にひい、なっ、なれ、なっぐ、んふぅ、ないよお」

 息が詰まるのは、言葉が横隔膜や喉に引っかかっているからだろうか。それとも、言葉を出したくなくて飲み込もうとしているからだろうか。意識と無意識の境界が、好きの大きさみたいに把握出来ない。

「分かった。泣くなって、分かったから。ったく、どっちが大人でどっちが子どもか分かんねえじゃん」

 でもタクローに抱きしめられている間だけは、「そんな事を考えなくてもいいんだよ」と、私の意識と無意識が手を取り合い、声を揃えて静かに揺れる。心地いいとか気持ちいいって感情は原初より連綿と続く一本の道で、私はその偉大な道に立つ事を許された気分になる。揺れる。揺れる。揺れているのは私を包む大人のタクロー。タクローは私より一歩も十歩も百歩も先に大人になってしまったけど、同じ道に立っているって事は後ろ姿を見失わずに、追いかけて追いかけて追いかけ続ければ、やがて隣を歩く事だって出来る。それはとっても綺麗な光景だ。私はタクローを抱きしめ返して、むせび泣く。言葉じゃなくても伝わるものっていうのは、前世よりもっと前、何万年も何億年も何兆年も濃縮された宝石みたいな魂。ご先祖様さんきゅう。って、ごまかしはぐらかそうとするのを無視する現実ってやつを直視してみると、私はタクローの神聖で神様みたいなちんこを、マナミに負けじと包み込んでいる。でも、これは純粋に物質としてタクローのちんこを見ていて、そこに神聖で荘厳で神様の存在を感じているから包み込んでいるんだ。単純な性欲とかではないんだ。いや、本当に。




 タクローが現れて七日目。

 タクローは再び失踪した。

 タクロー、私のタクロー。

 好きが大きくなりすぎてヘリウムたっぷりの風船を手から離してしまったみたいに私から遠く離れていったから、タクローも失踪してしまったのかと思った。でも、そうじゃなかった。好きは大きさを保ったままで私のそばにいた。それなのに。それなのに! どうしてタクローは私のところから消えていなくなってしまったんだろう。大きくなりすぎた私の好きに伴うバグが影響してタクローが現れたのは間違いない。でも、二度目の失踪に関しては、私の影響下から離れたところにある別の力によって起こったんだろう。確信なんてものは無い。想像でしかない。でもそれが間違っているとは思えない。だからといって、未成年とはヤらないっていう風に考えを改めたくせに結局それを破ったとか、罰に対して私が真摯に取り組まなかったとかが原因ってわけではないような気がする。

 悲しいとか寂しいって感情がぐるぐるぐるぐる回って回ってベッドに沈み込む体が重たくなっていって怠い。すごく怠い。怠い怠い怠い怠い! タクローがいた時にはあんなにも泣けたのにタクローがいないと分かった途端に泣く事も面倒になってしまってベッドにずぶずぶ飲み込まれていく。ずぶずぶずぶずぶ。重たい目蓋が落ちて落ちて落ちてくる。

「鍵を閉めたままで夜中の四時三分になったら、鍵を開けて閉めて開けて閉めて開けて閉めて開ける。それで玄関をがちゃっとやったら、はい! そこは黄泉の国」

 寝ていたのか寝ていなかったのか自分でも分からないけれど、頭の中に響くタクローの声で重たい目蓋がふっと軽くなった。

 そうだ。私からタクローに会いに行く事だって出来るんじゃないの?

 私の好きが大きかったのと同様に、タクローの私に対する好きだって大きくなっているはずだ。それならタクローと同じように黄泉の国へと繋がる方法――もしくは次元跳躍者になる手段かもしれない方法――を試したとして、タクローの前に私が現れる事も可能なんじゃないかって考えは、あながち間違ってないように思う。待って待ってちょっと待ってよ私。この考えって図々しく、タクローが私の事を好きだって前提で話を進めているみたいなんだけど、もしタクローが私の事をなんとも思っていなかったら私は誰のところに行くんだろう? そう考えると怖い。本当に怖い。でも他のよさそうな手段も浮かばないっていうのが本音。だからって待つのは一番合理的じゃないと思うし、なにより待っている時間に私が耐えられない。

 それじゃあ答えは一つじゃない? 私は次元跳躍者ってやつになる。でもやっぱり少し怖い。

 見るのいつ振りなんだろうって感じのガラケーを、机の引き出しから引っ張り出してお母さんに電話をかける。

「もしもし」

 お母さんの声。優しい声。

「お母さん?」

「そうだけど? ってお母さんの携帯に電話掛けてるんだから、お母さんに決まってるじゃない」

「そうなんだけど、分からないじゃん?」

「まあねえ、今のご時世何があってもおかしくないわよね」

「でしょ?」

「それで、どうしたの?」

「いや、ただ声聞いとこうと思って」

「寂しくなったの? あんた何歳よ」

「いいじゃん別に」

「ふふ。別にいいけど?」

「もう……」

「ふふ」

 お母さんに言っとく事、なにかあったかな。

あっ。

「いつも、ありがとうね」

「なに、急に? 死んだりしないでよ」

「死なないよ。まだ結婚してないもん」

「それならいいんだけど」

「うん。それじゃあね」

「あら、本当に用事ないの?」

「ないよ」

「なによ、全く」

 通話が切れた。

 お母さんの声を聞いたら、急に心の中の靄がカンカン照りの太陽に追いやられたみたいに、すかっと清々しい気持ちになって、もう怖くない。また心に靄がかかる前に、私は急いでタクローに会いに行こうと思う。でも次元を跳躍するのは夜中の四時三分。まだまだたっぷり八時間はある。

 とりあえず私はもう一度ベッドに体を沈めようなんて思ったけど、もしタクローに会えるならと、シャワーだけ浴びておく事にした。服をぱぱっと脱いでシャワーの水圧の強さを肌で感じる。外がなんだか騒がしいけど、シャワーの音ですぐ気にならなくなった。


 アラームの音で目が覚めると、夜中の三時三十分。

 少しだけ緊張してる自分を意識して、冷蔵庫からジンジャーエールを取り出して飲む。炭酸が喉を刺激する。寝起きの乾燥した喉にその刺激は強すぎて少し痛んだ。パジャマを脱いで、Tシャツとジーパンに着替える。昔から男の人と会う時はラフな服装で、気合いが入りすぎていないように見えるよう心がけている。気合いが入りすぎているのは、なんだかダサい。そんな気がするし自分で言うのもなんだけど、私は自分の足が結構綺麗だと思ってるから、タイトなジーパンだと綺麗な足のラインが目立ってエロいって出会った男の誰かが言っていた、その言葉にすがっているんだ。今までに出会った何万人かの男の誰かが言ったその言葉に。

 タクローの話だと一瞬の出来事って感じで私の前に現れたわけだけど、私が同じように一瞬で、タクローの前に現れるとは限らない。それだと色々困るから、念の為に服とかズボンとか下着とか、あと生理用品とか色々を詰めたリュックを背負う。財布も持った。ここの家賃を、足りないかもしれないけど先払いで十ヶ月分五十万円だけ振り込んで準備はだいたいばっちりだと思う。あっ、バイト先に電話するのを忘れたけど、まあいいや。

 ガラケーの画面に表示された時間は、三時四十分。

 タクローに会えるかもしれないって気持ちから沸き出すドキドキと、次元を跳躍する事へのどきどきが重なって、どっちのドキどきがどっちのどきドキか分からない。この二つに違いがあるのか、あってもどっちにしろドキドキはどきどきなんだから一緒でも違ってもなにも変わらない。なにも変わらないのは、私自身も一緒。昔から自分の気持ちを上手に表現できなくて。泣きたい時に泣けなくて。怒りたい時に怒れなくて。感情を素直に表現するのが子どもで、感情を隠すのが大人だと自分に言い聞かせた。私は大人。何万人もの年上の男たちは、私を抱いて私を同等に扱った。私は大人。一人で暮らして物に依存しないで暮らした。私は大人。そのくせ成人式に出席しても私は大人になったとは思えなくて、便宜的に大人になっただけだと言ってみたりした。大人でありたいと思うと同時に子どもでありたいと思って、モラトリアムっていうのがあるのは知っているけど、それだって知識として理解はしていてもそれを受け入れているとは言い難くて。私は結局大人なのか子どもなのか。イッタイゼンタイナンナンダ。でもタクローといた時は素直に泣けた。あれ? 私は変わっていってるのかな?

ガラケーの画面に表示された時間は、三時五十分。

 タクローを思うと、なぜか涙が頬を伝ったけど、それを自然のままにして、私は頭の中の考えを部屋の角に放り投げた。

 アラームが鳴る。

 ガラケーの画面に表示された時間は、四時二分。

 もう準備万端だ。いつでも鍵を開けたり閉めたり出来る。ドキドキとどきどきが口から少し漏れ出しているのか耳に響くのがやかましい。それとは反対に静まりかえった玄関口は、自分の住んでいる部屋の一部なのに妙に現実離れして見える。いつもとは違うように感じるこの玄関口は、タクローへと続くタイムマシーン。ドラえもんでいうところのどこでもドア。でも、移動するのはハルちゃん曰く時間ではなく次元。

 タクローに会う為に、私は次元を跳躍する。

 四時三分のアラームが鳴る。

 開けて閉めて開けて閉めて開けて閉めて開ける。

 鍵が、がちゃがちゃと騒がしく喚いた。

 扉を開ける。

 目の前にはタクロー。

 外はひっそり真っ暗。浅黒いタクローは、ちょっとだけ夜明け前の神戸と同化しているみたいで、神戸そのものみたいで、荘厳そのもの。

 神戸は神様と繋がる扉のある街。タクローは神様みたいなちんこを携えた立派な神様で間違いなかったんだ。

 私は神戸って街で、神様と繋がる扉を開いて、タクローって神様に出会えたんだ。

 静まりかえって眠った神戸で、私とタクローだけになった神戸で、また子供みたいにしゃくりあげて泣いた。

「あ、あいだ、っぐ、あいた、か、ひっく、んふ、ったあ、ひえっぐ」

「うわ、そんなに泣くなよ。俺も会いたかったけどさ」

 そうだった。タクローは私の頭の中が読み取れて、わざわざ喋らなくたって私の全てを理解してくれるんだ。色々跳躍してそうな存在のくせに、私の頭に手を置く仕草はぎこちない。それがなんだかおかしい。でも確かに、そこからは安心が注入されている。

 どうして私の前からいなくなったの?

「いや、いなくなったっていうかさ、ここオートロックだったの忘れてて、散歩とコンビニ行って戻ってきたら鍵閉まっちゃってただけなんだけど。俺、何回もピンポン押してただろ? それに最初はノックだってしてたし……」

 インターホンなんて一回も鳴ってない。と思う。ノックの音だって鳴ってない。と思ったけど、シャワーを浴びていた時、外が少し騒がしかったのを思い出した。けれどそれがノックだったかは分からない。私はタクローに抱きついたまま――もう離さない――インターホンを押してみる。夜明け前の神戸は、朝の気配を発散させながら静かな叫び声をあげていて、微かなバネの跳ね返りだけが私の指を苛んだ。

 勘違いの次元跳躍。

 でも実際に扉の向こうは私の知ってる時空とは違っていて、次元跳躍こそ出来なくても、時空跳躍くらいは出来ていたのかもしれない。確かめる方法なんて思いつかないけど。それより今はこの目の前の事実だけ、それだけで十分。

 扉っていう内と外の境界は、とても曖昧だ。

 でもそれって全てにいえる事なのかもしれない。一度開いてしまったタクローへの恋心っていう扉だって、過去にもう開いていたのに気付いていない振りをして、急に姿を現したタクローを見た時にノックの音が響いたから、「あっ、扉開きっぱなしじゃん」って思い出しただけ。ノックの音で閉じていた扉を開いたわけじゃなくて、あくまでも開いていた扉の存在に気付いたってだけ。でも、その扉が開く前から私はタクローが好きだったはずで、それなら扉はなんの役割を果たしていたのかっていうと結局、扉なんて開いていても閉じていても、内と外って境界を明確にするものではないんだ。だって、そんなのあってもなくても、その先に【ある】ものは【ある】んだし、【ない】ものはどうしたって【ない】んだから。

 そうなんでしょ、タクロー?

「大人でも子ども、子どもでも大人。境界なんてねえよ。大人になる事が年を取る事であるわけねえし、子どもっていうのがしゃくりあげて泣く事じゃない。だって子どもだって年は取るんだし、大人だってしゃくりあげて泣くんだから。俺たちは曖昧な存在だけど、そのまま曖昧でいいんだよ。だって、そうじゃなかったら、俺は桜を必要としないし、桜だって俺を必要としないだろ? 俺と桜が曖昧じゃなかったら、俺と桜に境界があったら、セックスだって出来ないじゃん」

 いい事言ったと思ったのに、なんだよ、それ。

 この七日間で、タクローの肉体的な七年間が補完されて見た目の年齢が二十歳そこらになったけど、精神的な七年間は補完されていない。

 だから頭の中は中学一年生のまま。セックスに興味津々な性欲モンスターのまま。

 でも、やっぱり、私なんかよりは、ずっと立派に大人だと思う。

 タクローの言葉を借りるなら、子どもでも大人ってところかな?




 それからタクローは成長が急に止まって、神聖な感じも荘厳な感じも神様感も無くなっていく。ありきたりなただの仮性ちんこになった。失踪と私の大きくなりすぎた好きの関連性も、三次元のバグとか次元跳躍とかも、結局なにも解決しないままタクローと遊んだり喧嘩したりセックスをして過ごしていく日々。でも全く変化がないわけじゃなくて、タクローは失踪宣告の取り消しをして、ちゃんと生きている人間になった。私と同じ、時代・次元・時空を生きている人間に。それとタクローの家族とも再会した。でも岐阜県で家を買ってしまっていて神戸に帰ってくる事は難しいというので、今は私と同棲をしている。このまま結婚するかどうかは分からないけど。だって次元跳躍者のタクローにも未来は分からないんだから、なにも跳躍出来なかった私にそんなの分かるわけがない。

「桜」

 最近になってやっと飲めるようになったビール一本で酔っぱらって、ベッドで仰向けになったまま本を読む私に乗っかるタクロー。かわいい。

「なに?」

 まあ聞くまでもないような気もするけど。

「しよう」

 そんな事だろうと思った。

「はいはい」

 タクローの右手にはビール、左手にはタオル。ビールの缶から垂れた水がジーパンのあそこの部分を濡らして、いつかみたいに生命の源である子宮に直接なにかを運ぼうと躍起になっているみたいだ。今回はきっと、アルコールじゃなくてタクローのオタマジャクシとかだと思うけど。私はあそこから発火する。

「今日もこれ付けて」

 そういえば、私たちはマナミちゃんの影響(?)で、目隠しプレイにハマっている。

 私たちっていうか、タクローがなんだけど。

 次元跳躍の時に耳鳴りみたいなのが全身を包んだあの感覚が忘れられないらしいんだけど、目隠しプレイをするとその時の感覚に似た現象――っていっても表面上には何も変化は見られないんだけど――が起こるらしい。それによって、タクローは現象――表面上の変化――として勃起する。私とは違った形で、大きくなりすぎた好きを表現するタクロー。

 それぞれの大きくなりすぎた好きで満ちた部屋は、タクローと暮らす内に物が溢れて、それが私とタクローの境界をどんどん曖昧にしているようで、なんだか嬉しい。

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大人でも子ども、子どもでも大人 斉賀 朗数 @mmatatabii

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