続報 私たちに明日はあるよね?

「━━━━━はい。━━━━━はい。それは本当にすみません。━━━━━いえ、申し訳ありませんでした。━━━━━はい、━━━━━はい、」


 爪が手のひらに食い込むほどの拳を作って、園花ちゃんが必死に耐えている。しおらしい声音に反して、目は猛禽類に近いするどさがあった。いつも以上に絡まれているから、ヤツは昨日パチンコで負けたのかもしれない。私は自分の電話が終わり次第、園花ちゃんから受話器を奪った。


「━━━━━ おい、下柳」

『ああ、優芽ちゃん? 元気そうだね』


 カラッとした声は機嫌良さそうで、どうやら単に遊んでいただけらしい。


「若い子いじめてないで、さっさと仕事しなさい!」


 内線を叩き切ったら、園花ちゃんから盛大な拍手を贈られた。


「ありがとうございます! 助かりました!」

「あいつ、あれで悪い人じゃないから、言い返しても大丈夫だよ?」

「そう言われてできる人間なんて、ほとんどいませんよ……」


 下柳は悪いヤツではないらしい。何しろ私の悪態を笑って受け入れてる男なのだ。廣瀬くんも、


『下柳さんね。女っ気のない職場だから、コミュニケーション取りたいんだよ。本当に怒ってるときと、遊んでるだけのときの見分けがつきにくいのが困りものだけどね』


 と言っている。私のことも、


『からかってるんだと思うけど、あわよくば、とは思ってるかも。油断はできないな。何事もどこまで本気かわからない人なんだよ』


 ということだ。『でも悪い人じゃないよ』と付け足していた。

 グダグダ文句は言うけれど、面倒見はいいらしい。取扱の仕事もバンバン取ってくるし、荷主相手でも言うべきことはきっちり言って、乗務員さんの待遇も守るから、信頼も厚いのだとか。


『配車担当って人間関係が重要だから、うまくやれない人はやっていけないよ』

「━━━━━と廣瀬くんも言ってるし、いろいろ目をつぶれば悪い物件じゃないかもよ?」


 それでも私は嫌だけど、園花ちゃんの反応見たさに押し売りしてみる。


「目をつぶり過ぎて、全然未来が見えません!」


 ははは、だよねえ。下柳と園花ちゃんに、別々の幸あれ!


「他人の恋愛を心配してる場合かしら?」


 桝井さんが未来人メガネ越しに意味ありげな視線を投げてくる。


「……何か、あります?」


 私もFAX発注の打ち込みをしながら、こわごわ聞き返した。


「優芽ちゃん、牧くんに冷たいと思うのよ」

「あ、それ私も思ってました!」


 すかさず園花ちゃんも賛同する。


「……そんなことないですよ」


 と反論しつつ、実はちょっと自覚があった。だって廣瀬くんは特別なのだ。その特別な人を他の人と同じように扱おうと気を使うと、必要以上に冷淡な態度になってしまう。付き合ってることは隠していないので、余計に周囲の目が気になる。


「付き合う前はあんなにトロットロの声で話してたのに、めっきり事務的よねえ。電話切るのも早いし」

「『回線にアリがたかる』とか、いろいろ言ってたじゃないですか!」

「あんなの冗談半分、やっかみ半分ですよ。まあ、トロットロの声で仕事されたら、また嫌味くらい言いますけどね」


 仕事に影響しない適度な距離感を保ちつつ、恋人として接する、なんて器用なことができるはずない。


「牧くんは平気なの?」

「……どうなんでしょうね? そういう話したことないです」

「えー! 大丈夫なんですか?」


 ふたりきりの時間を思い出して、顔を覆った。


「だって恥ずかしいじゃない!」

「西永さーん、仕事ー」


 手が止まったら、間髪入れずに課長の指摘が飛んできた。


「……すみません」


 ふたたびパソコンに向かうと、課長も確認してイスに座る。


「『恥ずかしい』って、聞いてるの牧くんだけでしょ。『好き』『俺もだよ』を延々ループしたって、誰にも迷惑かけないじゃない」

「無理無理! そんなの無理ですよ! そもそも、『好き』なんて、ちゃんと言ったこともないし……」

「はあああああ!? 言ったことない!?」


 園花ちゃんは数えている途中の伝票を放り出して叫んだ。


「もう!! 何やってるのよ、優芽ちゃん!!」


 桝井さんも手を叩きつけたため、変なキーを押してしまう。


「私たちの前ではあんっっっなにデレデレしてて? 本人には言わないんですか? それ、ただの公害です! 杉花粉以上に迷惑です!」

「すれ違ってから言っても遅いのよ! 好き合ってても別れちゃうことなんてざらにあるんだから!」

「桝井さーん、飯星さーん、仕事ーー」


 ふたりとも課長の言葉に冷静さを取り戻して仕事に戻った。


「別に……廣瀬くんだって、めったに言わないし」


 少ない分ちゃんと一回一回覚えてる。三回です。


「牧さんはいいんです。見てればわかりますから。毎日にこにこ西永さんに話しかけてるのに、西永さんは目も合わせないですよね」

「だから、恥ずかしいんだって!」

「これは、あと半年もたないかもね」


 不吉な予言に背筋がぞくっとした。手では届かないのでバインダーで背中を掻く。


「がんばります……」


 我ながら信用度の低いコメントで締めくくって、あとは仕事に埋没するふりをした。



『ここまでのメンバーがいい流れで持ってきてくれたので、僕は落ち着いて楽しく走れました』

『後輩たちが応援してくれてたけど、呼び捨てでしたよね? いつもあんな感じなんですか?』

『はい。先輩だと思われてないみたいで、敬語使ってもらったことないです』


「かっわいい~! 抱き締めたい! いやあああん、もうっ……あ、痛っ!」


 身悶えて転がったら、こたつの角に脚をぶつけた。


「もうやめようよ」


 げんなりしながらも、布団を取り去った夏使用のこたつを、部屋の隅まで寄せてくれた。そんな健気な廣瀬くんを、私は非情にも無視してDVDを巻き戻す。


『はい。先輩だと思われてないみたいで、敬語使ってもらったことないです』


「ああ、かわいい。どうしようもなくかわいい。もうー、廣瀬くーーーーん!!」


 十年も前の箱根駅伝の映像なんて、そうそう残っているものではないけれど、当然牧家には保存してあった。私はそれをお借りして、何度も何度も繰り返し観ている。箱根駅伝だけでなく、その年の全日本も、前年の出雲と全日本も。他にも琵琶湖毎日マラソンや福岡国際マラソンなどすべて残っているけれど、優勝した箱根駅伝以外はあまり映っていない。

 ソファーの上で画面から目を逸らし、携帯を見ていた廣瀬くんにすり寄ってみる。


「自分に焼きもち焼いちゃう?」


 先日行われた記録会の結果を検索していた廣瀬くんは、スクロールする手を止めずに言う。


「別に焼かないよ」


 なんだよ、とがっかりする私の隙をついて、リモコンでDVDを消してしまった。


「ただ、単純に恥ずかしい。何がいいのかわかんない」

「ピチピチでフレッシュでかわいいよ~」

「今は?」


 本当の気持ちってどうしてこうも言いにくいのだろう? どうでもいいことは次から次と出てくるし、そんな気のない人にならお世辞もたくさん言えるのに。


「……地味さに磨きがかかったよね。いぶし過ぎて、銀なのかその辺の石ころなのかわからなくなってる」

「あ、そう言えばさ、」


 このように、廣瀬くんは相変わらず(たまにだけど)他人の話を聞き流す。


 おーーい! 廣瀬くーーーーん! 私、結構ひどいこと言ったんだよー!


 廣瀬くんは携帯をテーブルに置いて、私に向き直る。


「俺、会社辞めようと思ってるんだ」


 私はぱちぱちと大きくまばたきをした。

 おい、廣瀬。それって、もののついでで話すようなことなのか?

 力が抜けてソファーの背に乗せていた手がストンと落ちた。


「地元の高校から陸上の指導しないかって打診されてて。湘教大の方からも俺が地元で後継を育成したら、いいパイプができるって頼まれてる」

「……先生になんてなれるの?」

「元々指導者志望だったから、教員免許は持ってる。優芽」


 真正面から真っ直ぐ目を見て、真剣なまなざしを向けた。


「不安定な仕事だし、苦労も多いし、だからって給料がいいわけでもないけど、俺はやりたいんだ。だから……ごめんね」

「え?」


 謝罪の言葉を残して、廣瀬くんはリビングを出ていった。扉の閉まる音がやけに大きく響く。

 確かに不安しかない。ここより、それから私の地元よりも田舎だし、交通の便は悪いし、何をする仕事なのか、私には何ができるのかわからないし、将来も見えないし、お金の心配だってある。それでも、悩むことさえさせてもらえないの? 一緒に、って望んでももらえないの? 私だって、陸上大好きな廣瀬くんが大好きだし、その夢を応援したい気持ちはあるのに……。

 元々閑静な住宅街ではあるけれど、深海のように、宇宙のように、重く暗いしずけさだった。自分の心の闇に包まれたよう。

 もらえなかった言葉を嘆くけど、私だって伝えていない。いつもまなざしで、指先で、その全部で、いとおしいと伝えてくれる廣瀬くんについ甘えて、まともに愛情を伝えたことなんてなかった。直接言えない代わりに十年前の映像に想いをぶつけた。胃カメラのとき、あんなに人生を後悔したのに、私はまた同じ過ちを繰り返している。桝井さんの『あと半年もたない』という言葉が現実味を増して、しずけさを深めていった。


「ごめんね、話の途中で……わ! なんで泣いてるの?」


 廣瀬くんがどこか遠くに去ってしまった気持ちになっていたけれど、ただベッドルームに行っていただけらしく、またふわふわ戻ってきた。拭うことなく涙を流す私を見て、慌ててティッシュを三枚掴んで私の顔にあてた。その首にしがみつく。


「別れたくない」

「……うん?」

「別れない!」

「あ、うん」

「可愛くない態度でごめんなさい! 素直になれなくてごめんなさい! 『石ころと同じ』なんて嘘だよ! 恥ずかしくて言えなかっただけ。廣瀬くんは私にとってターフェ石より貴重なの」

「……『ターフェ石』?」

「いつか誰かが廣瀬くんの魅力に気づくんじゃないかって不安だし、気づかないようにもっともっと地味さに磨きをかけてほしいし、できれば廣瀬くんの良さは私だけが知っていたいの。大好きなの。愛してるの。だから絶対別れない! 一緒に行く!」


 消しゴムみたいな廣瀬くんの身体は拒絶するように硬い。それでもすがるようにTシャツに顔を埋めた。白いTシャツは涙で透けて、その下にある筋肉が見えそうだった。


「まだ何も言ってないんだけど、でも、ありがとう」


 私を抱き締める腕の力には確かな愛情が込められていた。噛み合わないその態度に、ようやく違和感を覚える。


「……さっきの『ごめんね』は何だったの?」

「あ、それ誤解してたの? ごめん、ごめん。話の途中でちょっと忘れ物取りに行きたくて。それで『ごめんね』って」


 どうやらさっきの謝罪は「あ、ごめんね。ちょっと中座するよ。すぐ戻ってくるから」という意味だったらしい。話していた内容とそのタイミングの悪さが不幸を招いた。まさに廣瀬くん。


「紛らわしいよ! 恥も外聞もなくしがみつく女だってことがバレちゃったじゃない! 私って鬱陶しくて重い女だったんだ……。うわー、最悪。やだやだ、もう!」


 悲嘆に暮れる私を慰めるでもなく、廣瀬くんはぷくくくと身をよじって笑っていた。


「いや、むしろいい話聞けちゃった」


 笑ったまま小首をかしげる廣瀬くんは、憎たらしいほどかわいかった。痙攣が収まらない腹筋のせいで手元を揺らしながら、私の手に少し古びたグレーの小箱を乗せる。


「これ、取りに行ってた」


 箱の中には一粒ダイヤモンドのついた指輪が収まっている。傷だらけのプラチナ部分に比べ、ダイヤモンドは強い光を放っている。


「優芽、俺と一緒に都大路を目指してほしい」


 一粒ダイヤが、祈るように瞬いた。


「……………え? まさか今のってプロポーズ?」

「そうだけど?」

「一生に一度の大事な言葉がそれ? ただの有力選手のスカウトじゃない!」

「あ、本当だ」

「もうーー! 廣瀬くーーーーん!」


 肝心なときほど締まらない……。呆れた顔で深いため息をついたけれど、本当はそんなところも大好きなのだ。でも言わない。言えない。人間そうそう変われない。

「監督、オレ一生ついて行きます!」とでも言ってやろうかと思ったら、廣瀬くんが本当に真面目な顔をしていたから言えなくなった。


「優芽にプラスになるようなこと、何もないんだ。田舎だからアミューズメントは少ないし、特有の息苦しさや慣習はあるし、雪も降るし、バイトしても時給は安いし。だから全部俺の身勝手なんだけど、優芽にいてほしい。だめかな?」


 ひと息に言い切って、「やっぱりちょっと恥ずかしいね」と頬っぺたをピンク色に染めた。

 おい、おじさん。なんで私よりかわいいのよ。それより可愛げある反応なんて、できるわけない。


「返事はもうしないよ」


 ふんっ! と顔を背けたら、


「うん、いいよ」


 とあっさり応じられた。


「いいの!?」

「いいよ」


 廣瀬くんは私の顔に手をあてて、目の下あたりを親指で撫でる。


「この辺、いつもちょっと赤くなるんだ。優芽の気持ちはここ見ればわかる。それ見るの好きだから、素直じゃない反応で構わないよ」

「悪趣味!!」

「うん。でもほら、さっきからずっと赤い」


 ふふふふ、と勝ち誇ったように廣瀬くんは笑う。もはや私は何も言えず、表情もつくれず、ひたすら羞恥に耐えるばかり。あくまで可愛げなく顔を背ける私の頭を引き寄せて、廣瀬くんは髪の毛にちょっとだけキスを落とした。こうなってしまうと、必死に不機嫌を装っても効果はないと、自分でもわかっている。

 この人、結構やりたい放題なのだ。振り回されているのは、私の方ですから! 断固! 私はいつも寿命縮むほどドキドキしてるのに、この人はランナーだから、ゆったりした鼓動を刻んでいるに違いない。

 もはや抗うことなんてできず、廣瀬くんの為すがまま。

 廣瀬くんのキスが大好き。

 廣瀬くんが大好き。

 人生はつらいことの方が多いけど、単純に「生きててよかった」と思ってしまう。愚かだ。しっかり悩んで決めるべきことを、あっさり承諾してしまった。まあ、いっか。



「ところで、この指輪どうしたの?」


 明らかに買ったものではないので気になって聞いてみた。


「これ、母が父からもらったものだって。DVD送ってくれたとき、一緒の段ボールに入ってた」

「筒抜け!?」

「田舎だからね。うるさいんだ、結婚。特にばあちゃんが『ひ孫の顔見るまで心配で死ねない』って」

「わあ、すごいプレッシャー……」

「『長生きして欲しいから、しばらくしないよ』って逃げてたんだけど、『私のせいで結婚しないなら、もうじいさんのところに行く』って言い出して」

「脅迫!?」

「だから次の連休に連れて来いって。過疎化進んでるから、他県から嫁もらうとめちゃくちゃ喜ばれる」


 教科書やニュースで聞いた“過疎化”が我が身に降りかかるとは思っていなかった。


「少子高齢化に歯止めをかけるべく、微力ながら尽力いたします」

「子どもは三人目から助成が手厚くなるって、新聞記事も一緒に入ってた」

「気がはやーい」


 そっと左手を差し出す。


「田舎だからね」


 廣瀬くんがケースから指輪を取り出して、薬指に通した。

 ……通し……通しっっっっ!!!!

 ……通……らない……


「…………廣瀬くんのお母さんって、どんな指してるの?」


 指輪は第二関節の上で動かなくなっている。


「かなり小柄で細いんだよ。これも3.5号って言ってたかな? ……今日直しに行こうか」

「ちょっと待って! それより次の連休っていつ?」

「再来週三連休あるよ」

「再来週なんて無理! 三ヶ月、いや一ヶ月待って! せめて体脂肪率があと1%減るまでーーーーっ!!」

「ところで『ターフェ石』って何?」

「聞き流したな!」



 現実はつらいことが多いし、人間ドックを繰り返しても、私たちはいつか死んで離れ離れになってしまう。大団円のハッピーエンドにはならないかもしれない。それでもこの世界が映画やドラマじゃなくてよかった。エンドロールのない世界で、私は風のように走るあなたにしがみついて、都大路を走ろう。手がしわしわになるまで、ずっと。






 fin.


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