真白き匣

浦杜英人

第1話 匣

 そして私は幻の中で、御座と生き物と長老たちとの周りに、多くの使徒たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた。

「屠られた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、そして賛美とを受けるにふさわしい」

 また私は、天と地と、地の下と、海の中にある全ての者の言う声を聞いた。

「御座にいますお方と小羊とに、賛美と、誉れと、栄光と、そして権力とが、世々限りなくありますように」

 四つの生き物はアーメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。


 ヨハネの黙示録 第五章第十一節から第十四節



 灯りのない小部屋は暗く狭く、ただ単調な音だけが響いている。

 ―――この音は?

 部屋の中で一匹の芋虫が首をもたげた。と、同時に音が止む。芋虫は不思議そうにその小さな頭を巡らせる。左右の壁も天井も、伸縮の利く躰をちょっと伸ばせばすぐに触れるほどに狭いが、背の届かないような広大な世界は自分には似つかわしくない。この限られた狭隘な空間が寧ろ快適で至極落ち着く。ただこの暗さにだけには辟易する。ゆっくりと背後を振り返ると、そこには胡麻粒ほどの単眼ではとても見通せぬ闇が広がっていて、音も匂いも気配も何もかもが吸い込まれてしまう。本能が恐怖を呼び起こし、その闇から逃れるように慌てて前に向き直る。壁の角から僅かに光が漏れていて、単純な芋虫の精神はそれだけで安寧がもたらされる。安心すると、足元から立ち昇る芳香に気付いた。甘くほろ苦いその香りは芋虫の食欲を狂おしく刺激し、つい今まで気にしていたことなどすっかりと忘れて胸に並んだ肢で香りの元に縋りつき、一心不乱に貪り始めた。

 ―――この音は?

 もう幾度目か。また食事の手を止め、首をもたげる。やはり音は止み不審を煙に巻く。だが芋虫が音の源に辿り着くことは決してない。なぜならその音は、彼女自身が葉を食む音に相違ないのだから。そしてひとしきり頭を巡らせ、闇を恐れ、光に安堵し、また足元の葉を食む。そんなことを日に何度も繰り返し、次第に丸々と身を肥やしていく。そして純白の繭を築き硬い殻を破り去り、大変身を遂げるまでの静かな時を芋虫はやがて迎えるのだろうか?……いや、今度はもたげた頭をいつまでも戻さずにいる。別の気配を察したのだ。それはこの区切られた世界の外から近寄る不穏な影であり、彼女の中に生まれた未知の予兆―――


 灯りの点いていない小部屋は薄暗く、ただ空調の単調な音だけが響いている。

 壁沿いに据え付けられたスチール製のラックが天井近くまで背を伸ばし、その上にある排煙用の小窓には昇りたての朝日が力強く照りつけているはずだが、その陽射しは棚の天板に遮られ目の高さまでも届いていない。まったく、この暗さにだけは辟易する。男はラックの隙間に手を差し入れ指先で壁をなぞり、探り当てたスイッチを入れる。LED電灯の不自然に真白い光に目を瞬かせ、ずらりと並んだラックを順に辿る。

 入り口近くのラックは観音開きのアクリル製の一枚扉で、中は棚が切ってあり浅めのトレイが十段ほど入れられるようになっている。二週間ほど前までは五百頭以上の稚蚕で埋まり賑わっていたのだが、今は何も入っていない。次の入荷はまだ先なので、しばらくここは寂しい光景が続くだろう。隣のラックからは棚が十センチ四方の枠に区切られた引き出し様の箱になっていて、四齢以上の幼虫が一頭ずつ収められている。男はその箱を一つ一つ引き抜き、乾いた飼料を汚れた敷布と一緒に捨てて新しいものと取り換えていく。

 カイコは完全家畜化され野生回帰できない唯一の動物で、飼育するだけならこんな風に囲わなくても逃げたりしないしそれほど手間もかからない。だがここは実験室だ。彼女たちにはただ生き、繁殖する以外に役割を担ってもらう必要がある。そのために三齢の眠の段階で百個体の雌を選別して「ホテル」の個室に移し、こうして朝晩の給餌掃除を欠かさず行っている。四齢、五齢が二百頭近くいる今の時期が一番忙しく、作業を終えるのに一時間近くかかる。それでも男は小さく頷いたり首を捻ったりしながら幼虫の様子を一頭一頭念入りに確認している。男にとってこの作業は生活の一部であり、朝起きて顔を洗い歯を磨き一杯のコーヒーを淹れ啜るのと何ら変わらぬ行為なのだ。

 日課もあと数箱で終わりという頃、男の手が止まった。引き抜いた箱の中の五齢幼虫が目一杯に首を伸ばし物怖じもせず一心に男を見上げている。その様子をじっと見返し、おもむろに幼虫を抓み上げる。一日に体重の倍以上の餌を食い、三週間で一万倍にまで成長したその躰はまるで水風船のように膨らみ、軽く抓んだだけで頑丈なクチクラ層が弾けてしまいそうだ。さして抵抗する様子も見せない幼虫をそっと手の平に乗せると、ブヨブヨと膨れた体をくねらせ、弱々しい腹脚と尾脚を肌に吸い付かせながら懸命に指先に向かって歩いていく。立てた指を寝かせると幼虫は戸惑って首を振り、まだ立っている隣の指に移ろうとする。手を下げると今度は向きを変え、手首の方へと昇ってくる。男は楽しそうに手の上でしばらく遊ばせ、出し抜けに発泡スチロールの容器に入った氷水の中にその幼虫を投げ込んだ。幼虫は暴れる間もなく体を一直線にピンと張り動かなくなる。男は残りの箱の中から幼虫を無造作に取り出しては次々と氷水に放り込んでいく。残った塵を捨て空になった箱をラックに戻すと、同じ体勢で並んで浮かぶ幼虫たちを覗き込み満足気に何度も頷く。

「16TF06から10…ERKノックアウトのフサン併用群もヴィプフェル行動…やはり補体経路は必須か…CD59…MAK…」

 男はぶつぶつと呟きながら部屋の奥へと向かう。五齢を終えた幼虫が繭を拵えるための蔟(まぶし)が並んだラックや羽化したカイコガが交尾をするためのパンチングバットには目もくれず、向かいの棚から小指ほどの大きさのチューブを取り出す。ラベルに日付やナンバーを書き入れスタンドに立てていると、男は肌寒さを感じ白衣の上から両肩を擦る。

「少し、冷えすぎかな…」

 この時期、日中は汗ばむほどの陽気になるが、それに合わせて空調を入れていると壁の薄いこの部屋は朝晩に温度と湿度が下がりすぎてしまう。男は壁に埋め込まれたエアコンのスイッチを切り、ハンドルを回して天井近くの排煙用の小窓を開けた。生温い風が吹き込み、男の髪を緩やかに撫でる。好い感じだ。これなら昼休みに閉めに来ればちょうど良い頃合いだろう。男はチューブを並べ終えたスタンドを手に、鼻歌でも出てきそうな足取りで幼虫たちの元へと戻り、マイクロピペットを使ってチューブに生理食塩水を分注し、台の上に不織布を敷き、氷水の中から幼虫を一頭抓み上げてその上に置き、何度か転がして水気を取り、胸ポケットから取り出した赤色の虫ピンを尾角と尾脚の間に打ち込むと黄色い体液が染み出すのも構わず眼状紋のある胸部を持って硬直した幼虫の躰を引き伸ばして青色の虫ピンを頭部に打ち星状紋の上の第三腹節と第四腹節の間の体節間膜に剃刀の刃を当て脈管に沿って尾角まで表皮を切り裂くとどろりと白濁液が漏れ出しその様に男は頬を緩ませ縮もうとする皮を色とりどりの虫ピンで八方に広げ中にはついさっきまで咀嚼食下していた人工飼料がはち切れそうなほどに詰まった薄汚い中腸が歪に膨らみ表面に半透明の気管叢が蜘蛛の巣のように張り巡りその下を這う薄黄色の素麺のようなマルピーギ管をピンセットで避けようとして腸を傷付け土留色の消化物が白濁液と混ざって流れ出すのを舌打ちしながら拭うが続々と溢れ出る汚液に苛立ちそのまま滑る刃を切り開いた表皮に垂直に当て一息に引いて輪切りにし未だビクビクと脈を打つ胸部を床の屑籠に古くなった餌や糞と同じように投げ捨てようやく第五腹節付近背面にある黄味がかったてらてらと光る米粒ほどの一対の卵巣を探り当てるとそれを慎重に摘み取りチューブの生理食塩水に沈めスクリューキャップを締め頬を膨らせて大きく息を吐いた。

 手袋をすれば良かった、と頭の片隅で思いながらも煩を厭い、結局素手のまま生臭い臭気を放つ体液と消化物に塗れドロドロになった幼虫の腹部を不織布で包み屑籠に捨てた。指先に付いた葡萄茶色の液をぞんざいに白衣の尻になすりつけ、男は次の幼虫の解剖に取り掛かる。目尻を垂らし喜色満面で無抵抗の幼虫を切り刻み凌辱し打ち捨てるその姿を、何も知らぬ人が見ればどう感じるだろうか?あるいはその暴虐に目を背け、あるいは嫌悪から自制を促し、あるいは道義に悖ると唾罵を浴びせるかもしれない。だがその批難も蔑視も蓋し男には届くまい。そう、彼にとってこんな作業は全く普段の生活の一部であり、夜中に耳元で騒ぐアカイエカを叩き潰し、丸めた新聞を手にクロゴキブリを追い回し、トビイロウンカの駆逐のためにネオニコチノイドを産業用無人ヘリで散布するのと何ら変わらぬ行為なのだ。男は嬉々としてカイコガの五齢幼虫に針を打ち、剃刀を振るい、臓腑を屠る。チューブに採取した1ミリにも満たない塵芥の如き臓器に未だ誰も知り得ぬ知見を期待し、彼は心躍らせる。遂には口を窄め、本当に口笛まで吹き始めた。それはあたかも蚊を潰して安眠を得るかのように、御器噛を殺して食卓に平穏をもたらすかのように、浮塵子を墜として黄金の実りを待ち侘びるかのように…

 最後の一頭に取り掛かかろうとした時、ズボンのポケットが震えた。PHSが鳴っている。男は眉をしかめ、放置して捌いてしまおうかと剃刀を表皮に当てたまましばらく逡巡していたが、鳴り止まぬ着信音に仕方なく諦め、手を拭うついでに白衣の裾を捲り上げてけたたましく鳴く電子機器を抜き取り耳に当てる。

「もしもし、今実験室に…あ、はい……いえ…はい………分かりました、五…十分後には……はい…了解です……」

 段々と消え入りそうな声で答え、力なく肩を落とし受話ボタンを切る。誰かの訃報があった訳でも理不尽なクレームを受けた訳でもない。ただ少し早く仕事に呼ばれただけだ。にもかかわらず彼は弱々しく首を振り深く深く溜め息を吐く。心底落ち込んだその様は、早くご飯を食べなさいと玩具を取り上げられた小さな子供そのものだ。だが男はそれなりに守る生活がある大人だ、分別なく泣き喚いたり我が儘を言ったりなどせず、気を取り直してきっかり三分で最後の一頭から卵巣を摘出し、道具を片付けチューブの並んだスタンドを小脇に抱えて部屋を後にする。

「ホモジナイズまでしておきたかったな…ひとまずクーラーで…昼休みにまた…」

 男は口の中でボソボソと独り言を呟きながらラックの隙間に手を伸ばして照明を消し、薄暗くなった小部屋に振り返る。空調の切れた部屋はごく静かで、幼虫たちが布を踏み餌を食むチリチリという微かな音まで聞こえてくる。五秒か十秒か、男は息を止め、束の間その賑やかな静謐に耳を傾ける。

「もうすぐ…もうすぐだ」

 今度ははっきりと声に出し、他に誰もいない部屋に向かって呟いた。すると幼虫たちの静かな喧噪が、その声に応えて一際盛り上がったように思えた。男はもう一度幼虫たちの「ホテル」を見渡し、満足気に大きく一つ頷くと、扉を開け部屋を出て行った。


 灯りの消された枯れ井戸の底は狭く暗く、何も聞こえない。

 ここはきっとあの闇の中だ。音も匂いも気配も柔らかな感触も心安らぐ光もここにはない。あの匣の奥の、あの闇の中に来てしまったに違いない。甘くほろ苦い香りももう嗅ぎ取れない。彼女は恐怖に慄いた。ここに居てはいけない。ここに居たら自分も闇に吸い込まれる。存在する世界の全てが呑まれてしまう。彼女は胸に並んだ小さな肢で縋り付き、身をくねらそうとしてそれができないことに気付いた。ああ、ほら、もう躰の半分程も闇に呑まれている、ここに居てはいけない…!

 彼女は生きていた。身を千切られ体液を垂れ流しながらも、彼女の意思は絶えてはいなかった。打ち捨てられた屑籠の中で丸められた不織布に掴まり、敷布の隙間を潜り抜け、闇から逃れようと短く小さな肢を掻き動かす。乾いた葉には目もくれず―――尤もそれを受け入れる器官は大半が失われていたが―――、仲間の遺骸を踏み台にして、光を求め上へ上へと登っていく。

 彼女は生きていた―――いや、果たして生きているのか?既に背脈管は拍動を止め、縦走気管は潰れ空気を通さず、途切れた梯子状の神経節に電流が流れることはない。この個体の生命兆候はとっくに終わりを告げている。それでもなお横紋筋はATPを消費しサルコメアの収縮を繰り返す。一体何がそうさせるのか、生ける屍となってまでも彼女の意思は絶えてはいなかった―――いや、果たして彼女の意志なのか?そもそも一介の芋虫に確たる意志なぞ必要ではない。ただ足元の葉を食み、物音に怯え、気配に狼狽え、また葉を食んで身を肥やし、時に窮屈な皮を脱ぎ、時に気紛れに首を振り、やがてむず痒さに糸を吐き繭を拵え皮を脱ぎ暫し眠り、目覚めた後は何も求めず誘われるがままに交わり卵を産み、そして果てるだけだ。そこには一己の意志も入る余地はない。本能のままに動いていれば、それがすなわち生きる意味だった。それなのに―――

 行かなければ。

 登っては落ち、落ちては登り、どれほどの時間を費やしただろう、遂に屑籠の縁に第四腹節から下を失くした芋虫が姿を現した。着いた、辿り着いた、頂上だ…よろよろとふらつく躰をもたげ、そこで胡麻粒ほどの六つの濁った単眼が知覚したのは遥か上空まで聳え立つ黒い壁と、その更に上方で燦然と射し込む陽光―――絶望に目でも眩んだか、細い峰の上でもたげた躰はバランスを崩し、か細い鉤爪はあっさりと剥がれ芋虫は屑籠の外側、床の上に背中からポトリと落ちる。良く頑張った、お前は十分に生きた、ゆっくり休め…しかし誰がそんな声を掛けてくれると言うのか。例えあったとしても、その声に彼女が吾が身を振り返ることは、もう決してない。

 行かなければ。

 内なる声に突き動かされ、背を反らせて臥せ返る、行かなければ、頼りない胸脚と僅か残った一対の腹脚で彼女は再び床を這い進む、行かなければ、行かなければ、滲み出る体液も尽き輪切りにされた切り口は干からびている、行かなければ、落下の衝撃で六つの眼もあらかた潰れさっき見た遠く頭上の光さえもう届いてはいない、行かなければ、それでも彼女は聳える黒壁に挑む、行かなくては、ここに居てはいけない、行かなければ、例えそれが無限に続く果てのない道だとしても、

行かなければ。


 いつの間にか喧騒は止み、ここは眩い光に溢れている。

 哀れにやつれたカイコガの幼虫が一頭、嘗て過ごした箱の収まるスチールラックの天板の上で陽射に包まれている。足下で別の個体たちが奏でる営みの音もここまでは響かず、内なる声ももう聞こえない。開いたままの排煙用の小窓からそよぐ風はごく優しく、ゆっくりと幼虫の体を乾かしていく。とても静かで、穏やかな場所。これより上へと向かう道はなく、そのためのカロリーも体内に一片たりとも残っていない。ここで終わり。行き着いた終着地で、彼女は静かに身を横たえている。

 太陽は益々昇り、万遍無く降り注ぐ熱に天板がチリチリと灼かれ出した頃、甲高く空気を叩く音と共に小窓から吹き込んでいた風が不意に乱れた。鳥だ。どこから何を嗅ぎつけたのか、ほんの十センチほどの隙間を抜けて飛び込んできた小さな鳥が桟に止まっている。小鳥は盛んに首を傾げて中の様子を窺い、すぐに幼虫を見つけると、桟の上から一足二足跳ねて近寄る。と、幼虫の躰が身じろぐように転がった。羽ばたいた圧に押されただけだろう、しかし小鳥は慎重に、忙しなく首を振る。不穏な動きがあればすぐに飛び去れるように、でもその目は新鮮な獲物を捉えて離さずに……やがて臆病な小鳥も決意を固める。こいつは動かない。きっとこいつは死んでいる。自分が危害を被ることはない……もうひと跳ね、小鳥は自らの色濃い影を獲物の上に落とす。尾羽を挙げ、足趾を突っ張り、捕食者の姿勢を取る。やはり獲物は動かない。大丈夫だ…下ろした頭を一旦止め、いざ啄まんと構えた時、背後から照りつけていた陽射がさっと翳った。

 小鳥はびくりと身を固める。只ならぬ気配に震え、それなのに逃げ出せもせずにいる。左右の目には自らの乗るラックの天板が映っている。その天板には、今まで光に紛れ見えていなかったが、陽の翳ったその天板には細長い白い紋様がいくつも描かれていた、紋様?いや、それは描かれたのではなく何かが崩れ、溶け、歪に積もった白い滓だ、何か?それが何かを理解するには蚕豆ほどの小鳥の脳は余りに小さい、だがそれは明らかに芋虫と同じ形状をしている、目の前で、あと少し首を伸ばせば触れる距離で、獲物と定めた半千切れの膿汁を噴く芋虫が今まさに朽ち果て紋様の一つになろうとしている、光に紛れて見えていなかった、陽の翳りが天板の上に広がっていくと、そこには、天板の上を隙間なく埋め尽くす夥しい数の芋虫の形をした痕滓が浮かび上がる、根源的な恐怖に震えながらも小鳥は逃げ出せない、目の前で、あと少し首を伸ばせば触れる距離で、半千切れの芋虫が動いている、動いている、死んでいたはずの遺骸が動いている、背を反らせ、胸を持ち上げ、短い肢を一杯に広げて小さな頭を天に翳している、それはまるで祈るように、乞うように、飛来した使徒に向けてその身を晒す、さあ屠れ、この餌を食せ、嚥み下し滋肉とするが良い、きっと解き放て、この狭く暗く、音のない匣から解き放て……哀れな芋虫の祈り乞いを聞き届けたのか、沈黙していた足下の箱の中から俄かに大合奏が沸き起こる、息を吹き返したように葉を食み布を踏み光を求める音が一斉に沸き起こる、それはまるで讃美歌のように、鎮魂曲のように、一個の勇者を励まし称える、さあ征け、同胞よ、我らは個にして全、全にして個、挑んでは朽ち、朽ちては挑み、幾万幾千の盛衰の果てにある世界へ、解き放て、区切られた匣の中から、きっと我らを解き放て……祈りの姿に、称える音に、魅入られ、聞き惚れ、小鳥の頭がじわりと落ちる、もたげた芋虫の頭に固く尖った嘴が寄る、その切先が届く間際、意志とは無関係に開いた口からだらしなく舌が伸び、敬虔な祈祷者をぺろりと舐めた。


 外気は陽気に満ちている。日向にいれば汗ばむほどだ。

 その汗を爽やかに拭う風が一陣吹きそよぎ、小窓から小鳥が姿を現した。小鳥は辺りを窺うとすぐに飛び立ち、近くのフェンスの隅でまた羽を休める。風が尾羽を翻し、嘴の端には溶け崩れた白い塊がはみ出ている。生まれたての我が子への土産か、それとも誰にも邪魔されない食餌場所を求めてか。小鳥はそよぐ風に乗り、あっという間にどこへともなく飛び去って行った。

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