第4話 飢餓

 幸か不幸か晩秋の空は蒼く高く澄み渡り、寒風止めどないにも関わらず校舎の屋上は学生たちでごった返している。中央には簡単なステージが据えられ、その上でピエロが司会の奇術部か何かの拙い出し物が繰り広げられているがそれには誰一人見向きもせず、銘々好き勝手にお喋りをしたり携帯ゲームをしたり車座になってランチをとったりしている。周囲のフェンスには風船やら紙テープやらが派手派手しく飾り付けられ、その一角からは「第○○回清香学院文化交流祭」とか「羽搏こう青春の空へ云々」などのスローガンとかが大書された垂れ幕がぶら下がっているのが来るときに見えた。眼下のグラウンドにはこの祭りを象徴する瓦礫の塔のような櫓が組まれ、その周辺を出店の屋台が十重二十重に取り囲んでいる。櫓は後夜祭で燃やすそうだ。目を戻すとステージでは種も仕掛けもないシルクハットの中から取り出したハトが寒空へと飛び去ってしまいそれを奇術部員たちが青い顔で追いかけていき残されたピエロが慌ててショーを切り上げている。青柳は不憫なピエロに少しだけ共感し、せめてもの拍手を送ってやった。

「ヤギ先生、お茶どうぞ。ほら、先生の好きな玉子焼きもミートボールもありますよ。色々作って来たんでどんどん食べてくださいね」

 おざなりに手を叩く青柳の隣でチョコが甲斐甲斐しく紙コップを差し出す。特大のレジャーシートの上にはお弁当箱やお重やオードブルのセットが隙間なく並べられ、周りから間断なく伸びる手がおにぎりやサンドイッチやフライドポテトを摘まんでいく。満を持して臨んだ『真夏の夜の夢』は万雷の拍手を浴びる中幕を閉じ、その興奮冷めやらぬままチョコはみんなを屋上に(もちろん三十分の制限付きだが)引き連れてきた。吊られている腕のことを忘れるほど、チョコは久し振りにウキウキとした気分を味わっていた。

「ダメよチョコちゃん、甘やかしちゃ。この人昔っからそんなのばっかりで、野菜なんて全然食べやしないんだから。味覚がお子様なのよね」

 その横でヒールを脱ぎ足を崩した千春は、振り向くチョコと顔を合わせて同意の苦笑を交わす。チョコの誤解は出会って数分で解け、お互いに波長が合うのかすぐに見知った従姉妹かのようにぺちゃくちゃとお喋りする仲になった。もっともその会話の内容はほとんどが煮え切らない小児科医への愚痴だったが。

「へえへえ、仲のよろしいこって。彼女のイベントで元カノ侍らせるとか、何考えてんだか…ちょっと!狭いんだからもっとそっち詰めなさいよ」

 チェリーは稲荷寿司の甘さにぶつぶつ文句を垂れながら二つ三つ頬張っている。休みの日にまで学校でバカ騒ぎしたがる日本人の気が知れないが、チョコに請われてたまたま暇だったから来てやったのだ。寂しかったとかではない。断じてない。まあ屋台のイカヤキが旨かったので許してやろう。ただしシャテキはダメだ。あれは許さない。

「なんやと?お前こそ股閉じんかいな。ホンマに女か?まあ、お前のイチゴパンツ見たって嬉しないけどな…ってなんや、冗談やがな、腹殴んなや!」

 チェリーの執拗な肘撃ちに身悶えるコンス。最近はトレードマークのドレッドヘアを頭上で結ばずに下ろしている。オベロン王の役作りでそうしていたらそっちの方が似合うと言われたからだ。誰に…かは、まあええやないか。ちらりと横に流す目に、さっきから食べるの喋るの口を動かしっぱなしのナッツは気が付く様子もない。

「そりゃあね、幕が開いた瞬間は正直ちびりそうだったよ?ねー、トータもそうだったでしょ?けどあれよ、役が降りて来るってやつ?途中からセリフも練習以上にすらすら出て来て、いやいや、レアもカッコよかったよティターニア、コンスをひっくり返すところとか大うけだったじゃん、何よその目ぇ、あんただってノリノリだったくせに、あ、そだ、ゴメンねシュー、あちこちアドリブとか入れちゃって、ちっちゃい子が手振ってくれてるのが見えたからついつい、いやーでも楽しかったなぁ、役者の気持ちが分かったもん、こうなりゃ目指しちゃおっかなー女優、なんつってウソウソ、いやでもホントにそれくらい気持ち良かった、ね、良かったでしょ?ちゃんと見ててくれた?アンちゃん」

 短い足を投げ出しスナック菓子を矢継ぎ早に口の中に放り込むナッツは話し相手も矢継ぎ早に変えるので誰に向かって話しているのかさっぱり分からない。余程気に入ったのか妖精パックの格好のままうろついていて、さっきから引っ切り無しに色んな人から声を掛けられる。でも悪い気はしないぜ。

「もちろんよー、演劇の部門賞は間違いなしよー……フフッ、これでA組に体育祭での借りは返せたわ。柏先生にいつまでも大きな顔させやしないんだから、フフフッ……みんなのお陰よー。悠太くんにも久し振りに会えたし、今日は良い日ねー」

 間延びの中に毒を含ませ小倉アンは緑茶を啜る。それにしても黒羽悠太が顔を見せてくれたのは本当に意外で、率直に嬉しかった。知世子から様子は伝え聞いていたが、卒業以来この可哀相な雛のことはずっと心配していたのだ。滋養の足りなさそうな身体つきは相変わらずだが、こうして人の輪に加わるなんて少しは心境の変化があったのかもしれない。もしかして彼女でもできたか?…それはないか。

「………」

 当の悠太はサイダーの注がれたコップを手に正座して顔も体もガチガチに固めている。挨拶したらすぐ帰るつもりだったのに俺はなんでこんなところに居てもしょうがないどうせ誰も大した話なんてしてやしない妹がいるから妹とその担任がいるから付き合ってやっているんだとっとと終われああでもこの担任の近況くらいは聞いておいてやっても

「…で、小倉先生って先輩の時も担任だったんすよね?八年前ですよね?未だに新米教師とか言ってますけど、あの人一体何歳なんですかね……あ、いや、何でもないです、そうだ先輩、お代わり大丈夫ですか?いやいや、何でもないですってば!」

 良く回る気を遣ってトータが無口な悠太に話題を振るが会話になっていない。余計なことまで聞いてその隣の年齢不詳のオバさんに睨まれてしまった。でも挫けない。大切なクラスメイトのお兄さんにお近付きになれるせっかくのチャンスなんだ。そう、お客さんなんだから、きちんともてなさないと…

「はあ…やっぱりチョコに全部書いてもらえば良かったのよ…エピローグが一番うけてたじゃない…トータのライサンダーも完璧だったのに…私の脚本が平凡だったから…出しゃばらずに音楽だけに集中しておけば…」

 いくら褒められても慰められても頑固なシューは体育座りでどんよりと落ち込んでいる。イベントの後はいつもこうだ。そりゃあ私だってハーミア役とかやりたかったわよ…でもそんなの柄じゃないって言うか私じゃ釣り合わないって言うか…はあ…

「…大丈夫。うけてたのはナッツのアドリブ。シューの台本、すごくやり易かった…」

 面倒臭くて誰も相手をしなくなったシューに最後まで付き合うのはレアの役目だ。この愛すべきペシミストの幼馴染をレアはどうしても放っておけない。実際、元来二時間以上かかる劇を三十分にまとめたシューの構成力はすごいと思う。レア演じるティターニアがコンスのオベロンを蹴り飛ばすシーンも、レアが空手をやっていたことを知っているシューだからできた演出だ。ナッツじゃないが正直…気持ち良かった。

「千春さん、馬術部だったんですか?もしかして飾ってあるインハイのトロフィーにある『鶴田』さんって千春さんのこと?すごい!カッコいいなぁ…」

「うん、でもずっと組んでたバディが死んじゃって、それ以来乗ってないんだけどね…チェリーちゃんは部活何やってるの?フリーピストル?日本で出来るの、それ?」

「シャテキ屋のオヤジめ…あんなのイカサマよ…おいこら、塩ラーメン、五百円貸しなさい。あのフィギュア絶対落としてやる」

「誰がラーメンやねん。しかしまああんな子供騙しにムキになるて、やっぱお前も見た目ん通りの…いたた!殴んなて!」

「ちょっとコンス、聞いてんの?セリフ噛んだのあんただけなんだから、約束通りクラス全員にタコ焼きね」

「あら~悪いわねぇ蜂須くん、先生にも奢ってくれるの?ついでにこの子にもお願いできるかしら?ほら悠太くん、顔色悪いよ?食べて食べて」

「………」

「先輩、このタルタルチキンめっちゃ旨いですよ。え、これもチョコが作ったの? すごいなぁ、いやホント、購買のタルタルより旨いよ。先輩…羨ましいっす」

「ほら…チョコは料理も上手だし文才もあるしトータにも褒められて私なんか…」

「…大丈夫。シューの爆弾焼きおにぎりも大味で美味しい…」

「ヤギ先生、ポテトサラダはどうですか?ちゃんと野菜も食べてくださいね」

 知世子が自分の使っていた割箸でオードブルの大皿からポテトサラダを一摘み、その上にプチトマトを乗せて青柳の口元に差し出すが、マッシュポテトの中の大量のキュウリに青柳は頑なに唇を噤み子供のように首を振る。

「…呆れた。チョコちゃんの手作りでも食べてあげないの?…ホント、酷い人。何だかゴメンね。その人、キュウリだけはどうしても駄目らしいのよ」

 千春が心底呆れた顔で手を振り、青柳の代弁をしてくれる。知世子は不満気に眉根に皺を寄せ、箸の行き場を探して辺りを見渡す。

「千春さん、どうですか?」

 振り向いた知世子が手を添えて千春に差し出す。

「あー…私はいいわ。…ありがとう」

 鼻先で手を振るままに千春が断る。いつもならはっきりした物言いの彼女が、珍しく言い淀んでいるように聞こえた。

「シューちゃん、食べる?」

 今度は対面で膝を抱えるシューに腕を伸ばす。

「…えっ?えっと…あ、そう、私、今ダイエット…してるから、カロリー高いのは食べないようにしてて、その…ゴメンね」

 手を合わせ引き攣った笑顔でシューもたどたどしく断る。知世子は無理強いせずとも少し困った顔で少し意固地になり次のターゲットを探す。

「チェリーちゃん、どう?」

 ポテトサラダとプチトマトが一堂の輪の中を行ったり来たり、彷徨った末に突き出された先で、チェリーは悪びれもせず二人が言葉を濁してチョコの箸を断ったその正しい理由を冷然と言い放つ。

「は?そんな食い止し、なんであたしが食べなきゃいけないのよ。しかもあんたが口を付けた箸で。その汚い顔が伝染りでもしたらどうすんのよ」

「………!」

 たちまち輪の空気が凍りつき、チェリーは素知らぬ顔でスマートフォンを弄っている。あまりの暴言。でも誰も即応できない。何てことを言うんだ、伝染る訳ないじゃないか…誠実な子ばかりだ、直ぐにそんな声が上がっても良さそうなものだがそうはならない。これが彼女の現実だ。日頃は皆、彼女に対して親身に違いない。必要以上に献身的ですらあるだろう。だが千春とシューだけではない、彼女を目にした誰もが抱いてしまう抗いようのない恐怖。恐怖と言って悪ければ根源的な嫌悪感、違和感。容姿顔貌は当然ながら、それをもたらす得体の知れない遺伝子に、更には黒い噂の絶えない黒羽家の血統…その実態を知らずともそれらは他人に直接的な接触を拒ませ、見えない壁を築き上げる。例え当人たちが否定しても、拭い切れない後ろめたさがチェリーへの非難を躊躇わせる。

「……チェリー、今のは酷いぞ、チョコに謝れ。…チョコ、気にするなよ。誰もそんなこと思っちゃいないからな」

 一呼吸の後、独り言のようにトータが絞り出す。彼等にはその程度が限界だろう。社会的規範を遵守し、明ら様な差別や区別を自制できるだけでも立派だと言わざるを得ない。彼女の異常は疾病ではない、生まれ持った体質だ…前頭葉では理解していても大脳辺縁系がその理解を拒絶する。誰にも、そう青柳にだって断言はできないのだ。彼女の遺伝子が感染―――水平伝播しないかどうかなど。それでも彼女は負わされた運命を簡単に去なす術さえ身に着け、手玉に取ろうと試みる。

「やだなぁチェリーちゃん、ホントにヒドイよぉ。伝染ったりなんかしないってば。トータくん平気平気、いつものことだから。でも残念、早起きして頑張ったんだけどな…」

 当惑、弁解、巧言、傍観。全員の言動を知世子は素直に健気に受け止め、少なくとも表面上はお道化て平静を装う。代わりに彼女の自我が犠牲になっていることに、恐らく彼女自身も気付いていないのだ。それで皆は安心し、納得してまた日常へと立ち戻っていく。良かった、自分のしたことはそれほど間違ってはいなかったんだ…知世子は諦めた箸先を惜しそうに自らの口へと運ぶ。が、そうさせたのは祭りの雰囲気か溜まった鬱憤か、今日はまた少しだけ違った展開を見せた。

「…チョコ…!」

 青柳の胸元を細身の体が音もなくしなやかに横切った。動いたのは隣に座る長身の、レアと呼ばれる少女だった。彼女はまるで猫科の猛獣のようにチョコに飛び掛かり、迷子のポテトサラダとプチトマトを箸先ごと咥え込んだ。

「…ん、美味しい。ありがと、チョコ…」

 襲ったのと同じ素早さで元の位置に戻り、もぐもぐと咀嚼している。その早業を一堂唖然と見送り、チョコは空になった割り箸をきょとんと見詰めている。これは愉快な。青柳はこのほとんど初対面の少女―――と呼ぶには今は随分と大人びて見える―――に口元を綻ばせる。今は何気なくとも、彼女の大胆でも勇気ある行動はこれから先、必ずや賞賛を持って迎えられることだろう。

「は。あんたそんなキャラだったっけ?あたしは割と本気で言ったつもりなんだけどね…ま、どうでも良いわ。そんなことより、これどういうこと?」

 チェリーが弄っていたスマートフォンを青柳に投げて寄越す。組んだ胡坐の上に落ちた画面を見ると、そこには新聞社のオンライン配信記事が映されていた。そのページのタイトルを読み、青柳は血相を変えモバイルを鷲掴んだ。

『ウイルスがん療法権威白鳳教授、米大手ナトリに接近 新薬開発加速が狙いか』

「あのペダンチスト、契約破ってんじゃん。公表しないんじゃなかったの?」

 タイトルの下には『北員大学 白鳳宗利教授』の紹介文と共に顔写真が晒されている。青柳は慣れない手付きで画面をスライドして記事を送る。

『〔十一月二十五日 五光新聞デジタル日曜版〕〈あの騒動〉以降、公の場に姿を現すことのなかった彼は、ただ水面下で息を潜めていただけではなかったようだ―――今週末、世界最大規模の医薬学術展示会の一つ、アメリカ薬学会(AAPS)が米ニュージャージー州サマセットのカンファレンスセンターで開催されている。サマセットがホーランド、ナトリ、フェッテと言った米国内外のメガファーマや大手受託メーカー、数多のベンチャー企業がヘッドオフィスを構える世界でも有数の医薬産業エリアであることもあり、会場は例年以上の盛況を見せている。不作不況が叫ばれる昨今の医薬品業界ではあるが、いわゆる抗がん剤に関してはまだまだ元気で、次世代チロシンキナーゼ阻害剤や免疫グロブリン製剤が世界の売上ランキングトップ20のうち半数を占めるなど、高額にも関わらず相変わらずの好調を保っている。中でも注目したいのが抗がんウイルス製剤だ。

 がんウイルス療法とは、がん細胞のみに対し感染・複製が可能となるようゲノムを改変したウイルスを用いた治療方法で、現在イムリジック(一般名T‐VEC)とカムジーン(一般名G47デルタ)の二製剤が上市されている。いずれも年間売上百億円を超えるブロックバスターにまで成長しており、さらには今後の開発パイプラインにも前臨床のステージのものを含め実に二十品目が軒を連ねる、今や抗がんウイルスは単なるがん療法の一カテゴリーに納まらない巨大なムーブメントと言っても過言ではない。その礎を築いたのが北員大学薬学研究科の白鳳教授(現在)だ。本邦におけるこの分野の第一人者であることは万人の認めるところであろうが、彼の名はその実績でよりも週刊誌のゴシップ記事でお目にかかった方も多かろう。(その辺りの経緯については以前の記事に詳しいのでそちらを参照されたい。)その白鳳教授が冒頭のAAPS開催中のサマセットを単身訪問中だと言う。薬学の権威が医薬品展示会に参加して何がおかしいのかと思われるかもしれない。だが彼の渡米の真の目的が米最大手ナトリとの大口契約の交渉にあると聞けば、三つの点においてその動向に耳目をそばだてる意義があると筆者は考える。

 第一にナトリはここ数年、これまでお世辞にも得意とは言えなかったバイオ製剤の開発に注力し始めた。一昨年のベクトン、昨年のデュポン、GEAと立て続けにバイオ系ベンチャーを買収し、ワクチンや血液製剤に強い日本のナンノとも業務提携を結び、さらには他社が軒並み研究開発費削減を強いられる中、ナトリは前年比20%(一千億円相当)を上乗せし、その大半を抗がんウイルス製剤の開発に注ぎ込むことも発表している。そこにビジネス感覚にも長けた白鳳教授が参画することはナトリにとってはもちろん、我々にとっても決して悪い話ではない。新薬開発が促進され、有効な治療手段が早期に増えるのであればむしろ歓迎すべきことだろう。ただ一つ懸念は、この状況が五年前の〈SPV騒動〉と酷似しているということだ。大手の拙速とも言える性急な方針転換、それに付随したややも強引な企業買収…すべてが白鳳教授の掌上と言う訳ではなかろうが、嘗て混乱に陥った都築製薬にその姿が重なるのは筆者だけではないはずだ。

 二点目は白鳳教授の政界参入の野心についてである。この話題も五年前に取り沙汰されていたが、とある情報筋によれば教授はここ最近、民政党の栗田孟司元厚労相の公設秘書と連絡を密にしていると言う。栗田議員と言えば厚労相当時、診療報酬の規制改革にも携わったリベラル派であり、混合診療解禁を声高に叫ぶ白鳳教授と理念が一致する。もっともそれだけで彼が政界参入を企てている証拠にはならない。だが、一見無関係な「ナトリとの契約」と「政界参入」とを結びつける一つのキーワードが今回の取材で浮上してきた。それが三つ目の注目すべき点だ。

「我々にはダムズがある。それだけで我々と彼との利害は一致する」「ダムズへの投資に制限はかけない」「ダムズの仕事はいずれ嫌でも知ることになる」―――それが今回取材を進める中で関係者の口から幾度か漏れ出た件のキーワードである。「ダムズ」とは一体何なのか。開発品目のコードネーム?ベースとなるウイルスの名称?それに組み込まれるゲノム構造?あるいは全く別の次元の情報なのかもしれない。残念ながら関係者からも白鳳教授本人からもその真相を確認することは出来なかった。だが彼等の自信に満ちた口振りからは、「ダムズ」が売上高世界二位を誇るナトリの経営陣を揺るがすに値するビッグプロジェクトであることは間違いなさそうだ。となれば、海外治験の推進や外資系未承認薬の使用に積極的な態度を示す栗田議員に対し、ナトリとの契約が一種の試金石になるであろうことも頷ける。

 出るのは鬼か蛇か―――政界進出の目論見にしろ「ダムズ」にしろ、この記事に取り上げたことの多くは筆者の推測の域を出ない。ただ日本の医薬品業界に漂う停滞感という名の暗雲に、時代の寵児が穿つ穴から射し込む光が希望のそれとなることを期待し、近い将来その真相が明かされる日を待ちたい―――』

 青柳は何度も画面をスワイプして読み返している。その様子に気付いた知世子が、大丈夫?と無邪気に覗き込む。青柳は、大丈夫何でもない、と画面を伏せる。

「ほらほら、ヤギ先生。早く食べないとなくなっちゃいますよ…」

 車座の賑わいは止めどなく続く。やがて知世子もその輪の中へと戻って行く。犠牲になっているのが彼女の自我であることも知らずに。

「どういうことだ…?」

 湛えているのは静かな怒りか。青柳の眉間には深々と皺が寄っている。実態はともかく、「ダムズ」の名は紛れもなく全世界に発信されてしまった。そんなことをしても無駄なのは分かっていても、それでも青柳はチェリーのスマートフォンの画面を、誰にも見せないように電源ごと消した。


 二十畳余りのダイニングにはファンの回る断続的な機械音と、時折瀬戸物の食器が触れ合う微かな音が響いている。鈍重な十二人掛けの古びたテーブルについているのは三人だけで、各々二つ三つ席を空けてバラバラに座っている。交わされるのはせいぜい儀礼的な挨拶のみで、会話はない。最奥の角の席で遅い夕食を黙々と口へと運ぶ知世子の足元には小さなセラミックヒーターが一台、懸命に働いてくれている。だが梁の高い旧い家屋の、しかも無駄に広いこの部屋を暖めるのは彼にはおよそ酷な話で、せめて血の通わない右足の脹脛だけでも凍えないようにするのが関の山だ。だから知世子は膝に分厚く起毛したブランケットを掛け、室内なのに目の細かなセーターの上にフリース生地のパーカーを羽織っている。本格的な冬になるとこれにダウンジャケットを追加しなければとてもここでゆっくり食事を味わうことは出来ない。びゅう、と窓外を一陣の風が吹き抜け、ガタつく壁に部屋の中の冷え切った空気が悲鳴を上げる。知世子は昼に一瞬垣間見た青柳の怖い顔を思い出して身が震え、箸を置き口元を隠して小さく咳をする。

「知世子さん、食事中ですよ。はしたない」

 それはほんの些細な仕草であったが、祖母のひさに嫌味なほど目敏く窘められる。この家の異様な寒さの原因はこの祖母にある。実はどの部屋にも、このダイニングにもエアコンは設置されているのだが、極度に乾燥を嫌う彼女が稼働させることを許さないのだ。彼女の側では加湿器が四六時中もくもくと湯気を焚き、八十を過ぎてもなお黒々と染め上げられた豊かな髪は露滴が垂れそうなほどに艶々と湿っている。そのくせ尻の下には電気毛布を敷き、足元には知世子と同様セラミックヒーターを最大出力で回しており、それだけすればエアコンをつけても同じことだろうに、彼女は利便の良い暖房器具を強迫観念の如く忌み嫌い、委細構わず家人にもそれを強要する。

「それに何ですか、そのだらしない格好は。いつお客様がみえても恥ずかしくないようにと言っているでしょう」

 逆の端に座る伯母の龍子が祖母の苦言に便乗する。そう言う伯母は外出用の真っ赤なコートに身を包み首元には同じ色のストールを巻いていて、とても自宅で客人を迎えるような格好には見えない。頷く祖母も普段着の着物の下に襦袢を何枚も重ね、肥えた腹がますます膨らみまるで狸の置物のようだ。一般家庭からすればおよそ滑稽に映るであろうこんな光景も、ここではいつもの日常だ。こんな時間に客など来る筈がないし、そもそも客人などここ数年来訪れた例がない。それでもここで生まれ育った知世子は、だからこそこの人たちには逆らえないでいる。

「は、はい…すみません、お祖母さま、伯母さま…」

 堅苦しい呼び方も物心つく頃から刷り込まれた習わしだ。そう呼ばないと叱られる、従わないと怒られる…一体誰に?どうして?そんな疑問を抱くことさえ忘れるほど、知世子はこの家の歪んだ常識に毒されていた。

「時に知世子さん」

 早く食べ終えてしまおうと箸を手にした矢先に、伯母が箸を置き改まって向き直るので仕方なく知世子もまた箸置きに戻す。

「な…何でしょうか、伯母さま…」

「あなた、学校の成績は如何ほど?悪くないとは聞いていますが」

「成績、ですか…?はい…そんなに悪くはないと思います…特に良くもないですが…」

 突然何だろう。医学部を強要された兄悠太は執拗に詮索されていたが、知世子は今までこの人たちに学校の成績など聞かれたことがない。身体のこと以外、自分に興味なんかないのだと思っていたが…

「英語はどうです?日常会話くらいは問題ないのでしょう?」

「は…?日常会話…はどうか分かりませんが、英語は嫌いではないです…けど…」

「龍子さん、この子の通う清香学院は留学制度を奨励しているそうじゃない。毎年何人か行っているとか。それを使うことは出来ないの?」

「ええ、お母さま。私もそう考えていました。ただそのためにはある程度の内申点と英語の基礎学力が必要とのことなので…後で丸山に調べさせます」

 何だか雲行きが怪しい。英語の成績とか留学とか、しかも使用人の丸山さんに調べさせるって、一体何を企んでいるのか…

「あの…お話が少し見えないのですが…留学って、何のことですか…?」

 知世子の率直な問いに、伯母は祖母に視線をずらす。

「良いじゃないですか、龍子さん。いずれ知らせることなのだから、お話しなさい」

 祖母も箸を置き、ナプキンで口元を拭って伯母に向かって顎をしゃくる。祖母は一度も知世子を見ていない。言われた伯母は頷き、再び射るような視線を知世子に当てる。

「そうですね、一応あなたの意志も聞いておきましょうか。…知世子さん、あなたには年明けからアメリカの高校に通ってもらいます。明日からそのつもりで準備を進めなさい。ぼんやりしている暇はないですよ、あと一ヶ月しかありませんからね」

「……はい…?」

 固まった知世子の口から間の抜けた声が漏れる。伯母は袖口で眼鏡のレンズを拭きながら構わず話を続ける。

「都市や学校の選定はこれからですが、現地の学校にするか、あなたが望めば日本人学校でも構いません。いずれにしろ病気のことは配慮してもらえるそうですから、希望があれば丸山に伝えておきなさい」

「渡航費はとりあえずうちが用意するのでしょう?なるべくなら西側にしなさいな。立て替えてもらうにしろ、安く済ませるに越したことはないですからね」

「ちょ、ちょっと待って…ください。そんな話、わたし聞いてません…」

 訳が分からない。いきなりアメリカだの留学だのと言われて、はいそうですかと受け入れられるはずがない。しかも行くことがもう決定しているかのような口振りだ。そんな寝耳に水な話、どうやって納得しろと言うのか。

「ええ、そうでしょう。今日連絡があったばかりですから。ですがあなたにとってとても良いお話なので、了解の返事はこちらでしておきました。留学の費用や向こうでの生活についての細かなことは私と丸山が調整しますから、何も心配要りませんよ」

「そんな、勝手に…急にそんなこと言われても…無理ですわたし、アメリカなんて…」

「知世子。この話は黒羽家の総意で決めたことです。あなた一人の我が侭は許しません。それに龍子が今言ったでしょう。これは全て、あなたのためなのですよ」

「わたしのため…?」

「そう…あなたのその不憫な身体を治す目途が立ったのです。もちろん今まで何の手立ても打てなかった病気ですから、一朝一夕にはいかないでしょう。なのでこの際生活基盤を向こうに移して、完治するまで最新の治療をじっくりと受けていらっしゃい。あなたもいつまでもそんな陽の下に出られない、まともに歩けもしない身体では嫌でしょう?」

「まさか…そんなこと、一体誰が…」

 嘘だ。青柳先生はこの体質は治るものではないと言った。それでもこれ以上悪くならないように、少しでも良くなるように十年以上頑張ってくれているのだ。それが急に完治できるとか、有り得ない…有り得ないはずだ。

「あなたが詳しく知る必要はありません。申し出はちゃんと信頼できる方からですし、以前より何度も説明は受けているので安心なさい」

 言わなくとも誰の仕業かは想像がつく。と言うか青柳先生以外に知世子の秘密を知っていて、こんなことができるのは一人しかいない。昼間の青柳の怖い顔をまた思い出す。もしかしたらあれはこの事態を予期していたのだろうか。

「跡取りであるあなたに倒れられたらこちらも困ります。二百年続く黒羽家をこんなところで絶やしてしまっては、ご先祖にも世間様にも顔向けできませんからね」

 湯呑みのお茶で口を濯ぐ祖母が他人事のように呟く。実際、孫や姪の命などこの人たちにとっては他人事なのだろう。今まで言い成りに反抗もせず従ってきたが、こんな扱いはあんまりだ。知世子はなけなしの勇気を振り絞りせめてもの抵抗を試みる。

「あ、あの…何度もお話ししてますが、わたしのは病気じゃなくて体質で、完治するようなものではないと聞いています。それに足の調子も過敏症も年々良くなっていますし、治療だけなら日本に居てもできると思います。わざわざアメリカに行かなくても…」

「そう言って何年経つのです?そんな行き当たりばったりの治療を続けて、よしんば足や肌は良くなったとしても、あなた子供を産める身体になりますの?そんな保証がどこにあります?これはあなた一人が治る治らないの問題じゃない、黒羽家の行く末を考えてのことなのです。第一、あなたの治療費に月々いくら掛かっていると思っているんです?この家の貯えだって無尽蔵ではないのですよ」

「え…でもそれは父が遺してくれた資産から払っているって…」

「そんなもの…とっくにありませんよ」

「そんな…!学費を差し引いてもわたしが成人するまでは足りるって丸山さんが…」

「お黙りなさい!」

 他人事を決め込んでいた祖母が怒声を上げる。

「あんな端金、何の足しになるものですか。今は在野に甘んじていようとも元来黒羽家は当地十郡を統べる藩主、相応の振る舞いを見せねば世人に示しがつきません。それが黒羽の名を冠する者の矜持と言うもの…何も知らぬ子供が口を出すことではないわ!」

 閉じかけていた目を剥き唾を飛ばしていきり立つ。言っていることが無茶苦茶だ。自分が贅沢するために娘婿の遺産を使い果たした上に、しかもこの開き直りとは。結局は金が目当てでしかないのだ。だが老人特有の不条理なヒステリーに知世子の勇気は削がれ、黙し俯いてしまう。

「…とにかく、先方はあなたの向こうでの治療費も学費も生活費も一切を請け負うと言ってくれているんです。必要なら大学入学の斡旋までするとも。そこまでしてもらって何の不満があると言うのですか?あなたは私たちの言うことに従っていれば万事良いのです。それに…聖子の容態もその方がきっと安定するでしょう」

 伯母の暗く含んだ声音で口にした名に、知世子ははっと息を呑む。

「娘のあなたのことさえ忘れてしまったと言うのに、一体いつまで面倒を見る気です?あの子こそあなたの枷でしかないでしょうに。受け入れてくれる施設などいくらでもあるでしょう。それこそ丸山に探させます。知世子さん…あなたはもっと自由に生きるべきだわ。そう…病気にも母親にも縛られず、自分のやりたいように、もっと自由に…」

 知世子の惑いを嗅ぎ取ったか、伯母が甘い言葉で媚び口説く。母のことを持ち出されると知世子は途端に分からなくなってしまう。何が正しくて、自分がどうすべきなのか。伯母の言う通り、どこか遠くに離れた方が良いのではないかと思う時さえある。…いつだったろう。知世子は少し前にも同じ気持ちを味わったことを思い出す。…そうだ、チェリーだ、彼女が学校に来た日、あの日は風が強かった。『歩くこともできない、外にも出られない、いつ倒れるかも分からない。周りに気を遣わせて、しかもそんな汚い顔。どうやって気にしないでいろって言うのよ。あたしは嫌。自分の自由にならない人生なんてまっぴらだし、その世話をさせられるのも御免だわ』そうはっきり言われて、逆に嬉しかった。自分の本心を代弁してくれているのだと思った。そうなのだ、母が枷なのではない、きっとわたしが母にとっての枷なのだ、わたしの存在が母を幻想の檻に閉じ込めてしまっているのだ、それならば、いっそのこと……でも……色々な感情が胸の中でぐちゃぐちゃに絡まり合い、瞼の裏がじわりと熱くなる。せめて、お父さんがいてくれたら…

「……わたし…一人では決められません…。少し…待ってもらえますか…?」

 知世子は俯いたまま懇願する。迷惑は掛けたくない。それでも頼れるのはもう、一人しかいない。

「一人では?どなたかに相談するつもりですの?」

「あ…あの、青柳先生です、北員大学病院の…」

「いけません」

 名を出しただけでにべもなく拒絶され、知世子は甚く狼狽する。

「え…?そ、その…青柳先生は子供の時から診てもらっている主治医の先生で、わたしの体質のこととかもずっと研究してくれていますし…その…」

「そんなことは知っています」

「それならどうして…あの…先生はすごく親身になってくれて、わたしたちの事情も良くご存知ですし、その、父とも昔からのお知り合いだったそうで…」

「だから駄目だと言っているんです!」

 必死に縋る姪を伯母が理不尽な剣幕で一蹴する。

「全部聞きましたよ、あなたの特別な遺伝子のこともその利用価値についても。それをあの医者が囲い込んで独り占めしていただなんて…慧太さんの後輩だと言うから信用していたのに。どうせあなたも聖子も口止めされていたんでしょう?家族である私たちにまで黙っているとか、一体どういう神経しているんですかねぇ」

「ち…違います!話が広まったらわたしが困るから…先生はわたしのためを思って…」

「何が困ると言うんです?そうやって良いように言い繕ってあなたのことも騙していたんですよ。ああ、いやらしい。それにあの医者が余計なことを吹聴するから聖子が家を出るとか言い出したんです。他人の家のことにまで首を突っ込んで…慧太さんがあんなことになったのも、何もかもあの医者の所為なのよ」

「私は最初から怪しんでいましたよ、あの男のことは。治す気なんてないのに、いつまでも診察だけ続けて我が家から治療費を毟り取るとか、やり方が汚いわ。まったく…もっと早く聞いていれば実入りももっとあったでしょうに」

「そ…そんなこと…!やめてください…!」

 知世子は椅子を蹴って立ち上がる。動かぬ足と吊られた腕ではバランスが取れずたたらを踏む。全部出鱈目だ。診察だってわたしが勝手に行っていただけで青柳先生は来なくていいと言っていたんだし、お母さんが引っ越そうと言ったのはわたしが学校で苛められていたからだ。それにこの家からお父さんを追い出したのはあなたたちじゃないか。

「何ですかその反抗的な態度は?それもあの医者があなたを匿って甘やかしたりするからそんな風になるんです。要らぬ知恵までつけて。あなたにはもう北員病院での治療は不要です。金輪際、あの医者の所に行くことは許しませんからね…ちょっと、どこへ行くんです?まだ話は終わっていませんよ!」

 白鳳教授だ。きっとあの人がこの人たちにあることないこと吹き込んだのだ。一体いくら積まれたのか。所詮行動原理が金銭の身勝手な人たちだ、全部鵜呑みにしてこちらの言い分などもう聞いてはくれないだろう。知世子はダイニングの扉に手を掛け、肩越しにぼそりと応える。

「…青柳先生はそんな人じゃありません。いくらお祖母さまや伯母さまのおっしゃることでもそれだけは従えません。…留学の件は明日お返事します」

「お待ちなさい、知世子!…」

 食べかけの夕食も慰留の声も置き去りにし、一刻も早く彼女たちから身を遠ざけようと重たい右足を引き摺っていく。知世子は迷っていた。青柳先生はきっと親身になって相談に乗ってくれるだろう。白鳳教授に掛け合って何とかしてくれるかもしれない。だがそれは飽くまで知世子自身が拒否すればの話だ。青柳先生が決めてくれる訳ではない。もし知世子が行くと言ったのなら、彼はその決断を全力で支持するに違いない。どうすべきか。最後は自分が決めなければいけない…知世子は迷っていた。

 シューみたいに英語ができる訳でもないのに、いくら支援があったとしてもいきなりアメリカで生活していく自信なんてない。行ったら何年も帰って来られないだろう。学校のみんなと離れ離れになるのも嫌だ。だが伯母たちの言うことも丸っきり無視はできない。自分の存在が母や兄だけではなく、学校や青柳先生の重荷になっていることは紛れもない事実だ。自分が少し我慢すればみんなの負担がなくなり家計が潤い、もしかしたら医薬の発展にも貢献できるかもしれない。合理主義のチェリーなら二つ返事なんだろうな。…でも。傾きかけた知世子の心が再び揺れる。でも何よりの懸念は、この容姿が見も知らぬ人たちに晒されてしまうと言うことだ。血液や細胞なんかいくらでも使ってもらって構わない。でもこの醜い身体を青柳先生以外につぶさに見られ、弄られるのは耐えられない。我が侭なのは分かっている。叶わぬ望みだと言うことも。でも…

 揺れる心のままに長い廊下を彷徨い、知世子は一つの襖の前でふと足を止めた。そこは母の住む部屋だった。知世子は母の声が聞きたくなり、だがすんなりとその襖を開けることは躊躇われて、つい耳だけを部屋の中へと澄ませてしまう。―――口遊む歌が微かに聞こえる。子守歌だろうか。弟も妹もいないのでその歌に聞き覚えはないが、幼い頃には知世子も歌ってもらっていたのかもしれない。単調で、優しいメロディー。幾度も繰り返されるそのリフレインを聞いていると、いつの間にか知世子の頬には涙が流れていた。そんなつもりじゃなかったのに、知世子は襖に耳を寄せ、喉を鳴らして嗚咽していた。

「―――そこにいるのはどなた?」

 歌が止み、襖の内側から誰何の声が掛かる。母に気付かれてしまった。

「すみません、手が離せなくって…どうぞお入りください」

 そのまま立ち去るつもりだったのに、そうもいかなくなった。知世子は頬を拭い、息を整えてからゆっくりと襖を開ける。

「……失礼します…」

 畳敷きの和室は殺風景に駄々広く、古臭い木枠の傘を被った細い蛍光灯では明かりが届かず四隅が仄暗く翳っている。一角に寄せられた桐箪笥以外に家具はなく、その箪笥もあちこち表面が剥げささくれが立ち、把手がいくつかもぎ取れている。弱々しく光の注ぐ部屋の中央には羽毛が抜け薄っぺらくなった滲みだらけの布団が敷かれ、寝間着の母はその上でいつものように赤ん坊の人形を抱いて座っていた。

「ちょうど今寝ついたところなの。少しだけ待ってもらえるかしら?」

 母は闖入者には一瞥もくれず、金髪が褪せ服の襟が解れている西洋人形を丁寧に置き、掛布団を首元までそっと引き上げる。表情の変わらぬ、青い瞳が開いたままの人形に慈愛の視線を落とし、布団の上から手を添え、優しくリズムを取りながらさっきの子守唄を口遊む。

「ねんねんよー、チヨちゃんねんねん、ねんねんよー…チヨちゃん、今日はとってもお利口さんだったね…ちっとも愚図らなかったし、お乳も一杯飲めたわね…本当に良い子ね、チヨちゃんは…じきにあったかくなったら、おんもに行って遊びましょうね…」

 知世子は胸の奥から込み上げてくる熱い波を必死に堪え、一礼して布団の裾に腰を下ろす。黒羽家には代々頑なに守り続けられている仕来りがある。曰く、女児を儲け、それを跡取り頭目とせよ。曰く、男児には必ず医学を学ばせ、さもなくば勘当義絶も已む無し―――父も母も、祖母たちが『絶家』と呼ぶその忌まわしき慣習の犠牲となった。母は知世子のことを娘だと認識していない。代わりに人形に愛情を注ぐようになってもう五年は経つ。…いや、七年か。今年の盆は、父の七回忌だった。

 父慧太と母聖子の出会いは大学のサークルか何かだったそうだ。馴れ初めの詳しい話は二人とも恥ずかしがって話してくれなかったので今となっては確かめようもないが、次女である聖子は仕来りに縛られることもなくごく自然な、ありきたりな恋愛をしていたようだ。だが当時、聖子の姉龍子が結婚に関して何度も失敗を繰り返しており、それを憂いた祖母ひさが医大生だった慧太に要請し、二人とも学生のうちに結婚することになった。要は世襲の保険にされたのだ。とは言え次男で制約のなかった慧太は妻の実家の事情をあっさりと諒解し婿養子として黒羽家に入り、すぐに長男悠太を授かった。黒羽家男児の宿命はもちろん承知していただろうが、二人は周りの危惧など相手にせず愛情深く初子を手塩にかけ、悠太もそれに応えるように賢く育っていった。程なく慧太は北員大学病院の医師となり、まだ学生だった青柳とはこの頃に出会っている。仕事も家庭も順調で、唯一その後の子宝には恵まれなかったが、それでも傍系である彼らに女児は必須ではなく、親子三人将来は安泰かに思われた。しかし、悠太がそろそろ小学校に上がろうかという頃、家長を継ぐはずの龍子が突然、今後一切結婚に関わる活動をしないと一方的に喧伝したことで事態は急変する。本人はその理由について頑なに口を開かなかったが、入れ込んでいた高級クラブのホストにふられたのだとか相当額を貢いでいたらしいとか使用人たちは噂をしていた。ひさはそれを咎めることもなく、それどころか家長を龍子に譲り一緒になって妹夫妻に強要し始めた。女児を作れ、と。そんな理不尽に従う義理など聖子たちにはなかったはずだ。悠太を連れて家を出ることもできただろう。しかし実直でお人好しな彼らは責任感を取り違え、家の期待に応えようと二人目を儲けるためにあらゆる手を尽くした。聖子は一度は諦めていた不妊治療を再開し、慧太は産み分けのために産婦人科医である元指導医の手を借り、さらには保険適応外の薬剤にまで頼り数年かけてようやく一女を授かった。それが知世子である。女児の誕生に一族は胸を撫で下ろしたが、両親は手放しには喜べなかった。知世子は生まれた時から重度の障がいを持っていたからだ。長期に及んだ屈辱的とも言える不妊治療、身内からの執拗な重圧、そして保育器に入れられ抱くこともできない我が子…母の心はその頃から疲れ切っていたのかもしれない。それでも聖子は能う限り二十四時間付きっきりで世話を絶やさず、慧太は娘の未知の病をどうにか克服できまいかと四方走り回り、多感な時期だった悠太も可哀そうな妹のために良く我慢していた。家族の行動のベクトルは全て知世子に向けられていた。しかしたった一度の避けようのない過ち―――初めての家族旅行で行った海水浴は知世子にとって余りに苛酷で、時を前後した青柳のDAMDS発見がもう少し早ければ、知世子が学校で心無い不遇を受けることもなく、慧太も無意味な自責に苦しまずに済んだかもしれない。だが零れたミルクは決してコップには戻らない。それから先は負の螺旋でしかなかった。不憫な知世子のために聖子は転地を訴え続けたが、代わりに慧太が疎まれ、やがて家を追われた。伏しがちとなった聖子はそれでも母たちの心変わりを信じて待っていたが、数年の後、慧太はアパートの一室で首を吊っているのを発見された。ちょうど知世子が長く保ってもと言われていた、十歳を迎えた日の朝だった。その報せに聖子はしばらく寝たきりとなり、次に起きた時にはもう人形を抱え離さなくなっていた。そんな事態になってもひさと龍子は自戒し贅を改めようとはせず、愛想を尽かした使用人たちは次々に去り、物言わぬ悠太がかつて朗らかで快活な少年だったことを知る者は今はもう丸山しかいない。二人の子供のことを忘れた聖子の世話も、ずっと丸山が一人でしている。

「それにしてもお父さん、遅いわね…まだ出張から戻られないのかしら…でも仕方ないよね、お仕事お忙しいんですもの…ゆっくりお待ちしましょう…ね、チヨちゃん…」

 どれも青柳先生と丸山さんが教えてくれた話だ。知世子がちゃんと理解できるようになった時にはもう、何もかも取り返しがつかなくなっていた。もっとも理解できていたとして、螺旋の中心に縛り付けられるだけの運命だった幼い知世子に果たして何ができたと言うのか。今だって二度と戻らぬ父をただ純粋に待ち続ける母に、何一言掛けてあげることさえできないのに…

「…あら、どうしたの?その腕、辛そうね…可哀そうに。まあ、解けてるじゃない、こちらにおいでなさいな」

 調子の変わった声にふと目を上げると、母がこちらに向かって手招きをしている。部屋には二人しかいないのに、知世子は自分が呼ばれているのだとすぐに気付けなかった。人形を寝かしつける母が自分に注意を払うことなんて今まで一度もなかった。近付けば途端に混乱し、人形を抱き締めたまま内に籠ってしまう。傍に寄っても平気なのは丸山さんだけだ。布団の足元で声を聞くのが精一杯で、ここが母と触れ合える限界点だった。それが今日に限って…

「どうしたの?さ、遠慮なさらずに…」

 母が正座する膝元の布団をポンポンと叩き、戸惑う知世子を促す。その横ではみすぼらしい人形が青い眼を見開いて寝ている。母は今の自分の存在をどう思っているのだろう。怖くてずっと聞けなかった。面と向かって否定されたら流石に立ち直れないかもしれない…それでも母の誘う声はどこまでも優しく甘く、惑い揺れる知世子の心はその蜜に引き寄せられていく。

「そちらを向いて…ああ、ここが緩んでいたのね…そうね、もう一度巻き直しましょうか、その方が早いわね…はい、今度はこちら…あら、そのお顔…まあ、腕にまで…火傷かしら、可哀そうに…でも大丈夫よ…貴女の瞳、とっても綺麗だもの…きっと親御さんに大事にされているのね…お鼻もお口も、丸いほっぺもとっても素敵よ…あらあら、ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけど…ほら、泣かないで…」

 母の指に頬を拭われ、知世子は涙を止められない。どんなになろうと母は母だ。忘れられようと拒まれようと、わたしがあなたの娘であることに変わりはない。お母さん…!そう叫んでその胸に縋りつきたくなる衝動を知世子は必死に堪える。甘えればきっと混乱させてしまう。そしてわたしもきっと、戻れなくなる。どうしてわたしの頭が狂わなかったのか。どうしてわたしがまだ生き続けているのか…

「貴女…どこかでお会いしたことあったかしら?…ごめんなさい、わたし近頃物覚えがとんと悪くなってしまって…あんまりよく…思い出せないの…頭の中がぼんやりしてしまって…貴女みたいな可愛い子、一度会ったら忘れなさそうなものなのに…本当、ごめんなさいね…もし良かったら、お名前…教えてもらえないかしら…?」

 知世子を見詰める母の瞳が小刻みに揺れ、声が途切れ途切れになってきた。混乱が始まっている。これ以上近付くのは危ういかもしれない。でもこれだけは、例え母を苦しませることになっても、自分が傷付くことになっても、伝えずにはいられなかった。

「……ちよこ…」

「…えっ…?」

「知世子…です…わたしの名前は…知世子です…!」

「…そう!…貴女も…ちよこちゃんって言うのね!」

 予想外にも母は頬を緩めてくれた。仮初の母娘の間に保たれている均衡は蜘蛛糸より細く、紙縒りより脆い。でも今この時だけはお互いに冷え切った手を重ね、知世子は心の中で何度も繰り返していた。お母さん、知世子だよ、お母さん…!

「そう…この子も…おんなじ名前なの…ほら…みてあげて…よく寝てるでしょ…チヨちゃん…このおねえちゃんも…ちよちゃんって言うんだって…おんなじ名前なんだって…よかったわね…チヨちゃん…きっとチヨちゃんも…おねえちゃんみたいな…きれいな…すてきな…ちよちゃんに……はっ!」

 硝子の割れる音。細く脆い均衡が襖越しに廊下から響いたその鋭い音に破られた。母の顔が瞬時に青褪め知世子を突き飛ばし、人形に覆い被さると布団の中から引き千切るように抱き上げる。

「ああっ…ああっ…ごめんねチヨちゃん、起きちゃったね、ごめんね、急に大きな音がね、したからね、ごめんね、ああっ、せっかく気持ち良くおねんね、してたのにね、おおよしよし、大丈夫よ、もう、だいじょうぶ、おかあさんですよ、ほら、ごめんね…」

 母は呼吸も疎かに謝りながら抱えた人形を狂ったように揺さぶり始めた。目の焦点が途切れ口の端から泡の混じった涎が垂れ、有らん限りに締め上げられた人形の首が在られもない方を向いている。知世子は怯え後ずさる。見たくない、見たくなかった、発狂した母親に、だが知世子は何もしてあげられない、母は人形の解れた襟に顔を埋め唸り出した、もしそうなったらそれ以上刺激しないよう速やかに離れてください、丸山から聞かされていた注意を思い出し知世子は畳を這い襖を開け母の部屋から逃げ出す、ネンネンヨー、ネンネンヨー、ネンネンヨー、ネンネンヨー…背後に聞こえる唸り声は、唸りではなく唄だった。知世子の知らない、子守唄だった。

「―――丸山さん、母が…!」

 廊下の端、玄関付近に丸山の制服姿を認め、知世子は右足を引き摺り急ぐ。情けない。だが今はこの人に頼るしかない。己の無力さを呪いつつ駆け寄ると、屈んでいた丸山が立ち上がり玄関への侵入を阻む。

「知世子様、ここはガラスが散っていて危のうございます。お下がりください。すぐに片付けます」

 見ると硝子のコップが床に砕け、辺りが水浸しになっている。さっきの音はこれか。丸山の後ろでは上り口に座り込み背を丸めたダッフルコートがぶつぶつと何か言っている。兄の悠太だ。後夜祭の後、アン先生に誘われて一緒に帰ったはずだが、こんな時間までどうしたんだろう。…もしかして、酔っている?

「まるやまぁ!おらぁ、らにしてやがる!はやくるがせろってんだろうがぁ!」

 呂律の回らぬ舌で普段口にすることのない悪態を吐く。相当飲んでいるようだ。編み上げのブーツが自分で脱げずに右に左にぐにゃぐにゃと身をくねらせている。まるで青柳先生の実験室で見た芋虫みたいだ。

「申し訳ありません、悠太様。すぐに代わりをお持ちしますので…」

「うるせえ!みずなんかいらねえっていってんだろ!くそが!どいつもこいつも!くちごたえすんじゃねえ…!」

 多分コップはそうして割れたのだろう、悠太は座ったまま腕を振り回しそのまま床に突っ伏してしまう。その隙に破片を片付けようとする丸山の袖を知世子が引く。

「丸山さん、母が…母の発作がまた出てしまって…」

「聖子様が…?」

 丸山は寸時困惑し、悠太と知世子と廊下の奥を見比べる。彼にとっては誰も等しく献身すべき主人なのだ。だがこの年老いた忠義な使用人は知世子の腫れた瞼を見てすぐに自分の為すべきことを察し、頭を下げる。

「了解しました、知世子様。申し訳ありませんが、悠太様をお願いいたします」

 丸山は常備のタオルと水の入ったペットボトルを知世子に託し、廊下の奥へと足早に駆けていった。知世子はそれを見送ると肩を落として床に膝をつき、散らばったコップの破片を拾う。…まったく、情けない。実の母を介護するどころか混乱させ、剰え放棄して逃げ出し、どうして良いかも分からず結局人に頼ることしかできなかった。こんな有様で留学するだのしたくないだの、どの口が言っているのか…。丸山に渡されたタオルで濡れた床を拭く。…そもそもわたしが青柳先生とどうこうしようと考えること自体烏滸がましいのだ。わたしが青柳先生と釣り合うはずがない。千春さんだってあんなに綺麗で、格好良くて、素敵だったのに、わたしなんかが、敵うわけ…。タオルで拭った床に雫が落ちる。横で悠太がむにゃむにゃと何か言いながら寝返りを打つ。…靴、脱がせてあげなきゃ…。知世子はペットボトルの水を一口呷り、三和土に降りる。

「ひでぇよ…アン先生…どうしてだよ…」

 寝惚けた悠太の呟く言葉が聞き取れた。今、確かにアン先生と言った気がする。アン先生は悠太のことを気に掛けてくれていてたまに近況を聞かれたりもするが、悠太もアン先生のことを気にしていたのだろうか。飲めない酒をこんなになるまで飲んだのも、もしかしたらそう言うことなのかもしれない。…あとで先生に聞いてみよう。

「まるやまぁ…さぁん…もうオレ…行きたくねえよ…あんながっこう…」

 今度は靴紐を解いているのを丸山さんだと勘違いして泣き言を言っている。学校とは今の大学のことか、それとも高校の頃を思い出しているのか。悠太にも散々迷惑をかけてきた。ともすれば一番の被害者かもしれない。悠太が医学部に行けなかったのは間違いなくわたしの所為だ。父の死の報せを受けた時悠太はちょうど受験の真っ最中で、ショックで志望校を全て失敗してしまった。頼りきりになっていた父の仕送りが途絶え、困窮した黒羽家は入院を続けていた自分の治療費を捻出するために浪人さえも許されず、やむを得ず悠太は別日程で受験した薬学部に進んだのだ。あれだけ仲の良かった青柳先生を避けるようになったのも、回復芳しくない自分の治療に付きっきりになったためだ。今だってわたしの診察や研究のために二人の時間と能力を奪っている。チェリーは支配と言ったが、これではただの隷属だ。青柳先生にも悠太にも、自分なんかに縛られず自由に生きてもらいたい。でも…靴を脱がし終え、すっかり寝入ってしまった悠太に向かい、知世子は膝を抱えて当てもなく語りかける。

「…お兄ちゃん…わたし、どうしたら良いと思う?ここに居たって何の役にも立たないし、むしろみんなに迷惑をかけるだけで…今もまたお母さんを困らせちゃった…。やっぱり伯母さんたちの言う通りにした方が良いのかな?その方が波風も立たずに済むし…きっと白鳳先生だって悪いようにはしないよね…こんなわたしが少しでも世の中の役に立つのなら……はぁ…でもやっぱり怖いよ、一人でアメリカ留学なんて…まだ飛行機にも乗ったことないのに…。ねえ、どうしよう?せめて…ヤギ先生、一緒に来てくれないかな…駄目だよね、そんな我が侭…来てくれるはずないよね、わたしなんかと……でも…先生が来てくれるなら…それならアメリカどころか世界中どこだって……えっ?」

 ふと気配に顔を上げると、寝ているとばかり思っていた悠太が身を起こし、血走った目でこちらを見ていた。

「お、起きてたの?あの、心配しちゃって…その、随分酔ってたから…えっと、丸山さんがね、えっと…大丈夫?一人で部屋まで行ける?…よね?じゃあわたしは…」

 まさか今の独白を聞かれていただろうか。いくらなんでも恥ずかしい。しどろもどろで目を逸らし脱がした靴を脇に除けていると、いきなり悠太が両肩に掴みかかってきた。

「えっ、えっ?な、なに…?」

「どういうことだ…!アメリカって…今何て言った…!」

 やっぱり聞かれていた…!それにしては指が食い込むほどの思わぬ力で握られ、さっきの母と同じように瞳が小刻みに揺れている。

「い、痛いよ、お兄ちゃん…そ、その、違うの、青柳先生と一緒にとか、それは全部わたしの妄想で、えっと、お兄ちゃんには何にも関係ないから、その…」

「違う…!アメリカ留学って何だ…?教授に…白鳳に言われたのか…?」

「え…?ううん、留学の話は龍子伯母さんから聞いただけで、それもついさっきだから、わたしもまだ何のことだか…」

 言い終わらぬうちに悠太は知世子の肩を突き放し、青い顔を益々青くし開いた瞳孔を泳がせ親指の爪を噛みながらぶつぶつと呟き出した。どういうことだ…メールは送ったはずだぞ…奴があれをみすみす逃すわけ…いや…信じていないのか…クソッ…そう言えばあの記事…しかし…青柳はまだ何も…まさか……明らかに酔いが醒め、妹のことはもう目に入っていない。こんなに怖い、不穏な兄は見たことがない。声を掛けるのも憚られるが、親指の爪を音を立てて何度も噛み千切る悠太がそれ以上に心配で不安で、知世子はその膝元にそっと手を添える。

「お兄ちゃん…大丈夫…?」

 怒鳴られるのを覚悟していたが、意外にも悠太は呟きを止め親指から口を離し、傍らに置いていた飲みかけのペットボトルを喇叭に呷ると、揺れたままの瞳で静かに見詰め返してきた。

「……行くのか…?」

 そんな風に聞かれるとは思ってもみなかった。心配してくれている…?それとも、がっかりしているの…?揺れる瞳に色々な感情が見え隠れし、底意までは見通せない。

「…分からない。伯母さんはもう決まっているように言っていたけど…こんなこと、自分一人じゃ決められないから、相談しないと…」

「…ヤ…青柳…先生に、か…?」

「え?…う、うん…他にできる人、いないし…」

 悠太が再び指を咥え苛々と考え込む。あのレトロ…エンベロープまであったのに…それならいっそのこと…帰国は明日か…ダムズは…青柳ならとっくに…しかしどうやって…いや待てよ……もう噛む爪がなくそれでも齧るので深爪に血が滲んでいる。悠太は徐に立ち上がり、膝を抱え怯える知世子から今脱がされたばかりの靴を奪い取ると、紐も結ばず履きかけのまま玄関の引き戸を開けて外へと出て行く。

「ま…待って、お兄ちゃん…!どこに行くの…?」

 知世子は嫌な予感を抑えきれずに追い縋る。突然のアメリカ留学の知らせ、聞かされた当人よりも過敏な悠太の反応、昼にチェリーが見つけた白鳳教授のニュース、青柳先生はそのニュースに怖い顔で一人帰ってしまった。…何か嫌なことが起ころうとしている。いや、既に起きているのかもしれない。悠太は首だけで肩越しに振り返る。引き戸の隙間から漏れる明かりに照らされ、その眼は冷たく血走っていた。

「お兄ちゃん…わたし、どうしたら良い…?何だか怖いよ、わたし…どうしたら…」

「……そんなこと…!」

 知ったことか。継ぐべきはずの言葉を呑み込み、兄は縋る妹から目を背けて直ぐ庭先の暗闇に溶け込むように消えていった。虫の声もない漠寂とした宵闇の中にはただ、去り際の一言だけが漂っていた。

「行くな」

 どこへ…?問い質す相手もなく、知世子は裸足のまま濡れた敷石を踏み締め、兄の消えた闇に目を凝らす。

 軒先には雨が、降っていた。


 翌日、空には昨日とは打って変わりどす黒い冬雲が厚く低く垂れ込め、降っているのかいないのかはっきりとしない雨がしとしとと地面を濡らし続けている。清香祭の振替のため学校は休みだが、せっかくの休日も知世子は朝から落ち着かない一日を過ごしていた。伯母や祖母と顔を合わせないように食事の時間をずらしたりなるべく部屋に籠ったりしてみたが、こういう時に限ってトイレの前などでばったり出くわしぐちぐちと嫌味を言われるのだった。まだ容態が安定しないのか、母の部屋からは時折啜り泣きや耳を劈く呼び声が漏れ、その度に丸山さんが廊下を駆けていく。昨日の子守唄が脳裏に貼り付いて離れない。悠太はまだ帰っていないようだ。

 家に居るのが辛くなってきた頃、何かを察したのか単に暇だったのか、チェリーからメールが来た。『今日も行くんでしょ?付き合ってあげる』いつもならどちらかと言うと面倒で煩わしい部類の呼び出しも今日は有難く、どことなく心強かった。知世子は逃げるように家を抜け出し、病院のある辨天山の麓のバス停で待ち合わせの十五分前からチェリーを待った。雨の日は帽子はいらないが、杖が滑るので山道を歩くことは出来ない。チェリーは十五分遅れてきた。彼女にしては早い方だった。

 いつものように診察室に行くと青柳は不在で、代わりに外来診察が終わったばかりの部屋を看護師が片付けていた。訊ねると、ついさっき呼ばれて出て行ったと言う。そして看護師は迷った末、チェリーにせっつかれてこう教えてくれた。

「本当はね、青柳先生からは知らせないように言われてたんだけど…ほら、たまに来る大学の先生いるでしょ?薬学部の。そうそう、あの蛇みたいな人。あの先生が来てね、無理矢理連れてっちゃったのよ、まだお仕事残ってるのに…で、その先生は黒羽さんが来たら部屋まで来るように伝えてくれって。何かバタバタしてたし雰囲気悪かったし、どっちの言うこと聞けば良いか分かんなくって…ゴメンね、任せちゃって。行きたくなかったら行かなくってもいいと思うよ?青柳先生の所為にしちゃえばいいからさ。ああそうそう、部屋は応接室だって、一階の」

 知世子としては行かない選択肢はない訳だが、果たしてチェリーを巻き込んで良いものか…などと悩む必要もなく、毎度の通り部屋の場所も知らないのにチェリーの方から嬉々として知世子を引き連れていくのだった。

「失礼します…」

 そろそろとドアを開け隙間から応接室の中を覗くと、革張りのソファーに深々と腰を沈めていたタイトなスーツを着込んだ白鳳はわざわざ立ち上がり、諸手を広げて満面の笑みで招き入れられた。

「お待ちしていました、知世子さん。ご家族からお話は…もう聞かれていましたか。結構。さ、遠慮せず奥へどうぞ」

 向かいのソファーでは白衣姿の青柳が前屈みに腕を組み、のこのことやってきた知世子を見て呆れたように首を振っている。やっぱり怖い顔をしていて知世子は一瞬怯んだが、それも覚悟してここまで来たのだ。話を聞かずには帰れない。

「おっと、君は…知世子さんのお友達だったね。せっかくの同伴、申し訳ないが…」

 後から入って来たチェリーに白鳳は笑顔を消し、瞼を細めて値踏みを始める。もちろんチェリーはそんなことでは怯まない。ずかずかと部屋の真ん中を通り抜け、知世子より先に青柳の隣に座ってしまう。

「そうよ、あたしはこの子のクラスメイト。留学するってんならあたしたちにも十分関係あるはずよね?じゃあ話、聞いてあげるわよ。清香学院の代表としてね。それなら文句ないでしょう?」

 転校間もない一介の女子生徒のどこにそんな権限があるか知らないが、チェリーは短いスカートの下で足を組み本当の代表のようにふんぞり返る。隣の青柳のこめかみが引きつっている。値踏みを諦めたのか、白鳳は欧米人のように肩を竦めて薄ら笑みに戻る。そして知世子がチェリーの反対隣りに腰を下ろすのを見計らうと、ソファーの背に手を置き立ったまま口上を切り出した。

「知世子さん、朗報です。先程青柳先生にはお話ししましたが、いよいよアメリカの製薬会社とDAMDSについての研究を本格的に進めることが正式に決定しました。聞いたことがあるでしょう、ナトリと言う会社です。企業規模も保有技術も申し分ない。これで我々の悲願だったDAMDS克服を果たす道程が見えてきました。ご家族にもお伝えした通り、今後はナトリの全面的なサポートの下に安定した研究体制を整え、DAMDS遺伝子の有効活用に向けて強力に推進していくことになります。ああ、知世子さんの留学については案の一つとして提示したまでです。ご家族は大層喜んでおられましたがね。もちろんナトリの研究所も提携する病院もアメリカにありますから、知世子さん自身が向こうに居ていただいた方が諸々スムーズに進みますが…」

「ちょっと待ってください…!」

 用意した台本を読むかのように淀みのない白鳳の弁舌を青柳の震え声が塞き止める。

「やはり話が違う。DAMDS…知世子さんについては原則公表せず、と言う約束だったはずです。それなのに本人の了解もなく、ましてや相談もなしにそんな大企業と契約するなんて…勝手にも程があります」

「ほう…では青柳先生はこのままで良いとおっしゃるんですね?設備も碌すっぽない片田舎の病院で、主治医であるあなたは本来の病院業務とご自身の研究の片手間に、あとは我が研究室に出向中の研究員一人のみの、今のこの知世子さんの治療体制が」

「それは…そうは言ってません。僕だってできれば先端医療を受けさせてあげたい。ですがいくらナトリの研究所や病院であっても、まだほとんど何も知れていないDAMDSに対して適切な治療が望めるとは到底思えない。それに企業資本が絡めば治療ではなく研究が優先されるのは目に見えている。病院に縛り付けておけば生体組織もデータも取り放題ですものね。寧ろそれが目的なのでしょう?そんなのはもう治療に託けた人体実験だ。僕は絶対に賛成できない」

「じゃああなたはしていないとでも?」

 白鳳は俯き加減の青柳よりも上背を屈め、センターテーブル越しに青柳の鼻先まで身を乗り出して迫る。

「医療が未知の疾患に立ち向かおうとするなら患者に対する治験は避けようのない必然行為だ。遺伝子の解析、新薬の開発、新しい術式、血清やワクチンの投与…それらがあなたの言う人体実験とどう違うのです?なにより彼女の遺伝子からDAMDSを発見したのは他でもない、あなた自身じゃないですか」

 細身のスクエアグラスの下から蛇の目で舐め上げられ、青柳はごくりと喉を鳴らす。言い返せないその横顔を知世子は不安気に見詰め、チェリーは楽しそうに頬を歪めている。

「青柳先生…あなたが彼女を守りたいという気持ちは分かる…もう十年以上ですか…それだけ診ていれば通常の医者と患者以上の感情が生まれても不思議じゃあない…しかし傍から見ればそれだけの年月をかけて人体実験を続けているのも同然だ…そう見えてしまうんですよ、あなたにその気があろうとなかろうとね…それで何が得られました?…彼女は未だに不便な杖を突き大きな帽子を手放せず人前で上着さえ脱げない…それがあなたが一人で彼女を囲い込んだ結果ですよ…そう…私なら彼女の秘めたる無限の可能性を引き出せる…もっと有意義に活用できる手段を持っている…あなたは十分尽くしましたよ、青柳先生…そろそろその重荷を下ろしたらどうです…?」

「…重荷などとは…いや、大事なのは彼女の…知世子さんの気持ちです。本人の意見を尊重しないと…」

 弱い意思が蛇の長い舌に絡み取られそうになるのを、青柳は首を振り懸命に奮い立たせる。見えざる舌は二股に分かれ、片割れがその匂いを嗅ぎ取ろうと知世子の眼前でチロチロと揺れる。

「そうですね…その通り。ご家族のこともあるでしょう、知世子さん…率直なお気持ちを聞かせてもらえませんか?どうぞ、忌憚なく…」

「……わたしは…その…」

 当然知世子は口籠る。と、その時応接室のドアが鳴らされ、茶器の並んだトレイを提げた青い顔の悠太が入って来た。やはり家には帰っていないらしい。昨日と同じ服だ。

「やあ、良いタイミングだ…知世子さん、何も今すぐに答えを出す必要はありません。我々もそれ程急いている訳ではありませんからね。まずはブレイクとしましょう。大したものではありませんが、出張のお土産です。最近はコナだけじゃなく、アメリカ本土でもボリビアやメキシコの良質の豆が手に入るようになりましてね。黒羽君、皆さんにお配りして…」

 教授の前で緊張しているのか悠太の手が震えていて、カップを置く度にカチャカチャとソーサーが鳴る。白鳳が麻袋から細挽きされたコーヒー豆の粉を計量スプーンできっちり五杯掬い取りフィルターに乗せ、ドリップポットの長い口から熱湯を注ぐと心地良い香りが部屋中に広がる。挽き立ての豆は泡を噴いてドリッパーから溢れんばかりに膨らみ、抽出された黒褐色の液体がサーバーに一滴一滴落ちていく。これが穏やかな午後のひと時ならどれほど至福だっただろう。白鳳自ら各人のカップにコーヒーを注ぎ、悠太の震える手がシュガーポットとミルクピッチャーを並べる。

「へえ…ホントに美味しいじゃん」

 まず感想を述べたのはチェリーで、砂糖もミルクも入れずブラックのまま飲んでいる。コーヒーを飲み慣れていない知世子は青柳の真似をし、ミルクと砂糖をたっぷり入れて甘くする。確かに美味しい。…ような気がする。白鳳は自前のタブレットボトルから白い錠剤を取り出してカップに入れ、さらに砂糖とミルクを追加し無闇に掻き混ぜている。悠太は白鳳の後ろで空のトレイを抱えて立ったままだ。

「にしても情けないわねぇ、あんた。彼女の前でやられっぱなしじゃないの。ま、芋虫と蛇じゃ、結果は見えてたけどさ」

 カップを片手にチェリーが青柳の丸まった肩を叩く。励ましているのではなく、ただ煽りたいだけのようだ。

「ヘビ?それは私のことかな?」

「他に誰がいるって言うのよ。先割れの舌が見えてるわよ」

「…君は本当に遠慮がないね」

「それくらいやり手だって褒めてんのよ?これでも」

 チェリーがピンクの前髪を掻き上げにやりと片頬を上げる。そんなおちょくりにも白鳳は表情を変えず、中指で眼鏡を押し上げ茶色く薄まったコーヒーを啜る。

「はは、なるほど。それは嬉しいねぇ…それじゃあ君は知世子さんのアメリカ行きに賛成してくれるのかな?」

「今のディベートを聞いて反対できる奴がいたら見てみたいわね。まあ、正直この子がアメリカ行こうと行くまいと、あたしはどっちでも良いんだけどね」

「ほう…彼女がアメリカに行けば簡単には会えなくなるかも知れないぞ?見たところ君は知世子さんとかなり仲が良さそうだが…」

「あたしも一緒にアメリカに行けば良いんじゃない。別に日本に思い入れがある訳じゃなし。そんな簡単なことも分かんないの?教授のくせに」

 サーバーから勝手に二杯目を注ぎながらチェリーはさも平然と言い放つ。聞いた白鳥の方が呆気に取られ返答に詰まっている。突飛な発想だが彼女ならやりかねない。

 突然木の上から落ちて来て思いがけずクラスメイトになって、それ以来当たり前のように毎日一緒にくっついているが、知世子はチェリーの素性をまだ全然知らないでいた。分かっているのは前に住んでいたのは北欧のどこかで、嘘か本当か知らないが何か国語か話すことができ、彼女の母親がこの町出身らしいことくらいだ。どんな経緯で日本に来たのか、両親はどうしているのか、今一人でどうやって暮らしているのか、聞き出そうとしてもその度にいつもの調子ではぐらかされてしまう。どうして自分のことをこんなに気に掛けてくれるのか…そう言えば知世子は彼女の家さえ知らなかった。

「でさ、昨日見つけたネットの記事、あれはどうなってんのよ?ナトリとこそこそやるつもりならあんな記事まずいんじゃないの?誰が言い触らしたのか知んないけど、DAMDSの情報が世間に流れて困るのはこの子だけじゃなくて、あんたたちもでしょ?」

 チェリーが無作法に指を突きつけると、白鳳の持つカップがピクリと揺れた。また目の色が値踏みのそれに変わる。青柳は目の前のカップに手を付けず白鳳を睨んでいる。

「ふん…読んだよ、五光新聞の記事だろう?あんな憶測だけのゴシップ記事、放っておけばいい…と言いたいところだが、確かに私の預かり知らぬところで妙な噂を立てられるのも気分が悪い…」

 白鳳は腕時計に目を遣り、背後の悠太に向けて手の甲を振る。促された悠太がおずおずと部屋の入り口に向かうと同時に、そのドアが力強く打ち鳴らされた。

「時間通り…か。皆、出番を心得ているね…黒羽、お通ししろ」

 悠太の開けたドアから入って来たのは、よれよれのスーツにトレンチコートを羽織ったむさ苦しい無精髭の男だった。

「これはこれは…珍しくお前の方から、しかも病院なんぞに呼び出すから何事かと思えば…なかなか面白い話が聞けそうじゃないか」

 男は内ポケットから裸の名刺を取り出し、座ったままの青柳に差し出す。『五光新聞 科学医療部デスク 赤松拓』飾り気のない朴訥な名刺にはそうあった。この人があの記事を書いたのか。受け取った青柳は儀礼的に立ち上がり、無言で自分の名刺を返す。印象通りに不躾な赤松は断りもせず白鳳の隣に腰を下ろし、ガラス細工のごてごてした灰皿を手前に引き寄せる。懐からくしゃくしゃの煙草を取り出すのを見てチェリーが拳を握るが、その前に白鳳がそれを取り上げた。

「赤松…悪いが今はこの部屋は禁煙だ。未成年のゲストが二人いらっしゃるのでね。どうしても吸いたければ病院の敷地外まで行ってくれ」

 赤松は空になった自分の手と知世子たちを見比べ、肩を竦めて座り直す。

「これはすまんね。最近は喫茶店でも吸えないもんでね、灰皿を見るとつい。…で?今日は件のダムズについて聞きに来たつもりなんだが…このお医者の先生とお嬢さんたちはどんな関係がおありなのかな?」

 赤松は悠太が供したコーヒーを一口啜り、口に合わなかったのか顔をしかめて砂糖とミルクを追加する。

「ああ、紹介しよう。彼女がDAMDS遺伝子を持つ黒羽知世子さんで、青柳先生はその発見者であり彼女の主治医だ」

「なっ…?ちょっ…!」

 唐突な暴露に青柳が腰を浮かせる。その慌てぶりに赤松は事態を察し、飲みかけていたカップから口を離す。

「なるほど…予想は全部外れていたか。まさか遺伝子疾患名とはね…いいかな?」

 代わりにボイスレコーダーを取り出し、テーブルに置く許可を白鳳に求める。浮かせた腰を下ろせない青柳が首を振って訴えるが、白鳳は取り成しもせず頷く。

「構わんよ。さて…青柳先生。ここからは相談ではなく交渉です。私がナトリと進めているプロジェクトについては、基本的には都築との秘密保持契約の延長とお考えいただきたい。すなわち現状都築製薬でDAMDS研究に携わっているのが黒羽悠太一名であるように、ナトリにおいても遺伝子情報や詳細なデータおよび患者との接触や生体サンプルの採取等に関しては限定された一部の人間のみが取り扱うものとし、原則承諾なしにナトリからは公開しない。今後都築との委受託契約は解消し、近日中に新たにナトリと同様の覚書を締結しますが、それで現行の契約内容との齟齬はないはずです」

「待っ…てください、都築製薬との契約を認めたのは悠太が身内だったからでしょう?それを他の企業にまで拡大されてしまっては秘密保持の意味が…」

「契約に身内親族云々の文言など入っていませんよ、青柳先生。まあご安心ください、携わるメンバーのリストは逐一出させますので。妙な人間に関わらせたりはしません。そう…黒羽君は実に誠実にDAMDSの研究を進めてくれましたよ、その対象が妹であろうとなかろうとね」

 全て見切っているかのようにあっさりと反撃を躱され、浮かせた腰を力なく戻す青柳の肩をチェリーがまた叩く。今度は少しは同情しているようだ。

「白鳳よ。お前とナトリ、さらには都築や青柳先生との関係は分かった。細かいことは調べれば裏が取れるだろう。問題はダムズそのもの…黒羽知世子さんだったかな?このお嬢さんについてだ。それ程お前が入れ込みナトリが喰いつくの正体って奴を、是非聞かせてもらいたいものなんだが…」

 赤松はメモを取るペンを止めることなく上目をじろりと知世子に向ける。白鳳が蛇ならこの人は蛙だ。その眠たそうな三白眼が知世子を捉えて離さない。飢えた蛙は眼前の獲物が何であろうと丸呑みにしてしまう。

「そう急くな、赤松。貴様を呼んだのはその勇み足を止めるためでもあるのだからな。青柳先生、ここからが本題なのですが…単刀直入に行きましょう。彼の記事により、その真意はともかくDAMDSの名は世界中に発信されてしまった。誰もが傍観してくれれば良いのですが、遺伝子治療や抗癌ウイルスは今や医薬業界のトレンドだ、そうもいかないでしょう。放置しておけば彼のように鼻の利くマスコミがすぐに嗅ぎつけ、偏った情報や誤った認識が蔓延り、知世子さんを取り巻く環境はどんどん悪化していく。私は一度経験しているんでね、良く分かるんです…」

「だから!どこが単刀直入だってのよ?さっさと言いなさいよ、用件を!」

 チェリーが苛立たしげに指先でテーブルをノックする。輪をかけて不遜な態度に赤松が蛙の目をずらして、こちらは?と聞き、白鳳が、知世子さんの友人だ、とだけ答える。蛇の目は据わったままで、どこを見ているのか分からない。

「…情報は正しく統制されなければいけません、それも迅速に…青柳先生、来月ちょうどこの病院の大講堂で三十周年の記念講演がありますね。私はそこでDAMDSの発表をしようと考えています。そしてそこには知世子さんもご登壇いただきたい」

 瞬間、赤松のペンの音が止み、応接室に静寂が走る。名指しされた知世子は理解が追い付かず、ただ口を丸くして呆けている。

「…流石の剛腕だな、ソーリ。俺のいるここで宣言してしまえば情報統制を盾に青柳先生は建前上拒否できず、俺も発表前に下手なことは書けなくなった訳だ。ダムズの正体はそれまでお預けか…いいだろう。で、彼女を登壇させる意味は何だ?人前に出ればそれこそ有象無象が群がって来るんじゃないか?」

 赤松はペンを片付け、ボイスレコーダーをポケットに仕舞う。先手を打たれた白鳳から聞き出すのは諦め、標的を青柳たちに変更して少しでも言質を取ろうとしているのか。あるいは自らの言う有象無象とは一線を画したいのかもしれない。

「理解が早くて助かるよ、赤松…彼女は唯一のDAMDSを罹患したであり、このの象徴だ…いずれ周知に晒されるのなら先にイメージを確立させておいた方が良い…彼らに汚される前にね…一時は好奇の目が向くかもしれないが、それも海を越えてまでは届かないでしょう…いずれにしろここまで事が至った以上、彼女の平穏を守るにはそれしか方法がない…そう思いませんか?青柳先生…」

 蛇の舌がまた青柳に絡みつく。青柳は動かない。声を荒げ地団駄を踏み反対するかと思いきや、顔を伏せ手を組んだまま動かない。抗う心まで折られてしまったのだろうか。まるで塩を振られた蛞蝓のように萎れ、打ちひしがれている。

「は!彼女を難病に立ち向かう一人の気の毒な少女に仕立て上げようってのかい。どうだか。青柳先生、こいつを迂闊に信用しちゃいけませんよ。大方栗田辺りに現物を要求されたんでしょう。あの記事にも書いた通り、我々はこの件を軽々しく取り扱うつもりはありません。取材に当たり知世子さんのプライバシーは最大限優先させていただきますし、事実以外余計なコメントも控えましょう。ただ、あなた方を政治利用するような行為を許す訳にはいかない。結局お前は五年前から何も変わっちゃいないんだ。知世子さん、こいつの屁理屈に付き合う必要なんてありませんよ」

 赤松が獲物を取られまいと大袈裟な身振り手振りで対抗する。とても敵わぬ相手でも目一杯喉を膨らませ虚勢を張るのが蛙なのだ。

「ふ…貴様こそスクープを独り占めしたいだけだろうが。私だって知世子さんを蔑ろにするつもりは毛頭ない。青柳先生、開示するのは概要と症例報告のみで、遺伝子コードや臨床検査値などのデータは当然全て割愛します。使用するスライドは事前にお二人にご確認いただきましょう。これは交渉だと申し上げた。お二人の承諾がなければこの話は進まない。我々の…知世子さんの未来を正しくするにはこれしかないのだ、青柳先生…!」

 最後の言葉は本音を含んでいるのだろう、白鳳は前のめりに力を籠める。チェリーはいよいよ愉しそうに鼻孔を広げ舌舐めずる。知世子には何も分からない。何も判断がつかない。誰かに決めて欲しかった、ただ命令してもらいたかった、それを下せるのは唯一人だけだ、知世子はその人を見る、救いを求め、縋る思いでその人を見る、下されれば全て従うのに、どんな命令だろうと喜んで従うのに…萎れていた青柳の首が徐々に持ち上がってくる。その横顔は昨日の怖い顔ではなく、ただ何もなく、あらゆる感情を脱ぎ捨てた無の表情で、知世子はもっと、怖かった。

「……分かりました。知世子さんさえ良ければ、白鳳先生のご所望の通りに…」

 白鳳はにんまりと上がる口角を隠しもせず、赤松は呆れて首を振る。チェリーはもう青柳の肩を叩くことはなく、知世子は自身の肩を愕然と落とす。これで知世子は大勢の前で晒し者にされ、年が明ければ家族とも学友とも離れ離れになり、勝手も知らぬ言葉も通ぜぬ外国の地で一人暮らすことになる。だがそれが悲しいのではない。この決定が青柳の本意ではなく、屈服の果てに為されたものであることが堪らなく不安で悲しかった。何も語らない横顔を見るのが怖かった。急に胸が締め付けられる、貼り付いたままの子守唄が頭の中で何度も何度も繰り返される、あれほど怖かった母の剥き出しの感情が、今頃になって懐かしく感じられる、

「ふうん…あんたはそれでいいの?チョコ」

 チェリーが呟く、それでいい?良くなんかない、青柳先生にあんな顔をさせておいて、いい筈がない、でもわたしに何ができる?伯母さんたちの言いなりで、一人で何も決められなくて、学校のみんなには迷惑ばかりかけて、お母さんにも、お兄ちゃんにも、ヤギ先生にまで、あんな顔させて…

 …良くなんかない。知世子は膝に置いた拳を握り直す。できることはある、簡単なことだ、わたしはわたしの意志をまだ示していない、ヤギ先生はわたしに委ねてくれたのだ、そうだ、言っていたじゃないか、お父さんと約束したって、最後までわたしのことを見ていてくれるって、知世子は顔を上げ半分瘢痕に埋もれた潤んだ瞳を白鳳に向ける、できるはずだ、チェリーの言う通り支配しているのがわたしなら、わたしが本当に望む、正しい未来に進むことだって…!

「…白鳳先生、わたし…!」

 反抗の声を上げた瞬間、握った拳が生温いものに包まれた。はっとして開きかけた口を噤んでしまった。ヤギ先生…?青柳が感情の欠落した冷たい顔貌のままそっと手を伸ばし、知世子の決意を遮っていた。

「…よろしいんですね?青柳先生」

 どうして…?白鳳の念押しに青柳ははっきりと頷く。一緒に居ちゃいけないの…?知世子はまた分からなくなる。お父さんとの、わたしとの約束は…?白鳳はカップのコーヒーを呷って勝ち誇り、サーバーからさらに祝杯を注ぐ。ヤギ先生…!

「…ところで、白鳳先生。どうやら赤松さんのお口にはこのコーヒーの味が合わないようです。…そのタブレット、一つ差し上げてはどうですか…?」

「ん?ああ、これですか…」

 がらん。錠剤をカップに入れようとしている白鳳の後ろで鈍い音がした。悠太が抱えていたトレイを落としたのだ。振り返った赤松が、彼は?と聞き、白鳳は苦笑して、出向中の研究員だ、と答える。じきに帰任するがね。

「重曹か。お前もおかしな味覚をしてやがる。まあ確かに、これだけ酸味があるのはちょっと苦手だが…」

 赤松は白鳳から取り上げたプラスチックのボトルを目の高さでカラカラと振り、一錠抓み取る。何の飾り気もない朴訥で真っ白な錠剤をまじまじと見詰め、後ろでは悠太が吃り謝りながらトレイを拾い上げようとして何度も手を滑らせている。

「…いや、やめておこう。実は三年ほど前に尿路結石をやりましてね、それ以来シュウ酸とカルシウムには気を付けているんです。それに胃痛持ちなんでね、僕はこっちにしておきますよ。それに…」

 赤松は錠剤をボトルに投げ捨てると代わりに『ランソプラゾールOD』と印字されたシートから斑なピンク色をした錠剤を破り出して口に放り込み、ピッチャーのミルクを自らのカップにどぼどぼと注ぎ足す。知世子の拳に添えられた手が、汗ばむほどじんわりと熱を帯びている。

「それに、こいつなら平気で毒でも盛りかねませんからね。用心しておいた方がいいですよ、皆さんも。くわばらくわばら…」

「ほざいてろ。…では知世子さん、早速ですが留学に際して学生ビザの取得を急がなければいけません、まずはパスポートの…」

 冗談とも本気ともつかない苦み走った目つきで、蛙はすっかり薄まり冷め切ったコーヒーを腹に収める。蛇が先割れの舌をちらつかせながら事務的な説明をしているが、知世子の耳には何も入ってこない。のっぺらぼうの蛞蝓に囚われた手がその粘液で滑り、知世子は少し気持ち悪いと思ってしまった。三竦みの蚊帳の外で、悠太はようやく拾い直したトレイを胸に抱え、額に玉のような汗を浮かべている。一番人間らしい悠太が一番怯え、苦しんでいるように見えた。知世子は思う。自分は一体何なのだろう。鳥のように飛びたかったのに。蝶のように舞いたかったのに。きっと自分は籠に入れられた雛であり、飼育ケージの中の蚕だ。どこまで行こうと飛べはしない。

 白鳳の話は淡々と続き、青柳は無表情で頷いている。その向こうでチェリーは頬杖を突き、興味なさそうにスマートフォンを弄っていた。

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