第5話 死

 チョコがアメリカに留学するという噂は、クラスの中だけでなくあっという間に校内全体に広まっていた。主な犯人はナッツに違いないが、それだけチョコが良くも悪くも有名人な証拠なのだろう。あちこちで話を振られ、バスケ部の後輩にまで真偽を問われた時にはいい加減うんざりしたが、澤桃大は同じクラスメイトとしてその人気が鼻高くもあり、同時に彼女との関係性が希薄になっていくような気がしてどこか寂しく、どこか焦りにも似た気持ちを抱いていた。

「ねえ、トータ。送別会どこがいいと思う?」

 隣のシューの席をナッツやレアたちが取り囲み、ああだこうだ言いながら無料の地元情報誌を繰っている。

「あ、この店良くない?夏にできた駅前のパンケーキ屋。私まだ行ったことないんだ」

「あそこ?ダメダメ。やたら混んでるし、高いだけで味も普通だったよ」

「それならエルピスは? あそこ安くて美味いよ、パスタとか」

「辨天山のとこでしょ?狭くない?クラス全員と先生も入れて三十人以上だよ?」

「もうファミレスとかでええんちゃう?」

「二次会のカラオケだけは押さえとこうよ」

「ちょっと、もっと真剣に考えてよ。…ね、トータ。どっか良い所ないかなぁ?」

 大切な仲間を送り出す会だ、本当は進んでやりたいようなものじゃない。特にチョコはいつもこのクラスの中心にいて、障がいのある身体でも明るく元気に振る舞うその姿は皆の見本であり憧れでもあり、トータにとって彼女は太陽のような存在だ。シューにしても同じ気持ちだろう。常々真っ先にチョコのことを考え、世話を焼き、尊重してきたじゃないか。今回もクラス委員の責任感から、シューは幹事の仕事を先頭に立ってこなそうとしている。きっとそれは正しい態度だと思う。アメリカ留学はチョコ自身が決めたことであり、外野が今更何を言おうと覆るものではない。それも分かっている。

「そうだなあ…いっそ店とかじゃなくって、学校でやるってのはどう?」

 だが何だろう、この感じは。みんなが送別会の場所や餞別に渡すプレゼントや寄せ書きに書く言葉を真剣に、夢中になって選んでいるのを見ると、トータは違和感を覚えずにはいられない。果たして自分たちは、チョコを『送り出す』と言う行為を楽しんでしまっているのではないだろうか?…いや、そんなはずはない。トータは分からないように首を小さく振って思い直す。いつだって別れは辛く悲しいものだ。みんなそこから目を逸らしたいだけなんだ。この留学はチョコの人生にとって大事なステップアップのチャンスに違いない。ならば最後まで笑って、明るく楽しく見送ってやろうじゃないか…そう自分に言い聞かせなければこのもやもやとした胸の内を悟られてしまいそうで、トータは努めて周りに調子を合わせるのだった。

「学校?この教室でやるんか?」

「そっか…それいいかもしんないね」

「え~、自分たちで全部準備するの?大変じゃない?それにチョコの送別会だよ?あんまりしょぼいと失礼じゃん」

「だからそうならないようにするんでしょ。あとひと月あるんだから何とかなるよ。窓とか天井とかに一杯デコレーションしてさ」

「料理はどうするの?」

「ほら、今はケータリングとかも割安でできるみたいだし、何ならみんなで作っても良いんじゃない?調理実習室も使わしてもらって」

「デザイン科の子たちにも手伝ってもらおうよ」

「私、黒板アートやってみたい!」

「二次会のカラオケだけは譲らないからね?」

「まあまあ。細かいことはまた今度決めるとして、日程だけは確定しておこうか」

「じゃあまずはチョコ本人に確認取らないと…」

 シューが後ろの席を振り返る。教室の真ん中、いつもならそこに人の輪ができているはずの席にチョコの姿はない。鍔広の麦わら帽も腰高の杖も、身体の割に大きな鞄もそこにはなく、今日配られたプリントの束だけがただひっそりと机の上に乗っている。

「大丈夫かな、チョコ…」

 休み明けに留学することを伝えてからと言うもの、チョコはしばしば体調不良を訴え授業を休むようになった。学校には来ているが、二、三限目が終わる頃にはもう顔色が真っ青で、周りが見ていられず保健室に連れて行くのが毎日続いていた。本人は軽い貧血だと言っているが、心労を抱えているのは明らかだ。留学は本意じゃないのでは、と訊ねてもチョコは笑って否定する。自分で決めたことだから、と。だがチョコの遺伝子疾患のことを聞いているトータは気が気ではなかった。

「ねえ、チェリー。あんた一緒に話聞いたんでしょ?何か言ってなかったの?チョコの体調のこととか」

 空の席の隣で一人興味なさそうにスマートフォンを弄るチェリーが、憮然とした面持ちで目だけを上げてシューを睨む。

「は?知らないわよ、そんなこと」

 それだけ言ってチェリーはまた目を手元に戻す。

「そんなことって…あんた心配じゃないの?清香祭まであんなに元気だったのに、急に授業にも出られなくなるなんて…」

 シューがしつこく食い下がる。そう、シューも知っているのだ。チョコが特別な遺伝子を持っていることを。今までチョコ本人やアン先生から強く言われていたのもあって二人とも内密を通してきたが、それも気にする余裕がなくなるほど心配は募っていた。

「急に留学が決まって色々と不安があるにしても、こう毎日だとやっぱりおかしいよ。ひょっとしてあの子…体調が悪化しているんじゃないの?」

「…?シュー、どういうこと?本当にって、まるでチョコが…」

 シューの微妙な言い回しにレアが首を捻る。だがシューはその問いには応じず、椅子ごとチェリーに向き直る。

「チェリー、あんたも知ってるんでしょ?チョコの身体のこと。留学は建前で、アメリカに行く本当の目的はその治療のためなんじゃないの?ねえってば、聞いてるの?」

「うっさいわねぇ、知らないっつってんでしょ。あたしが聞いたのはあの子がアメリカに行くかどうかだけ。それ以外興味もないし、あんたたちが知る必要なんてないわよ」

「何それ?知る必要があるから聞いてるんでしょ?大体何の権利があってあんた一人でチョコを連れ回してるのよ?チョコの体調が悪いのもそれが原因なんじゃないの?もしチョコに何かあったらあんたの所為だからね!」

「なんだと、この…!」

 まったく、この二人は。言葉を交わすごとにシューは嫉妬し、チェリーは益々意固地になる。お互いチョコの身を案じる余りのことだと言うのに。

「シュー…言い過ぎ。清香祭で無理させたのは私たちの方…」

 取っ組み合いになりそうになるのを、レアがシューの前に半身を乗り出して阻止する。

「なによレアまで!あんたは悔しくないの?まだ来たばっかりの転校生にチョコが振り回されてんのよ?あんたがそんな薄情だとは思わなかったわ!」

「…!シューだって!チョコのこと、私たちに何か隠してる…!」

 寡黙なレアまで興奮し始めた。だが許可もないのに皆の前で打ち明ける訳にはいかない。それにシューもトータも、恐らくチェリーも、チョコの全てを理解してはいないのだ。かと言ってこのまま隠し通せばクラス内に禍根を残しかねない。一体どうすれば…

「お前もやめとけや。せっかくこのクラスに来たんや、もうちっと仲良うせえよ」

「はん?どの口が言ってんの?」

 いきり立つピンクの髪をコンスに上から押さえられ、その下顎に向けてチェリーが拳の裏で殴りつけるがコンスはもう一方の手で素早くいなす。

「そう何度も食らうかいな、そんなへなちょこ。すぐ手ぇ出しよってからに…ぐっ!」

 両手の空いたコンスの鳩尾に払い流された勢いに乗せたチェリーの反対の拳がめり込んだ。息を詰まらせくの字に折れるコンスを障害物のように押し退けシューに迫ろうとするチェリーの肩を後ろからコンスが鷲掴む。

「待てや、こんチビジャリぃ…!きさん大概にせえよ…!転校生の女子や言うて、甘う見んのもこれまでじゃ…!」

 コンスが男の力で掴んだ肩を引き戻し、サイズの合う制服が揃わずまだ元のままのキャメルブレザーの襟を締め上げられ今度はチェリーが苦悶に頬を歪める。

「こ…のぉ…!」

「いいかげんにしろ!」

 痺れを切らしたトータの叫びに教室中の動きが止まる。トータはぐるりと全員を見渡しながら、トーンを抑えて諭すように続ける。

「今はチョコの送別会の相談だろう?俺たちが喧嘩してどうする?そんなんでチョコが喜んでくれると思うか?シュー、心配なのは分かる、でもチョコの体調が心配なのはみんな一緒だ。レア、シューには言いたくても言えない事情があるんだ、今は堪えてくれないか。コンス、もう十分だろう、お前が本気を出したら俺だって敵いやしないんだ」

 こんな時、自分が威圧するほど高い背と通りの良い声を持っていることに感謝する。シューとレアはバツが悪そうに目を合わせてお互いに引き下がり、コンスは舌打ちながら不承不承絞った襟を下ろす。チェリーは咳き込みながらも憎まれ口を忘れない。

「…はっ、おせっかいが。なんであんたが仕切ってんのよ…」

「チェリー。大学病院の式典にチョコが出るってのは本当なんだな?」

 トータは胸までもないチェリーの頭に声を落とす。近過ぎて見上げることも叶わないチェリーは悔しそうに奥歯を噛んで顔を逸らす。

「…そうよ。あのバカ、腹黒い中年たちの言い成りよ。どこまでお人好しなんだか…」

「そうか。…シュー、俺はその発表を聞こうと思う。もちろん、素人の俺が聞いたところでどうなるものでもないんだろうけど、それでも俺は聞いてみたい。チョコのことを少しでも理解したいんだ。シューも一緒に来てもらえないか?」

「え?…うん、もちろんいいけど…」

 シューは引け目がちに頷きながら、きょろきょろとレアたちの顔色を窺う。そのレアは唇を噛み黙してくれたが、納得いかないナッツがトータを突つく。

「なんで二人だけなの?みんなで行けばいいじゃん。私だって聞きたいよ、チョコの晴れ舞台なんでしょ?みんなで行って応援しようよ」

「…ナッツ、これはそんなんじゃないんだよ、チョコにとっては…う…」

 思わずシューが口を滑らせそうになるのをトータは目配せで遮る。どんな発表がされるかは分からないが、衆人の前に晒されるのだ、恐らくチョコにとって名誉あるものとはならないだろう。チェリーの態度がそれを示している。そんなところに遠足気分でみんなを連れて行く訳にはいかない。傷付くのはチョコなのだ。

「ナッツ、いくら大学病院の講堂だと言ってもこのクラス全員が入る余裕はないよ。それに当日は関係者しか参加できないだろうしね。チョコの勇姿はビデオに撮って動画にするよ。送別会には間に合わせるからさ、今回は僕らに任せてくれ。行くのはシューと僕と…それに、チェリーも」

 チェリーは驚いたように側めた顔を戻し、真っ直ぐに見下ろすトータに胸を反らせ顎を突き出して強引に視線を合わせる。

「事情はどうであれ、今のチョコの状態を一番知っているのはチェリーだからな。一緒に来てくれないか?」

「……ふん。頼まれなくても行ってやるわよ。たとえ一人でだってね」

 憎まれ口は健在だが、しかめた眉が緩み口角が上がっている。少しは信頼してもらえたようだ。ナッツはまだぶつぶつ不平を言っているが、こっちは大丈夫だろう。

「うん。…じゃあそろそろ終礼だから、送別会の話はまた明日にしようか。シュー、それでいいか?」

「え?あ、ホントだ、もうこんな時間…アン先生遅いな。ほら、みんな席に着いて!」

 納得した者もそうでない者も、シューの号令に拍子抜けしたように三々五々席へと戻っていく。と、ちょうど教室のドアが開き、学年主任の小萩先生が入って来た。

「あれ、オハギさんだ。アンちゃんは?」

「コラ、八木戸。ちゃん付けは止めんか、先生と呼べ先生と。あー、小倉先生だが、みんなも聞いている通り黒羽さんが留学する関係で、その準備もあって二人ともしばらく不規則にお休みを取られることになった。今日は小倉先生が送って帰られるそうだ。その間ホームルームは私か柏先生が受け持つからそのつもりでな。まあ清香祭も終わったし、年明けまでこれと言ったクラスの行事はないから問題ないと思うが、何かあったら知らせるように。栗村、澤。頼んだぞ」

「え~、モッチー?こないだ部門対決でA組がうちのクラスにぼろ負けしたから、最近やたらと厳しいんだよねぇ。宿題一割増しとか、ただの逆恨みじゃん?」

「だから先生と呼べと言っているだろう、先生と…」

 教室に笑い声が弾け、いつもの雰囲気に戻っていく。その中で発破をかけられた二人だけがぎこちなく笑うこともできずにいた。留学の準備なんて口実だ、チョコの身体は思った以上に悪いのかもしれない…シューは今にも泣き出しそうな目で隣の席に救いを求め、トータはそれに気付くことなく机の上で組んだ自分の手をただじっと見詰めていた。


 バスルームから出るとリビングから良い匂いが漂ってきた。もう、ゆっくりしててって言ったのに…膨らせた頬とは裏腹に、小倉アンの胃袋は三大欲求の一つに正直に鳴く。まったく、しょうがないなあ…やっぱり嬉しそうにいそいそと濡れた身体を拭き上げると、緩めのラフなルームウェアを引っ掛け、髪を乾かすのもそこそこにタオルをおざなりに巻いて匂いの元へと急ぐ。

「あれ、もう出たんですか?ごめんなさい、お勝手が慣れなくって…もうちょっとでできますから」

 一間のリビング兼ダイニングに入ると、片端にあるキッチンで知世子が右に左にひょこひょこと忙しく動いている。冷蔵庫から卵を取り出しボウルに割り入れ生クリームやらを加え菜箸で溶きほぐしそのままたっぷりのバターを熱したフライパンに流し入れる。ジュウッと油が爆ぜる音も同時に立ち昇る乾いた香気も、知世子の流れるような手際もどれもが小気味良い。一人暮らしを強調する真四角の小さなダイニングテーブルにはランチョンマットが敷かれ、サラダの盛られた小鉢とスプーンとフォークとお茶の注がれたマグカップと、そして缶ビールが一本用意されている。普段自炊など滅多にしないアンは、完璧なまでの教え子の気配りに思わず嘆息する。

「はあ…知世子ちゃん、うちにお嫁に来てくれない…?」

「え?何ですか?」

「何でもない何でもない…使い辛かったでしょ?そのキッチン。越してきてからほとんど触ってないの、恥ずかしながら…」

「大丈夫です。フライパンもコンロも新品で綺麗なんで、ちょっと楽しいです。家のは古くて焦げ付きやすいから…あ、冷凍ご飯勝手に使っちゃいました。あとニンニクも」

「いいのいいの。こっちこそ助かるわ、いつも余らせちゃうから」

 アンはピザでも取ろうかと思っていたのだが、知世子が作りたいと言うので帰り道にスーパーに寄って二人で食材を買い込んできた。アルコールとおつまみしか入っていない空っぽの冷蔵庫を見られるのは少々情けなかったが、ここ最近外食とコンビニ弁当ばかりだったので温かい手料理が食べられるのは正直嬉しかった。それに知世子も料理をしている間は元気を取り戻しているようで、連れてきて良かったとアンは胸を撫で下ろす。

 今日の昼休み、保健室を見舞うと蒼白な顔で寝込んでいる知世子に相談を受けた。家に帰りたくない、と。清香学院でアンが受け持つようになって、彼女が漏らしたほとんど初めての弱音だった。自分の居場所がどこにもないんです、なくなっちゃうんです、伯母たちには毎日辛く当たられるし、母の顔も見られないし、もうすぐこの学校にもいられなくなる、みんなとも会えなくなる、その上青柳先生まで…ぐずぐずと泣き出してしまう知世子の肩を抱き、アンはしばらく自分の家に泊まらないかと誘った。狭いアパートだけど私一人だし、女同士何の気兼ねもいらないから…最初は遠慮していた知世子もアンのゆったりとした気長な説得に、やがて腕の中で頷いてくれた。

 何か手伝おうとアンはフライパンを振るう知世子の横に歩み寄る。だが片手で器用に柄を叩き見事にふっくらとしたオムレツをいとも簡単そうに作り上げる様に自分の出番は全くないことをすぐさま悟り、せめて邪魔しないようテーブルに戻り大人しく待つことにした。知世子が焼き上がったオムレツを盛り付けてあるチキンライスの上に乗せ包丁で切れ目を入れると、中からとろりと黄色い半熟が溢れ出てきて緑の切片が散らばる橙色の小山を包み込む。ぐう。またお腹が鳴ってしまった。このまま缶ビールのプルタブをプシュッと開けたい衝動にかられたが、流石に我慢した。

「お待たせしました。有り合わせですみません。お口に合うといいんですが…」

 真っ赤なケチャップが稲妻型にかけられたオムライスが運ばれてきて、知世子はさり気なく出来立ての熱々の方をアンの席に置いてくれる。この子には女子力では一生敵わないんだろうな…そう思いつつ手を合わせて簡単な感謝を捧げ、一番美味しそうなお腹の部分をスプーンで掬い取り一口で頬張る。うっ…こ、これは…

「敵う訳ないじゃん…もう振り切れちゃってるよ、この子の女子力…」

「え?何かおかしかったですか?」

「何でもない何でもない…すっごく美味しいよ、このオムライス…」

 ともすれば涙目になっているアンに首を傾げながら、知世子も自らの作品をつまつまと突つきその出来栄えに満足している。アンはものの五分でオムライスもサラダもぺろりと平らげ、結局誘惑に負けてビールを開けてしまった。知世子はゆっくりと咀嚼しながら、美味しそうに缶ビールを呷る担任教師に目尻を垂らす。

「ぱ~、美味しかった~。ごめんね、せっかく作ってくれたのに、あっという間に食べちゃって…」

「いえいえ、それだけ美味しそうに食べてもらえると作った甲斐があります」

「お前はもうちょっと味わって食べろって、親にいっつも言われるの。だから結婚できないんだって。余計なお世話よねぇ。そう言えば青柳先生って、きっとこのオムライスも食べられないのよね。ピーマン入ってるもんね。もったいないなぁ、こんなに美味しくって、しかもチョコちゃんの手料理なのに…」

 アンの何気ない、でも不用意な話題に知世子のスプーンが止まり、顔色がさっと翳る。

「あ…ご、ごめん…」

 こんなデリカシーの無さも、アンを色恋沙汰から遠ざける一つの要因なのだろう。知世子は平気だと首を振り、慎ましやかな食事を続ける。気まずく止まった会話にビールが進んでしまい、アンは所在なく二本目を取りに行く。失敗したなぁ…

清香祭で会った小松と名乗る女性に、知世子は少なからぬショックを受けたに違いない。アンから見ても綺麗で快闊で、頼りなさげに見えてしまう青柳にはもったいないような人だった。それでも優しく不器用な彼女は憧れの先生の元恋人という存在までをも受け入れ、表面上は仲良く振る舞って見せていた。それだけに今回の青柳の裏切りとも呼べる行為をまだ許せないでいるのだろう。知世子はあの日以来病院には行っていないそうだ。なのにそんな話題を出してしまうなんて…ダメだな、私ってば…

 既にほろ酔いの足取りでテーブルに戻りしょぼくれた顔でもう一本開けていると、ふと手元に視線を感じた。

「…?どうしたの、知世子ちゃん?」

 見ると知世子は食事の手を止め、その視線はビールのタブに爪を立てるアンの手元に、…いや、その先にあるTシャツのVネックから零れる胸元に釘付けになっていた。

「あ…。ごめんね、家だとつい気が緩んじゃって…だらしないよね、いくら女同士だからって」

 発展途上の無垢な高校生からせずとも、アンの胸は世間一般に見て十分に豊満だ。その重さに垂れ伸びた襟首を恥ずかしそうにずり上げると、知世子は大きく首を振る。

「す、すいません…!つい見惚れてしまって…。でも…ちょっと羨ましいです。わたしはアン先生みたいにはなりそうもないから…」

 知世子は自分の胸に視線を落とし、寂しそうに両肩を縮こませる。

「あら、こんなの邪魔なだけよ。肩は凝るし、ブラは選べないし…残念ながら、使う当ても今のところないしね。知世子ちゃんくらいがちょうどいいのよ」

「でも…千春さんもスタイル良かったし…やっぱりおっきい方が、男の人って…」

 そう言って胸を抱え込む知世子にアンは思わず吹き出してしまう。笑っちゃいけない。この子は真剣なのだ。望む通りに進まない人生でも、本気で青柳のことを想い、憂いているのだ。別離まで残り幾許もない日にちのうちにせめて気持ちだけは伝えておきたい…そんなことを考えているのかもしれない。ならば教師として、僅かばかりでも人生の先輩として、決して得意な分野でなくとも相談に乗ってあげるのが自分の務めと言うものだろう。柄にもなくアンは腹を括り、持ち得る恋愛テクニックの全てを伝授してやる勢いで背筋を正し力水を呷る。

「あのね、チョコちゃん。男って言うのはね…」

「アン先生。アン先生はお兄ちゃんのこと、どう思っているんですか?」

「うっ…!げっほ、ごほっ…!」

 ビールが変な所に入った。このタイミングで予想外に攻め込まれ、アンの酔った頭がぐるぐると回る。

「な、なに?急に?お兄ちゃんって、悠太くんのこと?ど、どうって言われても、ねえ?もちろん大事な教え子の一人よ?この前久し振りに会えて、元気そうで何より…」

「お兄ちゃんは…アン先生のことが好きなんだと思います」

 知世子の伏した目は真剣なままだ。アンを、ましてや悠太をからかっているのではない。酔いがちょっとずつ醒めていく。

「清香祭の日の夜、お兄ちゃん酔っぱらって帰って来て、うわ言でアン先生のこと喋ってました。すごく…辛そうでした。お兄ちゃんとは家でもほとんど話さないから全然気付かなかったけど、きっとずっと好きだったんだと思います。アン先生とは歳の差もあるし、それに先生と生徒だった訳だから、そういう対象としてお兄ちゃんを見ることなんてできないかもしれません。…でも先生、お兄ちゃんを見捨てないであげて。わたしの所為でお兄ちゃん、ずっと嫌な思いをしてきたんです、家の中でも、学校でも。医学部に行けなかったのもわたしの治療費の為だし、その所為で家を追い出されちゃうかもしれないんです、お父さんみたいに…。だから先生、お兄ちゃんのこと嫌わないで…」

 知世子は伏せていた目を上げ、真っ直ぐにアンを見据える。そうか、この子はそんな風に捉えていたのか…あの夜悠太から、そう取るのが難儀な言い回しだったが、確かにそれらしいことを言われた。アンは悠太の精一杯の告白にも素っ気ない返事しかしなかった。可哀そうなことをしたかもしれない。だがたとえ勘付いていたとしても答えは変わらなかっただろう。この子たちはご両親―――慧太さんと聖子さんから託された大切な生徒だ。元より見捨てる気などないし、自分が彼らの人生に首を突っ込む資格もない。今肝要なのは、二人の間の誤解を少しでも解いておくことだ。

「…知世子ちゃん。悠太くんは医学部にんじゃないの。彼は自分の意志でのよ」

「え…?でも…」

「少し昔話をしてもいいかな。悠太くんが高校生の頃の話…」

 アンはすっかり醒めた目で知世子を見詰め返す。

「悠太くんが清香に入学してきたのはちょうど私が教員になったばっかりで、初めて副担任を任されたクラスだったわ。良く覚えているのは、自己紹介をする時ってみんな大抵出身中学とか趣味とか部活は何をやりたいだとか一言二言付け加えたりするでしょう?でも悠太くんは下を向いたまま名前だけ言って、それきりで座ってしまったの。正直ちょっと怖くって、ああ、こんな子もいるんだなって不安に思ったりもしたんだけど、何か月か過ごしていくうちに段々と彼の抱えている事情ってのが見えてきた。有体に言えば、悠太くんはご両親の噂と黒羽という名前だけで苛めを受けていたの。高校生だから表立ったことはされなくても、無視されたり会話に入れてもらえなかったりその場にいないように振る舞われたり、見ようによってはより陰湿だったかもしれないわね。でもみんなそうしてあげるのが彼のため、みたいに考えていたし、彼も彼で誰とも関わりを持とうとせず、いつも一人の世界に籠ってた。私はこの町の出身じゃないし先入観なんかなくって、それにきっと新米教師で張り切っていたのね、どうにか彼にクラスの輪に入ってもらいたくて毎日声を掛けたり屋上で一緒にお弁当を食べたりしてたの。当時の悠太くんにしてみたら鬱陶しかったでしょうね、絶対。フフッ、自分でもそう思う。それでもそのうちに彼の方からちょっとずつ自分のことを話すようになってくれた。家のこととか、青柳先生のこととか、もちろん知世子ちゃん、あなたのことも。青柳先生みたいな立派な医者になって、いつかあなたを治してやるんだって。ね?泣けるでしょ?あの子、仕来りとか関係なく本気で医者になろうとしていたのよ。実際すごく勉強してたし成績も優秀だったわ、国立の医学部だって十分狙えるくらいに。相変わらず嫌がらせは続いていたけど、周囲の雑音なんか気にせず青柳先生からもらった論文なんかを黙々と読み耽ってる姿は頼もしくて格好良くて…やっぱりちょっと心配だった。思い詰めてやしないかって。だってまだ十六、七の、体もひょろひょろの少年だったのよ?遊びたい盛りのはずなのに、何もかも一人で背負い込んだような、どこか悟り切ったような…悠太くんの笑った顔、今だってまだ一度も見たことないもの。それで思い余って私、こっそりご両親にお会いしたこともあるの。お祖母さんや親類の方たちには、その…知世子ちゃんの前で悪いけど、かなり邪見に扱われてしまって。ホント、いけ好かない人たちよねぇ、フフッ、ごめんなさい。でもお手伝いの方が取り次いでくれて、お母様は伏してらっしゃったけどすごく優しくしてもらって、やっぱり悠太くんのご家族なんだなって安心したわ。お父様も忙しくされていたのに時間を作ってくれて、お会いできたのは一度きりでほんの短い時間だったけれど、お二人とも同じことをおっしゃってた。悠太くんには自分の思う通りに生きて欲しいって。もし医者以外の道を彼が望むなら、その背中を押してやってくれって…だから悠太くんが受験直前になって医学部には行かないって言い出した時、私は反対できなかった。理由は聞いても教えてくれなくて、頑なに医学部には行かない、北員大学の薬学部を受けさせて欲しいって、ただそれだけだった。もう願書も出した後だったけど、他の先生たちを説得して急いで北員大学にお願いして何とか願書を通してもらって…その後だったわ、お父様の訃報が届いたのは。私は心配で心配で家まで飛んでいったんだけど、本人は意外とけろっとしていて、悲しんでいると言うより、何て言うか…とても、怒ってた。それ以来、入学当初みたいに私とも口をきいてくれなくなってしまって…だからこの前清香祭で会えた時は本当に嬉しかったわ。あの頃の悠太くんが戻ってきてくれたようだったから…」

「え…それじゃあお兄ちゃんは、わざと医学部を落ちたってこと…?」

 知世子はオムライスを食べ終わり、マグカップを持つ手が微かに震えている。アンは三本目に口を付ける。今夜はいくら飲んでも酔わなさそうだ。

「そう。親族の方たちの目を欺くために一応形だけ試験は受けていたけど、北員大学以外はどこも見事に不合格だった。それはお父様の所為でも、ましてや知世子ちゃんの所為なんかじゃない、悠太くんは自分の意志を押し通したのよ。彼は今も自分の思う通り、望んだ道を進んでいる…私はそう信じてるわ」

 知世子はアンの言葉に暫し目を閉じ、やがてマグカップを置き徐に席を立つ。

「…リンゴ、食べますか?」

 そう言って返事も聞かずにキッチンへと足を引き摺り、食材と一緒に買ってきたリンゴの皮を剥き始めた。今の彼女にこんな話をして、本当に良かったんだろうか?アンは少し悔やんでしまう。シャリシャリとリンゴの皮を剥くリズミカルな音が時折途切れ、思い出したかのようにまた忙しげに動き出す。明らかに動揺しているのが後姿越しに伝わってくる。ホントにダメだな、私って…震える手に果物ナイフは見るからに危なっかしく、アンは飲みかけのビールを置き背後からそっと傍に寄る。

「…でもね、知世子ちゃん。本当はあなたにも、あなた自身の望む通りにしてもらいたいの。それも、ご両親と交わした約束。悠太くんだけじゃない、あなたも仕来りなんかに囚われず、自由に生きて欲しいって…」

 アンが手を添えようと触れた知世子の左肩がびくりと揺れ、半分剥かれたリンゴがシンクに落ちた。知世子は左手の指の付け根を押さえ、その震える人差し指の先からは剥かれた皮よりも赤い血が滲み出ていた。

「ご、ごめん、知世子ちゃん、大丈夫?」

 アンの心配を余所に知世子は指の腹の上で膨らんでいく血の玉を、色のない乾いた瞳でじっと見詰めている。

「…わたしは、いいんです。望む事なんて何もないから。望みもないのに自由に生きていたら、それはただの我が侭でしょう?…だからいいの。先生も、居なくなるわたしのことなんか忘れて、どうかお兄ちゃんを…」

 その言葉にアンの眉間が険しく捩れる。次の瞬間、血の溜まった知世子の指が引き寄せられアンの口の中に納まっていた。

「…?ア、アン先生…?」

 咥えられた指先の皮膚を爪の上をアンの舌が這い回る。染み出る知世子の血液がアンの唾液と混ざり合い口の中に鉄の味が広がっていく。

「あ、あの…大したことないですから…それに…汚いですよ、わたしの血なんて…」

 アンの眉間は益々彫り深く、唇は第二関節の辺りまで咥え込み舌は構わず舐め回す。一頻り吸い上げる血もなくなると、アンは音を立てて指先を唇から引き抜き、そのまま両手で知世子の頬を挟み込む。

「駄目よ、知世子ちゃん。そんなこと言っちゃ駄目。あなたは居なくならないし誰もあなたのことを忘れやしないしそれに、あなたの血は汚くなんかない。私のクラスでもしそんなことを言う奴がいたらぶっ飛ばしてやるんだから。…知世子ちゃん。あなたと悠太くんを受け持つことができて私、本当に良かったと思ってる。あなたたちは私の誇りよ。だからお願い、胸を張って。望みがないなんて言わないで。我が侭だっていいじゃない、青柳先生だって、きっと…」

 頬を潰され口を尖らせた知世子の瞳は、それでもまだ乾いたままだ。何も語ろうとしないその瞳に、アンは彼女の翻意はできそうにないことを悟る。

「…私はいつだってあなたたちの味方だから。きっと青柳先生だってそう。アメリカだろうとどこだろうと、何かあったらすぐに飛んでいくわ。悠太くんを連れて、ね…?」

 アンは引き出しに常備してある絆創膏を取り出し、傷付いた知世子の人差し指に巻く。巻かれながら知世子は無言で何度も頷いている。偏見や蔑視と戦うのが教師の役目であるのなら、自分は余りに無力だ。今夜は酔えそうにないし、長い夜になるだろうな…知世子の指先の絆創膏にはもう赤い染みが滲んでいる。それを見てアンの口の中に血の味が蘇る。それは苦い鉄の味と、ほんの少し、リンゴの甘い味がした。


 ボトルの口から最後の雫をグラスに垂らしていると、玄関から鍵を開ける音が聞こえてきた。ガチャガチャとやかましい。構わず次のボトルの首を掴みスクリューキャップを開け、三分の一ほど入っているグラスにどぼどぼと注ぎ足す。違う銘柄だが全く気にしていない。今日は疲れているんだ、ストレスだって溜まっている。それをほんの少し癒してくれさえすれば何だって良い。第一違いの分かる嗅覚など持ち合わせていないのだ…玄関のドアが開く音がして、途中でガチャリと止まる。ああ、そうだった。今日は帰ってくると言っていたか。いつもの癖でチェーンまで掛けてしまった。帰宅者は懲りずに何度もドアを開けようともがいている。まったくやかましい。俺は疲れているんだ、この一杯を飲むまで待っていろ…グラスに口を付けようとして、とうとうインターフォンまで鳴らされ出した。ええい、くそっ…小松拓己はようやく根負けし、重い腰を上げてドアのチェーンロックを外しに向かう。

「いや…すまん、君が帰ってくるのを忘れていた訳じゃあないんだ…その、ついうっかりしていて…」

 一週間ぶりに帰って来た妻の千春を前にし、どこか言い訳がましい口調になってしまう。千春は一言、ごめんなさい、とだけ言い、ブーツを脱ぎ棄てスーツケースを抱えて自分の部屋がある二階へと上がっていった。

 先月末に殴ってしまって以来、千春はめっきり家に寄り付かなくなった。週に一度帰っては来るが、着替えやらをスーツケースに詰め込むと翌朝にはまた出て行ってしまう。どこに泊まっているかは知らない。拓己はリビングに戻り、悪態を吐きながらソファーに座るとさっき注いだグラスのワインを呷る。しっかりと冷えているはずの赤紫色の液体は、熱い塊となって喉を抜け臓腑の底へと落ちていく。ワインボトルの脇には白黒でプリントアウトされた一枚の紙があり、拓己は霞み始めている目をそれに落とす。

『北員大学病院創立三十周年記念式典式次第』

 今日配布された明日の創立記念のレジュメだ。三十周年の今年は例年より壮大に執り行われるらしい。院長式辞、学長挨拶、来賓紹介、花束贈呈、市長祝辞…まったくもってどうでもいいスケジュールで午前中が消費されている。拓己も病院スタッフではあるが式典の準備や進行には一切関わっていない。要請があったとしても応じるつもりはない。そんな暇があるのなら一人でも多く患者を診るべきだ、病状は式が終わるのを待ってくれないんだぞ…昼の懇親会の後は記念講演が数題続く。ノーベル賞候補に挙がったことのある有名教授や大企業のCEO、メディアでよく見かけるコメンテーターやらが並ぶ中、当の大学からは薬学部教授白鳳宗利が名を連ねている。白鳳と言えば何年か前に世間を騒がしていたが、何故今更選ばれたのか。演題も異色だ。

『DAMDS――その実態とエピジェネティクスの可能性』

 得意の抗癌ウイルスではないようだが、肝心の内容が少しも見えない。何より拓己の目を捉えて離さないのは、共同演者の項にある青柳貴の名前だ。拓己はグラスのワインを一口含む。青柳が白鳳と共同研究していることは聞いていた。奴が何をしようと勝手だし、実地を伴わない基礎研究なんかに興味はない。だが、どうやらこの発表の主題が青柳の担当する患者のことであり、その患者が当日登壇する予定であり、そしてその補佐役として千春が指名されているという情報をおせっかいな同僚がわざわざ拓己の耳に入れてきた。またグラスを乱暴に傾け、口の端から赤い筋が垂れるのを袖で拭う。青柳からの依頼であることは明白だ。一介の看護師が見ず知らずの学部も違う教授の発表を手伝うなどありえない。どうしてそんなものを引き受けた?俺への当てつけなのか?家にも帰らないくせに…残ったワインを一息に飲み干す。一体何だと言うのだ。今までこんなことはなかった。確かに殴った自分が悪いのだが、顔を合わせる度にもう何度も謝っているし、彼女も俺の悪い癖については理解してくれていたはずだ。…青柳と会わせたのがまずかったのだろうか?まさかあの二人が不倫不貞を働くとは思えないが…いや、青柳だって独り身の男だ。彼女の宿泊先が奴の家でない保証はない。だが面と向かってそんなことを聞けばまた喧嘩になってしまう。とりあえずは大人しくほとぼりが冷めるのを待つしか…いやしかし…ええい、どうして俺がこんなことで煩わされなければならんのだ…!拓己はグラスの底をレジュメのプリントに叩きつけ、同時にリビングのドアが開く気配に振り返る。

「あなた…また飲んでるのね」

 洗濯かごを手に提げた千春は部屋に入るでもなくその場に佇み、散らかったテーブルを呆れ顔で見下げている。

「う…いや、これは、その…今日は疲れていたんだ、教授会も近いし、ほら、年末だしな、お前のところもそうだろう?それに最近眠れないんだ、そう、また不眠が出てしまって…だから、ちょっとだけ…な」

 しどろもどろの聞き苦しい言い訳に千春は溜め息を吐き首を振る。なんだ、言いたいことがあるなら言えよ、こっちだって我慢しているんだ、大体ここは俺の家だぞ、自分の家で一人で飲んで何が悪い、出て行ったのはそっちの勝手だろう…

「…今日はまだ明日の準備があるから病院に泊まるわ。ずっと留守にしていてごめんなさい、式典が終わってひと段落したら戻って来られるから。それまでに…酔いは醒ましておいてね、お願いだから…」

 そう言い捨て、千春は踵を返し静かにドアを閉めて出ていった。明日の準備?病院に泊まる?拓己はボトルを掴み直接喇叭に呷る。はっ、見え据えた嘘を。俺から逃げたいだけなんだろう?どうせ青柳のところか、さもなくば別の男に泣きついているんだ、間違いない、あいつの目はそう言っていた、あいつはそういう女なんだ…!拓己はレジュメのプリントを握り潰し乗っていたグラスが倒れひびが走るが構わず立ち上がり淀んだ眼でリビングのドアを開ける。洗濯機の回る音。馬鹿にしやがって…!拓己は足を踏み鳴らしてバスルームに向かう。誰が主人か、思い知らせてやる…!

「!…な、なに?ノックくらいしてよ…!」

 バスルームの引き戸を開けるとシャワーでも浴びるつもりだったのか千春は上着を脱ぎキャミソールのインナー一枚で咄嗟に胸元を両腕で抱えて隠す。なんだその余所余所しい態度は…!夫婦だろうが…!隠す必要などあるものか…!

「あ、いや、すまん…ちょっと聞きたいことがあって、その、これのことなんだけど…」

 拓己は右手に持つプリントを見せようとして自らの握力でぐしゃぐしゃになっているのに気付いて舌打ち覚束ない手付きで皺をどうにか伸ばそうとする。千春は自分の胸を抱いて後ずさり風呂場のドアに行き詰まる。その横で洗濯機が回っている。夜更けに回る洗濯機はシュールだ。夜更けに独りで馬鹿みたいに飽きもせずガタゴトと回り続ける洗濯機に拓己はどうしようもなく苛立ってくる。どうしてこんな時間に…!明日でいいだろう…!馬鹿にしやがって…!バカにしやがって…!

「いや、その…これなんだ、明日の創立記念のな、記念講演の…白鳳教授ってのいるだろう?千春、お前…手伝うんだってな、その発表の、プレゼンターの…青柳のところの患者なんだろう?いや、ただ耳に入ったもんでな、気になっただけで…知っているのか?その患者のこと…ああ、知っていたって別にいいんだ、ただ、気になっただけでな、他意はないんだ、その、青柳とは…青柳とは会っているのか?いや、当然だな、あいつの患者なんだもんな、会って当然だよな、それで、あいつとは…上手くやれているのか?なんだ、その…昔のこともあるしな、気になってな、どうなんだ?あいつは、その…優しくしてくれるのか?ああ、いや、他意はない、ないんだ、その、昔のこともあったしな、な、その、ただ、本当に、気になっただけなんだ…」

 拓己が突き出したプリントはぐしゃぐしゃのままであちこちに赤紫色の染みが血痕のように散っている。千春は自らを抱いた手で両肩を掴み背を縮ませ半身を隠し怯え慄き恐怖に満ちた眼で拓己を見てくる、やめろ、そんな眼で見るな、こんなに優しく丁寧に接してやっているのに、俺はこんなに優しい人間なのに、ザバザバガタゴトガタゴトと洗濯機がやかましい、それでも青柳がいいのか、あいつの方が優しいのか、俺がそんなに怖いのか、千春が身体を押し付けるので折り畳み式のドアがミシミシと音を立てている、洗濯機がけたたましく回り出す、うるさい、拓己が洗濯機のボタンを拳で殴り付ける、洗濯機が奇妙な音を立てて止まる、千春がひぃっと奇妙な音を立て頭を抱え込む、なんだ、うるさいからちょっと止めただけだ、うるさかったから、何をそんなに怯えているんだ、そんなに俺が怖いのか、何度も謝ったじゃないか、反省したんだ、もう殴ったりなんかしない、約束する、俺はこんなに優しくて、寛大な人間なんだ、殴ったりしない、だから聞いてくれ、俺の話を聞いてくれ…突き出した拓己のぐしゃぐしゃのプリントを持つ手が肩に触れ、千春はとうとう悲鳴を上げる。

「いやぁっ!お願い、やめて…!」

 その叫び声に拓己の嫉妬が爆発した。プリントをかなぐり捨て長い髪の毛を根元から鷲掴み千春の頭を折り畳みのドアに押し付け声にならない悲鳴を上げる千春の頭を何度も押しつけて思い知らせる、分かったか、俺に逆らえばどうなるか分かったか、主人は俺だ、お前の主人は俺なんだ、青柳なんかじゃない、俺なんだ…!血管の太く浮き出る拳が掴み押しつけ振り回し千々乱れる髪の隙間で千春の瞳が濡れ光る、何だその眼は、その眼は憐れんでいた、やめろ、その眼は拓己を、千春自身を、この惨めな有様を、ただ深く嘆き憐れんでいた、そんな眼で俺を見るな…!

「…お願い…顔はやめて…殴らないで…明日講演が…人前に出なきゃいけないから…だから…顔だけは…」

 恐怖に嗄れた唇から悲痛な哀願が漏れる。顔?顔?顔?顔はやめろ?そうだ、その顔がいけないんだ、その綺麗な顔が、拓己は大瓶のような腕で千春の頭を鷲掴んだ髪ごと力尽くで捻り上げ乱れても柔らかな前髪を細く垂れた眉を濡れた瞳を筋高い鼻を肉の痩せた頬を乾涸びた赤い唇を折れそうな尖った顎を淀んだ眼で舐め回す、この顔に他の男が、この顔の所為で青柳が誑かされるのだ、流石俺が選んだ女、綺麗な顔をしてやがる、怯え震えていても、だからこそそそられる、拓己は自身の薄い蒼白な唇を舌舐めずる、唇は渋いワインの味がした、ちくしょう、誑かされたのは、俺もその一人か、ちくしょう、バカにしやがって、拓己はこれからしようとする行為を想像し興奮しもう一度唇を舐める、もうワインの味はしない、千春は両手で顔を庇いながら怯えきっている、怯えきった眼で憐れみ見下してくる、可哀そうな人、やめろ、その眼で見るな、拓己は髪を押さえつける手に力を籠めもう一方の手を振り被りそのまま庇う上から痩せた頬を目掛けて平手を振り下ろす、悲鳴が上がる、その眼で見るんじゃない、哀願する叫びにも許しを請う手にも構わず何度も平手を拳を叩きつける、その眼で、俺は、おれは…!

 殴るごとに嫉妬が増し興奮が増していく。泣きじゃくる悲鳴の中、拓己は味のしない唇を何度も何度も舐め続けていた。


「―――このように疫学的調査の観点からもヒトDNAにおいてエピジェネティクスをコントロールすることは十分に可能であり、実際にDNAメチル化阻害剤であるアザシチジンや、ヒストン脱アセチル化阻害剤であるトリコスタチン、バルプロ酸のようなエピジェネティックな状態を変化させうる薬剤が一部の癌や遺伝子疾患に対して既に臨床で用いられていることは先程述べた通りです…」

白鳳の講演が始まってからもう三十分以上経っている。こういう講演にはありがちにスケジュールが押していて、手元にあるレジュメに照らせばとっくに終了している時間にもかかわらずまだチョコは登場していない。白鳳もそんな素振りはいっかな見せず、さっきからiPS細胞やら女王バチの生まれ方やらチェリーでも知っているような当たり障りのない一般論を喋り続けている。

「ここでもう一度おさらいをしておきましょう。このスライドはイギリスのコンラッド・ワディントン、エピジェネティクスを最初に提唱した人物ですが、そのワディントンが分かりやすく説明するために考案したエピジェネティック・ランドスケープと呼ばれる概念図です。頂上に置かれているボールが一つの細胞を、入り組んだ渓谷のような地形に沿ってボールが転がり落ちていく様が細胞分化の過程を示しています。ボールが頂上にある段階ではその細胞は全能性を有していてどんな細胞にでも分化できる状態にあり、一番下まで転がり落ちるに従ってそれぞれ臓器や骨格といった特定の役割を持つ細胞へと不可逆的に分化していきます。谷底まで落ち切ったボールが勝手に隣の谷に移れないように、最終的に分化した細胞は別の種類の細胞に変わることはできませんし、転がり落ちてきた分化の過程を遡ることも通常では困難です。それを可能としたのがかの有名なiPS細胞であり、これはたった四種類の遺伝子因子を導入することで谷底にあったボールを再び頂上まで引き上げると言う偉大なる荒業をやったのけた訳です…」

 またこの話か。いい加減に飽きてきたチェリーは欠伸を噛み殺し、眠気覚ましに首を回す。階段状の大講堂の一番後ろの席からは薄暗い会場内全体が良く見渡せる。砂かぶりには頭の弱そうな来賓とマスコミが陣取り、この前会ったなんとか新聞のアカマツとかいう記者も最前列でふんぞり返っている。アリーナでは学生たちがノートを広げてペンを走らせ、中段以降は病院関係者か白衣姿やナース服がちらほら見える。崖のようにせり上がった後方は一般の参加者が埋め、ちっとも理解できない講演をあたかも知った風に、あるいは退屈そうに聞いている。隣に座る連中も例外ではない。天パメガネは分かったフリで頷きながら目をしょぼつかせ、爽やかノッポは真面目な顔で腕を組み微動だにしない。チェリーはさらにその向こう、同じブロックの端に座る青柳に目を移す。

 あの青瓢箪、朝からずっと高校生の相手をしていて、結局今日もチョコとは顔を合わせてないようだ。一体何を考えているんだか。保護者を気取っておきながら肝心な時に傍にもいてやらないなんて。あれじゃあ一生結婚できないだろう…当人は机に腕を置き猫背を丸め、起きているのか寝ているのか、半目でぼんやりと巨大なスクリーンを見ている。引っ切り無しにパタパタと画面が切り替わり時折簡単なアニメーションが入りその上を緑のポインタが踊るスクリーンの裾で、白鳳はいつものようなシニカルな物言いもファナティックな挙動も封印し、淡々と常識的な話を繰り返している。

「…全能性を持つ細胞の代表格に受精卵があります。発生のごく初期の段階のある受精卵ではほとんどのDNAシトシンがメチル化されておらず、エピジェネティックな制御を受けることはありません。ワディントンのランドスケープで見た通り、受精卵は分裂を繰り返すことで細胞分化が進んでいき、一つ一つが明確な機能を持つようになる。発生、分化の段階で遺伝子がどのように制御されているか、その詳細は今のところ謎ですが、一説では内在性レトロウイルス、いわゆるERVが重要な役割を果たしていると言われています。例えばヒトならば受精後六日目、子宮内膜上皮に着床した受精卵はその内部で胎盤を形成し始めます。その中に『合胞体性栄養膜』と呼ばれる細胞一つ分の厚みの非常に薄い膜があります。この膜は多数の細胞が融合したもので、細胞核は残っていますが隣同士の細胞を区切る細胞膜は消えており、血球の通る隙間がない一つの巨大な細胞体となっています。さながら食品用ラップフィルムのようなこの膜を通して母親からの栄養と胎児からの老廃物がやり取りされ、なおかつ双方の血液細胞や抗原が混ざり合わないようにしている訳です。この合胞体膜における細胞同士の融合は、レトロウイルス粒子のエンベロープが標的細胞の細胞膜と融合し自らのゲノムを細胞内に送り込む機構と酷似しており、実際にその融合を引き起こすシンチシンというタンパク質を合成するためのコードがヒト内在性レトロウイルスの領域で見つかっています。つまり我々哺乳類の祖先は元来ウイルスが持つ機能を自らのゲノムの中に取り込み、本質的に異物である胎児を母親の体内で保護し育てることを可能とした…このようにして生命はエピジェネティックな進化を繰り返し、その営みは今もなお続いているのです…」

 全く、つまらない。チェリーは込み上げてきた欠伸を今度は堪えようともせず大口を開け壁掛けの時計に目を遣る。白鳳の持ち時間はあと五分もないはずだ。概要しか話さないとは言っていたが、白鳳の口からはまだDAMDSのダの字も出ていない。これではタイトル詐欺だ。まさか本当にチョコを出さないつもりなのか?まあ、それならそれでチョコにとっては良いことなのだが、今日一日あいつに振り回され無駄な時間を過ごしたことになる。それは許せん。ドギーカフェのバケツプリンでも奢らせないと割に合わないな…チェリーが理不尽な画策をしていると座長席のベルが鳴らされた。残り三分の合図だ。

「…と、ここまでエピジェネティクスについてごく簡単にその概要をまとめてきましたが…皆さん、私の演題にある〈DAMDS〉とは一体何なのか、いつになったら出てくるのかと、きっとやきもきされておられることでしょう。ご安心ください。これから本講演の本題に入らせていただきます…」

 チェリーの退屈を見透かしたかのように白鳳が演台を離れ後ろ手に組み舞台中央まで歩み出てきて、会場にピリッと緊張が走る。いよいよか。もったいつけやがって…嬉しいような怖いような、複雑な気分で横目に見ると、メガネもノッポも同じように緊張した面持ちで階下を見詰め、ただ青柳だけが相も変わらぬ間抜け顔のままでいる。

「DAMDSとはデオキシリボ核酸修飾不全症候群のアクロニムで、共同研究をお願いしている当病院の先端医療研究センター遺伝子治療分野所属の研究員である青柳貴先生が発見し命名した病態になります。…いや、病態などと言っては烏滸がましい、ここでは奇跡と呼びましょう…名称には『不全』などというネガティブなワードが入っていますが、その実は寧ろ逆…『完全』なる可能性を秘めた、まさに奇跡の遺伝子なのです…」

 スクリーンにはイニシャルが赤く塗られた正式名称の文字列だけが映り、白鳳は大仰な単語を故意とトーンを抑えて襟元のピンマイクに囁く。チョコを知っている者からすれば吹き出してしまいそうな臭い科白だが、会場は魅入られたかのようにしんと静まり返る。一番後ろから俯瞰するチェリーはその正体に気付いた。薄暗かった天井の照明が更にごくゆっくりと絞られていき、スクリーンの真正面で俯き気味に立つ白鳳の影がアハ体験の画像のように濃く長く伸びている。ちょうど映画館で予告編が終わり本編が始まる時のような感覚に聴衆が引き込まれているのだ。他に音のない講堂で白鳳の声はエコーがかかったように幾重にも響き、これから始まるドラスティックな演出の予感を煽る。

「DNA修飾不全…賢明な諸君ならばもうお気付きでしょう。そう、エピジェネティクスを制御する分子化学的な基盤はメチル化を始めとしたDNAの修飾に他ならない…もしその修飾がなければどうなるか?先程私はエピジェネティクスの分子機構を自動車の動力機構に例えて表現した。ヒストンのアセチル化はアクセル、メチル化はクラッチ、DNAのメチル化はブレーキと言った具合に…良くある陳腐な比喩です。DAMDSをこの比喩で例えるなら、差し詰めブレーキのない車でラッシュ時の見通しの悪い細い路地道をアクセル全開で走っているようなものだ。事故が起こって当然…起こらなければそれこそ奇跡でしょう…だが!…その奇跡は、現実に起きているのです…!」

 芝居がかった台詞と共に舞台正面の照明が完全に落とされスクリーンの明かりだけを背に受けた白鳳の影が闇に沈む。同時に上手裾が一筋のスポットライトで照らされ、その中に清香の制服姿でいつもの帽子を被り杖を手に立つチョコが浮かび上がった。一講演にしては余りに過剰な演出に会場内が僅かにどよめく。煌々と照らし出されおどおどと怯えた様子のチョコは側に控えるアシスタントの女に手を取られよたよたと歩き出す。良く見ればアシスタントは青柳の元カノだ。今日は顔を化粧で真っ白に塗りたくり異様に気合が入っている。スポットライトの眩い光線の脇でまるで背後霊のようだ。チョコを誘い舞台中央で白鳳に引き渡すと、背後霊は闇の中に帰っていった。

「チョコ…頑張れ…」

 横から呟く声が漏れる。一体何を頑張れと言うのか、メガネが顎先で手を組み祈っている。チョコは定まらない視点で客席をきょろきょろと見渡していて、その肩に後ろから白鳳が手を添える。

「ご紹介しましょう…彼女が世界で唯一人、DAMDSという難病に冒されながらも本日この場に立つことを快諾してくれた、黒羽、知世子さんです…!」

 白鳳がマジシャンさながらチョコの鍔広帽を奪い取り、スポットライトの光の中に泣き出しそうな表情の醜い顔が晒される。白鳳の芝居は次第に熱を帯び、会場に自然と拍手が湧き起こる。

「ご…御覧の通り、彼女は自らの足で立ち、自らの目で物を見て、自らの意志で話すことができる…当たり前のことを言っていると思われるかもしれないがそれはあなた方がごく当たり前の遺伝子で生まれ当たり前の細胞を持ち当たり前にけ…健全な組織を保っているからそう思うのです…彼女にとってそれは当たり前のことではない…そう、奇跡、奇跡なのです…!残念ながら彼女の生体データを逐一ここで報告することはできない、DAMDSの研究はし…然るべき施設で十分に時間をかけて行われるべきでありそれは現在も進行中なのです、だが彼女のま、ま…真っ新な飾りのないゲノムの情報は形を変え研究用のセルラインや遺伝子診断あるいは画期的な新薬へと形を変えて皆様の元へお届けすることをやく、約束します、私は…彼女に教わったのです、エピジェネティクスを人為的にコントロールすることは不可能ではないと、可能であると…」

 チョコを中央のスポットライトの中に残したまま白鳳は下手の暗がりに消えたかと思えばまた戻ってきて顔を伏せるチョコの後ろを上手へと通り過ぎ、スクリーンの前をうろうろと落ち着きなく歩き回る。興奮しているのか所々台詞につかえ同じことを繰り返したりしていて、途中時間終了のベルが鳴らされても一向に気にせず弁舌は止まらない。

「か…彼女を見てください、可哀そうに…幼気な少女の顔に蔓延る火傷の痕…だがこれはちょっとした不注意による事故によるもので決して彼女の遺伝子が彼女の身体に対して反旗を翻した訳ではない、彼女は生きている…不幸な事故や微細な欠陥を抱えつつも彼女は十七年間生き続けている、これを奇跡と言わず何と言おうか?ざ、残念ながらここで彼女の病態について詳しくのべ、述べる訳にはいかない、いかないが約束しよう、必ず近い将来、彼女のゲノムを人類科学の未来の役に立たせることを約束しよう…!」

 再びチョコの元へと戻りスポットライトに照らされた白鳳に万雷の拍手が送られカメラのフラッシュが無数に焚かれる。何だこれは?サクラでも仕込んでいるのか?チェリーは階下の奇行に唖然として口が半開きになる。明らかに内容のない無意味な演説にここに居るほとんどの人間が踊らされ熱狂している。メガネとノッポも煽られるまま馬鹿みたいに手を叩いている。おかしい。踊らされている暗愚たちもそうだが、何よりおかしいのは白鳳の挙動だ。うろついたりとちったりするのはともかく、顎先から滴るほど汗をかいているのに拭おうともせず、主役であるはずのチョコの前に立ちはだかり聴衆に向かって両手を振っていて、あれでは誰が撮られているのか分からない。目立ちたがりにも程があるだろう…それでも会場の盛り上がりはピークに達し、品のない口笛まで吹かれ始めた。それに応えるように白鳳はチョコの背に腕を回して促し、揃って客席の合間の通路を歩き出す。予定になかった行動なのか、ついて行けないスポットライトが無人の舞台を照らし続けている、

「インプリンティング…トランスポゾン…リプログラミング…エピジェネティクスの解析は遺伝学のみならず医学薬学農学分子生物学生化学倫理学ありとあらゆる生命科学の分野においてパラダイムシフトを引き起こした…そして今ここで新たな変革をあなた方は目の当たりにしている…我々はどこから来てどこへ行くのか?…有史以来じ、人類に突きつけられている命題だ…が、進化の方角は必ずしも一方向だけを向いているとは限らない…へ、変革にはい、痛みが伴うもの、それもまた致し方のないこと、ないことだ…」

 怯え戸惑うチョコの背を押し白鳳はアリーナを抜け中段に差し掛かる。と、『奇跡』の象徴に触れようとしたのか歓声の止まない客席から二人の行く手に誰かの手が伸びる。同時に白鳳がチョコの前に出てその手を思い切り払い除けた。喚声に悲鳴が混じる。

「う…さ…触るな…!貴様ら如きが触れられると思うてか…!これはわ、私の奇跡、我々の神、畏れ、讃えよ、必要、なのは、恐怖、そう、絶望、彼女こそが、それを産み出す、変革を、も、もたらす、痛みを、与える…!」

 最早意味不明に喚きながら白鳳はチョコの腕を掴み最後方のチェリーたち目掛けて登って来る、白鳳の額から顎から指の先から汗がぼたぼたと垂れている、異変に気付いた群衆の声は混乱のそれに変わっている、こんなの予定にないぞ、これも演出なのか、隣のメガネがひぃっと悲鳴を呑み込む、チェリーも気付いた、あれは汗じゃない、白鳳の顔に流れシャツを濡らし足元から零れているのは白濁した液体だ、ミルクのような白濁液が白鳳の目から鼻から口角から毛穴という毛穴から溢れ出て伝い落ちダークグレーのスーツをストライプに染めている、白鳳は止まらない、倒れそうなチョコを引き摺り喚きながら大股で階段をのし上がり遂にチェリーのすぐ横、最上段に辿り着く。

「う…ご…ご紹介、します、彼女は自分の足で歩き自らの目で見て話す、はなすことができる、できるのです、これはき、き、奇跡だ、だ、ダムズ、ダムズとは、デオキシリボ核酸、ディーエヌエーモディフひケイションデひシエンシーシンドローム、彼女のシーピージーアイランドはメチル化されていない、あらゆるシトシンがされていない、トラ、トランスへラーゼに異常はない、ない、プ、プロモータはどうなっている?ヒストンテえル、バインでングプロテイン、そう、そうだ、かの、彼女はたか、たからの山だ、メディカルマイン、私が、してみせる、わたしが、わたししかいない、そう、いないのだ…!」

 狂った白鳳はチョコを抱きかかえ勝ち誇ったように笑いを浮かべ白濁した目で階下の群衆を見下ろしている、チョコはたすけて、たすけて、と掠れた声で唇を動かし助けを求める目がチェリーをシューをトータを通り過ぎ列の端まで届いたその時、白鳳に最後の異変が訪れた。

「レ、レ、レト、レトロ、ウ、ウ、ウイルス、ウイルスが、が、ひ、ヒト、ヒト、ヒトをしんかさせ、させてきききたなら、ならば、ならばそのぎゃ、そのそそのぎゃくもま、ままま、うい、ういるすを、ひとの、ひと、え、え、えんどじぇなす、ぱ、あ、ぱ、ぱんどらの、あけ、あ、あ、あ、」

 人語ではない音を発していた白鳳の口から鼻から突然堰が切れたように大量の白濁液が吐き出され真下のチョコに降り注ぐ、皮膚が裂け粘膜が破れ開いた穴からも白濁した体液が流れ出て白鳳の身体が重力に負けて崩れ落ちる、シャーッと布を裂くような音、強烈な腐敗臭、チェリーはその飛沫を浴びながら理解する、膿だ、この匂いは膿の匂いだ、夏の暑い日にグラウンドで転び擦り剥いた膝を放置していたら傷口から滲み出してくるあの気持ちの悪い粘液だ、腐った肉の匂いを振り撒く真っ白な膿に頭から塗れ、チョコは恐怖の極致に立ち竦んだままでいる、その足元でさっきまで白鳳だった人間は一固まりの白い肉塊と化している、チョコは目を見開き口を呆然と開けたまま声も出せずにいる、醜い、なんて醜い光景だ、チョコの代わりに悲鳴が上がる、そうだな、その役目は自分には似合わない、チェリーの代わりに隣のシューが悲鳴を上げた、悲鳴は群衆に感染しパニックがウェーブのように広がっていく、きっとトータは真面目な顔で歯を食いしばり、シューはその横でほとんど気を失っているに違いない。…青柳は?チェリーは振り向こうとして、突然得も言われぬ不安に取りつかれて止めた。

 きっと青柳はこの期に及んでも間の抜けた顔のまま誰もいない舞台をただ見続けている…そんな気がして、チェリーは振り向くのを止めた。

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